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正明寺(しょうみょうじ)
京都府福知山市正明寺


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京都府福知山市正明寺

京都府天田郡福知山町正明寺

京都府天田郡下豊富村正明寺

正明寺の概要




《正明寺の概要》

弘法川の上流で、淑徳高校があるあたり。旧洪積扇状地が隆起した台地だそうで、一帯は「くろぶく」と称する火山灰性の黒土に覆われ、土壌はやせているという。古くからの家は二本の伏流水の線に沿って分布しているという。
弥生から古墳期の遺跡や古墳群があるので、古くから開発された地と思われる。景初四年鏡を出土した広峯15号墳は1キロくらいの距離にある。
正明寺村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。枝村に室村・市寺村がある。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下豊富村の大字となる。
正明寺は、明治22年~現在の大字。はじめ下豊富村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。明治16年室村・市寺村が正明寺村から分離した。


《正明寺の人口・世帯数》 817・301


《主な社寺など》


遺跡と古墳群
地内には石鏃・石斧・弥生式土器・土師器・須恵器の破片が散布し、中ノ段古墳群や向野古墳群がある。


荒神
荒神   正明寺村
祭神     祭礼九月廿七日
本社小祠 境内十間四方
此村ノ本居 今安村天照宮祭礼ヲ勤
(『丹波志』)


臨済宗南禅寺派雲竜山大興寺
大興寺(正明寺)
雲龍山 大興寺 正明寺村
奥野部村長安寺末寺 開山  中興 林首座
境内廿五間廿間村除
本堂四間ニ五間 庫裡五間ニ三間半 鎮守 地蔵堂
(『丹波志』)

雲龍山 大興寺  (臨済宗南禅派) 下豊富村字正明寺
 本尊 釈迦如来  開山  中興 明礎和尚
 創建   再建 宝暦十三年三月
(郷土史料)往昔正明寺村民、耕寺荘而為業也、而堂宇廃壌、境内荒蕪年尚矣。故二百五十有余年以還、爲公田中間結草菴有
 居之、寛永八年未年林首座中興之。
 建物 本堂、庫裡、薬師堂、鐘楼
○毎月第三日曜に小供会、会員約八十余人。 ○御大典記念事業として百年後五万回造成貯金に加入。
○郡新四国第七番の札所。
(『天田郡志資料』)


奥の山にはモリアオガエルがいて、だいたい5月末くらいから当寺の池の木に産卵するという。合わせてコンサートなどが行われるそう。
カエルのウタが聞こえてくるゾ、私が住んでいる所でもタンボの方から聞こえてくる、アレは何ガエルなのだろう。ここのはモリアオガエル、アマガエルのような、その一種だろうが、それよりはだいぶに大きい上等のカエル。産卵時期はだいたい同じのよう。
往古は寺名を正明寺と言ったと伝え、村民は寺荘を耕して業としていたとする、当寺前身を地名の由来となった正明寺とする説もある。


《交通》


《産業》


《姓氏》


正明寺の主な歴史記録


『丹波志』
正明寺村 支室 支市寺 支新田 同右
高三百拾四石八升六合
今正明寺村 高百拾壱石三斗六合
同支市寺 高八拾九石九斗三升
同支室  高百拾弐石八斗五升
  新田  高五拾八石壱斗壱升壱合二勺
  新田ノ地ハ天和年中江島高島郡ヨリ河村某来テ開発地所六 取分有 新田ノ高ハ別地 地所六ケニ入組有
正明寺村 往古ノ寺号ナルヘシ、今古跡不知、市寺村ニ大伽藍在リシ時 都テ此辺寺地ナリト云 墓所多有之、正明寺村市寺村新田ハ一面ニ平 地続ノ所ナリ 室村ハ小谷ヲ隔 古跡ノ部ニ出之
新田ハ六ケ村ノ地也 天和二壬戌年領主ヨリ証状有
室 市寺 正明寺 小野脇 笹尾 岡右六ケ村新開 免之事以来迄三ツ取、延宝年中極也 委細別紙之書附 …

『福知山市史』
正明寺の古墳 (字正明寺)
 弘法川の西側字正明寺には十数基の古墳があり、それらの大部分は、主として大興寺の西の丘に南北方向に列墳をなしており、字の南部のものはやや散在する。それらは大興寺裏山の三基を除いてすべて廃墳となっている。
小字高野・ざんばく・みのくご付近では至るところで須恵器の破片が見られる。向野団地の南方、夕陽が丘の山田の台地南側斜面で、須恵器の厚手の大きな破片多数が採取された。また、かせが端の畑からも、須恵器・土師器・弥生式土器多数が採取されている。なお、黒福及びみのくごで、砂岩の石斧がそれぞれ一個採取されているが、みのくごでは地中五○センチから、黒福では道路わきで発見されたものである。

正明寺の焼土層
古墳とは別であるが、大体そのころのものと考える事実を記しておこう。昭和二十七年九月初旬、市内字正明寺で弘法川の治水工事のため河底を掘さく中、両岸の畑より約四メートルの深さのところから土師器と須恵器が併出した。余り距離をおかずにほとんど同一の個所から出たことが確認されている。外に刀剣の破片が一個出たのであるが、土器の性質からみてそこには相当長期間人が住んでいたことが考えられる。土器包含層は全く黒色で多くの灰を含み、厚さは約二○~三○センチもあろう。土器も黒くすすげたものがあり、径三○センチ以上の石が多く、真黒になり、土は赤く焼けていた。規模は大体一○平方メートルである。
右のような資料から考えると、あるいは古代の住居跡ではなかったかと推定される。刀剣の破片は当時の人が使用していたものが、偶然埋没したものであろう。
ともかく、その層から地表までが約四メートルあり、およそ一八○○年ほどの間にこれだけの土砂が椎積したものであって、当扇状地形成の過程も推測される。古代人が火を使用し、生活していたところが地下に埋没している遺跡として、この地方では特筆すべきところであろう。

正明寺における古墳に関する伝説
正明寺小字六地蔵付近を俗に「とりけ」という。古老の言によれば「とりけ」は「鳥いけ」であり、昔、当地に湯治していた小野小町が、御所で入手した金の鳥を埋めたところという。古墳にはよく金鶏伝説がまつわり、古墳の中には金の鶏が住み、正月には外に現われて鳴くといった話があるが、付近に数基の塚があることからみて、正明寺の「とりけ」もおそらくそれに類して伝説の一つであろう。.

矢見所・向野の古墳(字羽合・字向野)
矢見所・向野付近は、近年急激に宅地化され様相を一変したが、矢見所の北側に残る畑には、今も須恵器・土師器の破片が点在し、かつて、割竹形石棺あるいは舟形石棺らしきものもあったという。この畑地住宅地の南東に続く矢見所の丘陵中には、十基以上の古墳があり、その一つからは朱色の土師器の高杯二個、その他が出土している。また、戦時中の開墾で十数個の壷が出土したが、保存されていないのは惜しまれる。
この古墳群の南側に一群と、さらに南にあった一群とを合わす向野古墳群が続いている。この南の群は昭和三十七年住宅地となったが、その際発掘された遺物は、淑徳・共栄・福商の各高校に保存されている。直刀・刀子・水晶切子玉・管玉・鉄鏃・その他、杯・高杯・壷・坩・提瓶・横瓶・甕・ハソウ等各種の須恵器が出土し、中丹波地方の後期古墳研究の一資料となっている。
ここまでは主に、市道羽合・室線の東側にあるが、次に南に続く古墳群は市道の西側に有り、向野西古墳群と呼んでいる。昭和四十八年七月、本格的な発掘調査が行われ、現存する二四基の古墳のうち、五基の報告がなされた。特に一三号墳は出土した須恵器により、綾部市館町の高谷三号境と共に、横穴式石室採用の時期を示す重要な古墳であり、また、その他の古墳の石室は、小形の自然石を乱積みした無袖式の横穴式石室で、玄室、羨道の区分のない形態をとり、退化形式の石室で、石室全体が墓室と意識されていたことを示している等、当地域における横穴式石室の終末の一端が明らかになった。これらは六世紀前半から七世紀前半にかけてつくられたものと推定されている。
この五十数基の在る丘陵地から谷一つへだてた東南の丘陵上にも五基の古墳群があり、それより持原池をへだてた東側の丘陵上に川上古墳、さらに北へ羽合ノ段古墳が続く。これらは未調査のままであるが、川上古墳群のなかの一基は、羽合の人々によって「愛宕さん」として祭られ、昭和初頭までは、その年にとれた麦藁一束を各戸より出しあい、子供が「愛宕さんに火あげにいこう」と八月二十三日に参る民俗行事が行われたり、また、ひでりの年には村中が参加して、ここで火をあげたりして来ていた。
なお、この古墳と少し離れて稲子谷窯跡が発見された。丘陵を利用しての登り窯で、幅一メートル余、長さは約五メートル余りに、須恵器が重なって出土する。渦文の厚手の破片が多い。
さらに、谷をへだてて東に堺谷古墳、そして大谷池の東、西岡(はるかげ)古墳へと広がるが、向野地帯の群集墳の様相とはやや異なるようである。


伝説






正明寺の小字一覧


正明寺(ヨウミヨウジ)
赤阪 合口 猪ノ谷 石橋 イ子口 遠道口 榎原海道 川クゴ カヤモリ カセガ端 カジヤシキ 黒福 クレガエシ クゴ通り 小屋ケ端 小島 楮畑 境目 サンバク 清水谷 下山田 シボラ スエノモト 谷川 大道ノ下 トリイケ 中ノ段 藤ノ本 札ノ辻 ミノ越 ミノクゴ 持原 矢見所 山ギワ 湯ノ谷 六反田 六地蔵 論田 口ウ田 向野 野崎 石橋 ウトウ谷 黒福 坂ノ下 丈ケ谷 中ノ段 深田 向野 六反田 論田 カゴ畑

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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