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下佐々木(しもささき)
京都府福知山市下佐々木


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京都府福知山市下佐々木

京都府天田郡三岳村下佐々木

下佐々木の概要




《下佐々木の概要》

牧川の支流佐々木川の中流域。国道426号線(出石街道)が地内を通る。大猪(おおい)・進藤(新堂・しんどう)・末長(せなが)・南垣(みながい)・上垣(うえがい)の小集落に分かれる。高野山真言宗宝城山明王院威光寺がある。
中世、佐々岐庄上山保。
下佐々木村は、江戸期~明治22年の村。はじめ「正保郷帳」に見える佐々木村の一部。福知山藩領。延宝5年からは上総飯野藩領。「元禄郷帳」 「天保郷帳」は当村を上佐々木村の枝郷とする。
江戸初期は寺田氏が栄え、のちは牧氏が継ぎ大庄屋を世襲している。村の共同基地近くに、俗称「寺田屋敷」(約五畝歩)があり、築地・泉水・井戸などの跡がある。寺田氏は五代家次に至り牧姓に改めた。牧氏系図(牧美佐家蔵)によれば初代寺田蔵人権頭は天文年中(1532-55)天田郡佐々木村へ移ったという。また当地の威光寺文書に「里老ノ曰、威光寺焼亡ニ付、地頭安福元常(原注・阿富元経)入道・寺田某建立、(中略)寺田殿ハ在宅(原注・地)ノ郷士也、塩見殿之為ニ一族浪人有之畢」とあるそうある。

《下佐々木の人口・世帯数》 86・36


《主な社寺など》


佐々木神社
佐々木神社(下佐々木)

佐々木神社
三岳山の山麓にのいたるところに立派な古い石造物と古木と古仏像と古い伝説が残されている。
案内板が新しくなっていた。↓
佐々木神社案内板

佐々木神社は三つの神社が合祀されている。瀧宮神社(瀬織津姫命)、春日神社(天児屋根命)、五柱神社(保食命)である。瀧宮は新堂・上垣、春日は大井(オイ)、五社は末長(セナガ)・南垣(ミナガキ)のモヨリでまつっていた。現在、佐々木神社では、本殿中央に瀧宮神社の神像(衣冠束帯の男神像)、右側に五柱神社の神像五体(一木造)、左側に
      丹?天田郡
           下佐々木村
      文明十一年
 春日大明神 氏子中
   亥九月吉日
     世話人
      西村信右衛門
      天田屋清吉良
という銘のある銅鏡が納められている。春日神社は、京都府登録文化財の木造春日明神坐像もあり、この神像には康永元年(一三四二)の墨書銘がある。また、五柱神社の神像は五体であるが、戸倉の神社が一体持って帰ったという伝承もあり、そうすると六柱(所)であった可能性もある。佐々木神社には祭礼道具が多く保存されている。昭和元年(一九二五)の金幣三本(三つの神社の銘)、道祖神(鬼の面)二面、木鉾(道祖神の面をかける)、幟、裃、練り込み太鼓の前垂(大正十五年十月新調)、木製扇形付鉾、御幣二本である。
(『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』)


高野山真言宗宝城山明王院威光寺

麓の国道426号から見る威光寺の全景↑
佐々木神社の谷の向かいの高い所、まるで城郭のような石垣に囲まれている。国道から参道が続く。傾斜きつい狭い坂道、すれ違いが難しい、上に駐車場がある。

仁王門↑
二王門の案内板
威光寺 福知山市重要資料
木造金剛力士像 一対
威光寺の所有する「威光寺文書」によると威光寺は鎌倉時代にはすでに真言宗の寺院として存在していたようです。
 一六世紀末に明智光秀は反抗する寺院の多くを破却しましたが、当寺は住持が光秀らと同郷の出身であったため、命脈を保ち続けました。
 金剛力士像は仁王(ニ王)像ともよばれ仏法を守護する目的で寺門の左右に配置されており、むかって右側の像を阿形像、左側の像を吽形像といいます。
 木像金剛力士像は福知山市内に五対ありますが、威光寺の像は像高がニニニセンチメートルあり、怒りを表した顔の表現に特徴があります。
その作風は運慶(鎌倉時代の有名な仏師)の流れを汲んでおり、作成年代は室町時代前期と推測されています。福知山布教育委員会



山門鐘楼をくぐる↓

本堂、一番奥に薬師如来堂がある↓

ご本尊の薬師如来は25年に1度のご開帳という、しかも3日間だけ。昭和50年代にあったというが、それではちょっと計算が合わないが、ともかくも今年(2018)はそのご開帳年であった。
NHKのニュースでやっていた、それを聞いて東京からでも新幹線に飛び乗ってやってくるとか。ワタシも聞いたが、しかし聞かなかった人も多かろう、その場合はほかに情報源がない。仏教すたれる、お宮もすたれる。地域がすたれ、ニッポンがすたれる。このあたりはどこかが本気になって力をいれてもらいたい。
薬師堂というのか、如来堂あるいは観音堂か↓
いつだったか来た時には、堂の廻りは木々が茫々のおそろしげな所で、ここに本尊がおられるとは想像もしなかったが、今はこのとおりスッキリ、クッキリになっている。


ご本尊を写すわけにはいきません、ここにおられる。


本尊は薬師如来。当寺蔵の「寺社御改ニ付一札」によれば、昌秦年中(898-901)の草創、開山聖宝国師(理源大師)とし、「諸伽藍并寺院三拾六院御建立」、その後「天文年中、寺院諸伽藍共二悉ク焼失仕申処、施主阿富元経入道・住持勢鏡阿闍梨、本堂・二王門・寺院僅ニ六院取建申候」という。しかししだいに衰退して寛永三年(1626)には一院になったと記す。

寺社方覚帳(当寺文書)に、
 一威光寺宝城山(割注・寺高七石四斗八升余田畑共 但シ村高野内 山林竹木従先規御免許)
  寺鋪地ハ山林境内故無高 (割注・方丈四間ニ七間半 庫裡四間ニ七間半)
 一本堂薬師如来 堂五間四面 庭拾間四方
     鐘堂八尺四方  (割注・但シ山林境内之内ニ有之)
 一二王堂(割注・長三間ニ弐間) 庭四間ニ幅弐間 除地
 一通堂 堂無 鋪地跡(割注・長四間幅弐間)先規ヨり除地
このほか下佐々木の小字新堂(しんどう)(進藤)に観音堂・十王堂があり、「寺社御改ニ付一札」に「観音堂・十王堂ハ新堂勝林寺境内ニ御座候、右勝林寺ハ古ヨリ威光寺末流ニ御座候」とあるそう。

本尊が薬師で、大師信仰のようなものもないようで、当寺は真言宗よりも古いのだろう、創建は奈良時代にさかのぼるのではなかろうか。国家宗教ではない、民衆対象の宗教、この辺りの鉱山と関係ふかい寺院であろうか、記録には残らないだろう。

宝城山明王院 威光寺 (古義真言宗高野派)三岳村字下佐々木
            仏殿本尊 不動明王(座像)
 本尊 薬師如来(座像)
 開山 聖宝理源大師{昌泰四年(一五六一)実は延喜元年なり}
 中興 鏡範上人 長亭二年(二一四八) 再中興 勢鏡上人 天文十五年(二二〇六)
勢鏡上人の代大檀那阿富元継は石見龍ヶ城主なるが当地に所領地ありて移る。蓋し石見国の本領は屡々侵略を被りしを以てなり、而して爾来一ノ宮に住みて龍ヶ城と称せりといふ。此城に立石あり今立石の苗字数戸あり。
古刹なれば建立数回に及べり、即ち前記の外、天正七年(二二三九)八月、安永三年(二四三四)十一月廿三日起工、仝六年七月廿一日成工、文化十四年(二四七七)以て現在に至る。
 寺宝 十六善紳(醍醐天皇の宸筆、京大西田博士の鑑定)、摩訶釈の印(弘法大師の筆)
    推釆錫杖  弘法大師自画像  仁王尊(運慶の作と云)
 境内建物 本堂、薬師堂(二十坪) 仏殿(二十六坪) 庫裡(三十坪) 仁王門 鎮守祠(琴平神社)
 檀家 百五十余戸(三岳村内) 信徒 一千余名(天田郡内)
 財産 田七反歩 畑五反歩   文書 制札等あり。
 郡西国第廿番、郡新四国第四十番の札所なり。
 現住石坪哲真師は真言宗大学を卒へ布教師、其他に尽瘁せり。
(博文校報)三岳大権現は役の行者十六歳の時の開基云々、大和大峯山にても斯く伝へたりと云。当時の別当は上佐々木字野際小字榎ノ木に在りて現在の桐村才之助氏は其裔なり、其後太化年中(一三〇五-一三〇九三三)喜多村に宝壽院を建立別当をこゝに移したと云。御神体は木像と思ひしに明治十六年神社再建の時、柱中に埋め木あるを発見し之を見るに黄金の高さ六寸許の像あらはれしと、木像は明治廿年頃朽ち果てたり、 ○三岳上頂に石を畳み上げし旧蹟あり、昔源頼光等六人此に登り護摩を炊きて鬼神退治を祈念せし所と伝ふ。近来まで寺僧は此所にて護摩を煮きしと云。 ○三岳山の一合目谷に老杉ありこれは頼光の此山に登りし時、杉の生杖を挿したるに漸く生長、今日の大木となれりと云。
(『天田郡志資料』)

威光寺は、薬師如来を本尊とする高野山宝城院末の真言宗寺院である。京都府福知山市下佐々木にあり、縁起によれば、昌泰年中(八九八~九○一)に理源大師聖宝によって開かれたとされている。現在は不動明王を祀る明王院一院が法灯を守っている。
 威光寺には多くの聖教が残されており、既に丹後郷土資料館によって詳細な目録が作成されている。しかしながら、それに比して、威光寺の実態を知る手がかりとなるような文書類はほとんど残されていない。今回の調査によって確認された史料は、威光寺の本尊開帳の際の扣と近世の過去帳及び、明治期に編纂された歴代住職の書き上げなどである。また、棟札・祈祷符の版木・護摩札なども新たに確認できた。それらの史料から断片的ではあるが、近世における威光寺と三岳地区との関わり、また威光寺と修験との関わりを報告することとしたい。
一 威光寺の現状
 威光寺は京都府福知山市下佐々木にある。山号は宝城山である。院は一院あり、明王院と言う。明治期より石坪氏によって世襲されており、現在は石坪弘真氏が住職である。
 現在の威光寺の法類は、瑞林寺(夜久野町板生)・東光寺(夜久野町額田)・雲龍寺(福知山市畑中)・観瀧寺(福知山市口榎原)・金光寺(福知山市喜多)・清園寺(大江町河守)・如来寺(大江町仏性寺)の七ヶ寺である。また、結集は、三岳地区・夜久野地区・榎原地区を中心とした三岳結集に属しており、威光寺(福知山市下佐々木)・瑞林寺(夜久野町板生)・東光寺(夜久野町額田)・安養院(福知山市猪野々)・円満院(夜久野町畑)・雲龍寺(福知山市畑中)・観瀧寺(福知山市口榎原)・金光寺(福知山市喜多)・青蓮寺(福知山市梅谷)の九ヶ寺によって構成されている。
 法類は「寺の親戚みたいなもん」、と言われ、住職が移って行ったり、弟子筋であったり、弟子が行き来したという関係を持っている寺であると言い、明治以来の関係であると言う。また、結集は「寺のモヨリみたいなもん」であると言い、行事としては年に一度当番制で御影供を行っている。またこれとは別に、盆の施餓鬼の際には威光寺・金光寺・円満院の三ヶ寺でお互いに行き来をしあって手伝いを行っており、それを施餓鬼結集と言う。
 檀家の地区は、上佐々木・中佐々木・下佐々木の各地区である。
 年間の行事として、十二月三一日に大晦日の祈祷を行う。そして、年が明けると正月の三ヶ日の間は檀家を回り、大晦日に祈祷を行ったお札を配って歩く。その際、住職の後を檀家の子供が荷物を持って供をする。これをネントウと言う。また、檀家は元旦には神社へ参った後、寺に初詣にくる。春秋の彼岸には彼岸講を檀家の婦人が行い、盆には施餓鬼が行われる。施餓鬼は、前述の通り施餓鬼結集の三ヶ寺で協力して行われる。そして、秋じまいには、合同法要として、年忌に当たっている仏さんの合同の法事が寺で行われる。また、昔は花祭も行っていたと言うが、現在は寺では行わず、地区で個別に行っていると言うことである。
 年中行事とは別に、二五年に一度、本尊薬師如来の開帳が行われる。前回は昭和五十年代に行われた。かつては、近隣より人びとが集まり盛大であったと言う。この本尊開帳に関しては、万延元年(一八六○)の本尊開帳の際の控えである「本堂薬師如来廿五歳開帳扣帳』及び、その際に新調された戸帳・堂幡・水引の寄進者を記した『本尊戸帳・堂幡・水引寄進扣帳」が現存している。また、明治十五年に行われた開帳の際の案内及び、本尊開帳の際の仏餉袋等の版木も遺されている。
二 威光寺の縁起と歴代住職
 威光寺は、縁起では昌泰年中に聖宝によって開基されたとされ、かつては三十六坊を持つ大きな寺院であったという。
 威光寺に蔵されている「寺社御改ニ付一札」によると、
    丹波国天田郡佐ゞ岐上山保宝城山威光寺者
  人皇六拾代醍醐天皇之御字昌泰年中之草創、開山者聖宝尊師、本堂者薬師
  如来、諸伽藍并寺院三拾六院御建立、六百余歳相続仕候之由、其後、
  御奈良院御宇天文年中、寺院諸伽藍共ニ悉ク焼失仕申処、施主阿富元経入
  道・住持勢鏡阿闍梨、本堂・二王門・寺院僅ニ六院取建申候、昔者当村不
  残知行之由申伝候得共、
  太閤様御代悉皆落申、依之寺院次第減一院ニ成申候、只今ハ六院之屋鋪茂
  年貢地ニ相成、高七石五斗御座候、山林竹木者従
  御地頭御代々御赦免之御折紙御座候、威光寺只今屋鋪ハ山林境内之中ニ付
  無高ニ而御座候、
  一本堂薬師如来、一鎮守五社大明神、一二王堂、一通堂屋鋪、
  右之外諸伽藍屋敷斗模申伝田畑ニ罷成申候、
  一観音堂・十王堂者新堂勝林寺境内ニ御座候、右勝林寺ハ古ヨリ威光寺末
  流ニ御座候、境内御除地、但シ無高、
  右之外当村之内ニ春日四所明神・瀧明神・荒神三所・阿弥陀堂、谷村ニ弥
  勤堂・荒神宮・氏神小和田明神、仏坂ニ三宝荒神・薬師堂、右何れも森
  境内無高之除地ニ而御座候、
     右之通御座候、以上、
                真宗古儀
                  威光寺

                  明王院印
   寛永三年五月
        御奉行所
  (追記)
 「右之通寛文五年七月御改ニも書付差上ケ申候、慶安三年三月御改ニも右之
 通書上ケ申候、延宝六年三月右之通書付指上ケ申候、」
とある。寛永三年(一六二六)の寺社改に際して威光寺より出されたものの写しであるが、ここで述べられている縁起によると、(1)昌泰年(八九八~九○二中、理源大師聖宝によって薬師如来を本尊として、諸伽藍及び三六坊が建立された。(2)天文年中(一五三二~一五五五)に諸伽藍全て灰燼に帰し、阿冨元経を施主にして、当時の住持である勢鏡阿闍梨が本堂・仁王門と七院を復興した。(3)かつては下佐々木一村を寺領としていたのだが、秀吉の代に至って寺領は全てなくなってしまい、これによって退転し、一院のみになった、と言うように寺勢の変遷として大きく三つにわけることができよう。
 この縁起に述べられている中で、確実に確認できるのは、(2)の天文年間の再興である。この事を示す棟札が威光寺に残されている。それによれば、
  並旦那大那阿冨元経現住勢範勢隆 天文十五丙午参月廿六日柱立 奉造立本堂為本願権大僧都勢鏡法印 現世安穏後世善所也
  大工藤原宗久脇本願寺田権守   天文廿一壬子十二月十五日棟上敬白
とある。これを見ると、縁起の中で「阿冨元経」となっているのは、棟札にある「大那阿富元経」の事であるう。そして、この「大那阿富」は「大那珂富」の誤であると見られる。すなわち、縁起に見える「阿富元経」とは、金山地区に勢力を張っていた大中臣氏であると言えよう。すなわち、天文十五年(一五四六)年より、天文二一年(一五五二)までの六年間に渡って、在地領主であった大中臣氏の援助の下に勢範・勢隆の両人が威光寺の本堂再建に尽力したと言えよう。ただし、この再建が縁起の言うように本堂の他に及んだのか、また、子院が再建されたのかまでは知ることができない。
 しかし、宝永三年(一七○六)に製作された「丹波下佐々木村絵図」を見ると、威光寺の位置している谷は、威光寺の屋敷地の向かいが「坊ノ後」となっており、その谷の奥には「堂ナル」という地名が書き込まれている。「ナル」とは、この地域では山の中などの平地の事を指して転げ、このことから、威光寺には現在の明王院だけでなく、複数の子院が存在したことが推測されるのである。そして、この縁起が作成されたのは寛永三年(一六二六)であり、天文二十一年(一五五二)の再建から百年を隔てていないことから、天文年間の再興は棟札から当然として、威光寺が下佐々木全体に大きな勢力を持っていたと言うことと、十六世紀前半における明王院を含めた複数の子院の存在を否定する必要はないであるう。
 その後、天和二年(一六八二)、住職の寛隆によって作成された過去帳をみると、
 中興開山隆栄上人 貞享元子三月 但馬室尾開山
とあり、
 当山再中興法印寛隆 宝永七歳寅十月 隆仙師
とあるように、貞享元年(一六八四)没の隆栄が中興としてあげられている。また、この過去帳の作成者である、寛隆が宝永七年(一七一○)没で再中興としてあげられている。尚、この威光寺の過去帳については後に詳しく触れることとしたい。
 さて、ここで、中興とされる隆栄は「但馬室尾開山」となっているが、明治三十年に当時の威光寺住職であった石坪密真によって編纂された『当山住職累変世霊名簿』によると、
  隆栄上人 貞享元甲子年三月廿八日 辞職后養父郡糸井村字室尾法宝寺
  江転住
とある。法宝寺は現在の朝来郡和田山町室尾にある寺院である。また、  寛隆上人 宝永七庚寅年十月七日 行年五拾九歳 隆栄上人之遺弟とある。すなわち、十七世紀後半に活躍した隆栄とその弟子である寛隆によって威光寺の再興が行われたことが伺われるのである。
 他方、十六世に半ばに本堂を再建した勢範・勢隆であるが、天和年間の過去帳の中にその名を見出すことができる。
 しかし、勢隆は命日が十九日であるとしかわからず、勢範に至っては命日すら不詳である。これは、密真の『当山住職累変世霊名簿』にも同様である。威光寺に遺されている最古の過去帳である天和二年の過去帳において、没年が明確に確認できる最も早いものは、中興開山とされる隆栄である。また、『当山住職累変世霊名簿』においては、栄賢上人が没年を「明暦元乙未年十二月廿六日」とされており、明暦元年(一六五五)と隆栄より約三十年遡った人物があげられている。『当山住職累変世霊名簿』では続いて隆?があがっており、「寛文八(一六六八)戊申年五月廿一日」没とされている。次いで、隆栄がある。栄賢より以前となると、「年月不詳」で九日没の隆賢と言う人物があるが、その事績には、
  天正文禄時代天正七己卯八月光秀福知山城建築之際近郷ノ寺院破潰材木石塔抔ヲ奪取シ其時今安寺中威徳寺名か之住僧光秀之悪置ニ返対シタルヲ以テ両寺中合テ六ヶ寺ヲ漬シ材木等持還リ其時軍使妻木某当住ト談話 之末生国美嚢ナルヲ語ル軍使及主人光秀全国ナルヲ以旧懐之情不附其儘保存スル事ニ決ス
とあって、天正七年(一五七九)に在世した人物とされている。そして、次の栄賢上人は「隆賢上人之遺弟」とされているが、彼の没年は明暦元年であり、天正年中からは約七○年の開きがあることを考えると、隆賢から栄賢へと続くと言う経歴には疑問がある。
 すなわち、威光寺の住職として明確な経歴を認められるのは、天和の過去帳に中興開山とされている隆栄以降であり、それ以前の住職の没年などはこの過去帳の編纂された十七世紀後半において既に不詳となっていたのである。また、後代に編纂された『当山住職累変世霊名簿』においても、明暦元年没の栄賢までしか正確に没年を確定できる人物は存在しない。
 縁起では、下佐々木を領していた威光寺が「太閤様御代悉皆落申」した結果、他の院は退転し、明王院一院のみになってしまったというが、威光寺に道されている過去帳を見ると、住職の生没年が明確にわかるのは遡っても明暦元年(一六五五)までであり、十六世紀半ばの本堂再建から十七世紀の半ばまでの約百年間は空白となっている。この間に威光寺が近世的な寺院へ転換したことは明らかであろうが、それは歴代の住職から見る限り、連続したものというよりは、むしろ断絶を伴うものであったと思われる。
 それでは、その間の経緯はいかなるものであっただろうか。また、中世における威光寺はいかなる寺院であったのだろうか。それを探ることは現状では困難と言えよう。
 しかし、天和年間の過去帳を見ると、中興の隆栄以前に没したと考えられる人びとが書き込まれているのを見出すことができる。そこには、明確に修験と記された人物や、伝承でしか残されていない箱持という村名等も現れてくる。次に断片的ながら、天和の過去帳の中に見えるそれら宗教者や村名について見ていく事で威光寺や周辺地域の近世初頭の姿を探っていくことにしたい。

三 威光寺古過去帳
 さて、威光寺の開基は理源大師とされており、三岳山の山麓に位置し、修験の村であったと言う伝承を持つ野際なども檀家としていることなどから何らかの修験との関わりが想定される。威光寺には先に見た天和二年の過去帳の他に「古過去帳」として、近世の過去帳が一括して適されている。「古過去帳」と呼ばれるのは、明治期に住職としてあった密真が明治初期までの過去帳を整理し、新たに過去帳を作成しているからである。現在は彼によって作成された過去帳が専ら用いられており、それ以前の過去帳は箱に入れられ別に置かれている。
 古過去帳は五冊あり、(1)天和二年、寛隆によって作成された過去帳(以下、『天和過去帳』と呼ぶ。)をはじめとして、(2)享保十五年(一七三○)に学仙によって作成された過去帳(以下、『享保過去帳』と呼ぶ。)、(3)宝暦十三年(一七六三)~天明八年(一七八八)までの過去帳、(4)弘化二年(一八四五)~明治十九年(一八八六)までの過去帳と、(5)享保六年(一七二一)隆仙によって書写された過去帳である。
 (1)・(2)・(5)の過去帳は日付毎に書き込まれたもので、(3)・(4)は年毎に書き込まれた物である。(1)・(2)・(5)は、過去帳製作以前の死者も収録している。尚、(5)は、(1)の写しである。特に、(1)は威光寺において現存する最古の過去帳であり、また、編纂年以前の死者も収録していることや、修験者など多くの興味深い記述がある。
 他方、(3)・(4)には修験等に関わる記述は現れない。本章では、特に(1)の『天和過去帳』を中心として、威光寺と修験等との関わりを見て行きたい。 まず、『天和過去帳』について確認しておくことにする。『天和過去帳』の裏表紙には「天和二壬戊年林鐘中旬 寛隆代」とあり、過去帳の末尾にも「維時天和二戌年林鐘中旬 施入寛隆」とあって、天和二年(一六八二)年六月中旬に当時の住職であった寛隆によって作成されたものとわかる。現状は冒頭部分が欠落…
(『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』)


《交通》


《産業》



下佐々木の主な歴史記録





下佐々木の小字一覧


下佐々木(シモササキ)
芦ケ谷 赤畑ケ 奄ノ上 家ノ前 家ノ奥 家町 家ノ上 家ノ下 家ノ上糀屋敢 井ノ上 今丁字 今津開地 岩膚 岩ハダ 泉田 一丁目 上垣 牛房岶 後口 後開地 宇代 ウシロ ウロタ 榎ノ本 夷田 大岶 大ケ岶 大井 大井ノ奥 大田 大田水口 大谷 岡 岡ノ本 岡ノ下 岡ノ谷 岡ノ段 岡林ノ段 春日田 春日前 開地尻 開戸ケ畑 唐拭 管田 カラシ畑 岸岡 京塚 木岶 狐岩 キセ キビ岶 久保 栗田 桑岶 九日田 クノ木原 クノ木林 下馬場 才ノ上 才ノ下 才ノ神 岶 岶ノ頭 三百田 三角田 桜尻 堺目 清水 嶋崎 下開地 進堂 周岶 謝連 上馬場 柚ノ木本 シロヤ 末ケ本 末長道ノ上 末長道ノ下 菅田 ズヘガウト 背間谷 滝ノ本 滝ノ下 滝川 田ノ中 田中河原 由和ノ下 谷尻 棚田 谷ノ奥 滝ケ端 大良屋敷 大道ノ上 大道ノ下 タガタ 千徳田 辻畑ケ 寺田 出水田 峠 富田 富田河原 橡ノ本 堂ケ端 ドヘケ下 西岶 二王門 年仏村 ノチガモト 早田 早田大井ノ奥 花ノ木 橋詰メ 平林 平尾 日向 日代 日后田 考大開地 兵庫田 ヒヘテン 深田 古屋敷 フロヤ開地 細田 法長 坊ノ後 丸坪 宮田 宮ノ横 南垣 三谷 水越 道ノ下 ミスマ 宗段 宗清 免ノ下 森ノ前 森ノ上 森ノ下 森脇 森垣 森垣口 屋敷ノ前 屋敷ノ協 屋敷ノ段 安ノ口 安ケ段 山端 薮ノ下 油テン ユリノ前 ヨリ金 連田 ワサダ 榎田 前田 丸山 背場谷 道の上 寺の下 唐掛 家所 庵ノ口 大道 桑畑 屋敷ノ下 谷ノ奥 今丁字 日後 念仏林 大屋ノ下 伊賀見 後山 安ノ上 菴林 伊賀見 石ケ岶 稲木場浦 梅ケ岶 後山 榎岶 榎岶ノ口 大田北 大田水口 大田細道 大田深溝 大田梁岶 大岶 大畑ケ 大谷 大滝口 大滝ノ奥 岡 岡南 岡北 大谷口 岡ノ地 岡ノ段 開戸ケ畑 上土ケ岶 カンヒラ 桐ケ岶 狐岩 京塚 木岶 キサコ末長上 キヒ岶 シヤレ 末長土 セバ谷 立畑ケ 棚岶 大般若 鳥ノ奥 トチ本 成畑ケ 鍋畑 梨ケ岶 念仏林 花山 箱ケ岶 東ノ奥 平尾 舟岶 松尾 真岶 水越 森垣 安ケ谷 大田岶 カンダイジ 田カタ 細岶


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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