京都府福知山市和久市・天田・篠尾・堀など
京都府天田郡福知山町和久市・天田・篠尾・堀
京都府天田郡曽我井村
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宗部郷の概要
《宗部郷の概要》
宗部・曽我部・曽我井部とも書く。古代の宗部郷で、「和名抄」丹波国天田郡十郷の1つ。同名の郷は近くでは丹波国桑田郡に「宗我部郷」、同多紀郡に「宗部郷」がある。
蘇我氏の部民が置かれた所、あるいは玉勝山根古命の子孫蘇宣部首のいたところなどの説がある。
当地については『曽我井伝記横山硯』に、
江賀八幡宮 産地子(うぢこ) 曽我井村和久市村
此神曾我大臣草結び処とあり。
神宝 鬼切丸太刀…
とあるので、蘇我氏の部民という意味であろう。当郷鎮守が江賀社であったと思われる。
「臣(おみ)」姓は在地の有力豪族で、天皇氏からは半独立的な地位を保っていた、「大臣(おおおみ)」はさらに有力豪族で武内宿禰が最初とされ、その後葛城系の葛城、平群、巨勢、それに蘇我が就任している。「蘇我大臣」は蘇我馬子のことであるが、世襲で子の蝦夷や入鹿も就任して強大な権力をふるったと言われる。蘇我馬子大臣(石舞台古墳の被葬者と推測されている)が江賀社を建てたのかも知れない。
明日香村の石舞台古墳などを夏休みに見学に行く、カシコ~イお子さん(小学生)もある、舞鶴あたりでもあるのだが、被葬者は聖徳太子としたり中臣鎌足とか書いている。時代はだいたいアタリだ、しかしやはりなじみ深い地元の歴史とかみ合わせないと覚えられるものでも、そこから何がしかの意味をくみ取れるものでもないよう。彼らを導くはずの大人の側としてはその郷土の歴史の解明が前進しないのが何とも悔やまれる。
郷内に式内社荒木神社があり、「三代実録」貞観元年条に「丹波国荒木神列於官社」とあるそう。
鬼退治伝説も残り、稲目や馬子のネライは荒木山周辺にあったであろう銅山ではなかっただろうか。蘇我氏は光秀の大先輩格の「逆臣」とされて、滅亡したため何もわからない。
郷域は福知山城下町、その周辺の和久市・天田・末広町1~6丁目・篠尾・堀など旧曽我井村の地域に比定されている。
中世は宗我部郷で、寿永3年(1184)3月日付の感神院所司等解に「当社領御常灯用途料領丹波国天田宗我部郷土肥」とあるという。
康暦元年(1379)9月15日には足利義満が「丹波国天田宗我部国我分」などを春屋妙葩に管領させたという。
《交通》
《産業》
《姓氏》
宗部郷の主な歴史記録
『福知山市史』
宗部郷
曽加倍と読む、宗は古音が曽久であるから曽加と転じたという(日本地理志料)。既に古代社会の構造について述べたところで触れたように、この宗部郷は昔蘇我氏の部民が置かれたところか、あるいはまた天孫本紀の示す通り玉勝山代根古命の子孫蘇宣部首がいたところか、六人部氏も同祖である。右の二説いずれも断定出来ない。古来あるいは宗我部、曽我部または曽我井部と書き、近世曽我井村があった。同じ丹波の桑田郡にも宗我部郷があり、大日本史国郡志には「今削二我字一」とある。また多紀郡にも宗部郷が見える。古文書にあらわれる庄名で天田・桑田・多紀のいずれの郡に属するものを指すか不明の場合がある。天田郡の宗部郷については、大日本史国郡志には「今曽我井荘、属村四、在二土師西角一」と出、丹波志には「宗部郷、四箇村今称二曽我井荘一、領二福知山、木村、南岡、堀四邑一今按福知山宜レ係二天田郷一」とあり、吉田氏の大日本地名辞書には「今曽我井村井に福知山町にあたると云ふ、本郷は後世訛りて曽我井と呼び、庄号に建てたり、古の郡家なりしにや、天田の大字も残れり」とし次に丹波志の長い解説を要約してある。さて天田郡の郡家が今に字天田が存するからこのあたりであったとの推論は、菅沼岩蔵氏が否定している。すなわち天田の字名は明治時代になってからつけたもので昔からの地名ではないという。たしかに江戸時代の記録には天田村というのは出て来ない。そして丹波志には宗部郷として福知山町地・木村・南岡・堀の四ヶ村を含ませており、邨岡氏の前掲書もおそらくこれによったものであろう。丹波志には宗部郷の周囲の境界について詳しく述べ、次に同郷の伝説と歴史を説明している。
丹波志の記録は、大化年中に荒木山に法道仙人が寺院を建立し、俗に寺千軒荒木千軒ともいい伝えているが、つまり神仏混交の信仰地として戸口が集まっていたことを表現したものであろう。北村氏は真言宗であったというが、古川氏は法道仙人は天台宗であるといっている。しかしこの地方の古い寺にはもと真言宗であったものが多いから、あるいは北村氏の説に近いかも知れない。もともと法道仙人は印度人ともいわれ、諸方の寺院を開いたという伝説の人であるから、この人自身についてこだわるのも意味が少ないわけである。室町時代になって仁木義尹が堀の荒神山に立篭りここを仁木屋敷ということ、また荒木山の上にも砦を構えたことを述べているが、ここの寺院が赤井氏に焼かれたということは誤りであること、山名氏と細川氏に二度焼討されて焼亡したこと、義尹は細川氏のために、計略にかかって風呂の中で殺されたという説が正しいこと、この寺の礎石や石塔を明智光秀が築城の際運んでこれを用いたこと、荒木一学及び弟、五郎のことなどを大略知ることができる。ところが同じ丹波志の巻四古城の部に、仁木氏は細川氏のためでなく、内藤氏・波多野氏と合戦して謀殺されたといっている。それらのことは室町時代の歴史の章で検討することとしたい。元禄十三年に作られた丹波国郷帳(福智山藩主朽木伊予守・園部藩主小出伊勢守・柏原藩主織田山城守の署名がある)には曽我井木村、曽我井木村枝郷福知山町地、曽我井木村枝郷南岡村と並記しており、丹波志には宗部郷今曽我井庄ニ作としてその下で福知山・木村・南岡・堀を述べているが、南岡村・木村は「正保年中迄曽我井村ト云」と注し、福知山町地は明智光秀時代に諸役を免許されたことを記した上、「此地元木村南岡ノ地也明智光秀改城テ福知山ト名ル也」としている。してみると福知山町地も木村・南岡の地域も全部がもとは曽我井村(曽我井庄)の区域であったわけである。和名抄時代の行政区画は隅々までは明らかでないが、平安・鎌倉・室町とつづいて、宗部郷(あるいは荘)の中には、地形上今の兵庫県境までが含まれていたと考えられるのである。
荒木山の山腹にある荒木神社は式内の名神で、山はその山容の崇厳さから、いにしえより神宿るの意である神南備山(神南山、神並山)と称せられた。荒木神社は十二所権現といわれ、この山は俗に「権現山」とばれる。神南備山は長元及び寿永の大嘗会の主基方神遊歌に詠まれている。
なお、土地台帳を見ると大字天田分で、旧練兵場の西南部に字大塚・丸山・釜戸・釜戸口の小字名が見られる。この付近に古墳が発掘されたことは、古墳時代の章で述べた通りで、大塚・丸山はそれに関連があるらしく、釜戸は窯跡の転訛で、小谷カ丘の奥に江戸時代末期と考えられている陶窯跡があるが、あるいはそういうことから起こった名称ではなかろうか。なお堀の現京都短期大学の西南方に小字武者ヶ谷がある。これはどういうわけか天田の飛地となっているが、この名称は仁木氏を中心とした攻防戦か、あるいはその南の荒木五郎の城に関係をもつものではなかろうか。その外天田分には源太兵衛・忠左エ門・四郎右エ門町・平兵衛町・善蔵屋敷・城山、堀分には塚ノ本・城ケ谷・本堀・武者ケ池・天主東地・天王西地・堂ノ前・船路・道場・宮ノ下・井口・井ノ岡等歴史的地理的にその名称の起源を想定されるような小字名がある。 |
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