篠尾(ささお)
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京都府福知山市上篠尾・下篠尾・東羽合・西羽合・南羽合・北羽合・篠尾新町 京都府天田郡福知山町 京都府天田郡曽我井村 |
篠尾の概要《篠尾の概要》 福知山駅の西側の山手の高台から麓の平野部を占めるずいぶん広い地域で、「さそお」「さそう」と呼ばれている。それとその枝郷「はごう」の地域。だいたい市街地となっている。国道9号や山陰本線が中央を横切る。 笹尾村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年曽我井村の大字となる。 篠尾は、明治22年~現在の大字。はじめ曽我井村、大正7年福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。一部が昭和35年末広町5~6丁目、同50年厚中町、同54年篠尾新町1~4丁目となった。 《篠尾の人口・世帯数》 3577・1566(過去の村域と現在の自治会域が一部で異なるため正確には集計できない) 《主な社寺など》 「景初四年鏡」の広峯15号墳広峯15号墳(単に広峯古墳と呼んでも当墳のことである)この地方にも古墳は多いが、「卑弥呼の鏡」を出土した当墳こそ全国的知名度ナンバーワン古墳ではなかろうか。 JR福知山駅の南口側にあって国道9号からのアクセスがよく今はこちら側をメーンにしたいようでよく整備されてきている、南口への広いアクセス道を国道9号を越えてそのまま少し南ヘ行った丘で、駅からは一直線500メートルくらいであろうか。電車待ちの時間で見学できる距離である。 原寸の3/4に復原されている「広峯15号墳」↑方向はだいたいあっていそうである。周濠のようなものも造られているが、これは元々はあったものなのか不明。 主体部は1/2.5に復原されている。↑ 従来はここは山、というか崖のようになっていた。河岸段丘の端になるようで10メートルか20メートルくらい下の国道面から高い所であった。その当時も私もこの国道を何度も走ったことがあるが、まったく目にも入っていなかった、この山は西に共栄高校、東にはゴミ焼却場と火葬場と池があった。しかし駅まで数百メートルの至便の地で洪水ナシの高台なので急速に土地開発計画が進み、昭和61・62年度に当古墳群の発掘となり、誰も予想だにしなかった鏡が出土した。発掘当時の様子↓(『福知山大地の発掘70年展』・『謎の鏡』より) 狭い尾根に並んで12基の古墳が築かれているが一番高い所(一番西側・右の写真で言えば一番右側。左側の方が目立つが、これは7号方墳)にあるのが15号墳。どの古墳も基盤軟弱な尾根に簡単に築かれ、15号墳も自然崩壊して後円部の西側の半分は崖下へ崩れ落ちていて、その墓壙も半分が崩れ落ちていたが鏡があった部分はかろうじて残っている状態であったという。 15号墳のみ前方後円墳で、葺石などの外表施設はない。全長40メートル、後円部径25メートル、前方部幅13メートル、後円部高3.5メートル、前方部高2.0メートルと復原されるそこそこの古墳である。土器がないので年代が決めがたいが、だいたい4世紀後半から5世紀の初頭と見られている。丹後の巨大古墳が作られた時代で、青龍三年鏡が出土した太田南5号墳より150年近く、卑弥呼よりは200年近く新しいものである。 ←15号墳主体部(『謎の鏡』より) 後円部中央に設けられた主体部は半分が失われているが、3段に掘られた木棺直葬で、残っていた部分の規模は長軸10メートル以上、短軸5.0メートル、墳頂からの深さ1.2メートルであった。 ←左上の緑は崖下の樹木で、ここに箱式組合式木棺が納められていたと見られている。長軸3.6メートル以上、短軸0.8メートル、高0.55メートル。内部には朱が塗られていたようで、その朱が残っている。円いのが景初四年鏡で、このあたりに遺体の頭があり、足は向こう側に伸びていたよう、従って足の方は崖下に崩れ落ちていると思われる。 鏡より少し手前側に棺を仕切る板がおかれていて、手前側を副室、大きい向こう側を主室で呼んでいる。 副室からは鉄剣・鉄斧、鉄のヤリガンナ、管玉(2)。主室で銅鏡1点、棺の外にヤリと皮製品が残っていたという。 案内板には、 広峯古墳群と15号墳 市街地を一望のもとに見渡すことのできる駅南の地に、古墳時代初期(西暦300年頃)から中期(550年頃)にかけて、30数基におよぶ古墳が造られました。 この古墳の群を地名から広峯古墳群と呼びます。昭和61年(1986)、福知山駅南土地区画整理事業に伴って発掘調査が行われました。 丘陵最高所に築かれた15号墳は、後の時代にかなりの変形を受けていましたが全体として前方後円形を成し、全長40m、後円部径25mの規模が推定されます。墳丘は盛土を用いず山を削り出して形作られ、段築・埴輪・葺石などの外表施設・装飾は造られていません。 主の埋葬は、長大な木の棺(木棺)ほ墓穴に直接納めたもので、土取りで半分近くが失われていましたが、長約10m、幅4mを測る墓穴に、長3.6m・幅0.7mの棺が納められていました。棺は腐朽していましたが、棺内面には朱が塗られていました。 主の棺付近には銅鏡一面が置かれ、その上方の副室に碧玉製管玉2・鉄剣1・鉄斧1・鉄鉾1が納められていました。鏡は斜縁盤龍鏡と分類されるもので、文様面に『景初四年…』の銘帯があることから耶馬台国論争に新たな火種をつけ、この古墳の名称を一躍全国に知らしめました。 広峯15号墳は、由良川流域で初の前方後円墳であり、この地域の盟主の墓であるのは間違いありません。しかし、外表施設を欠き、埋葬施設も比較的簡素であることなど、由良川中流域をおさえるような権力を持つ人物の奥津城と考えられるものなのか、近畿地方北部の古墳時代を考える上で重要な問題を提起しています。 広峯古墳記念公園は、広峯古墳群の発掘と盤龍鏡の発見を記念し、古墳本体については原寸の3/4、埋葬施設については1/2.5の規模に縮小してイメージを再現したものです。今後、この公園が地域の歴史を学ぶ資料となり、活用されることを望みます。平成14年3月 福知山市教育委員会 景初四年鏡 ←広峯15号墳出土の景初四年銘盤龍鏡(『謎の鏡』より)。 直径16.8センチの盤龍鏡には銘文があった。 景初四年五月丙午之日 陳是作鏡 吏人言+名之位至三公 母人言+名之保子宜孫壽如金石兮の三十五文字。 「陳」「公」「壽」「兮」は左字。「孫」はヘンとツクリが反対になっている。 景初四年五月丙午の日に、陳氏がこれを作った。吏人(男性)がこれを持てば、位が三公(総理大臣クラス)に至り、母人(女性)がもてば、子は健康を保ち孫は多い、命は金石のようなものである。というよくある吉祥文句という。 ←現地にはこんな石柱と案内板がある。 元あった山は削平されてなくなり、当時とは20メートル以上は低いが、平面座標的にはこの位置に鏡があったという。このあたりに後円部の中心があったことになる。 当鏡が「卑弥呼の鏡」であればすばらしく、当墳は卑弥呼の墓であり、福知山こそ耶馬台国であった可能性もあることとなってくる。そうであれば誠にご同慶の至りではあるのだが、そうするには問題も多い。まず景初四年という年号が実際は実在しない。景初は三年までである。文字の国で皇帝の命を受けて作成された鏡の銘文の年号が違い、また文字も違っている、しかも5文字も、こんなことがあるだろうか、今のジャパンメイドの工業製品なら問題なく不良品で外国使節にみやげとして皇帝からの下賜品にできるようにものではまったくない。官立の鏡工房でこうした工程途中ノーチッェクの不良鏡を作れば工房全員のクビを刎ねられるかも知れない。倭国どもはクソだから、ナニもチンの工房でわざわざ作ることはない、ありあわせの市中のそこらの鏡を百枚やっておけというならそうしたことかも知れないが、それなら何も千何百年ものちの日本国内で大騒ぎしなければならないほどのネウチはない、魏か倭の国名か皇帝名とか倭王とか卑弥呼とか何かそれらしい文言がどこかに鋳込まれていないと、市中に出回っている鏡と何ら変わらず、せっかく銘文を鋳込んだにしては何とも間抜けなことで、魏の文化的権威を魏皇帝自らが否定するような話になる。 またこの鏡とまったく同じ鏡が辰馬考古資料館にある、西都原古墳群から出土といわれている、同じ鋳型から作られた同笵鏡も存在する。この鏡を「卑弥呼の鏡」とする学者先生も多く、市民も多くはそう望んでこととは思うが、民間の陳氏工房で製作された鏡であって、たぶん魏皇帝下賜品の「卑弥呼の鏡」とは関係はないだろう。もしかして最悪の場合はチャイナメイドの古い魏鏡をまねて日本国内工房で当墳が作られた少し前に、実際は年号銘よりは百年以上のちに製作されたビンテージスタイルのジャパンメイド鏡であるかも知れない。 「陳是作鏡」の「是」は是社神社の「是」を思い浮かべるが、この当時は「氏」と同じ発音で、「氏」の意味で使われているという。 『魏志倭人伝』、景初三年(239)条に、 景初三年十二月…詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口人・班布二匹二を奉り以て到る。汝がある所踰かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親親倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。汝が来使難升米・牛利達きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、コウ地交竜錦五匹・コウ地糸+蒭粟ケイ十張・センコウ五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白綿五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。 銅鏡百枚は魏の皇帝から親魏倭王卑弥呼に特別に賜った下賜品の一部で、これを倭国内の皆に見せて特に魏皇帝が特に目を掛けているということを示せ、と命じている特別の威信材である。皇帝のまごころ込めた品物だと思われるが、その鏡の年号や漢字の間違いはノーチェックだったということはないだろう。 どこで造られたものかも不明な鏡で邪馬台国がどこにあったなどがわかるはずはない、皇国史観的な自説に合うように立てた苦し紛れ説のようにも感じるが、当鏡がどこで制作されどうした経路で当墳に副葬されたかはわからない、「卑弥呼の鏡」かも不明である。 矢見所古墳群 小字矢見所(やけんじょ)の丘陵に古墳が10基ほどあったがほとんど破壊された。一基から朱塗の土師器の高杯が2個出土したという。また古城があったといい、藩政時には歩卒の訓練が行われたという。20連隊や工兵隊の練兵場のさきがけみたいな所か。
熊野神社 神額には「熊野皇太神社」とある。弘法川支流のほとり少し高い所に鎮座される。円応寺の隣である。古くは熊野三所権現と称し紀州熊野の分霊を祀るとされ、明治16年までは天照玉命神社の末社であったという。熊野神社は上流の市寺にもあるが、その分社かも知れない。市寺の威憧廃寺は熊野神社の神宮寺であったと推考されているが、逆に当社は威憧寺の鎮守であったかも知れない。ササオという地名と関係深い社かと思われる。 福知山側からは室山(市寺山・行者山)と呼ぶ、榎原では「榎原山」、上豊富では「滝山」と呼ぶのだそう。地図には不知親と書かれているが、これは兵庫県側からの呼び名。頂上を「犬ガ頭高(つご)」と呼ぶ。山頂は福知山側からは見えないそうである。この山を古くは篠尾(鉄の山)と呼んだのかも知れない。
加茂神社
曹洞宗丸尾山円応寺 案内板には 曹洞宗 丸尾山円応寺 御本尊 馬頭観音菩薩 秘仏十三年ごとの申年に御開扉 奈良時代 行基菩薩が開いたと伝える。 平安時代からは後は真言宗の寺院であったと考えられるが、戦国時代末にこの地方に新しく信仰活動を進めた曹洞宗の寺院として、元和三年(一六一七)道華元達和尚によって再建された記録が残る。その後、寛保二年(一七四二)に豊州堅利和尚が寺運の隆盛を図り努力を重ね、お堂を建て再興を果した。 この頃より全国的に観音信仰が庶民の中にも紘まり、この天田郡地方にも三十三箇所の霊場が設けられていくが、円応寺はその第一番札所に列せられて、観音信仰の拠点であったことを物語っている。 明治八年(一八七五)圭峯和尚が晋山し、明治二十一年再任の後は、本堂、庫裡の再建、庭園、土塀の完成、医王宝殿の客仏導入等に努めるなど、中輿の祖とも言うべき活躍で今日の基礎をつくり現在に及んでいる。 境内には粟嶋さんのお堂があり、その西側には福知山市指定文化財の応永十八年(一四一一)と年号が刻まれた地蔵菩薩が知恵を授かる地蔵さまと並んでおられます。またその奥の墓地には藩主が京都よ招き藩校惇明館創設に参画した岩渓嵩台先生の墓碑があります。…
円応寺 福知山市指定文化財 石造地蔵菩薩立像 一躰 円応寺は、元和三(一六一七)年に曹洞宋久昌寺の末寺として創建された寺です。この寺の境内にある医王宝殿の東側に石造地蔵菩薩立像があります。総高一一〇センチ、幅五〇センチ、肉厚二五センチの自然石の上部に、高さ二六センチの地蔵菩薩立像を半肉彫りにしており、痛みが少なく保存状態がよいものです。 正面向かって地蔵菩薩立像の右側に「応永十八(一四一一)辛卯」、左側に「七月仏歓吉□」、また下側に「誌之」の銘文を陰刻しており、市内で年紀の入っている石造仏では二番目に古いものです。 この地蔵菩薩立像は、明治二五年にこの地に安置される前、福知山城内の大膳丸の地中から発掘されたものといわれています。福知山市教育委員会 浄土真宗本願寺派笹尾山浄願寺
《交通》 《産業》 《姓氏》 篠尾の主な歴史記録『丹波志』
『福知山市史』
『京都新聞』(03.6.12)
『福知山・綾部の歴史』 「日本の古代史を揺るがした古墳」とタイトルされている。オーバーでもないと思われる。
伝説篠尾の小字一覧篠尾(サソオ) 池ノ本 家下 稲子谷 蒲ケ田 乳母ケ懐 榎原尻 大田池 力ナヤ 堅田 川上 川尻 黒福 抗目 猿屋 下川 清水ノ本 セイゴ 谷子 竹政 高貝 大道 段ノ前 寺ノ段 殿ケ市 堂ノ奥 土井ノ内 仲之坪 長ケ坪 西川 西海道 ヌクイ 野々端 登り丁 八王寺 羽合下 羽合ノ段 宮ノ上 向ノ段 持原 安尾下 ヤスラ 山端 薬師段 湯原 譲り 横サ 論田 谷尾谷 小谷 才ノ神 沢 寺ノ下 稲子谷 大田池 川上 セイゴ谷尾谷 堂ノ奥 野ケ市 羽合の段 向山 ヤスラ 矢見所 才ノ神 稲子谷奥 土井ケ谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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