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丹波の

高内(たかうち)
京都府福知山市夜久野町高内


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京都府福知山市夜久野町高内

京都府天田郡夜久野町高内

京都府天田郡中夜久野村高内

高内の概要




《高内の概要》

夜久野町の真ん中あたりの国道9号と府道56号(但東夜久野線)が分岐する地点付近。
平重時を祖とする中世の夜久郷地頭職夜久氏居住の地と伝える。
高内村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年中夜久野村の大字となる。
高内は、明治22年~現在の大字名。はじめ中夜久野村、昭和31年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。


《高内の人口・世帯数》 163・61


《主な社寺など》

長者森古墳・鎌谷窯趾

勝手神社
勝手神社(高内)
寛政(1789~1801)頃の『丹波志』には記載がない。元禄期(1688~1704)に現在地に奉移したと言うのだから、記載あって当然なのだが、『丹波志』には大歳大明神しか見えない。大歳というのも何か鉱山と関係がありそうにはおもえるが…
村社 勝手神社 同村高内 鎮座
祭神 経津主命
社殿 流造唐破風三方椽勾欄付 元宮ノ谷に鎮座ありしを元禄十四年正月廿七日此所に奉移す。
末社 稲荷神社、秋葉神社、天神神社、山神神社。
境内 二百七十歩 改修 元禄十四年三月十六日
祭日 十月十七日  氏子 七十戸。
(或曰) 大和国吉野郡吉野山に勝手神社あり(元式内山口神社)仝社より分祀せしにはあらじか、大和に高市の郡名あり、高内と音相似たり云々と。一説としてここに記す。
(『天田郡志資料』)

勝手神社(高内)
祭神…フツヌシノミコトほか
昭和19年12月同区鎌谷に鎮座の大年神社を合併、以来旧境内地は神輿御幸の御旅所となる。
昭和30年頃までは9月上旬、風の願済の時に子どもと青年の奉納相撲があったが、中止になる。
秋祭り…昭和45年頃までは大人の御輿、青年の太鼓台、子どもの太鼓台と部落を練り歩いたが中止となる。
現在、子どもの太鼓台のみ地区を回っており、昼は地区民全員で食事をし、太鼓の実演をして親睦を図っている。
(『夜久野町史』)

大歳神社
大歳大明神  高内村
祭神    祭礼
本社 四尺五寸 六尺五寸 上家有
境内竪六十間横四十間 社田高四斗五升村除
(『丹波志』)

高内と高市(たけち)は似ているが勝手社(現祭神は天忍穂耳尊・大山祇命・木花咲耶姫命・久久廼智命・苔虫命・葉野姫命)があるのは吉野郡である、金峯山の入口にあり、「山口神社」とも呼ばれる。「勝手」というのは、正面玄関ではない入口を今でも「お勝手」などというがその勝手口という意味らしい。だから本来は鉱山の神で、地元の人々が出入りに使った道筋にある社かと思われる。勝手の勝は鍜冶とかかわるかも知れないが諸国に勧請され全国28社あるという、近くでは船井郡園部町にもあるが、どうした来歴があるのかなどは不明。

勝手神社参道入口にこんな仏堂がある。お堂はまだ新しい、立派な仏像を藏した廃寺が近くにあったようである。中世夜久氏の菩提寺であろうか。
仏像群(高内)


《交通》


《産業》

・高内[夜久野町学高内]
産出鉱物:黄鉄鉱・方解石・沸石(種別未定)
(『夜久野町史』)

石材(高内石)加工業
石材加工業の現況
夜久野の高内といえば石屋のあるムラとして近隣に知られていた。盛時からみると大きく減少はしたが、平成14年(2002)現在も7軒が石材加工を続けている。戦後の昭和30~35年頃にかけては24軒あったが、後継者問題など課題は多いようである。
本来は「高内石」と呼ばれた地元で産出する玄武岩を加工していたが、石切り出しのコスト高が製品にはねかえるため、今は外国産の花こう岩がすべてを占める状況である。韓国、中国が主であるが、近年韓国産も高くなってきたので、当地で使う石材の80%は中国産花こう岩である。神戸港へ入った原石を小割りしたものを鳥取ほか、それぞれ得意先の問屋から仕入れている。高内の玄武岩と外国産の花こう岩を比較すると、前者はヤワイ(軟らかい)石質であり、手作業の時代は好まれたが、磨きをかける段階で軟らかい部分に凹みが生じることもあり、その点近年の機械研磨に適している硬い石質が好まれるようになってきたという。
石材加工業の沿革
高内の石材加工業は明治20年頃から発展の一途をたどり、明治40年(1907)頃が最盛期で石屋戸数は30軒を数えたという。戦時中は一時途絶え、戦後急に復しつつも他所転出もあり昭和30年代に入る頃には20軒余にまで減少した。ちなみに当時の福知山市在住の石屋の6軒中4軒は高内出身だったという。
高内石は粒子が細かくやや柔らかいが、石碑や石塔に適しており、三河の岡崎石、四国のアジ石、六甲山麓の御影石に次ぐ石材であるともいわれていた。加工品は近在で求める者が多く、販路は遠くにまでおよんだ。
ちなみにこの高内石は明治の鉄道敷設の際の線路や鉄橋の石垣、トンネルの壁石にも多く使用され、中夜久野小学校(現育英小学校)の礎石としても使われていた。
高内の石屋の沿革は文政(1818~1829)初年和泉国泉南郡下荘村大字貝掛の住人、久堀幸左エ門(当時50歳)が城崎へ湯治に向かう途中、当地を通った際、玄武岩の見事な露頭をみて、これを加工して世に広めたいと思い立ったことから始まる。村入りを願ったが他所の者は入れないという村決めのため、名主の分家の跡継ぎとして入籍し、郷里から弟子職人など10数人を呼び寄せて石材加工を始めた。…
(『夜久野町史』)


高内の主な歴史記録


高内村
高貳百八十三石九六舛六合
当村ニ石有播磨ヨリ石工来テ年々切出セリ
(『丹波志』)


千切塚(ちぎりづか)古墳群
所在地 高内(チキリ塚)
遺跡 育英小学綾より南西へ約三五〇メートル、上山の西側の丘陵裾に位置する。吉墳は、二基の円墳からなり、両方とも横穴式屑室で、直径約一五メートル。いずれも盗掘をうけ、天井石・側壁石・奥壁の石材総てが持ち去られている。

竹ノ内古墳群
所在地 高内(竹ノ内)
遺跡 育英小学校より南西約四〇〇メーール、上山の西麗丘陸裾に位置する。三基の円墳からなり、いずれも横穴式石室を内部主体とする。一号墳は、直径約三メートル、田畑の中に墳丘があり、開墾によつて墳丘が削平されている。二号墳は、直径二〇メートル、路沿いの物置小屋の北側にあり、天井石が四石と測壁一部が露出している。三号墳は、直径約一〇メートル、藪の中に天井石と思われる石材が見られる。

長者森古墳
所在地 高内(麻畑)
遺跡・遺物 古墳は、中夜久野の中央部、牧川左岸の丘陵先端部に位置する(現育英小学校校庭)。二基の古墳が見られたが、学校建設に伴い破壊消滅した。
現存する古墳は、直径二五メートルの円墳で、横穴式石室は東南東に開口し、石室は面袖で、石室全長は一二・二メートル、玄室は長さ五・五メートル、幅二・三メートル、高サさ二・六メートル、羨道部は長さ六・七メートである。玄門幅一・一メートルである。石材は地元の玄武岩を用いている。遺物は、須恵器の抔類、鉄刀類が出土している。(京都府指定文化財)

柳谷古墳
所在地 高内(柳谷)
遺跡 古墳は、育英小学校、北西の丘陵の頂に位置し、直径八メ…トルの円墳である。

藤原古墳群
所在地 地高内(藤原)
遺跡 夜久野原台地南東部の裾に位置する。古墳は、六基の円墳から構成され、総て破壌されている。

狼塚古墳
所在地 高内(面坂)
遺跡 夜久野原台地南東部の台地に位置し、かって数墓の古墳が見られたが、採石のために本墳以外は破壊された。古墳の墳丘、石室の東側の一部が崩れているが、長辺一四メートル以上、短辺一〇メートル、高さ五メートルの方形墳と考えられる。
(『夜久野町史』)

長者森古墳↓
長者森古墳(高内)
集落や水田面からは10メートルばかり高い、河岸段丘だろうか、そうした所にある旧・育英小学校の校庭というか正門を入った入口・玄関前にある。古墳は確かにあるが、もう子供はいない。古墳も作られて千五百年来の政治の未曾有の貧困に泣いている。ムラが滅びていく、まさに国がムシに喰われるように、次々と滅びている、その現場を目の前にしている、他国が鉄砲持って攻めてこなくても、自らの大失政で自壊が進行していた。日本国民の見えない、あるいは隠されている本当の敵は何者であろう。政治屋どもはマコトの敵から目をそらすための違憲の米衛のための海外派兵法の目くらまし。一日も早く気がつかないと国は亡んでしまう。
案内板↓
案内板

夜久野中学校のある所は少し下流側の同じような高い所である。鎌谷は窯谷のことだろうか。
高内鎌谷遺跡
所在地 地高内(鎌谷)
遺跡 高内集落の北東側の丘陵裾部に位置する(現夜久野中学校)。一九九二年、発掘調査が行われ、竪穴式住居が四棟発見された。一号住居跡は、一辺四・五メートルの隅丸方形を呈し、住居内には竈跡と考えられる焼土塊が見つかつている。なおこの住居跡は四号住居跡と切り合っており、両住居跡共に南西から南の部分を溜池によつて削平されている。二号住居跡は、四以上×四メートルの隅丸方形を呈している。三号住居跡は、一辺四メートルの隅丸方形を呈し、南の隅で竃跡と考えられる焼土塊が見つかっている。
遺物 各状居跡から須恵器・土賑器の小破片と、三号住居跡から須恵器の圷身・蓋が出土している。
(『夜久野町史』)


高内鎌谷遺跡
先に触れた夜久野中学校の敷地は、高内鎌谷窯跡として発掘調査がおこなわれている。夜久野末窯跡群ともかかわる重要な成果が得られているので、いま少し詳しくみておこう。この遺跡では七世紀前半の竪穴住居、八世紀前半の灰原、十二世紀代の掘立柱建物群などが発見されている。このうち、七世紀前半の住居については、ちょうど末窯跡群の生産が開始する時期であり、牧川北岸でも高内鎌谷遺跡と比較的近い位置にある末五号窯や末七号窯で生産がおこなわれており、それらとの関係が考えられる。須恵器生産を担った人々の住居とみてよいだろう。八世紀前半の灰原は西端と東端の二ヵ所で確認されており、それぞれ隣接して窯跡が存在することが想定できる。住居などの遺構は発見されていないが、すでに平坦地となっていることから、調査地が作業場として用いられていたことが推測できる。なお、掘立柱建物で構成される建物は、おおむね十二世紀代に属し、須恵器生産との関係はみとめられない。
七世紀から八世紀は牧川北岸での須恵器生産が活発であることから、その生産を支えた集落が高内鎌谷遺跡であると言える。この高内鎌谷遺跡や大油子荒堀遺跡のほかに、稲泉遺跡や稚児野遺跡、茶堂遺跡から奈良時代の須恵器、土師器が出土しており、集落が営まれていた可能性が示唆される。古代の天田郡夜久郷に属した集落として、これらの遺跡が挙げられるが、いずれも弥生時代や古墳時代の遺物も出土する遺跡であり、人々の暮らしが同じ場所を舞台に営まれていたことになる。
ただし、高内鎌谷遺跡の調査において灰原から瓦とともに硯や土製の馬が出土していることが注意される。瓦は後述するように寺院の存在を示すものであり、硯も寺院用である可能性があるが、土馬は仏教寺院とは関係がない祭祀専用の形代である。土馬を用いた祭祀は官衙の周辺でおこなわれることが多いので、この高内鎌谷遺跡の周辺に末端官衙の存在を想定することもできよう。また、土馬は大油子荒堀遺跡からも二点出土しており、高内鎌谷遺跡のものと同じく、須恵質であり、末窯跡群で焼かれたものである可能性が高い。先に、大油子荒堀遺跡が末窯跡群の消費地の一つとして取り上げたが、このような特殊なものももたらされていることがわかる。
高内鎌谷遺跡出土品で、方錐形で上下に貫通する小孔が穿たれた土製品がある。類例はあまりないけれども、富山県小杉丸山遺跡などから出土している土製の錘では上下に貫通する孔を持っており、共通する機能を想定してよいかもしれない。小杉丸山遺跡の土製の花形錘は、はかりの錘として用いられたものであり、一般集落での使用が考えにくい製品である。先に挙げた親谷採集資料に代表される八世紀後半の例とは異なり、多様な製品で構成されることが特徴であり、七世紀末から八世紀初めにおける高内鎌谷遺跡での須恵器の生産が、一般集落だけではなく、寺院や末端官衙の需要をまかなっていのと推測される。
(『夜久野町史』)


伝説


旧・育英小学校の校庭の一番東側にこんな案内板がある。↓


竜神の井戸(高内)
昔、高内に長者のお屋敷があった。或年、日照りが続き作物が枯死にひんした時、長者は屋敷内の竜神井戸で身をきよめ、願い立てに娘を竜神の嫁にすることを誓って雨乞いをした。忽ちに願いはかなえられ、村人は旱ばつの難からまぬがれたが、長者一家はまな娘を竜神に供えるという悲嘆にくれねばならなかった。
けなげな娘は村人を思い父を思って嫁ぐことを決心し「この世では親孝行もできなかったが、竜神のもとに行ったならばお役に立つことは何なりといたしましょう。井戸に向かっておいいつけ下さい」の遺言を残して井戸に沈んでいった。
その年の秋、村はことのほかに豊作をむかえ、長者屋敷でその祝いをすることになった。老も若きも村中こぞっての祝宴のため器物がいささか不足するので長者ば娘の遺言を思い出し、前夜に竜神井戸に向かって頼みごとをした。翌早朝、頼み通りの見事な器物がそろえられてあり、祝い事は盛大にすまされた。その夜ふけ、かたづけの終わった器物を竜神井戸へ運び、長者が感謝のお礼をのべて帰ろうとすると、かすかに井戸の底から娘のすすり泣きが聞こえてくるではないか。異なことと箱の中を調べてみると、かたづけの時に女中がとり落して割った椀が、そのままにしまってあったのだ。女中も詫び、長者も詫びをしたけれども、それから竜神井戸からは頼んでも何一つかなえられることがなくなったという。(上夜久野村史刊行委員会『上夜久野村史』)
(『夜久野町史』)


☆☆☆
この長者屋敷というのは、育英小学校(旧中夜久野小学校)校庭辺から東方高内氏神の勝手神社の間にあったと古図によって推定される中世夜久郷地頭職(しき)夜久氏(夜久主計之助等)の居館を指しているようにも考えられる。
竜神井戸といわれるものは育英小学校校庭の中央、長者古堵築山の東側、丁度校庭の中央に昭和二十二年(一九四七)まで扁平な石ぶたを露出して存在していたが校庭の土盛りで姿を消した。竜宮までとどいているとの伝えを秘めて地中に今もそのままに存在しているかも知れない。
(『上夜久野村史』)

こんなことを言えば、本気で怒られるかも知れないが、貸し椀伝説と呼ばれる類例が多い伝説で、確か舞鶴にもあった。あくまでも伝説で本当の話ではない。
案内板
背景に見える家々あたりに、地頭識夜久氏の高内屋敷があったようである(朝来町の夜久氏所蔵の図による)

夜久主計 子孫 高内村
弟 夜久玄蕃
此所ニ屋敷有テ住ス主計子孫代々十右衛門ト云 六郎右衛門代断絶ス 分家但馬国礒辺村ニ在 今吉郎右衛門ト云家ニ主計具足系図等ヲ所持スト 旧栖壹町余上ル山也韓堀土居在
玄蕃ハ川北村山カチト云所ニ居住ス此家福知山町糀屋小介 舩ノ小兵衛等也
略系
夜久郷高内村ニ秩父次郎夜久判官代平重時後胤中奥夜久彦次郎後主計頭平重国 明応年中 六代玄蕃平舎重嫡子 小介重光 小兵衛忠光 小介光富 小介充明 今次兵衛?通 小介ハ小兵衛弟ナリ
紋剱酢漿ト九牧笹幕ノ紋沢瀉中奥重国ヨリ系図 今次兵衛所持ス 今小兵衛ハ母方芦田ヲ名乗 母方ハ芦田イヘルナリ
(『丹波志』)


地頭職夜久氏
夜久姓は夜久野地域平野、高内、小倉の村々に散在するだけでなとがく、兵庫県和田山町東河や山東町、朝来町にも存在している。夜久氏が応仁の乱に東軍細川方にくみして西軍山名方と戦い、夜久野の合戦に敗れたことは応仁記に見られるところである。その後一族は所々に帰農して今日の散在状況となったものであろう。夜久氏の本拠は夜久郷高内で、代々地頭職をつとめて来た家筋であるとされるが、天正年間(一五七三~一五九二)明智光秀のために、その地位を奪われたものの様である。
夜久氏は源を桓武天皇の皇子葛原親王に発する平家の本流であるこへと伝え、兵庫県新井の夜久家(東河出身という)と同和田山町東河の夜久京一氏宅には同様の古系図が保存せられている。
先年(昭和四十四年)新井夜久家で同家に保存せられてきた中世古文書と共に夜久氏系図を拝見したが、東河村・故藤原与八氏著東河誌の記は系図に関する限り全く同様である。…
(『上夜久野村史』)

この夜久氏は家伝の系図によると、承久の乱(一二二一)の時関東から移住した秩父重時の子孫で、前に触れた「(内藤)備前守宗勝書状」の宛名人であり、応仁の乱以降から良質の史料に登場する夜久野の有力土豪である。『福知山市史 史料編一』の『夜久家文書』には、「宗勝書状」以外に、細川氏綱・太田垣輝延(但馬竹田城主)・赤井忠家・山名紹凞(但馬守護)などの書状の宛名人として、この夜久氏が記録されている。この夜久主計進(頭)は、明智光秀滅亡後福知山城主小野木重勝の被官となったらしく、系図の注によると夜久郷八千石とある。中世から引き継いだその潜在的勢力が推定できる。
(『福知山市史』)


『福知山・綾部の歴史』

↑夜久野町内の主な山城分布図
旺文社「京都府都市地図」に筆者作成の分布図を当てはめた簡略なもの。城の立地は、要害の地であることはもちろんだが、街道や川沿いなどに築かれ、運輸・交通を押さえた。


山間の小豪族の保身術
夜久一族と夜久野合戦
夜久氏は、畠山・斯波の後継争いから始まった応仁の乱より史上に登場する。「夜久系図」によば、桓武平氏秩父重時という者が夜久野に来住、承久の乱では兄弟が関東と京方に分かれたため、一族全滅を免れたとある。以来、夜久郷の地頭として存続したが、天正七年(一五七九)信長の丹波攻めによりその地位を失ない、但馬磯部谷(兵庫県山東町)に逃れたとされている。歴史書では関ケ原の戦いの時、福知山城主小野木氏に従い滅亡したことになっており、いずれが事実か判然としないが、『夜久家文書』中の羽柴秀長書状や「天正九年秀吉禁制」、『武功夜話』の丹波攻めなどから、夜久氏の滅亡は後者の時と思われる。
応仁二年(一四六八)三月二〇日、丹波・但馬の国境に広がる夜久野ヶ原を戦場として細川方と山名方が衝突した。夜久氏は丹波守護代内藤氏の配下として同類の足立氏や芦田氏などと共に敵地の粟鹿(山東町)辺りまで侵攻したが、敵将太田垣の奇襲により大将の内藤孫四郎が討死し、丹波方は敗走する。これが世に言う「夜久野合戦」であり『応仁記』などに記述されているが、これら諸本には誤りが多く、応仁の夜久野合戦そのものを否定する意見もある。しかし、但馬の枚田氏や中路氏など、山名方として参戦した子孫の家に山名宗全の感状が残されており、三月二〇日の合戦は事実と認められる。これより先の建武三年(一三三六)四月一四日、夜久野ヶ原で北朝方と南朝方が戦い、院林六郎左衛門が北朝方で参戦した。この戦いについても感状に「夜久野合戦」と記されており、夜久野での戦いは少なくとも二度あったことになる。
太田垣氏に敗れはしたものの、その後夜久氏は細川方の薬師寺与一の配下となって文明二年(一四七〇)~三年頃摂津の各地を転戦する。文明一八年頃には、一族のひとりが摂津多田荘の段銭免除の執達に関わっており、同時期に夜久三郎という者が在京し細川の被官として働く。一方、相国寺蔭涼軒の僧となった者もいて、地方武士が多面的な役割を果たしていたことが知られる。
夜久氏は、夜久一族・夜久諸侍・夜久衆と呼ばれることが多かった。彼らは夜久野の谷々に小城を構え、有事には連帯して行動したのである。永禄八年(一五六五)八月、内藤宗勝が福知山で荻野直正と戦い、敗北すると、夜久氏はただちに荻野氏の配下に入り、領地は安堵された。地形から山名祐豊や太田垣・垣屋などとも交流し、羽柴秀長が但馬を支配した時は領内通行に協力するなどして保身に努めた。
夜久野に二二か所もある城のほとんどは夜久一族の城と思われる。誰が支配者になろうと、きっと地元で生き残る手段であったのだろう。(衣川栄一)





高内の小字一覧


高内(たかうち)
関垣(せきがい) サゝイカ 宮ケ谷(みやがだに) 鎌谷(かまだに) 岡(おか) 彦兵ヱ谷(ひこべえだに) 麻畑(あさはたけ) コンヨ 新庄(しんじょう) 柳谷(やなぎだに) 藤原(ふじわら) 上ケ坪(かみがつぼ) 家ノ下(いえのした) トノカイ 茶ノ木田(ちゃのきだ) 井料田(いりようでん) 千代畑(ちよはた) 中田(なかた) 櫟ケ端(くぬががはな) 関外(せきがい) 梅ケ坪(うめがつぼ) 黒田(くろだ) 親谷(おやだに) 森下(もりのした) 大町谷(おおまちだに) 清水ケ尻(しみずがじり) ビシヤミ チキリ塚(ちきりづか) 竹ノ内(たけのうち) 小知川(こちがわ) 藤原(ふじわら) 夜久野(やくの) 関垣(せきがい) 宮ケ谷(みやがだに) 溝ノ谷(みぞのたに) 鎌谷(かまだに) 古屋敷(ふるやしき) 彦兵ヱ谷(ひこべえだに) 新庄(しんしよう) 柳谷(やなぎだに) 由利(ゆり) 面坂(めんざか) 小知川(こちがわ) 西狭間(にしはざま) 幸治郎谷(こうじろうだに) トウデン 上山(じようやま) 大町谷(おおまちだに) 親谷(おやだに) 堂ノ前(どうのまえ) 竹ケ下(たけがした) 森ノ下(もりのした) 藤原(ふじわら) 下埜(しもの)

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福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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