丹後の地名プラス

丹波の

戸田(とだ)
京都府福知山市戸田


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府福知山市戸田

京都府天田郡西中筋村戸田

戸田の概要




《戸田の概要》

石原駅の北方の由良川南岸にある集落である。有名な「浦島神社」のある集落である。
古代は雀部郷、中世は松尾社領雀部庄の地。富田村として、嘉禎3年(1237)の東相久丹波国雀部荘譲状に「同庄内富田村者」と見える。
戸田村は、江戸期~明治22年の村。武蔵岡部藩領・柏原藩領・幕府領代官小堀数馬支配の入組み。
「丹波志」は、由良川北に何鹿郡私市村の出戸で形成されたがのち洪水のため現在地に移ったと記している。
当村は由良川のすぐ南岸の自然堤防上にあり、そのため水害が多く、嘉永元年8月の洪水について「家屋多流、死亡の人多、是は格別水難の村なり」と記される。安政2年「八月廿日大風雨、和知川筋大洪水、戸田村氏神鳥并舞台流る」。村は由良川の岸に長大な竹薮を育てて増水時の激流を防ぎ、また避難用の舟を常備してきたという。柏原藩領は明治4年柏原県、豊岡県、綾部藩領は同年綾部県、豊岡県を経て、幕府領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年いずれも京都府に所属。同22年西中筋村の大字となる。
戸田は、明治22年~現在の大字。はじめ西中筋村、昭和24年からは福知山市の大字。明治29・40年、昭和28年の大洪水には全戸浸水の大被害を受けた。


《戸田の人口・世帯数》 304・128


《主な社寺など》

戸田遺跡
戸田遺跡発掘調査報告

浦嶋神社
浦嶋神社(戸田)
以前は「戸田の釣橋」があったが、それもなく、その近くにあった村の様子も変わった、洪水対策で古い集落は全体が南ヘ何百メートルか集団移動していて、以前の位置には堤防が築かれたようであり、当社も少し移動しているのか不明?

ありし日の戸田のつり橋↑(福知山市・昭和56年)激流のためつり橋として昭和4年架橋。以来50年余、度々の大洪水にも耐え、その特異な姿で親しまれたが、長田野工業団地の開発に伴い昭和56年鉄筋の新戸田橋に変わる。(『目で見る福知山・綾部の100年』より)

当社は当地の産土神で、水神神社という。今では一般には浦島神社と呼ばれ浦島伝説が伝わる。
水神大明神  正一位 戸田村
祭神  祭礼九月十日
社東向籠屋二間四間余 鳥居 境内凡三十間ニ一町斗
村東ニ在古跡ヲ古宮ト字ス

浦嶋大明神  川北村
  祭礼八月七日
境内二十間五十間斗
(『丹波志』)
前田にも水神社と浦嶋社があり、今は同地の明天社の境内社として祀られている。浦島社と水神社はどう違うのか、祭日を七月七日として、祭神を月読神とする説もある、もしそうなら筒川の宇良神社と同じである(宇良神社は相殿に月読神と祓戸神を祀る)。七月七日はご存じのように七夕の日であり、羽衣伝説ともつながるのだろうか。
明天社は草創を安康の頃という、安康は雄略の同母兄になるが、その雄略時代に余佐の浦島伝説が集録されている。与謝の宇良神社では浦島太郎の弟の今田三郎は安康に仕えたと伝わる。
何かワレラの未だ知らない深い歴史の闇が横たわっていそうである、古代史の迷宮の入口が口を開いていそうである、しかしこれ以上は何も記録がない。これ以上ラビリンスに立ち入って確かめる時間は私にはない、若い知能のチャレンジを待とう。

伝説の「お沼」も移動した。↓
お沼(戸田)
伝説によれば、この沼の白岩(池の真ん中の石)から龍宮の乙姫と便りができるとか、沼の水で粥を焚いて食べると母乳がよく出るとか、その沼を浚うと必ず大雨が降るという。また亀を見付けるとこの沼に放してやるなどの風習がある。また昔、牛の病がはやった時、この宮に祈願した家の牛はかからなかったとかで、牛の健康を祈願するようになり、近年まで七月七日の祭日には、近郷近在から、美しく飾った牛を連れて参った。戸田の人は、この神社の前では牛肉を食べないならわしになっているそうである。
今のこの池は移転されたもので、元は右手の林の薮の中にあったという。私は移転前の元の「お沼」を見たことがない、細い道でスっと行けるような所でなかった、今のこの「お沼」は移転前の古い写真のままで、そっくりそのまま位置だけを移動させたように思われる。


案内板
浦嶋神社 浦嶋伝説『お沼(おぬう)』の移築
平成19年(2007年)10月14日「お沼」新殿遷座式・竣工奉告祭「竜宮城へ通じる」との伝説が残る浦嶋神社の「お沼」がこの地に移築されました。由良川がそばを流れる戸田地区は、昔から度々の水害に悩まされてきました。このため国土交通省が由良川改修築堤事業を地区内に計画、旧堤防内にあった「お沼」の地は新堤防建設地となりました。
「お沼」は室町時代中期に創建された浦島神社の北側境内薮林地にあり、古くはこれを「ヌー」と言い神池として戸田の住民が代々大切に守ってきました。平成13年から地元と行政が本格的に協議、一時は消滅も心配されましたが、同14年に市文化財保護審議会の「郷土の貴重な歴史文化」との提言を受け、移築保存を決定しました。元の「お沼」の南側で同じ水脈と通じるこの地を選び、甲羅の形や周囲の玉垣も含め石材はすべて移設し、向きも大きさ共に復元れました。現在「お沼」の水は地下約8メートルから汲み上げています。




移転は洪水を避ける堤防を建設するためであり、念願のその堤防も出来て、新しい造成住宅地に集団移転し、さらには新住民も移ってきた、戸田は昔とはまったく違う新しい村と生まれ変わった。しかしやはりまた洪水に見舞われた。新築1年とかで床上浸水した。
「これで洪水は過去のこと」と思ったのか市当局は洪水があるかもの点を伝えていなかった、説明していなかった。市民のためにやってくれている市が言わないのだから 洪水はないと考えた住民は、信頼を裏切られ、どうしてくれるんじゃと訴訟となっているという。この時はずっと南の線路のあたりまで浸水している。仮に鉄の堤防ができても洪水がまったくなくなるとは言えまい、自然の猛威があり、人間の思い上がりがあるからである。何メートルも土地をかさ上げでもしない限りは洪水はないとは言えまい。
水ならまだしもよい、「原発はまぁ安全です」などはユメユメ決して口にはすまいぞ、態度はユメユメ見せまいぞ。どこかの自治体さん、関係御用空洞団体さん、いかに政府や関電がツマラヌ話をホントげに持ってこようとも、彼らは手前らのゼニ儲けでそういっているだけのもの、決してゼニの徒どもにはのせられまいぞ、市の信頼はヤシ会社どもとは比べようもなく高い、ヤシ会社レベルでの言動は許されない、市民の信頼を裏切らまいぞ、「こうした危険があります」「最悪の場合は全員即時死亡、フクシマのようなら二度とこの地には戻れなくなることもあり得ます」「地球終了の事態も否定しきれません」の話は必ずしておかなければならない。そうでなければキミらが訴訟対象になるぞ。100万kw級原発が1日に造り出す「死の灰」は広島型原爆の3発分、1年間で1000発分にもなり、すでに全国の原発で120万発分もが作られている。由良川の洪水どころの話ではない。莫大な量にのぼり、何万年もの間にこれがどこかで決壊したら…、一度はまじめに考えておくべきであろう、先輩が築いてきたヤシどもとは比べものにならない高い信頼があり、その責任はヤシどもよりははるかに重いの自覚と誇りを持って、ヤシ連中のモウケ優先か、それとも住民の安全安心こそ第一優先か、言うまでもなかろうが、よく考えて、そうしてチイとはマシな自治体になってくれ。



《交通》


《産業》


《姓氏》


戸田の主な歴史記録


『丹波志』
戸田村
高八百貳十石壹斗貳升四合 桑アリ
安部丹波守領 栢原領 小堀数馬殿支配入組 氏家百戸
往古ハ何鹿郡私市ノ一村ノ出戸 川ノ北山午ニアリ 洪水後河南今ノ所ニ移
戸田村北エ河ニ猟舩アリ向ノ山根川北村又福智山道一里余 東何鹿郡私市村迄八丁斗 東エ石川口庄ニ疆 北東丹後国加佐郡ニ疆

『京都新聞』(2002.11.23)
*竜宮城に通じる『お沼』残った*「河川改修で消滅」-回避*福知山の「浦嶋神社」*文化財保護へ住民、国と協議*移転で合意*
浦島伝説で知られる福知山市戸田の浦嶋神社にある「お沼」が、移転保存されることが二十二日までに決まった。国土交通省の由良川改修事業に伴う堤防建設予定地となり、一時は消滅も心配されたが、地元住民らの長年の悲願だった水害防止と、古里の文化財保護の両立-が実現することになった。
浦嶋神社は五百年以上前の室町時代中期の創建で、「竜宮城に通じている」と伝わる沼(東西約五メートル、南北二・五メートル)は本殿北側にある。内陸地で浦島伝説が残る神社は全国的に珍しく、沼の水に触れると願いごとがかなう、との言い伝えもある。由良川改修事業で沼の埋め立ては避けられないことが分かり、昨年から神社総代会や戸田区、国などが本格的に協議を始めた。
今年三月に市文化財保護審議会が「郷土の貴重な文化。このまま失うことになれば後世に悔恨を残す」との認識を示し、神社総代会も、現状に近い外観での移転、新たな水脈確保を求めることを決定。国とも移転保存で基本合意し、このほど、具体的な事業計画の検討に入った。総代会は移転場所として本殿北側の畑地を候補地にしているという。総代の一人、内井登さん(七三)は「古い伝説が残るこのお沼をどうしても残したかった。区や行政など多くの人の協力を受けられてよかった」と話している。


伝説


『天田郡志資料』
浦島神社                西中筋村
 鬼かすむといはれる丹波の国に、水晶の様な美しい水か流れてゐる由良川といふ大きな川があります。この川のほとリに戸田といふお百姓さんばかり住んでゐる小さな村があります。この村の東のはしにこんもりさしげった森かあって、その森の中にりつぱなお社があります。これが戸田の浦島神社です。
 浦島神社といへば、皆さんは、
「あゝ浦島太郎さんがおまつりしてあるんだな。」
と、恩ふでせう。さうです。浦島太郎さんがおまつりしてあるのです。しかし、浦島太郎さんは何の神様か知ってゐますか。
何…?・亀の神様?ちがひますよ。この神様はそれは不思議なことをお守り下さるのです。又この不思議なことをお守り下さるといふことについては、それはそれは、面白いお話かあります。
 昔々、丹波の国の川北といふ村に、幅壽院といふ山伏が住んでゐました。或夜のこと、幅壽院がすやすやと気持よくねむってゐる枕もとで、何だか聾か致します。不思議に思って耳をすませて聞いて居りましたか、どうも自分に話そしてゐる様にありますので、
「どなたですか。」
と聞きました。すると誰かゞ、
「わしは浦島太郎といふ者ぢや。」
「何…浦島太郎さん……? 不思議だな。浦島太郎さんといへば、子供の時におとぎぱなしで聞いたことはあるが。」
「さうだ。その浦島太郎がわしぢや。わしはお前を見こんで人助けをしてもらはうと思って今日わざわざ来たのぢやが、どうぢや聞いてくれるか。」
「聞かせていたゞきませう。何なりとお話し下さい。」
「それでは話すが、わしが龍宮城に長らく居って不思議な事を聞いたのぢや。それは龍宮城の大きな沼から丹波の戸田といふ村の沼へつゞいてゐる白岩かある。さうしてその戸田の沼でどんな事をしてゐるかゞ皆龍宮城の沼に知れるのぢや。それで長らく龍宮城に遊んでから、生れた所がこひしくなり、乙姫様にお別れして帰る時、『もし龍宮の乙姫様にお願ひ事があれば.戸田の村からお知らせ致しますから、其の時はきつと願ひをかなへて下さい。』とお頼みして来たのぢや。もちろん乙姫様は、わしのいふことなら何でも聞いて下ざるか、中でも天の神様と非常におなかよしであるから、天気についてのお願ひはきつときいて下さるぢやららと思ふのぢや。そこで、日本へ帰って早くお願ひがしてみたいことぢやと思ってゐる中に
玉手箱の煙で老人になり、とつくの昔に死んでしまったので.せめてこの事を誰かに知らせたいと恩ふ中、さひはひ神に仕へてゐるお前が戸田の近くに居るのを知り、かうして知らせに参ったのぢや。とにかく一度戸田の沼へ行って見る様に致せよいか。」
といったと思ふと、見えなくなりました.不思議な話だと気かついた時、幅壽院は身体中に汗をびっしょりかいて夢を見てゐたのでした。
「何だ。夢だったのか。しかし、夢にしてはあんまり不思議な夢だったが、……。」
と思ってゐる中に夜が明けて来ました。
 昼になっても福壽院は、昨夜の夢が思ひ出されて仕方がありませんでしたが、あの夢もきつと身体のつかれから見たのにちがひないと、そのまゝすてゝおきました。ところがその晩も同じ頃に同じ夢を見ましたので、気持悪くなって、あくる日、福壽院は不思議に思ひながら、とぼとぼと戸田村の方へ出て参りました。見れば子供が五六人、道ばたで遊んでゐますので、近づいて、
「これこれちよいとたづねるが.この戸田に大きな沼がないかね、知ってゐるなら教へてもらひたいが。」
すると中の大きな子供が
「大きな沼って何ぢやい。」
「あゝ沼か.沼は池の様なものだよ。」
「何ぢや。池か。池ならこの道を少し行って右へまがって左へ行って右へ行くんぢやな、そやけど池へ今時分行っても灯ら見えへんで。」
「灯…?灯とは…?」
「灯か。知らんの。晩になると池のふちの木に灯がともるんぢやな。」
「なる程のそれは不思議だなあ。いつからそんな灯がともる様になったの?。」
「さあ.何時頃ぢやつたいのう。」
「知らんけど、もうとうからぢやったでよ。」
「それはよい事を聞いた。有難う。ではちよつと池を見てこよう。どうも有難う。」
 福壽院は池のそばまで来ました。見れば大きな池です。八十アール程もあるでせう。その上池のまわりには大きな木が、たくさん生えてゐます。福壽院は白岩か見たいものだと一牛懸命さかしました。けれど廣い池のことですからどうしても見つかりません。仕方かないので、夢にあったやうに、水にさわって見れば乙姫様に知れて雨が降るかも知れないと、おけを借りて来て水がヘを始めました。すると今までよいお天気だった空は、一面の黒雲があらはれて、ピカリピカリと光りゴロゴロと雷まで鳴り、大きな雨かボツリポツリポツリッリと落ち、しまひにはたきの様な大雨となりました。
「これは不思議な事だ。」
と福壽院は雨にぬれながら考へてゐましたが、何を思ひついたか戸田の名主様のところへやって来ました。
ちようど名主様の家では、村の人々が集って不思議な灯について相談をしてゐたのでした。
「ごめん下さい。」
と聲をかけて入り、此の間から見た不思議な夢や、雨の降ったことを話しました。そこで村人達は福壽院の夢といひ、毎晩あらはれる灯といひ皆余り不思議なことばかりで、どうしたらよからうと、又相談をはじめました。その時福壽院は前へ進んで出て、
「皆さん、あの沼はほんたうに不思議な沼でございます。私が考へますのに、この沼のほとりに祠を立てて浦島太郎様をおまつりして沼のお守りしていたゞいてはどうかと思ふのでございます。」
と申しました。すると村の人達も、「それはよからう」と皆さんせいしていよいよよい日をえらんで祠を立てる事になりました。それから一月余りの後、小さい祠が沼のほとりに建ちいよいよ今日は目出度いむね上の式が行はれるまでになりました。
 朝から戸田の人々は申すまでもなく、ずい分遠い所からでも、大勢お詣りして大へんにぎやかな式が行はれました。この式の小し前に赤んぼを生んだが、お乳か少しも出ないので大そうこまつてゐる今年三十になる戸田村のおすがさんも、今日は目出度い式だし、ぜひお詣りしませうと、赤ちゃんをだいて人々にもまれながら、拝殿の前に来て一心にお乳が出ます様にとおいのりをしてゐました。余り大勢の参詣人の爲、境内ではワィショワィショともみ合って居ります。おすがさんがお祈りをすませて、立ち上らうとした時、後からおされたひやうしに、バッタリと前に倒れ、赤んぼうは火のついた様に泣き出しました。おすがさんは大へん困って赤んぼをゆり動かしてゐましたが、どうしても泣きやまないので出ないお乳でもと赤んほの口にあてゝやりました。すると不思議に赤ちやんは泣きやんで、出ないはずのお乳をくはえてゐる。おすがさんが、一生けんめいお乳をくはへてゐる赤ちゃんを見ると、どうやらお乳を飲んでゐる様子です。
「おや、お乳か出るのか知ら。」
と思ってもう片方のお乳をしぼって見ると、不思議々々々今まで少しも出なかったお乳かいくらでも出て来ます。余りのうれしさ人々にこの話を致しますと、
「これは不思議な神様だ。お乳をさづけて下さる神様だ。」
といって、これから人々はお乳の神様としてあがめる様になりました。かうして無事にむね上の式も終りに近づいた頃は、もう夕靄か立ちこめて池のほとりの大木の枝に赤い赤い眞赤な灯が美しくともってゐました。皆の者か、
「あれあれ美しい灯か今夜はうれしさうにともってゐる二と。」
と口々にいって見てゐる中に、一ゆり、ゆれたと思ふと美しい灯はスーツと舞ひ下りて、池の中に消えてしまひました。
「やっぱり不思議な灯だったのだ。
 けれざ今日のこの目出度い式を喜んで消えて行ったのだ。」
といひ合ひなから人々は帰って行きました。
さうしてこの夜限り不思議な赤い灯は戸田にあらはれなくなりました。
 それから不思議な夢や不思議な灯の話は戸田の浦島神社と共に語り伝へられて、浦島神社は 『水の神様』『お乳の神様』『牛の神様』として年々お祭りには勿論、常でもたへず、たくさんな参詣人があります。
皆さん一度不思議な池を見に来て下さい。-をはり-

『郷土と美術82』(1984)
とんだ村の浦嶋神社伝説 池田大作(福知山市戸田)
戸田の浦島神社は一般に浦島太郎を祭神とされた様に考え伝えられているが、実は月夜見命を祭神としている。年代は明らかでないが、後土御門帝の応仁年間に建てられたという。当神社は古来より諸方に信者多く、殊に牛馬の守護神として祭日には牛馬を連れて参詣する者が多かった。又神社の北側升薮の中に窪み所があり小池となっていた。昔は周囲十八米、深さ十七・八米もあり殆んど底知らずの沼であった。其の後度々の洪水で漸次埋まったのを掘って池を作ったのが現在の池で之をヌーと言い神池として何人も近寄らなかった。その当時はヌーに亀や魚が多く住んでいた。今は水位低下して水少なく亀も魚もよりつかぬ。
浦嶋神社伝説
昔々の丹波の国に水晶のような美しい水が流れている由良川という川のほとりに、とんだ村があった。観音寺、興、石原、土の村は地つづきだが、この村だけは離れていて、石原村との間に川が流れていた。この村へ来るにはとんで渡らねばならなかったので誰言うとなく「とんだ村」と呼ぶようになった。
さて、この物語は「とんだ」の時代のことである。とんだ村の近くに川北という村があった。この川北の村に福寿院と云う山伏がいた。ある夜のこと福寿院がすやすやと気持ちよく眠っていると、枕もとでなんだか声がする。不思議に思って耳をすますと「わしは浦島太郎と言う者じゃ、お前を見込んで人助けをしてもらいたいと思ってわざわざきたのじゃが、どうじゃ聞いてくれるか」と云うので福寿院は「聞かせていただきましょう。何なりと仰せ下さい」と答えると浦島太郎は「わしが長らく龍宮城にいた時、不思議なことを聞いたのじゃ、それは龍宮城の大きな沼から丹波の国のとんだと言う村の沼までつづいている白岩があるそうじゃ、とんだの村で何をしていても全部その白岩を通して龍宮城へ知れるのじゃ、わしが龍宮城から帰る時「乙姫様お願いがございます。わたしが帰ってから乙姫様にお願いごとが出来ましたらとんだ村から申し上げますのでどうかその時は私の願いを叶えて下さい」とお頼みしてきたのじゃ、乙姫様はわしの言うことは何でも聞いて下さるのじゃ、天の神様とは非常に仲良しであるからお天気についての願いなら間違いなく聞いて下さるのじゃ」日本へ帰ったらすぐお願いしてみようと思っている中に、玉手箱を開け白い煙で年寄りとなり、とっくの昔に死んでしまったのでせめてこの事を誰かに知らせたいと思っていたところ、神につかえているお前が幸とんだ村の近くに住んでいるのを知りこうしてわざわざやって来たのじゃ、早くとんだ村へいって沼をさがして様子を見てはくれまいか頼むぞよいか」と云ったかと思うと姿はかき消す如く見えなくなった。「福寿院はびっしょり汗をかいて夢から覚めた」それからというもの毎日同じ夢ばかり見るので不思議なこともあるものだととうとう、とんだ村へやってきた。そして村の人に沼のことを聞くとその村の人は、「えらいこっちや 沼のそばの大きな欅の枝に誰もつけて居らんのに毎晩々々灯がともるので村では大騒ぎしているんじゃ」と云ってその沼を教えてくれた。この沼は「おぬうさん」と呼ばれていた。福寿院はその「おぬうさん」のそばまでやって来たが、沼の周りには大木が沢山生えていて白岩がどこにあるやら捜してみても沼が大きすぎて見当もつかない。仕方がないので、沼の水にさわれば乙姫様に知れて雨が降るかも知れぬと思い桶を借りてきて水をかえ始めた。するとどうでしょう。よく晴れ渡った空は一天にわかにかき曇り、ピカピカゴロゴロと雷鳴烈しく篠つくような大雨になった。
それからというもの、このとんだ村は日照りが続くとおぬうの水をかえて雨乞いをするようになった。戸田の「おぬうさらえ」と云えば雨乞行事として大正年間まで続いていた。
さて、話を戻してびしょ濡れになった福寿院はとんだ村の名主様のところへやって来た。名主様の家では村の人が大勢集ってわいわい騒ぎ乍ら相雲談をしている真最中である。中に入った福寿院はこの間からの夢の話や、毎晩ともる不思議な灯のこと、沼をかえたら大雨が降り出したことなどを話し最后に「皆さん、私の考えますには、この沼のほとりに浦島太郎様をお祀りしてこの沼のお守りをしていただいてはどうでしょうか」と話した。すると集っていた村人達も「それはよかろう」と皆賛成した。早速吉日を選んで現在の浦島神社を建立した。それが後土御門帝の応仁年間のことである。
それからというものは不思議な灯もつかなくなり、村は平和に明けくれた。又亀を見ると村の人達は神様のお使だといって大そう大切にして必ず沼に放してやるようになった。
今年三十才になるおすがざんは、赤ン坊が出来たがお乳が少しも出ないので困りはて、新しく出来た浦島神社に三七、二十一日の願をかけて毎日祈っていた。そして満願の日、その日も長い間一生懸命祈っていたが、いつもと変ったこともなくなんのしるしもないので泣く泣く帰りかけますとばったり倒れて気を失ってしまった。すると遠くの方から
「おぬうの水で粥を作って食べよ」
と云う声が聞えてくる。その拍子におすがさんは気がついた。何が何だかわからぬままにおすがさんはおぬうの水を持ち帰りお粥をたいて食べた。赤ん坊が火のつくように泣き出したのでお乳を吸わせてみると不思議や少しも出なかった乳がどんどん出て赤ん坊はすぐ泣きやんだ。おすがさんは涙を流して喜び乍ら何度も何度も神様にお礼を云った。
さあ、こうなるとこの話は次から次へと広がって遠い遠い所の人もお詣りして願をかけるようになった。今日でも遠方から浦島神社へお詣りする人は沢山ある。牛は百姓の宝と昔から言われているとんだ村にも牛を飼っている農家がたくさんあった。
浦島神社が建って間もない頃、牛の疫病がはやりだして近郷の牛は次々と倒れていくのでこの村の人も大変心配して
「どえらいこっちゃ、隣村の太郎兵衛さんの牛も、新兵衛さんとこの牛も亡くなったそうだ。これでは村えも病がくるにちがいない。もうこうなったら、霊験あらたかな浦島神社におすがりするより他はない」
と、言って一生懸命信心しだした。そして毎日々々お詣りしてお宮さんに生茂っている笹を持ち帰っては牛に食べさせていた。ところがこうした信心のおかげがあってこの村の牛は皆難をのがれて病にかからなかった。浦島神社が牛の守り神として有名になったのはこんな事があってからである。そして昭和の今日までも浦島神社の境内にはこの不思議な笹が残されている。
それからは牛を飼っている農家は牛を連れて必ずお詣りするようになり、七月七日の祭の日には近郷近在の百姓達は美しく飾った牛を連れて詣る。福山米蔵氏この趣旨を体して牛馬安全講設立を発起し、近郷の協力を得て設けられている。
天田郡畜連奉納の大きな幟が今も夏空にはためいており大変賑やかな祭日である。今ではむしろ牛の神様として知られており戸田の人は浦島様の前では決して牛肉を食べない習慣になっている。こうした数々の伝説に富んだ戸田の浦島神社は多くの人の幸福を今も守護している。





戸田の小字一覧


戸田(トダ)
岩淵 馬渡 梅ケ坪 江田 榎ノ上 大波 上島 上島河原 狐穴 タサギ 小又 小治郎 古宮西 竿折 界ケ端 下河原 高島 中畑 松ケ瀬 宮ノ段 宮ノ越 溝尻 南溝尻 ミスマ 向島 横越 中ノ切 北麻 古宮南 下道 呂島 中麻 二反田 広畑 前ノ内 南麻 安町 薮ノ内 上村山 高林寺 三ツ石 ウラ

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市

若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2015 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved