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丹波の

末(すえ)
京都府福知山市夜久野町末


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京都府福知山市夜久野町末

京都府天田郡夜久野町末

京都府天田郡中夜久野村末

末の概要




《末の概要》

国道9号線からは山筋一つ隔てた南側の山間に位置する。古代の陶部の民が須恵器を製作していた土地で、多くの窯跡が発見され、数多くの土器が出土する。なだらかな丘陵に谷が複雑に入り込んでいる辺りから、昭和42年に多量の須恵器片が発見され、末1号~17号窯、日ノ本1号~5号窯、広畑1号・2号窯などの須恵器登窯跡が明らかになった。窯跡群は西北の高内にもまたがり、1.8平方キロの範囲に約50基余りが確認されている。末の土質は赤土で須恵器の原料で、地質的には夜久野迸入岩類とよばれるもので、分布は牧川以南の末・小倉・千原一帯である。このうち千原は古生層地帯が入り組んで複雑で、末は赤土地帯の中心になっているという。
末村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年中夜久野村の大字となる。
末は、明治22年~現在の大字名。はじめ中夜久野村、昭和31年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。


《末の人口・世帯数》 123・50


《主な社寺など》

末窯趾群

須江神社
須江神社(末)
須恵器の神様を祀るものだろうか。これくらいの赤土なら舞鶴でも見るようなもの。須恵器は窯の内で焼かれるため、赤色はしていない、黒っぽい、灰色ぽい色で、見た目には美しくはない。これに釉薬をつけて焼くと今の陶器になる。
村社 須江神社 同村字末 鎮座
祭神 猿田彦命 明治四十年一月、大年、三柱、若宮の三社合祀
社殿 三棟造其他前記の仝じ。 境内 六反二畝歩
末社 天満神社 稲荷神社   改修 延宝五年十一月、大正十四年
祭日 十月十七日 氏子 五十三戸
(『天田郡志資料』)

須江神社(末)
祭神…サルタヒコノミコトほか
末地区一帯は須恵器の出土する窯跡地帯で須恵器の「恵」を「江」にかえて神社名とされている。
明治40年国是にて、大年神社、三柱神社、若宮神社と合併合祀する。
幟の古いのに「三十八社大権現」と書いたものがあったそうだが今はない。末に38社の神社があり合祀したということである。
「若松八幡二大神社」の碑がある(水谷正巳宅の庭)。
秋祭り…祭典後神振行事として運動会を開催する。
平成15年は青年により芝居などを行った。
(『夜久野町史』)


曹洞宗森光山玉照寺
玉照寺(末)

森光山 玉照寺 (曹洞宗) 中夜久野村字末
本尊 十一面観世音菩薩 開基 鉄山泉鎮和尚
創建 慶安元年 再建は延宝四年 衣川金七寄附 現時の堂宇、明治廿二年三月再建
(玉照寺の分は郷土史料による)
郡新四国第二十番の札所、

((郷土史料) 朝日山観音寺址あり、郡西国第十一番、 ○観音寺屋敵ヰモ山にあり、中古直見村、高源寺へ移せりと云。 ○馬堀、ヰモ山にあり。山八分許の所に東へ出てたる尾端に四方引廻したる堀あり、古、馬を放ちし所と云以止畑村なり。 ○智力山済平寺、聖観音あり。郡西国第三十二番、 ○堂屋敷、本湯山覚道寺ともいふ。山は直見の添谷と畑村西ノ谷と、額田村今西中との境なる大山也、以上は皆今西中に属す ○高野山又高油山大日寺址、大油子村にあり、本尊聖観世音、郡西国第二十七番古義真言宗にて塔頭六坊ありといふ、尚御朱印地として日置、大油子、平野、門垣の四ヶ村に亘りて田地ありしといふ。 ○大慈山清海寺址、同村にあり、亦塔頭六坊ありしが中古退転せりと、後修験者親行院といへる者此所に住のりとど。 ○内藤孫四郎の首塚小倉村にあり、此人は元亀元年より三ヶ年許、此近傍に居りし者にて山名兵部といふ者の家来言云、山名は因州用瀬へ移れりといへども詳ならず。 O宝貴山西林寺址、平野村にあり、本尊聖観世音郡西国二十八番の札所なり。)
(『天田郡志資料』)

森光山玉照寺 末
『寺院明細帳』・『丹波志』によると曹洞宗で、円通寺〔丹波市氷上町)の末寺。鉄山和尚を開山として慶安元年(一六四八)創建と伝えるが詳しいことは伝わらず創建当初の所在地も不明で、延宝四年(一六七六)に同村衣川金七の寄進を受け玄栄和尚によって現在地に再建されたという。『丹波志』によると山号は「神光山」。
(『夜久野町史』)


衣川越中守の末城跡
末と日置にまたがる城山に末城跡があり、衣川越中守居城跡と伝える。


《交通》


《産業》


末の主な歴史記録


『夜久野町史』(地図も)
夜久野末窯跡群
末の地名と須恵器
夜久野町末は古代に須恵器を生産していたことにちなむ地名である。須恵器は五世紀初めに登場し、古代中世を通して生産され使用された焼き物の一種である。奈良時代の史料において須恵器は「陶器」と表記され、「すえのうつわ」と呼ばれていた。そのため各地の須恵器生産地では「陶」「末」「須衛」などの地名が残されることが多く、窯跡の存在が早くから確認されている。
近畿地方では、最も中心的な生産地である大阪府南部の陶邑窯跡群がその例であり、陶荒田神社などの存在から、古代に陶邑と呼ばれた地域であることが明らかになっている。このほか、兵庫県に三田末窯跡群、岐阜県に美濃須衛窯跡群など、同名の窯跡群が多数あり、夜久野の末窯跡群もそれらと同様の意味を持つ窯跡群であることがわかる。まさに、地名が古代の産業を記憶していると言ってよいだろう。このように末窯跡群の名称は各地に同名のものがあって不便であるので、それらとの区別をはかるために、夜久野町の末窯跡群を夜久野末窯跡群と呼んでおくことにしよう。
窯跡群の分布と変遷
夜久野末窯跡群は、末を中心に高内、日置にかけて、東西、南北ニキロメートルの範囲に及ぶ。現状では須恵器窯が五三基が確認されており、さらに基数が増えること予測され、中丹地域では最大規模の窯跡群である。窯は低い丘陵の裾部に築かれ、炭や失敗品を廃棄した灰原がところどころで観察できる。発掘調査がおこなわれた窯はごく少数にとどまるが、採集された遺物から窯の時期を判断することが可能である。
現状で最も古い窯は、末五号窯(関垣一号窯)であり、窯の焚口部分が調査されている。ここから出土した土器から七世紀前半に位置づけられる。このほか、高内から日置にかけての牧川左岸に七世紀中頃から八世紀初めの窯が分布している。その後の窯は牧川右岸の末地区を中心に営まれており、窯の基数から判断して、夜久野末窯跡群の生産のピークが八世紀中頃から末にあることがわかる。しかし、九世紀に入ると窯の数が激減し、中頃までには生産が終了している。最も新しい時期の窯跡は末地区でもその南東部にあり、北西から南東にかけて窯場が広がったことがわかる。窯跡の時期的な違いからわかるように、窯の場所を時とともに移しながら操業を続け、結果として広い範囲に窯跡が分布することになった。
このような状況は他の窯跡群でも同様にみとめられ、氷上市市島町の鴨庄窯跡群でも谷の入口部から谷奥に窯場を移しながら七世紀中頃から九世紀前半にかけて操業がおこなわれたことが明らかになっている。窯場の移動することの背景として、手近なところの木材を燃料に使ったことが考えられ、燃料に適した木材を求めながら、場所を移動したと想像される。そして、古い時期の窯が集中する場所が根拠地と考えられるが、夜久野末窯跡群では牧川北岸側が拠点であったのであろう。実際、夜久野中学校建設にともなって発掘調査がおこなわれた高内鎌谷遺跡では、窯のほかに、工房と考えられる建物も発見されている。
須恵器生産の変遷
野末窯跡群での須恵器の生産は七世紀前半から九世紀前半に及ぶものであったが、それとよく似た変遷をたどる生産地は比較的多く存在する。大規模な生産地では、先に触れた鴨庄窯跡群があげられ、その操業期間は夜久野末窒跡群とほぼ一致していた。ほかにも数基から十数基で構成される窯跡群が七世紀初めから八世紀末を中心に継続する事例が多くみとめられる。一方で、京都府南丹市の園部窯跡群や兵庫県篠山市の高倉石住窯跡群のように五世紀末頃に生産が開始する例もしばしばみられる。その場合でも六世紀の生産はごく限定的であることが多く、むしろ七世紀から八世紀にかけて継続した生産がおこなわれるようになっている。七世紀から八世紀という律令国家の形成期において、各地での手工業生産の基盤が整えられていったことを示しているのであろう。
須恵器の生産地の分布についても興味深いことが指摘できる。七、八世紀に継続的な生産を順にみていくと、夜久野末窯跡群が丹波国天田郡、鴨庄窯跡群が氷上郡、高倉石住窯跡群が多紀郡、園部窯跡群が船井郡というように、古代丹波国の郡ごとに生産地が存在する状況が看取できる。綾部市を中心とする何鹿郡では、継続的な生産は追えないものの、七世紀前半から断続的に須恵器生産がおこなわれていた。また亀岡市を中心とする桑田郡では八世紀から活発な生産をおこなった篠窯跡群があり、やはり七世紀前半の窯場が確認されている。七世紀以降の須恵器生産について「一郡一窯」という評価があるが、丹波国はその典型になると言える。ただし、夜久野末窯跡群、鴨庄窯跡群、高倉石住窯跡群のいずれもが郡の中心から離れた位置にあり、郡家など郡の中心との直接的な関係を示す事実はないので、あくまでの地域社会の形成が郡程度の領域を基本としてできていて、手工業生産もその領域を基盤としているとみておくことがよいだろう。
天田郡の場合、夜久野末窯跡群に先行する須恵器生産地として福知山市の賀茂野窯跡があり、六世紀代を中心に須恵器を生産していた。しかし、以後には続かず、周辺では八世紀前半の釜谷窯跡が営まれている。量的な点からは夜久野末窯跡群がやはり圧倒的であったということができよう。また、夜久野末窯跡群から派生したと考えられる小規模な生産地も存在する。夜久野町直見の門垣窯跡がその例であり、八世紀代の須恵器が採集されている。末の地域に限らず、夜久野が須恵器生産にカを入れていたことがうかがえよう。
須恵器の生産と消費
夜久野末窯跡群の数多くの窯で作られた須恵器はどこへ供給されたのであろうか。この点は未だ解決しない重要な問題である。というのは、夜久野末窯跡群の須恵器は、胎土に粗い砂粒を含み、表面がざらざらした印象で、比較的見分けがつきやすいが、天田郡の中心地である福知山市半田遺跡群など、福知山市域の七世紀から八世紀の遺跡では、夜久野末窯跡群の製品と似た胎土のものを見つけるのが難しいからである。したがって、夜久野末窯跡群の製品が天田郡最大の須恵器生産地といいながら、たとえば南方の氷上郡などに運ばれた可能性も考えられるが確証はない。むしろ、夜久野の古代集落での出方が問題となるが、この点も調査例が乏しく、明確ではない。その中で、大油子荒堀遺跡では、発掘調査にともなって奈良時代後半の須恵器が出土し、この時期の集落遺跡であると推測されていることが注意される。この時期の建物跡は発見されていないが、須恵器が出土しており、その特徴から末窯跡群の製品であると判断される。窯での失敗品などは出土しておらず、消費地として理解できそうである。窯跡周辺の集落に製品が供給されていることはごく自然なことであるが、このような在地の消費活動も重視しておくことが必要である。
次に、夜久野末窯跡群での須恵器生産の特徴を明らかにするために、生産地の様相からいま少し検討をしておこう。
夜久野末一九号窯とされている地点(親谷)で、多数の須恵器が採集されている。この親谷採集資料は、八世紀中頃に属し、末窯跡群の盛期を代表する資料として扱うことができる。その内訳をみると、甕の破片が最も多く、杯や皿などの食器が次いで多い。この食器類は身の深さから椀、杯、皿に分けられ、高台の付くものには蓋がともなうことが一般的である。親谷採集資料では高台の付かない杯と皿が多く、したがって蓋もわずかしか出土していない。杯や皿の大きさをみても、一〇センチメートル強のものが中心で、多様性はみられない。このような組成は、平城京あるいは陶邑窯跡群での状況と比べるとかなりシンプルであると言え、この窯に対する需要が日常に供する製品にあったことがうかがえる。発掘調査がほとんどおこなわれていない状況で、生産地の性格に言及することは差し控えなければならないけれども、これまで採集された資料から判断して、親谷採集資料から瞥見された状況が八世紀以降の夜久野末窯跡群の生産を物語っているとみてよいだろう。




須恵器というのは比較的新しい考古学上の呼び名で、丹後では以前は朝鮮土器と呼ばれていた、一般に新羅土器・加耶土器・朝鮮式土器、江戸期の茶人には行基焼・祝部土器とも呼ばれ珍重されたという。横穴古墳の副葬品としてよく見られるもので郷土資料館などて見られる、その後は日用品として使われた。灰色で、堅く焼きしまった土器、水を通さない。中国灰陶の系譜をひいて、直接には朝鮮加耶の陶質土器の系統に属する。5世紀中ごろ(古墳時代中期)前後に、加耶地方から陶工集団が渡来して生産を開始したと見られている。大阪の陶邑窯に始まり、生産地はやがて各地へ拡散していった。スエという地名は全国に二千もあるという。奈良~平安時代には「陶器」と表記表したが、釉薬をかけた陶器との混乱をさけて、考古学では須恵器と書いている。「すえのうつわ」ともいう。スエは朝鮮語の鉄のことでないかという。鉄のような色をした鉄のように硬い土器という意味だろうか。
平安後期に入ると灰釉・緑釉の輸入陶磁器が爆発的に増えて、須恵器生産は衰微していったという。
舞鶴でも城屋窯趾などあるが、時代は広いとはいえ、53基というのは多い、丹後全域でもそれだけはないのではなかろうか。

『舞鶴市史』
須恵器は粘土紐を積み上げて原型をつくり、叩きや削りの技法で形を整えたうえ轆轤で仕上げした成形体を、窖窯を用いて、還元炎により高火度焼成した灰色の硬質やきもので、従前の縄文土器・弥生土器・土師器のように酸化炎焼成した赤色の土器に比べ格段の進歩をみた、わが国最初の陶質土器である。須恵器の窖窯は焚き口から煙出しまでが一つにつながったトンネル状の構造で、その一般的規模は、全長八~一○メートル、床(最大)幅二~三メートル、天井(垂直)高さ一・五メートル、床面の傾斜はほぼ水平のものから四○度の急勾配のものまで様々である。
 舞鶴市内の須恵器窯跡は、古墳時代後期にまでさかのぼる行永・同小丸山窯跡を初めとして、七世紀後半の志高シゲツ(茂津)窯跡、平安時代の城屋A号・B号窯跡、時代不明な小倉窯跡などがあり、当地方へも須恵器の製法が伝播してその生産が開始され、塩と同様、貢納の一方で人びとの需要を満たしていたことであろう。


『福知山・綾部の歴史』
夜久野町高内と末の一帯には、京都府でも最大級とされる四○基以上の須恵器の窯跡群が確認されている。本格的な調査は実施されていないが、七~九世紀にかけて操業されたものと推測されており、今ならさしずめ夜久野工業団地である。奈良時代になって、郡衙(評)の設置など地方行政制度が整備されるなか、役所で使われる器を供給するため、各地で須恵器の窯が官営で経営されたようである。また、地方で寺院が建立される際の瓦を焼いている窯も多い。須恵器の窯は登り窯と呼ばれるもので、斜面に大きな土管を立てかけたような構造をしている。須恵器を焼成するためには大量の燃料が必要である。この確保が大変だったらしく、窯の周りの木を燃料として利用し、木が無くなると別の場所に新たに窯を造る。このため、多くの窯跡が残されるのである。また、高内の鎌谷遺跡からは瓦が出土しているが、この瓦を使った寺院などの建物は見つかっていない。およそ二〇〇年にわたって大量の須恵器を生産した夜久野の窯跡であるが、製品はどこへ納められたのであろうか。なお須恵器の窯跡は、綾部市では西原窯跡群、上延窯跡群、安場窯跡が確認されている。福知山市では、鴨野窯跡群、釜戸窯跡群が確認され、和久寺の周辺にも窯跡があったようである。(崎山正人)



伝説





末の小字一覧


末(すえ)
日ノ本(ひのもと) 山田(やまだ) 細谷(ほそたに) ナゲ 四反田(したんだ) 山ノ口(やまのくち) 崩田(くずりだ) 宮ノ向(みやのむかい) タクワ 中ノ向(なかのむかい) タラノ木(たらのき) 才ガ坪(さいがつぼ) 藤原(ふじわら) 中田(なかた) 堂田(どうでん) 岩バナ(いわばな) 有田(ありた) 溝ノ口(みぞのくち) 滝ガ黒ミ(たきがくろみ) 小黒ミ(こぐろみ) 城ノ段(しろのだん) レガ谷(れがだに) 砂谷(すなだに) 突端(とつぱな) 砂谷口(すなだにぐち) 東(ひがし) モロサ 水別(みわかれ) 不老田(ふろうでん) 土橋(つちばし) 戸出(といで) タワ 滝ケ下(たきがした) 宮ノ下(みやのた) 馬場(ばば) 矢原(やばら) 鏡(かがみ) ヒヤケ田(ひやけだ) 無所ケ花(むんよがはな) カヤド 蓮華田(れんげだ) 二本松(にほんまつ) 角田(すみだ) 広畑(ひろばたけ) 二ノ谷(にのたに) 滝谷(たきだに) 畑谷(はただに) 山田(やまだ) ナゲ 見山口(みきまぐち) 溝ノ口(みぞのくち) 大谷(おおたに) 砂谷(すなだに) 戸出(といで) 矢原(やばら) 鏡(かがみ) 無所ケ花(むしよのはな) カマド 広畑(ひろばたけ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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