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丹波の

篠尾(ささお)
京都府福知山市篠尾


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京都府福知山市上篠尾・下篠尾・東羽合・西羽合・南羽合・北羽合・篠尾新町

京都府天田郡福知山町

京都府天田郡曽我井村

篠尾の概要




《篠尾の概要》

福知山駅の西側の山手の高台から麓の平野部を占めるずいぶん広い地域で、「さそお」「さそう」と呼ばれている。それとその枝郷「はごう」の地域。だいたい市街地となっている。国道9号や山陰本線が中央を横切る。
笹尾村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年曽我井村の大字となる。
篠尾は、明治22年~現在の大字。はじめ曽我井村、大正7年福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。一部が昭和35年末広町5~6丁目、同50年厚中町、同54年篠尾新町1~4丁目となった。


《篠尾の人口・世帯数》 3577・1566(過去の村域と現在の自治会域が一部で異なるため正確には集計できない)


《主な社寺など》

「景初四年鏡」の広峯15号墳

広峯15号墳(単に広峯古墳と呼んでも当墳のことである)
この地方にも古墳は多いが、「卑弥呼の鏡」を出土した当墳こそ全国的知名度ナンバーワン古墳ではなかろうか。
JR福知山駅の南口側にあって国道9号からのアクセスがよく今はこちら側をメーンにしたいようでよく整備されてきている、南口への広いアクセス道を国道9号を越えてそのまま少し南ヘ行った丘で、駅からは一直線500メートルくらいであろうか。電車待ちの時間で見学できる距離である。
広峯15号墳(復原)
原寸の3/4に復原されている「広峯15号墳」↑方向はだいたいあっていそうである。周濠のようなものも造られているが、これは元々はあったものなのか不明。
15号墳
主体部は1/2.5に復原されている。↑

従来はここは山、というか崖のようになっていた。河岸段丘の端になるようで10メートルか20メートルくらい下の国道面から高い所であった。その当時も私もこの国道を何度も走ったことがあるが、まったく目にも入っていなかった、この山は西に共栄高校、東にはゴミ焼却場と火葬場と池があった。しかし駅まで数百メートルの至便の地で洪水ナシの高台なので急速に土地開発計画が進み、昭和61・62年度に当古墳群の発掘となり、誰も予想だにしなかった鏡が出土した。発掘当時の様子↓(『福知山大地の発掘70年展』・『謎の鏡』より)
広峯15号墳広峯15号墳
狭い尾根に並んで12基の古墳が築かれているが一番高い所(一番西側・右の写真で言えば一番右側。左側の方が目立つが、これは7号方墳)にあるのが15号墳。どの古墳も基盤軟弱な尾根に簡単に築かれ、15号墳も自然崩壊して後円部の西側の半分は崖下へ崩れ落ちていて、その墓壙も半分が崩れ落ちていたが鏡があった部分はかろうじて残っている状態であったという。
15号墳のみ前方後円墳で、葺石などの外表施設はない。全長40メートル、後円部径25メートル、前方部幅13メートル、後円部高3.5メートル、前方部高2.0メートルと復原されるそこそこの古墳である。広峯15号墳主体部土器がないので年代が決めがたいが、だいたい4世紀後半から5世紀の初頭と見られている。丹後の巨大古墳が作られた時代で、青龍三年鏡が出土した太田南5号墳より150年近く、卑弥呼よりは200年近く新しいものである。
←15号墳主体部(『謎の鏡』より)
後円部中央に設けられた主体部は半分が失われているが、3段に掘られた木棺直葬で、残っていた部分の規模は長軸10メートル以上、短軸5.0メートル、墳頂からの深さ1.2メートルであった。
←左上の緑は崖下の樹木で、ここに箱式組合式木棺が納められていたと見られている。長軸3.6メートル以上、短軸0.8メートル、高0.55メートル。内部には朱が塗られていたようで、その朱が残っている。円いのが景初四年鏡で、このあたりに遺体の頭があり、足は向こう側に伸びていたよう、従って足の方は崖下に崩れ落ちていると思われる。
鏡より少し手前側に棺を仕切る板がおかれていて、手前側を副室、大きい向こう側を主室で呼んでいる。
副室からは鉄剣・鉄斧、鉄のヤリガンナ、管玉(2)。主室で銅鏡1点、棺の外にヤリと皮製品が残っていたという。
案内板
案内板には、
広峯古墳群と15号墳
市街地を一望のもとに見渡すことのできる駅南の地に、古墳時代初期(西暦300年頃)から中期(550年頃)にかけて、30数基におよぶ古墳が造られました。
この古墳の群を地名から広峯古墳群と呼びます。昭和61年(1986)、福知山駅南土地区画整理事業に伴って発掘調査が行われました。
丘陵最高所に築かれた15号墳は、後の時代にかなりの変形を受けていましたが全体として前方後円形を成し、全長40m、後円部径25mの規模が推定されます。墳丘は盛土を用いず山を削り出して形作られ、段築・埴輪・葺石などの外表施設・装飾は造られていません。
主の埋葬は、長大な木の棺(木棺)ほ墓穴に直接納めたもので、土取りで半分近くが失われていましたが、長約10m、幅4mを測る墓穴に、長3.6m・幅0.7mの棺が納められていました。棺は腐朽していましたが、棺内面には朱が塗られていました。
主の棺付近には銅鏡一面が置かれ、その上方の副室に碧玉製管玉2・鉄剣1・鉄斧1・鉄鉾1が納められていました。鏡は斜縁盤龍鏡と分類されるもので、文様面に『景初四年…』の銘帯があることから耶馬台国論争に新たな火種をつけ、この古墳の名称を一躍全国に知らしめました。
広峯15号墳は、由良川流域で初の前方後円墳であり、この地域の盟主の墓であるのは間違いありません。しかし、外表施設を欠き、埋葬施設も比較的簡素であることなど、由良川中流域をおさえるような権力を持つ人物の奥津城と考えられるものなのか、近畿地方北部の古墳時代を考える上で重要な問題を提起しています。
広峯古墳記念公園は、広峯古墳群の発掘と盤龍鏡の発見を記念し、古墳本体については原寸の3/4、埋葬施設については1/2.5の規模に縮小してイメージを再現したものです。今後、この公園が地域の歴史を学ぶ資料となり、活用されることを望みます。平成14年3月 福知山市教育委員会


景初四年鏡
景初四年鏡(広峯15号墳出土)←広峯15号墳出土の景初四年銘盤龍鏡(『謎の鏡』より)。
直径16.8センチの盤龍鏡には銘文があった。

景初四年五月丙午之日 陳是作鏡 吏人言+名之位至三公 母人言+名之保子宜孫壽如金石兮の三十五文字。
「陳」「公」「壽」「兮」は左字。「孫」はヘンとツクリが反対になっている。

景初四年五月丙午の日に、陳氏がこれを作った。吏人(男性)がこれを持てば、位が三公(総理大臣クラス)に至り、母人(女性)がもてば、子は健康を保ち孫は多い、命は金石のようなものである。というよくある吉祥文句という。

←現地にはこんな石柱と案内板がある。
元あった山は削平されてなくなり、当時とは20メートル以上は低いが、平面座標的にはこの位置に鏡があったという。このあたりに後円部の中心があったことになる。
当鏡が「卑弥呼の鏡」であればすばらしく、当墳は卑弥呼の墓であり、福知山こそ耶馬台国であった可能性もあることとなってくる。そうであれば誠にご同慶の至りではあるのだが、そうするには問題も多い。まず景初四年という年号が実際は実在しない。景初は三年までである。文字の国で皇帝の命を受けて作成された鏡の銘文の年号が違い、また文字も違っている、しかも5文字も、こんなことがあるだろうか、今のジャパンメイドの工業製品なら問題なく不良品で外国使節にみやげとして皇帝からの下賜品にできるようにものではまったくない。官立の鏡工房でこうした工程途中ノーチッェクの不良鏡を作れば工房全員のクビを刎ねられるかも知れない。倭国どもはクソだから、ナニもチンの工房でわざわざ作ることはない、ありあわせの市中のそこらの鏡を百枚やっておけというならそうしたことかも知れないが、それなら何も千何百年ものちの日本国内で大騒ぎしなければならないほどのネウチはない、魏か倭の国名か皇帝名とか倭王とか卑弥呼とか何かそれらしい文言がどこかに鋳込まれていないと、市中に出回っている鏡と何ら変わらず、せっかく銘文を鋳込んだにしては何とも間抜けなことで、魏の文化的権威を魏皇帝自らが否定するような話になる。
鏡の銘文
またこの鏡とまったく同じ鏡が辰馬考古資料館にある、西都原古墳群から出土といわれている、同じ鋳型から作られた同笵鏡も存在する。この鏡を「卑弥呼の鏡」とする学者先生も多く、市民も多くはそう望んでこととは思うが、民間の陳氏工房で製作された鏡であって、たぶん魏皇帝下賜品の「卑弥呼の鏡」とは関係はないだろう。もしかして最悪の場合はチャイナメイドの古い魏鏡をまねて日本国内工房で当墳が作られた少し前に、実際は年号銘よりは百年以上のちに製作されたビンテージスタイルのジャパンメイド鏡であるかも知れない。
「陳是作鏡」の「是」は是社神社の「是」を思い浮かべるが、この当時は「氏」と同じ発音で、「氏」の意味で使われているという。

『魏志倭人伝』、景初三年(239)条に、
景初三年十二月…詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口人・班布二匹二を奉り以て到る。汝がある所踰かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親親倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。汝が来使難升米・牛利達きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、コウ地交竜錦五匹・コウ地糸+蒭粟ケイ十張・センコウ五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白綿五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
銅鏡百枚は魏の皇帝から親魏倭王卑弥呼に特別に賜った下賜品の一部で、これを倭国内の皆に見せて特に魏皇帝が特に目を掛けているということを示せ、と命じている特別の威信材である。皇帝のまごころ込めた品物だと思われるが、その鏡の年号や漢字の間違いはノーチェックだったということはないだろう。
どこで造られたものかも不明な鏡で邪馬台国がどこにあったなどがわかるはずはない、皇国史観的な自説に合うように立てた苦し紛れ説のようにも感じるが、当鏡がどこで制作されどうした経路で当墳に副葬されたかはわからない、「卑弥呼の鏡」かも不明である。


矢見所古墳群
小字矢見所(やけんじょ)の丘陵に古墳が10基ほどあったがほとんど破壊された。一基から朱塗の土師器の高杯が2個出土したという。また古城があったといい、藩政時には歩卒の訓練が行われたという。20連隊や工兵隊の練兵場のさきがけみたいな所か。
古城跡 矢見所ト云 笹尾村
方貳丁斗 疑クハ和久城ナルヘシ 田西ヨリ十間高 西モ東モ谷也 岡続ノ所ニテ高ク 平山ノ形ナリ 南ハ岡ヲ穿切二所有 此城ノ下平地 北ノ向也 
今矢見所卜云 村老ノ説 宝暦  年予 依主命 歩卒ノ懸退ヲ試コト有 地利能ニ依テナリ 時村老来ル字ヲ間如若云ヘリ 松平主殿君領地タリシ時モ於此所懸退ヲ試玉フト云ヘリ 予感心ス古今地利ヲ見ルト百年ヲ越テ拠キ一ツニス 古人設テ感有コト 何人ノ旧栖タルコトヲ不知

古城  笹尾村
城主和久氏トモ云 今モ石井山ト云城跡也 高壹丁斗小間上堀扣二段有 石井氏ヲ称スル者有 山ノ上ニ大木ノ松一本有 元二本有リ枯シテ今一本身
(『丹波志』)


熊野神社
熊野神社(篠尾)
神額には「熊野皇太神社」とある。弘法川支流のほとり少し高い所に鎮座される。円応寺の隣である。古くは熊野三所権現と称し紀州熊野の分霊を祀るとされ、明治16年までは天照玉命神社の末社であったという。熊野神社は上流の市寺にもあるが、その分社かも知れない。市寺の威憧廃寺は熊野神社の神宮寺であったと推考されているが、逆に当社は威憧寺の鎮守であったかも知れない。ササオという地名と関係深い社かと思われる。
福知山側からは室山(市寺山・行者山)と呼ぶ、榎原では「榎原山」、上豊富では「滝山」と呼ぶのだそう。地図には不知親と書かれているが、これは兵庫県側からの呼び名。頂上を「犬ガ頭高(つご)」と呼ぶ。山頂は福知山側からは見えないそうである。この山を古くは篠尾(鉄の山)と呼んだのかも知れない。
権現社  笹尾村
祭神    祭礼
本社五尺 産神ナリ
拝殿二間四間 社田下田一畝歩村除
(『丹波志』)

加茂神社
加茂神社(篠尾)
加茂大明神  笹尾支 羽合ニ在稲荷小祠有
(『丹波志』)


曹洞宗丸尾山円応寺
円応寺(篠尾)
案内板には円応寺の案内板
曹洞宗 丸尾山円応寺
御本尊 馬頭観音菩薩
 秘仏十三年ごとの申年に御開扉
奈良時代 行基菩薩が開いたと伝える。
平安時代からは後は真言宗の寺院であったと考えられるが、戦国時代末にこの地方に新しく信仰活動を進めた曹洞宗の寺院として、元和三年(一六一七)道華元達和尚によって再建された記録が残る。その後、寛保二年(一七四二)に豊州堅利和尚が寺運の隆盛を図り努力を重ね、お堂を建て再興を果した。
この頃より全国的に観音信仰が庶民の中にも紘まり、この天田郡地方にも三十三箇所の霊場が設けられていくが、円応寺はその第一番札所に列せられて、観音信仰の拠点であったことを物語っている。
明治八年(一八七五)圭峯和尚が晋山し、明治二十一年再任の後は、本堂、庫裡の再建、庭園、土塀の完成、医王宝殿の客仏導入等に努めるなど、中輿の祖とも言うべき活躍で今日の基礎をつくり現在に及んでいる。
境内には粟嶋さんのお堂があり、その西側には福知山市指定文化財の応永十八年(一四一一)と年号が刻まれた地蔵菩薩が知恵を授かる地蔵さまと並んでおられます。またその奥の墓地には藩主が京都よ招き藩校惇明館創設に参画した岩渓嵩台先生の墓碑があります。…


丸尾山円応寺 (曹洞宗) 同町字笹尾
本尊 馬頭観世昔菩薩  開山 豊洲堅利大和尚
創建 寛保二年二月八日
豊洲大和尚の遷化の後は凡七十余年間無住の姿ないしを(寛政八年三月十八日歿)本山久昌寺住職省拙老師、典座圭峯和尚に命じて当山の後任とす。圭峯和尚依て明治八年三月八日晋山、明治十二年法地開闢し本山久昌寺廿一世省拙和尚を伝法の初租とし、圭峯師を当山二世に列す明治十五年三月、和尚は川北頼光寺へ転住、後住は播州八王子住職独秀和尚なり。然るに明治廿一年二月廿八日朝、失火堂宇器財尽く焼失、されども本尊及薬師堂其他祖仏の尊像は災厄を免る。かくて独秀和尚は下六人部村善光寺に転住、実に此年八月なり。是に於て頼光寺住職圭峯和尚、信徒の懇請を容れて再往す。是れより寺門の復興を企て東奔西走、不惜身命の功空からず、明治廿一年十月一日本堂再建に着手し翌廿二年七月成工。尋で明治廿四年八月廿四日庫裡落成、其他庭園土塀完成す、圭峯和尚を以て中興とすべきなり。
(伝説)行基菩薩、一夜露夢に感じて一本三体の観世音を謹刻して本尊と仰ぎ薬師如来、弁才天、粟島明紳を姿置し、熊野権現を鎮守に奉祀するに此浄地、紀州那智山の霊地に等し、時俗、丹波那智と呼べりと云。境内に薬師堂あり、往時何鹿郡上林村竹田に薬師堂ありしが、其薬師如来は心なき工人の手に落ちて今や金箔をも剥ぎ取らんとするを見て圭峯利間大いに慨歎し、私財を以て之を購ひ、別に一宇を建てゝ之を安置す、時下明治十二年七月なり。
○梵鐘は明治十四年三月廿五日鋳造、 本尊観世昔は十三年毎に開帳あり。
 富山は郡西国第一番、郡新四国第六番の札所なり。
(『天田郡志資料』)
境内の応永一八年銘のある地蔵菩薩
応永18年の地蔵像
地蔵石仏の案内板
円応寺 福知山市指定文化財
石造地蔵菩薩立像 一躰
 円応寺は、元和三(一六一七)年に曹洞宋久昌寺の末寺として創建された寺です。この寺の境内にある医王宝殿の東側に石造地蔵菩薩立像があります。総高一一〇センチ、幅五〇センチ、肉厚二五センチの自然石の上部に、高さ二六センチの地蔵菩薩立像を半肉彫りにしており、痛みが少なく保存状態がよいものです。
正面向かって地蔵菩薩立像の右側に「応永十八(一四一一)辛卯」、左側に「七月仏歓吉□」、また下側に「誌之」の銘文を陰刻しており、市内で年紀の入っている石造仏では二番目に古いものです。
この地蔵菩薩立像は、明治二五年にこの地に安置される前、福知山城内の大膳丸の地中から発掘されたものといわれています。福知山市教育委員会



浄土真宗本願寺派笹尾山浄願寺
浄願寺(篠尾)

笹尾山 浄願寺  (真宗本願寺派)  同町字笹尾
本尊 阿禰陀如来   開山 見真大師
開基 浄円法師    創立 不詳
再建 昭和九年(本堂) 基本金 二千五百余円
教化及社会事業 毎年四月十二月に於て各三日間つつ特別講話、毎月戸主会、主婦会、開山御命日説教、常時及臨時青年男女に訓話、農繁期に於ける托児保育、等とす。
(『天田郡志資料』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


篠尾の主な歴史記録


『丹波志』
笹尾村 支 野ノ端 半合 右同(福知山藩領)
高六百拾五石 半合ト云ハ陰陽師ニ際ル

太田寺 旧跡  篠尾村
西川ノ川上正明寺村境今字太田寺ト云

薬師堂 古跡 篠尾村
円応寺ノ西今薬師ノ段ト云 本尊ハ今福智山町西蓮寺ニ安置ス


『福知山市史』
矢見所・向野の古墳(字羽合・字向野)
矢見所・向野付近は、近年急激に宅地化され様相を一変したが、矢見所の北側に残る畑には、今も須恵器・土師器の破片が点在し、かつて、割竹形石棺あるいは舟形石棺らしきものもあったという。この畑地住宅地の南東に続く矢見所の丘陵中には、十基以上の古墳があり、その一つからは朱色の土師器の高杯二個、その他が出土している。また、戦時中の開墾で十数個の壷が出土したが、保存されていないのは惜しまれる。
この古墳群の南側に一群と、さらに南にあった一群とを合わす向野古墳群が続いている。この南の群は昭和三十七年住宅地となったが、その際発掘された遺物は、淑徳・共栄・福商の各高校に保存されている。直刀・刀子・水晶切子玉・管玉・鉄鏃・その他、杯・高杯・壷・坩・提瓶・横瓶・甕・ハソウ等各種の須恵器が出土し、中丹波地方の後期古墳研究の一資料となっている。
ここまでは主に、市道羽合・室線の東側にあるが、次に南に続く古墳群は市道の西側に有り、向野西古墳群と呼んでいる。昭和四十八年七月、本格的な発掘調査が行われ、現存する二四基の古墳のうち、五基の報告がなされた。特に一三号墳は出土した須恵器により、綾部市館町の高谷三号境と共に、横穴式石室採用の時期を示す重要な古墳であり、また、その他の古墳の石室は、小形の自然石を乱積みした無袖式の横穴式石室で、玄室、羨道の区分のない形態をとり、退化形式の石室で、石室全体が墓室と意識されていたことを示している等、当地域における横穴式石室の終末の一端が明らかになった。これらは六世紀前半から七世紀前半にかけてつくられたものと推定されている。
この五十数基の在る丘陵地から谷一つへだてた東南の丘陵上にも五基の古墳群があり、それより持原池をへだてた東側の丘陵上に川上古墳、さらに北へ羽合ノ段古墳が続く。これらは未調査のままであるが、川上古墳群のなかの一基は、羽合の人々によって「愛宕さん」として祭られ、昭和初頭までは、その年にとれた麦藁一束を各戸より出しあい、子供が「愛宕さんに火あげにいこう」と八月二十三日に参る民俗行事が行われたり、また、ひでりの年には村中が参加して、ここで火をあげたりして来ていた。
なお、この古墳と少し離れて稲子谷窯跡が発見された。丘陵を利用しての登り窯で、幅一メートル余、長さは約五メートル余りに、須恵器が重なって出土する。渦文の厚手の破片が多い。
さらに、谷をへだてて東に堺谷古墳、そして大谷池の東、西岡(はるかげ)古墳へと広がるが、向野地帯の群集墳の様相とはやや異なるようである。

『京都新聞』(03.6.12)
*古の言伝6*広峯15号墳*鏡の銘めぐり論争*
一九八六年、福知山駅南の区画整備事業に伴い、広峯古墳群の発掘調査が進んでいた。そして、最後に残った十五号墳(古墳時代前期末の前方後円墳)の主体部から出土した一枚の鏡が、大きな波紋を呼んだ。
「景初四年銘盤龍鏡」。直径十六・八諺、四頭の龍をあしらい、周囲に中国・魏の年号、景初四(二四○)年に製作されたことなど、三十五文字がくっきりと刻まれていた。
「魏志倭人伝」には前年の景初三年、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏に使者を派遣、銅鏡百枚をもらったと記す。三角縁神獣鏡がそれで、畿内で多く出土していることから邪馬台国畿内説の有力な根拠とされていた。これに対し、九州説の研究者は、三角縁神獣鏡は国内で作られた鏡と主張、論争が続いていた。十五号境の鏡は三角縁神獣鏡ではないが、同時期、魏の鏡が国内にもたらされ、同様の銘文を持つ神獣鏡も中国で作られたことを示す-。畿内派にとっては、三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡を補強するものだった。ところが、魏は景初三年で改号し、景初四年は存在しない。九州派の巻き返しが始まった。「国内の鏡だから、ない年号が刻まれた」。これに対し、畿内派も「使者が帰国する旅程を考え、一年先の元号を入れた」などと応酬、議論はさらに沸騰した。
当時、発掘を担当した市職員の崎山正人さん(四二)は「鏡だけが、すごい注目を浴びて、雲の上の世界にいってしまったよう」と当時を振り返る。一方、地元も沸いた。「盤龍鏡まんじゅう」が発売され、市民グループ「手作り街づくりの会」は盤龍鏡を包んでいた絹布を再現させた。代表の大槻房三さん(七三)は「鏡があったことは古代、この地方が重要な土地だったということ。ロマンがありますね」と、地元の歴史に胸を張る。(北部総局 高橋道長)


『福知山・綾部の歴史』


「日本の古代史を揺るがした古墳」とタイトルされている。オーバーでもないと思われる。
広峯15号墳(福知山市)
巨大な滑り台のように伸びた東羽合の細い尾根の稜線上には、四〇基の古墳が連綿と造られている。これが広峯古墳群である。これらは、古墳時代初頭から築造が開始され、中期にかけての約二〇〇年間にわたって尾根の先端から順次古墳が築かれていったことが判明し、古墳の変遷を知る貴重な資料を得ることができた。しかし、これだけではなく、この古墳群からは日本の古代史を揺るがす大きな発見があった。昭和六一年(一九八六)一〇月、尾根の最高所に築かれた広峯一五号墳から景初四年(二四〇)の年号を持つ鏡が出土した報が全国を駆けめぐった。折からの古代史ブームの中、一躍脚光を浴びることとなったのである。景初四年銘鏡は、面径一六・八㌢、「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人言+名之位至三公母人言+名之母子宜孫寿如金石分」の三五文字の銘文をもち、四頭の龍を図柄とした盤龍鏡と呼ばれる鏡である。広峯一五号墳は、この鏡の出土により広く知られることとなった。この古墳は、一部失われていた部分もあったが全長四〇㍍、後円部径二五㍍の前方後円墳に復元され、この型式としては由良川流域では最古である。埋葬施設は木棺直葬一基で、一部が失われていたが、墓坑の幅五㍍・長さ一〇㍍以上、木棺は幅○・七㍍・長さ三・六㍍以上を測り、棺内には一面に鮮やかな朱が塗布されていた。竪穴石室などの棺被覆施設はもたないが大きなものであった。
副葬品は、景初四年銘をもつ銅鏡一面をはじめ鉄剣一・鉄斧一・鉄ヤリガンナ一、管玉二個を棺副室に納め、鉄ヤリ一つを棺側に置いていた。鏡は遺体頭部横に、鏡面を内側にして棺側に立てかけるように置かれていた。副葬品の様相や古墳群内での前後関係などから判断して、前期末頃に築造されたものと考えられている。長大な墓坑や木棺、鏡をはじめとする副葬品など由良川流域最初の前方後円墳にふさわしい、従来の墳墓には見られなかった要素である。全国的に見れば四世紀の中頃から、加悦町蛭子山古墳(全長一四五㍍)・丹後町神明山古墳(同一九〇㍍)・網野町銚子山古墳(同一九八㍍)に見られるように、各地域を治めた首長のものと目される巨大な前方後円墳が各地に築かれる。しかし、広峯一五号墳には段築・埴輪・葺石がなく、竪穴石室などの棺被覆施設もないこと、墳丘が地山成形によるもので明確な企画が見られないこと、規模の差などからみて、先に述べた丹後の前方後円墳と同列に扱うことはできない。鏡の入手経路などこの古墳をどう評価するか、現在も研究の途上であり、いまだに多くの問題を投げかけている。(崎山正人)


伝説






篠尾の小字一覧


篠尾(サソオ)
池ノ本 家下 稲子谷 蒲ケ田 乳母ケ懐 榎原尻 大田池 力ナヤ 堅田 川上 川尻 黒福 抗目 猿屋 下川 清水ノ本 セイゴ 谷子 竹政 高貝 大道 段ノ前 寺ノ段 殿ケ市 堂ノ奥 土井ノ内 仲之坪 長ケ坪 西川 西海道 ヌクイ 野々端 登り丁 八王寺 羽合下 羽合ノ段 宮ノ上 向ノ段 持原 安尾下 ヤスラ 山端 薬師段 湯原 譲り 横サ 論田 谷尾谷 小谷 才ノ神 沢 寺ノ下 稲子谷 大田池 川上 セイゴ谷尾谷 堂ノ奥 野ケ市 羽合の段 向山 ヤスラ 矢見所 才ノ神 稲子谷奥 土井ケ谷

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福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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