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丹波の

下野条(しものじょう)
京都府福知山市下野条


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京都府福知山市下野条

京都府天田郡金山村下野条








明治34年発行
『幼年唱歌』


『大江山』
作詞 石原和三郎
作曲 田村 虎蔵


むかし丹波の 大江山
鬼どもおおく 籠りいて
都に出ては 人を食い
かねや宝を 盗みゆく

源氏の大将 頼光は
ときの帝の みことのり
お受け申して 鬼退治
勢いよくも 出掛けたり

家来は名高き 四天王
山伏すがたに 身をやつし
険しき山や 深き谷
道なき道を 切り開き

大江の山に 来てみれば
酒顛童子が 頭にて
青鬼赤鬼 集って
舞えよ歌えの 大さわぎ

かねて用意の 毒の酒
勧めて鬼を よいつぶし
笈のなかより 取り出だす
鎧かぶとに 身をかため

驚きまどう 鬼どもを
ひとり残さず 斬りころし
酒顛童子の 首をとり
めでたく都に 帰りけり


 

下野条の概要




《下野条の概要》

花倉川の上流域で、国道176号線の坂浦トンネルの手前側、とトンネルを越えた坂浦集落も当地の内である。三岳山(839.2)の北東麓に位置し標高250m前後の高地の山の斜面にある。当地を通る国道176号は古代の山陰道丹後別路であった。
亀岡市篠町の野条や八木町の野条、豊岡市の野上(のじょう)など、同じ地名はけっこう見られる、「のおじょ」とも発音されていて、あるいは納所の意味かも…
下野条(福知山市)

中世は佐々岐庄下山保(金山郷)の地で、元亨2年(1322)治部卿法印某寄進状(金光寺文書)に「寄付 蔵王権現七王子惣大般若転読供?事 合壱石弐斗(割注・御年貢斗定)者 佐々岐下山保野条村奴多谷上坪四合田所当内…」とあるのが地名のみえる早い例という。
下野条村は、江戸期~明治22年の村。「正保郷帳」ては野条村の高1.060石に含まれる。のち上下の二つに分村して当村が成立し、寛文4年朱印状目録と「元禄郷帳」には下野条・上野条両村が見える。上下二村に分れたが、中心は下野条で、「丹波志」は上野条村を下野条村の枝村としている。
はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。明治3年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年金山村の大字となる。
下野条は、明治22年~現在の大字。はじめ金山村、昭和30年からは福知山市の大字。

静かな山村だが、日本人なら知らぬ者なしの大江山(酒呑童子・茨木童子)伝説のメッカで、このあたりに当童子らはいたのかも知れないと考えられている。鬼と書くと地元の人に嫌がられるかも知れないが、ワタシが書くのはすべてすでに公表されている誰でもアクセスできる情報ばかりである。鬼と呼ぶかあるいは丹後王国の残党か、大江山の鬼は竹野神社が根拠地であったかも知れない。
伝承によれば、堂城家という地元の名家がある。元は童子家と名乗っていたといい、酒呑童子の子孫では、とも言われるそうだが、『丹波志』は茨木童子の子孫という。当家は今は村を出ておられるそうだが、御勝八幡の大祭礼で用いられる「山透かしの笛」は当家に伝わるもので、当家長男が吹くことと決まっている、笛がないと祭礼はできないので、その折りには必ず帰参されるという。
酒呑童子の首は当家の奥の森に落ちた、そこを「童子が杜」あるいは「堂城が杜」と呼ばれ、ここのあるひときわ大きな樫の木は、頼光が鬼退治の帰路にたちより持っていた杖を立てたものが育ったと言い、何があっても切ってはならないとされる。そこに頼光神社と荒神の祠がある、祭日は10月28日という。
また頼光がこの岩に足をかけて草履のひもを直したところ、足跡が残ったという頼光の足形岩、一名、鬼の足跡とも呼ばれる石もある。頼光や酒呑童子や伝説はそうしたことを伝えるが、茨木童子の子孫というのだから、本当は茨木童子の村かと思われる。

《下野条の人口・世帯数》 90・33


《主な社寺など》

神社は上野条の御勝八幡神社

真言宗喜多村金光寺末東照寺
継明山宝光寺 真言宗 上野条村
  喜多村金光寺末寺
    寺内高一斗三舛田畑無之
    千手観音郡内順礼十八番札所
      東照寺 真言宗 下野条村
  同右末寺
  寺高四斗三舛九合
(『丹波志』)

公民館の石仏(下野条)

下野条公民館に保存されている木造薬師如来坐像
上記東照寺の遺仏では、とされる。朱衣金胎の一木造で、藤原後期の作として市文化財となっている。胎内に異形の如来像を収めており、嘉永2年に修理した際、源頼光鬼退治の時戦勝を祈願して作ったものであるとの伝承を書付けた木札を入れている。
公民館(東照寺の跡地)にこんな案内がある。薬師如来坐像(下野条公民館)
木造薬師如来坐像(福知山市指定丈化財 彫刻)
福知山市字下野条下野各公民館
木造 漆箔  像高八四・六cm
(附)像内納入品 木造如来坐像  一躯 像高二七・〇cm
           木札    一枚 縦三三・二cm 横一二・二cm
 典型的な平安時代後期の定朝様の仏像で、全体的にたいへん均衡がとれています。現在の彩色は後補された後に施されたものですが、肉身部は漆箔、衣は朱で塗られていることが確認でき、作成当初からこのような姿であったと考えられます。この薬師如来坐像は、この地にあって、廃寺となった高谷山東照寺の本尊と伝えられます。頭躰を一木で造り、両肩と膝部を寄木する古い手法が用いられており、表面上は平安時代後期の典型的な様式ですが、構造上は一木造の古い手法となります。
 像内に収められている木造如来坐像は、頭部と胴部分のみが確認されており、牙を上に向け、怪異な表情をしています。この胎内仏は、その像容から、薬師如来坐像より制作年代は新しいと推測されます。
 また、像内に納入されている嘉永二年(一八九四)銘の木札には、次のような墨書きがあります。
(表)源口光蒙勅命当国大江山悪鬼退治え時為祈願
                  当寺薬師尊躰造
    長徳二申春之者也
    大仏師京都 松田伝内奉作
(裏)嘉永二酉星迄八百六拾田念相成
    此度再建仕処願主宥智房仏師周三良作
     八月拾四日
       平成二十七年三月 福知山市教育委員会



《交通》


《産業》


下野条の主な歴史記録


『丹波志』
下野条村 保科越前守領
高五百五十五石三斗三舛四合
中古金山郷ト云 天産 行積 長尾 一尾 大呂 瘤木 北村 日ノ尾 上野条
下野条村ヨリ丹後国雲原村迄三十丁平地牛馬道 但シ道ノ国境松ノ木 迄二十五丁 国境松ノ木ヨリ南ノ方山並尾続峯疆北ノ方田地并川有天座村道迄見通シ国境 下野条村ヨリ丹後国山谷村迄二十三丁半牛馬不通 但シ山谷峠国境迄拾三町古来ヨリノ道筋雪中ニハ難通山谷峠峯疆左古山并尾続峯疆道境ハ山谷峠峯疆

八幡社  下野条村
祭神    祭日無之上野条条同事
数百年前山城国男山ヨリ勧請之事跡多有之 先規トシテ廿五年三度祭礼ヲ行フ神輿ヲ出ス  喜多村天座村行積村ヨリ村々ノ神輿ヲ出シ八幡宮聚リ歌舞ス神楽ヲ奉ル千午院祭礼導師ヲ勤ム古例ナリ 本社五尺ニ四尺五寸 高一石六斗五升七合除地

茨城 子孫 下野条邨
童子カ森ト云有リ此所ニ小祠アリ祭リアリ八月二日里民神酒御供ヲ供フ斗ナリ/森ノ下ニ民家一軒有之代々童子庄左エ門ト云ヘリ、二家立テハ祟リアリテ不立一家ニテ相続ス此家ニ必耳聾ノ者男女ニ不限一人ツゝ有リト云、今ニ女子ニ有之生得耳聾ナル故言語不通
此家ニ頼光笛ト唱ヘ横笛一管有之是説非ナリ怖クハ金山備後守元実所持之笛ナルヘシ
姓氏ノ部ニ可載義ニ非ト雖今ニ相続ス故附此所

『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』
金山地区の伝説
 ①上野条・下野条の伝説
金山地区内の伝説地は偏在している。その一つが上野条・下野条である。上野条の御勝八幡神社の社殿に頼光らは三七日参籠し、八幡神の加護によってめでたく鬼退治を成就させた。頼光は、帰途に立ち寄り、その神徳を讃えて「御勝」の神号を奉り、田楽舞を奉納したという。この田楽が二十五年毎の大祭で奉納される紫宸殿田楽である。境内地の上手にある御手洗の池で頼光が身を清めて戦勝祈願をした。この故事に倣って田楽衆はこの池で休浴斎戒する。
 この紫宸殿田楽で笛役を務めたのが下野条の堂城家である。家伝によると、この家の老婆が頼光にかち栗を献上したことが機縁となって、頼光より「青葉の笛」を与えられ、「堂城」の名を許されたという。堂城の名は小沢の本家だけに許されており、分家に出ると小沢の姓に戻るという。青葉の笛は山透しの笛とも谷透しの笛ともよばれ、その音色は、遠く七尾七谷に響きわたり、堂城家の家宝として今に伝えられている。毎年正月十五日には、女性を退けた床の間で虫干しする習わしになっている。
 御勝八幡の二十五年の大祭には、堂城家に十歳前後の男の子が育っているという。その子が羽織袴の正装で参列し、青葉の笛を神前にささげる。神輿巡行のおりには、神幡の次に笛を持って参列し、本殿前で奉納される田楽踊りの時には、青葉の笛を吹くしきたりである。現在堂城家の当主は村を出ているが、大祭のおりには青葉の笛を持って帰村し、参列する。青葉の笛がなければ田楽舞ははじまらないという。また、かつて馬掛けの神事には、この男の子が馬にまたがり、
奉納したという。
 堂城家の屋敷から東に見下ろす場所に小さな森があり、堂蔵が杜とよばれている。酒呑童子の首を此処に祀り、そのしるしとして挿した頼光の杖が大きくなったという樫の木がある。この樫の木なにがあっても伐ってはならないと伝えられている。その脇に頼光神社と堂城家の株神である荒神の小祠が祀られている。
 十八世紀末に成立した『丹波志』に、堂城家についての記述がある。
  一、茨木 子孫   下野条村
  童子力森ト云所ニ小祠アリ。祭リアリ。八月二日里民神酒御供ヲ供フ斗アリ。
  森ノ下ニ民家一軒有之。代々童子庄左衛門ト云へリ。二家立テハ祟リアリテ不立、一家ニテ相続ス。(中略)此家ニ頼光ト唱へ横笛一管有之、是説非ナリ、恐クハ金山備後守元実所持之笛ナルヘシ。
 また、下野条公民館に奉納されている薬師如来像の胎内に納められた札には次のような銘文が見られる。
(表)源頼光蒙勅命、当国大江山悪鬼退治之時、為祈願当寺薬師尊躰造、
     長徳二申春之者也、大仏師京都松田伝内奉作、
(裏) 嘉永二(一八四九)酉星迄八百六拾四年相成此度再建仕処、願主宥
     智坊、仏師周三良作、八月拾四日
 これによれば、この薬師如来像も頼光の祈誓によって造立されたという伝説を持っていたことが窺える。

『福知山市史』
下野条公民館木造薬師如来坐像(福知山市字下野条)
典型的な藤原後期様式をのこす、像高八四・六センチの坐像で、比例均衡がよく整っており、福知山市内でも最も美しい仏像である。
 このような姿をした仏像を、定朝様といい、藤原時代後期以降さかんに造られたものであるが、宇治市平等院の阿弥陀如来坐像が、全国的にも著名である。
 定朝様の仏像というのは、通常は細かい寄木造りに作られるものであるが、この像は頭と胴体を一木で作り、両肩と膝だけが寄木という、古い手法をとっている点が特筆される。このことから考えられるのは、表面上は藤原後期、中央で流行した姿の特色をみせながら、構造上は新しい手法をとり入れることができなかったがために、古い手法を用いたあらわれであり、内部構造までが変るためには、ある程度の時期的なズレがあったものか、あるいはこの地方独特の造像法かと思われる。
 また、膝の部分に焼痕があるが、いつの時代かに火災にあった証左と考えられ、この仏像の歴史を物語ると共に、長い星霜を経て傷みもひどく、各所に修理した跡が残っている。
 この像の肉身部は漆箔、衣は朱が塗ってあるがこのような像を「朱衣金胎の像」という。漆も朱も後の世に修理されたものであるが、このような如来形の仏像は、古い時代から例があるので、当初もこのとおりであったと思われる。

 付 胎内仏如来像
前述の薬師如来坐像の胎内に如来型の胎内仏が蔵されているが、この仏像は後世のものである。頭体を一木で作っているが両肩と膝部は無く、如来像とは思われるがなに如来であるかは判明しない。牙をむきだした怪異な顔に作られているが、このような仏像を薬師仏の胎内に収めたのは、この地方の人びとの七仏薬師信仰の呪術的傾向のあらわれと考えられる。
 また、胎内仏ともう一つ木札が蔵されているが、それには次のように墨書がある。
 (表)源頼光蒙勅命当国大江山悪鬼退治之時、
    為祈願当寺薬師尊体造、長徳二申春之者也
        大仏師京都松田伝内奉作
 (裏)嘉永二酉星迄八百六拾四年
    相成此度再建仕処 願主
      宥智房仏師周三良作
         八月拾四日
 表裏とも嘉永二年(一八四九)に書かれたもので、薬師像がこの年に修理されたことを示すものである。
 この薬師像が、現在公民館にあること自体不思議に思われるが、もとこの地にあって、現在廃寺となった高谷山東照寺の本尊が、公民館にのこされたものであろう。
 昭和四十年二月 福知山市指定文化財に指定。

『鬼伝説の研究-金工史の視点から-』
…かくて酒呑童子を退治して、鬼の首をさげて麓の童子が森に至った。この森には酒呑童子の子孫、童子儀八という名家があって、童子姓は悪名だといって、童城といまは名を変えている。ここには頼光の鬼切丸と、合図の山透の笛が残っている。この笛は、竹をはぎ合せた上にウルシを塗った珍らしい笛で、菊の紋がついている。この笛は御勝八幡の祭りに用いる。この祭には、この辺りの神社はみな集まって来る。また三岳山頂の蔵王堂には、佐々木と金山の郷が各年交代に記りをする。また天座というところは面白いところで、酒呑童子が斧でつくったという薬師如来があり、ここから金の棒が出たと伝え、またその地の大年神社には頼光のあげたという大般若経がある。もちろん酒呑童子が死んだ七月十五日には鎌止といって一切の刃物を使用しない。野条では節分に人形を洞窟へもって行く。また行積、長尾では、頼光が道に迷った時、熊野・八幡・住吉の三神があらわれて先導したと伝え、住吉神社がある。

四、山透しの笛、同(福知山市上野条)、堂城家
源頼光が御勝八幡宮に祈願に向う途中、その道筋の家(今、堂城姓を称す)の老婆が栗の実をむしろに干していた。それを見た頼光が何かと問うと、かち栗なりと答え、今度の戦さにお勝ちなさるように少々献上しますと差し出した。頼光は大層喜び、鬼退治を終えた後、合図に使った愛用の“山透しの笛“一本を老婆に与えた。いま八幡宮の祭礼に、堂城家の男子がこの笛を吹く。ただし両親健在のときのみである。この笛は堂城家の宝として伝えられてきて、近年まで正月一五日になると、当主は水垢離をとり、笛を床の間へ三方に載せてかざるを常とした。御勝八幡の御勝とは、御鍛冶のことと思う。また堂城家の山透しの笛というのも、柳田国男が金工伝説である炭焼小五郎の事において、山路の笛のことを書いており、これはたんに楽器の笛のことでなく、金工に使われるフイゴに関連していることは、大和国忍海郡笛吹社が金工に関係のある神社のことからも想像される。しかしこの問題は御勝八幡と関連しつつ、別の機会に述べたい。なお堂城家は、明治以前は童子家と言っていたことは、大林さんの話の中に出ている。






下野条の小字一覧


下野条(シモノジヨウ)
赤坂 今貝 今長シ 石中間 猪ノ尻 上根 奥山 岡ケ市 岡ノ城 大杉 大田 河原見 木長場 葛籠谷 小谷 小岶 米岶 荒神谷 崎田 砂ノ内 立尾 峠 徳入 堂城 堂之向 堂之奥 中ス貝 中後 西根 布田 登尾 信定 萩原 久岐 松之後 宮ノ下 森ノ下 奴た谷 湯串 若宮 脇谷 赤坂 今貝 猪ノ岶 石仲間 大田 大杉 奥山 上根 木指 葛籠谷 小岶 米岶 荒神谷 砂之内 菅ノ谷 立尾 谷ケ岶 滝岶 峠 徳入 堂ノ向 堂ノ奥 脇谷 奴太谷 松後 虫ケ端 森ノ下 番屋 久岐 信定 登尾

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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