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丹波の

多保市(とおのいち)
京都府福知山市多保市


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京都府福知山市多保市

京都府天田郡下六人部村多保市

多保市の概要




《多保市の概要》

「多保市」と書いて「トオノイチ」は読めないが、「塔の市」の意味で、「多保市廃寺」と呼ばれる七堂伽藍の大寺が地内山田にあり、その塔の前で市が開かれたからこの地名があるという。
今は長田野工業団地の南の六人部中学校のあるあたりで、舞鶴若狭道や国道9号が通るが、過去にもこうした富を生む産業と交通の地であったと思われる。南に土師川が流れ、加古川・由良川ルートの重要な位置でもある。
多保市村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下六人部村の大字となる。
多保市は、 明治22年~現在の大字名。はじめ下六人部村、昭和30年からは福知山市の大字。


《多保市の人口・世帯数》 271・128


《主な社寺など》
多保市廃寺
心礎
下六人部小学校自慢の巨大なクスノキの根元にある。たぶんこれだろう。月曜だが学校は休校なのか誰もいないので確かめることができない。市史の記述とサイズは合うが、後の世のものか文字が陰刻され「戦棺 平和祈念」だろうか、崩し字のためワタシには読めないが、そんなようなことが刻まれている。穴の深さが浅い、20センチの深さというがとてもそれだけはない、もっとも誰かが土でも詰め込んだものかも知れない。それらしき石はほかには見当たらないし、本物の心礎とそっくりのニセモノの重い石を誰かがわざわざここまで運んだとは思えないので、これと判断した。ほかの資料写真から判断してもこの石が礎石である。
多保市廃寺はここにあったのでなく、天神神社の奥の方の小字山田にあった、京街道は元はこちら側を通っていたと言われる。
そこの畑の中にあった心礎を明治か大正の頃にここに運んだという、子供達に見てもらおう、村の文化の殿堂に置いて村人に見てもらおう、過去を忘れる者は未来も忘れるものだ、の気持ちでこの重い石を力合わせて運んだと思われ、もう百年もここにあることになる。
しかし塔の市のその塔の心礎だということは大概がサッパリスッキリ忘れているのではなかろうか。この時代の寺院やまして塔がある所は多くはない、六人部氏の氏寺か、あるいは真言宗か天台宗の寺院かと思われるが、当時は最先端文化のあった地であったと思われる。(舞鶴の金剛院の三重塔はずっと後の室町期のもの)
多保市廃寺といっても発掘調査は行われておらず、『丹波志』に頼るしかない状態なのだが、それがいろいろと書かれていてどれがどうで、この心礎は多保市廃寺のものなのか、そうしたことはどうもよくわからない、従って正確にはわかってはいないが、ともかくもこんなにスゴイものが伝わり現存するのに案内板はなく学校のホームページなどにも紹介はない。どこでもほとんど同様で、何もこの小学校を言うのではないが、子供達に何を教えているのだろうかと、チトは地元の歴史も教えてヨといらぬ気を揉む。
当寺の時代は布目紋瓦が出ていてその紋様から平安初期くらいの寺院と推定されている。

天神神社(一ノ社)
天神神社(多保市)
深い天神の杜の中に鎮座、六人部郷七天神の一ノ社(いちのやしろ)とされ、国常立尊を祀る。後世天満宮として菅原道真を祀っている。当社祭礼は「笹ばやし」と呼ばれる神事が伝わる。
六人部郷には、古来「七天神」と称して、その一ノ社は多保市村に国常立尊、二ノ社は草山村に国狭土尊、三ノ社は大内村に豊斟渟尊、四ノ社は田野村に宇比地邇尊・寸比地邇尊、五ノ社は生野村に大戸之道尊・大戸之辺尊、六ノ社は岩間村に面足尊・惶根尊、七ノ杜は同村小字小野に伊佐奈岐尊・伊佐奈美尊を祀ってきた。七ノ社は近代に六ノ社の境内へ移し、現在は六ヵ所となっている。
由緒は、古代は六部郷、宗部郷、雀部郷は堀村の荒木神社(天神七代・地神五代を祀り、十二社権現という)を産神と仰いだと推定されているが、のちに天神七代のみを六人部郷で祀るようになったと伝える。後世、天神を天満天神に変えて菅原道真を祀るようになり、石灯籠・社殿の瓦・幕など天満宮と書かれているし菅原氏家絞の梅鉢を用ている。
天神社(多保市)

天神 一ノ社ト云  六部郷
祭神国常立尊  祭礼七月十六日夜小祭六月十九日
本社七尺四方上屋アリ 拝殿三間五間 籠家二間五間 華表
末社 六天神社有 但シ一棟ニシテ扉六ツ
此神天神七代ヲ齋祭トナリ依之多保市ノ神社ヲ一ノ社ト云ヘリ 按ニ天神ノ一ナレハ国常立ナリ 俗伝ナリトモ所ニ久シク云習セリ六天神ニヨリ七代迄ノ社ナリト云 今七天神ト奉称恭詣ス左ニ載之
祭式 七月十六日酉ノ刻ヨリ長田多保市民家ノ間ニ大槻屋敷ト云所ニ大石貳ツ高七尺斗高五尺斗立リ 大槻ノ立石ト云 此石ノ前ニ集リ 拍子シ取葉付竹ヲ銘々持口々ニ囃子シ大神ノ華表ノ前ニ至ル 此所ニテ相撲アリ 其囃子哥ニ
秋ハ右ヨリ善(ヨシ) 世ノ中ハイク年ヨリモ実モモソウヨノ弥実ニモソウヨノト幾回モ謡ヒ社前ニ大神ノ齋祭
一ノ社多保市 二ノ社草山 三ノ社大内 四ノ社田野 五ノ社生野 六ノ社岩間 七ノ社小野
小野ト云所ハ岩間村ノ内ナリ 元篠葉ノ川岸ニ在シ洪水社流此地ニ留レリ 因テ此所に祭ルト云リ
此七ケ所神社ハ用明帝ノ王子麻呂子親王丹後国ノ悪鬼退治ノ時 神ニ誓ヒ此二ツノ石ヲ立玉ヘリ親王七天神ヲ此石ニ祭リ込玉フ 後天文廿年ノ此七ケ所ニ七社ヲ斎祭ト云リ
一曰親王七天神ヲ此石ニ斎祭玉ヒシハ和銅年中トモ云トモ
用明帝ハ人皇卅二代ナリ和銅ハ四十三代元明帝ノ年号ナリ時代不合此説難用
按ニ大槻系図今小野天神岩間ノ地ニ坐ス楽々葉ノ古跡ハ川端薮ノ内ニ在 大槻系図ニ委載之 今此系図氷上郡加茂郷上村ノ内端ト云所ノ貧家ニ在リト云 七天神?此所ニ出セリ所々可合考
境内凡百間四方 山林
神田一反八畝廿五歩年貢地村除
古老曰 宗部郷堀村ノ内荒木神社 式内ノ神名 上古三郷ノ本居ナリシカ兵乱ニカカッテ退転ス後三郷ノ村々ニ奉斎ト云所謂三郷ハ宗部 今曽我井ト書リ 雀部 佐々井部 六部 又六人部トモ 菅家ヲ祭非天神ト云リ
私ニ謹テ按ニ此説当レリト多保市天神境内六天神ト奉称小祠アリ 長棟ニシテ六扉アリ六天神ト奉称神号古書ニ不見ト?也 又当社ヲ一ノ社トシテ七迄ノ号アリ天神七代ニ依ルト明白ナリ 然リハ天神ノ最一ナレハ国常立尊ナルヘシ然ルニ多保市田野大内生野共ニ成ハ天満宮ト篇セシモアリ或ハ菅家ノ尊躰ヲ造納リ後世俗習ノ誤ナリ因テ由ヲ問 村老答曰 上古七代ノ天神トシテ祭ル時ハ村々ニ碓ヲ難用ト用レハ即祟アリト云習ス 故此天神ヲ産神トスル村ニ碓ナキコトハ古キコト也 然ルニ近世菅家天満宮トシテ祭レハタゝリナシト教ユル者有 依之 天神七代ノ尊像ノ霊ヲ奉斎シ古意ヲ伝ナカラ天満宮ト奉称剰正一位ヲ奉リシコト深慮如何アラン 然ネニ如其篇セシ村里ニハ其後碓ヲ用レトモタゝリナシト云リ 長田村岩間村ニハ古代ノ教ヲ守リテ今碓ヲ不用
右七天神ヲ祭ル所々菅家ノ遠忌ヲ不訪ト云
又四十五代聖武天皇ノ皇子麿子親王七天神ヲ造営マトマセシト云リ 大槻氏ノ系図ニ出タリ
按ニ此説ニ寄レハ菅相公ヨリ凡百七十年余以前ノ勧請ナリ大系図聖武天皇ノ皇子麻呂子親王ト奉称ハ無之 依之 此説難用 又三十二代用明天皇ノ皇子ト見レハ甚古キ也 菅相公ヲ天神ト奉称ハ天暦元年九月九日ナリ 七天神ヲ斎祭ハ慶雲年中ナリト云 然レハ菅公ノ時ト不符合 又按 大槻立石ト今唱ル石ハ麻呂子ノ神石ニテ所々ニ分チ祭ル後世ノコトト可知 一説ニ天文ノ此大槻阿多之助祭之トモ云リ
(『丹波志』)

村社 天神々社  下六人部村字多保市鎮座
 祭紳 国常立尊
村社 天神々社  仝村字岩間鎮座
 祭神 面足尊 惶根尊
 同字小字小野鎮座の天神々社は当社境内に奉移せり 祭神(伊佐奈岐尊、伊佐奈美尊) 
村社 天神々社  中六人部村字田野鎮座
 祭神 宇比地邇尊 寸比地邇尊
村社 天神々社
 祭神 豊斟野尊
村社 天神々社  細見村字草山鎮座
 祭紳 国狭土尊
村社 天神々社  上大人部村字生野鎮座
 祭神 太戸之道尊 大苫辺尊
 以上七天神と申し奉る、用明天皇の皇子麿子王の創草に係ると伝ふ。 或はいふ和銅年間は又云天文廿年頃七ヶ所に斎き祀れりと、いづれも定かならず
 古老の曰く、宗部郷荒木神社は、上古三郷(宗部、六部、雀部、但し雀部は異説あり)の本居なりしか兵乱の爲、三郷の村々に別れて斎き祭れるなり。本社及他の六社にも正一位天満宮と扁せしより人皆菅公を祭れりと思ひ謬りたるならん、依て祭日をも皆九月廿五日とせり。尚又神代の天神として氏紳、産土と奉斎する時は村々にて唐臼を用ふべからず若し用ふれは祟りありと云ひ伝ふ、此天神を祭る村々にて唐臼を用ひざるは古き習はしなり、されば旁菅公として祭れば差支なしなど教へし者ありければ、天神七代の神々を祭りながら天満宮と称へ奉りしならん。況して正一位など以ての外なり、長田、岩間は古代の習慣を守って唐臼を用ひずと、
祭礼式、はまことに珍しいものである、七月十六日酉の刻(午後六時)長田多保市の氏人、笹の葉付を持ち集り(青年)多保市下地の大槻屋敷と云へる、前記立石(一は高五、六尺、一は高さ四、五尺が並びたつ、俗に立石といふ)の附近に集れて拍手をとり、かの笹の付いた、竹を手に手に持ち(数十人)口々にはやし立てながら、天神の鳥居前に至る此所小供角力あり。そのはやし歌
 秋は 古より 善い世の中は いく年 よりも げにも そうよの いやかにも そうよの。 (訛伝甚しく其意通じ難いが、秋の実のりのよいことを析るものらしい)
 此祭礼を「サゝバヤシ」といって遠近に聞えた、珍らしい祭礼である。著者は父の当社に奉仕せるに従ひて多保市に在り、尚久しく、長田小学校に勤めたれば、目のあたり、此祭礼を拝したことは屡々なり、即ち七月十六日の夕方長田より屋台を曳き出して(小字、上松、段、隔年屋台番)下に小供数人打ち乗りて祇園囃子面白く鐘、鼓、笛打ち鳴らし、屋台の上段には年々目新らしい作物を飾る。かくて多保市下地まで引き来りて止む。さて例の笹を持ちたる数十人は立石よりよつさよつさと勇みて屋台を押して退かさうとする、屋台の周囲、六尺許の樫棒(より棒といふ)を持ちたる数十人が之れを防ぐ、笹の葉の揉み合ふ音、樫棒のかち合ふ響、げに勇ましくも、雄々し、かく一離、一合、雌雄を争ふこと数回にして止む、さてそれよりは、かの立石より数十の高張提灯を携へ列を正して屋台の前に来る、(近年多保市よりも此時太鼓屋台を出せり)それより前記の歌を一斉に高唱しつゝ本社の鳥居前に至りて止む、著者の今耳に残れるは ドンドン ゲニモ ソウヤノ  前記の歌の一層転訛して簡単になったものならん。
本夜は祭礼終了後盆踊ありて一夜賑ひき、今はいかになりしか。
(『天田郡志資料』)

由緒について、『丹波志』は、
「此七ケ所神社ハ用明帝ノ王子麻呂子親王丹後国ノ悪鬼退治ノ時 神ニ誓ヒ此二ツノ石ヲ立玉ヘリ親王七天神ヲ此石ニ祭リ込玉フ 後天文廿年ノ此七ケ所ニ七社ヲ斎祭ト云リ 一曰親王七天神ヲ此石ニ斎祭玉ヒシハ和銅年中トモ云トモ」
あるいは
「古老曰 宗部郷堀村ノ内荒木神社 式内ノ神名 上古三郷ノ本居ナリシカ兵乱ニカカッテ退転ス後三郷ノ村々ニ奉斎ト云所謂三郷ハ宗部 今曽我井ト書リ 雀部 佐々井部 六部 又六人部トモ 菅家ヲ祭非天神ト云リ」
としている。荒木神社の祭神を祀るのだから、荒木神社の分社ということであろう。その本社の荒木神社の分析が一向に進まないから、天神神社もまったくわからない。元々は素朴にカンナビ山に天降る、あるいはそこからまた二ツ石に天降る天の神を祀るという古いものだろうか。祭神名などは後から後世の神学に基づいて付けられたもので、何も当初から今の祭神であったハズはない、道真も間違いだが、今の祭神もまた恐らくは間違いであろう。
荒木神社を取り囲むように麻呂子親王の鬼退治伝説がいくつも伝わるが直接に荒木神社との繋がりを言うものはあまりない、それは避けているように思われるが、古老曰くの説がだいたいの本当ではなかろうか。
荒木とは茨木のことで茨木童子などで知られるように恐らく産銅の採鉱金工の集団ではなかろうかと私は見ているのだが、これは伝説ではオニで、だから麻呂子の鬼退治伝説が当地一帯に残るのだと推測される。
唐臼の忌み
『丹波志』は、「村老答曰、上古七代ノ天神トシテ祭ル時ハ、村々ニ碓ヲ難用ト、用レハ即祟アリト云習ス、故此天神ヲ産神トスル村ニ碓ナキ事ハ古キ事也」としている。
臼の忌みがあるようで、臼は軽々に用いるな、ということなのだろう、何か大事な生産用に用いられた神聖な道具であったと思われる。
日本武尊は小碓命、その兄は大碓命と言うが、どうも鍜冶と関係がありそうに思われる。「杵の宮」が綾部市にあるが、杵もカチキネなどと言って恐らく鍜冶杵で、鉱石を打ち砕くために用いられていたものでなかろうか。焼物を作る所では陶土を砕くために用いられているという。『郡志』が言う唐臼は足踏み式の杵のついた臼である。古来鍜冶屋はこれを踏んだり、鞴を踏んだりして足を痛める、眼病と足痛病が彼らの職業病であった。足痛(あしいた)が芦田になったとかいわれる。一つ目一本足のお化けもこれから出たものという。
ササバヤシの祭礼
当社祭礼には「笹ばやし」が行われる。江戸時代の様子については同書には、
「七月十六日酉ノ剋ヨリ、長田多保市ノ土民、竹ノ葉付ヲ切、持集リ、多保市民家ノ間ニ、大槻屋敷ト云所ニ、大石弐ツ、高七尺斗高五尺斗立リ、大槻ノ立石ト云、此石ノ前ニ集リ、拍子ヲ取、葉付ノ竹ヲ銘々持、口々ニ囃子テ、天神ノ華表ノ前ニ至ル、此所ニテ相漢アリ、其囃子哥ニ、
  秋ハ右ヨリ善(ヨシ) 世ノ中ハイク年ヨリモ 実(ゲ)ニモソウヨノ 弥(や)実ニモソウヨノ ト幾回モ謡ヒ、社前ニ」とあり、現在も8月16日夜に行われるという。
笹ばやしの歴史
古い歴史がありそうに思われる。ササは笹かも知れないが、鉄を言うこともある。兎の杵様の物も何か鉱石を打ち砕く仕草のようにも見える。「笹囃し」といえば中世あたりの神事が伝わるものが多いが、これは素朴でそれよりも古い原型ものかも知れない。


曹洞宗大野山善光寺
善光寺(多保市)
大池の西にある。本尊釈迦如来。
案内板には→善光寺案内板
曹洞宗 大野山 善光寺 沿革
当寺の創立を原るに弘仁二年弘法大師の開基、長田村字裏野に建立、七堂伽藍完備し真言宗なり。その後信州善光寺の分寺となり浄土宗となった。天正七年明智光秀丹波平定の際兵火により諸堂宇残らず回禄す。元和四年円通寺十二世威雲禅師の出シ吉堂和尚寺跡を多保市に移し再建す。寛永十年実巌祖真和尚を以て曹洞宗法地開闢の祖となす。延享元年五月昼午の刻出火、寛延二年再建す。寛政七年十二月二十五日餅搗の際出火し諸堂残らず回禄す、時に八世蘭丈和尚屋敷替、寛政十一年より文化七年の間に現在の伽藍を再興す、依って蘭丈和尚を中興の祖となす。明治二十五年九月十五世義範和尚入院し大正九年二月別格地に昇格し法幢開闢となる。
本尊 釈迦牟尼仏 境内地七百三十三坪 本堂七十九坪 庫裡九十四坪 寺宝駒引地蔵尊


大野山善光寺 多保市村
曹洞宗知識地福智山久昌寺末寺 開山実岩和尚 慶長二丁酉年建立
境内一反六畝廿四歩内山林有多保市村分八畝十二歩
年貢地長田村分六畝十歩村除
本堂七間半五間半 庫裡九間五間 門 鎮守 鐘楼 衆寮五間二間半
本ト長田村ニ建 旧跡有 中古移此所ト云
(『丹波志』)

大野山 善光寺 (曹洞宗) 下六人部村字多保市
本尊 釈迦如来 中興開山 実巌和尚
(伝へ言ふ) 弘仁二年弘法大師長田村の裏野に七堂伽藍を建立せしが、天正七年兵火に焼かれ諸堂残撰らず亡ぶ。後元和四年堂宇を再建す、後再び焼失せしを以て寛永十年今の地に移す。即ち吉田某勧進して諸堂備はれりといふ。境内は東方千歳山を望みて大池(用水池)に臨み所謂山翠に水清き絶景なり。幕府の時代福知山藩侯屡々此所に遊覧せり。
寺什には弘伝大師の作」といへる地蔵菩薩、狩野某の筆に成れる十六羅漢等あり。
檀家 百八十余戸
財産 田一町五反四畝廿九歩 畑二反九畝廿八歩 山林一町六反十七歩
(『天田郡志資料』)

多保市城(打越城)
多保市城跡
善光寺の境内から西には大池、その対岸に多保市城があったという。今は舞鶴若狭道が通っているが、その辺りにあったという。
大池は、高岳山塊の水をせき止めたもので、長さ約300メートル、幅約100メートル。建設時期は不明だが多保市の潅漑用水として田畑を潤してきた。城があったころにこの池があったかは不明。
打越ト云山中ニ古城有城主大槻阿多之助也 古城部ニ出之
此阿多之助ノ古ハ武田家也 元石原村ノ分地家也 大槻ノ侍立石ノ根ニ住スト云ハ落城ノ後ナリ、

此大槻氏系図ノ往古先祖禁裏ヨリ武蔵国足立郡ヨリ丹波国何鹿郡梅岶エ大日堂建立奉行ニ来リ其爲褒義領地ヲ給 同郡高津村ニ居住城地在リト云伝 茂正案ニ梅岶ニハ足利尊氏公ノ由緒アレハ足利家御代ノ事ト見タリ
(『丹波志』)

多保市城(打越城)(字多保市)
多保市の善光寺から大池をへだてた東方、厄除神社のすぐ北側の尾根(標高九○メートル、比高三○メートル)の山麓に、居館と詰の曲輪とがセットになった典型的な、珍しい土豪級の城郭遺構がある。池の南岸の道より約三メートル高く、居館跡の最先端の横幅三○メートル、奥行一五メートルの削平地があり、この一郭に接して西側にまた二メートル高い、横幅二二メートル、奥行七メートルの曲輪跡がある。これが前二郭で、この後方に約四メートル高く一メートルの落差のある曲輪が二つ、東西に並んでいる。このうち西の部分が居館の中核部らしく、東寄りの城戸口(虎口)左側に五メートルに六メートルの盛土があって矢倉台と推定でき、またこの主郭部の東縁から北縁にかけて土塁の遺構がみられる。土塁遣構はこの曲輪の西縁にもより大きなもの(上辺幅で一・五メートル、郭内からの高さ一~二メートル)として残り、往時この二つの土塁は結合していたものであろう。主郭の西側は巨大な空堀の役目をしている谷が入りこんで、土塁上からの深さはおよそ七~八メートルに達している。
そしてこれら居館跡の一帯よりおよそ三○メートル高い背後の尾根筋に、三つの曲輪を階段式に連ねた「詰の曲輪」の遺構がある。最高所の曲輪は東西約一一メート化 南北で一五メートルで、南端にある高さ二メートル程の士塁と、その南側の堀切りによって背後を切断している。堀切り西下に井戸跡遺構もみられる。この曲輪の前方に約四メートル低く、長さ一○メートル程の曲輪、更に約五メートル低い幅三メートルの一郭が帯曲輪風にまわっている。
古風な居館跡と詰の曲輪跡のセットの遺構が、この地方ではもう一つ前述の観音寺城址でみられる。
そして城主がいずれも、「大槻氏」というのが面白い。『丹波志』の「古城部」に、「古城打越山ト云多保市村 大池谷奥也 古城主大槻阿多之助」と記されている。土師川をさかのぼった萩原城(居館跡と推定できる)も「大槻佐渡守」が拠ったといわれ、高津の大槻氏の支族が広範囲に広がっていたようである。
(『福知山市史』)
多保市城跡


《交通》


《産業》


《姓氏》


多保市の主な歴史記録


『丹波志』
多保市村  福智山領
高四百五拾一石五斗 民家六拾八戸
多保市村ニ産神天神社有 長田ト両村ノ本居トス委神社ノ部ニ出之 ○天神前ヨリ丑虎ヘ五六町行上野ヲ丑ノ方ヘ三十町行ハ石原村也 ○大池ノ端ヨリ東ヘ六七町行夫ヨリ南ノ方ヘ行谷筋ヲ多保市山田ト云出戸六戸在 奥ヘ谷ヲ行ハ三俣村ノ奥エ平石迄一里牛道
按ニ上古ハ一郷ト云市場アリ市場人此所ニ集リ諸物ヲ交易ルコト也 日ヲ定用ノ物ヲ持聚レリ和名鈔云所ヲ以テ考レハ六郡中六十八部ニ各市場アルヘシ風土記缺キヨリ委不伝今地名アルヲ以テ古老ニ尋探リ古意ヲ聞コト有今絶テ亡シ

『福知山市史』
多保市の古寺と地名
多保市の地名は、昔、塔のあった寺の前の市場ということから起こったものであるという。
現在市立下六人部小学校の校庭東側の前栽に、幅一メートル余、高さ約六○センチ、上面平らな巨石があり、上面の中央に、径三○センチ、深さ二○センチの円形の穴が彫ってある。この石は奈良時代前後の寺院の塔によく用いられている礎石であって、中央の穴は塔心柱の臍(突起部)がはいる穴である。それにしても大和・山城にもまれな大きいものであり、厚さも大であるし深さも深い。高い塔心柱を支えるにはこれだけのものが必要であったのであろう。この礎石が残っていたところは、今の善光寺から北へ七、八丁、長田野の東端の小字平石へ入るところで、通称多保市山田である。それを明治末期にこの校庭へ運んだものであるという。多保市山田には須恵器の破片や、渦文のある甕の破片なども出土し、横穴式と思われる古墳もあったという。ここは古い時代から人が住んでいた所らしい。そこにはまた七堂伽藍があったともいい伝え、堂屋敷・観音屋敷・堂ノ尾などの地名もある。
「丹波志」地理の部に、
 大池ノ端ヨリ東へ六七町行 夫ヨリ南ノ方へ行谷筋ヲ 多保市山田ト云 出戸(注 本村よりの移住者)六戸在 奥ヘ谷ヲ行ハ三俣村ノ奥エ 平石迄一里 牛道
 按ニ 上古ハ一郷コトニ市場アリ 市場人此所ニ集リ 諸物ヲ交易ルコト也 日ヲ定 用ノ物ヲ持聚レリ
 和名抄云所ヲ以テ考レハ 六郡中六十八部(注 郷か)ニ各市場アルヘシ 風土記缺シヨリ委不伝 今地名アルヲ以テ 古老ニ尋探リ 古意ヲ聞コト有 今絶テ亡シ
とある。既に今から二百年程前の著者が、ここに市場があって、日用品を持ち集まり物々交換を行ったものと見ているのである。和名類聚抄の記事から考えると、丹波六郡六十八郷には各郷に一つずつ市場があったであろう。丹波風土記も缺失しているので詳細は伝わっていない。今多保市という地名が存在するので、古老に尋ねて、昔からの地名の伝承を聞くのであるが、当時確かな口伝はなかったと言っているのである。
なおまた同書古跡の部には次のように述べている。
 寺古跡 多保市村
 奥谷ノ内 字ナ湯舟ト云所ニ 観音堂屋布(敷)有 字ナ堂屋布ト云 今田地ト成 此所ニ山門ノ跡 凡二町四方斗 野也 又
 田モ有 礎石残レリ 此観音ハ 観音寺村ニ引ト云説有
 又観音寺釣鐘 多保市村ヨリ引之 元トシテ埜鐘ヲ鋳タリト云伝フ
右の文中、湯舟の字名は何のことであろうか。湯舟は、普通には浴場で湯を入れておく木箱のようなものを指す。強いて考えるならば、竪穴式または横穴式の古墳の封土が自然に、あるいは人工により排除されると、そのような形に似たものが現われる。そういうものであったことから付けた地名であろうか。山門の跡というものは現在はない。また観音堂屋敷とか堂屋敷などの地名は、古い真言宗の寺があったことを思わせる。丹波志編さんのころには礎石が残っていたとあるが、現在は見られない。
次に、この地に布目瓦が出るのは、そこに瓦ぶきの寺があったというだけでも注目すべきことであり。布目は瓦を造る時に、太い丸太か、何かの円筒形のものに布を張ってその上に粘土を巻いて、それをたたいて造ったものといわれ、軒瓦では布目は表面にのこる。布目は、飛鳥・奈良前期の瓦には糸が細く、目のこまかい布が用いられ、奈良後期には、糸が太く、目のあらい布が用いられる(考古学辞典)のが普通であり、ここの瓦の布目は太目(縄目)であって、奈良時代前期以前のもののように重厚でなく、薄手であって、奈良後期以後のものであろう。巴瓦や唐草瓦が出ないので、その文様による時代判定が出来ないが、おそらく平安初期、真言・天台の興隆したころに創建されたものであろう。(村島渚)
前記丹波志に「此観音寺村ニ引ト云説有、又観音寺釣鐘多保市村ヨリ 引立 元トシテ捷鐘ヲ鋳タリト云伝フ」とあるが、字観音寺村の補陀落山観音寺は、寺伝によると、奈良時代元正天皇の養老四年(七二○)に法道仙人が開基したものといわれる、同寺には、多保市から移転したという記録も伝承もない。このことについて村島氏は次のように述べている。
  現在旧西中筋村の観音寺がもとここにあったのであるといい伝えているけれど、これは「観音屋敷」という名にとらわ
 れて、誰かがいい出したことがもっぱら伝えられた俗説ではないかと思う。観音寺の創設は奈良時代と伝えられ、同寺の
 文書等にも多保市から移転したという記載はない。丹波志の記載は「観音寺がもとここにあった」というのではなく、
  「本尊(?)の観音様が観音寺へ移された」という意味で、あるいは寺が廃絶したから本尊を同宗の寺へ持って行ったと
  いうような}」とかも知れぬ。それはあり得ることだと思う。しかしこれとて確証がないから信用はできぬ。ともかく観音
  寺はその寺相からいっても他から移転したというような寺ではないと思っている。
  それよりも近所の善光寺の縁起に「弘仁二年弘法大師が長田の裏野に寺を建てた。これが善光寺の起源で、その後再転
  して今日の地に建てた」とあることから、善光寺の前地ではないかと思われもするが、善光寺跡というのは今の長田(昔
  は今の長田・多保市・岩間を合わせて長田村といった)にあるというのだからこれも問題にならない。
そこで六人部の人々は、後世観音寺そのものが、六人部から移転したものという説を感違いして、口伝したものではなかろうか。
なお村島氏は、現在の綾部市上延町字菅の、真言宗東光院所伝の大般若経の古写本の第四百巻の奥書に、奉施入長田蓮照寺 文永十年、とあるのに注目して、「現在この名の寺は長田にはないが鎌倉時代にはあって、あるいは多保市のいま問題にしている寺跡が、その故地ではなかったか、平安時代に創建されたと思われる多保市のこの寺は、その後北条時代(鎌倉時代)まで存続したものではなかろうかと思われる。ある篤信家が後世安楽を願うため、そのころ流行した写経をして蓮勝寺へ納め、その後蓮照寺がつぶれたから東光院へ移されたのであろう。(中略)多保市の寺と関係があるらしい観音寺といい、この東光院といい、ともに古い寺であって、どちらももとは真言宗であった。(注 今も共に真言宗である)多保市の寺も、観音が祭ってあったことと思い合わせて、真言宗らしく、平安初期の創建ということを想像せざるを得ない」と述べている。(村島渚・多保市考)多保市山田と、東光院のある菅とは、高岳山塊の西と東で遠いようであるが、山田から東へ谷をまつすぐに平石へ行き、それより今少し東行して、そこで左折して比高一○○メートル位のかやの木峠を越えると安場へ下り、比較的容易に菅に達することが出来るのである。健脚な山伏ならば、かやの木峠の西の峠を通ったかも知れず、そこを通ればなお一層短距離で結ばれたものである。
多保市の古寺跡を追求する上に、前掲字観音寺の観音寺文書の中の、室町時代の初期の高僧春屋妙葩の寺領安堵状についても一考しておきたい。
     花押(妙葩)
  天龍寺領丹波国六人部庄内
   福隆寺免田畠弐段 坪付見 本帳 事
 右為当寺領如元不可有相違之状如件
                 修造
  応安元年六月十二日
                 都管 昌能(花押)
                 都管 周場(花押)
これは、応安元年(一三六八)のころ、禅臨済宗天竜寺領であった丹波国六人部庄内にある福隆寺の免田(同寺へ租を納める田)二段を、同派の高僧妙葩がその各々の田の坪付を別帳に示しているが、この免田を天竜寺の住職妙葩が、福隆寺の寺領として従来通り承認するという書付である。この福隆寺というのはどこにあったものであろうか。一般には塔は、奈良時代の宗教は別として、真言宗、天台宗の寺に多く、禅宗寺院にはあまり建てられないようであるから、字多保市の塔礎とは関係がなさそうである。ただ氷上郡佐治町の高源寺は、禅宗であるが三重塔があるので、一概には断定できない。
最後に、多保市の名の一部「市」のことについて述べてみる。中世寺院は、当時なんら教学娯楽の施設もない時代に、唯一の信仰文化の中心となった。かくて神社の祭日、仏閣の縁日は、人々が参けいかたがた集合・社交・娯楽の場としたことであろうし、同時に農林・水産物や工芸品・食物・衣料・日用品等を相互に有無相通じ合い、売買、並びに物々交換が行われたのであった。武家時代になって、各地が武士によって統治せられる時代、時に戦乱などの場合にも、寺院は領主によりいわゆる「守護不入」の特権を許され、あるいは課役を免ぜられ、あるいは陣取並びに竹木伐採を禁ぜられるのが例であった。かくして、寺院の境内あるいは門前まで、領主によって保護されたことは、一時的門前町を形成させることにもなり、後にはそれが固着して、真の門前町が発達した場合も多かった。多保市山田には、かの巨大な礎石の上に高い塔が建てられていたとすれば、そのころとしてはよほど大寺であり、その門前もさぞ賑わったことであろう。(村島諸多保市考「天田教育No.51」を参照)
以上下六人部小学校校庭に運ばれた礎石の故地を、「丹波志」にいう多保市の奥谷の湯舟の観音堂屋敷跡と想定して、いろいろと推考を重ねたが、同書の同じ多保市古跡の部に、「出雲路山豪摂寺古跡、天神ノ森ヨリ東奥ナリ小浜山トモ駒場山トモ云 四間四面ノ塔ノ跡有 壷ノコトクナル穿祓(抜)ノ石ヲ伏セ………」とある。
この文にいう「四間四面の塔の跡あり」というのは丹波志編さんのころのことであって、その後百六十年程の間には、余程侵食されて角もとれたであろう。村島氏が昭和十二年に調査した時に、古老が「山門の跡など知らないけれど、塔の大礎石を中心に、直径三間くらいの周囲に小礎石の並んでいた跡は、近年まで残されておったものである」といい、その位置はよく記憶されていたらしい。塔の跡の面積は「丹波志」のころより小さくなっていたことが想像されることと、「壷の如くなる穿ち抜きの石を伏せ」ていたというのは、深い塔心柱のほぞ穴のある石が、土の中に生けてあったということではなかろうか。もしそうとすれば、この石こそ、昭和の初めに下六人部小学校の校庭へ運ばれた礎石ではなかろうかと思われる。ところが、このころについては「是ハ古へ長田村一向宗ノ寺地ナリト云 今法林寺条下ニ委出ス」といい、法林寺の項を見ると、法林寺の山号は出雲路山であり、一向宗で、開基は後醍醐天皇の勅賜号の栄尊であって、もとは西本願寺の管下にあり、豪摂寺と称したとある。そういうことになると、壷のような堀り抜きの穴がある石うんぬんとあっても、時代が鎌倉末から室末初期にかけたころということになる。丹波志に塔心柱の入る穴のある石とあるのは、この石だけであるが、それを昭和の初めに時の人が、観音屋敷から運んだものというのならば、丹波志のころに既にその名を忘れられた寺の跡、すなわち奥谷の観音屋敷の跡ということになる。なお今後の研究が必要と思われる。

『福知山・綾部の歴史』
多保市廃寺(塔ノ市廃寺)
JR福知山駅から東南約六㌔の字多保市地区から北へ七〇〇㍍ほど入ったところに、上六人部地区の平石に通ずる古道が走っている。現多保市と古道との交点に通称山田という所があり、ここには直径三〇㌢、深さ一四㌢の柱穴のある巨大な礎石が土中に埋まっていることが早くから知られていた。山田には「堂屋敷」という地名も残り、付近からは古代瓦や須恵器の破片も数多く発見されている。大和・山城にも稀なほどの巨大なこの礎石は現在、市立下六人部小学校校庭に保存されているが、山田が多保市廃寺の跡であることはほぼ間違いない。本格的な調査が行なわれたことがないので寺域その他具体的なことは一切不明であるが、礎石の大きさからみて、余程の大寺であったことが想像される。「多保市」の地名については諸説があるが、「塔の市」の転化と思われ、門前町に立った定期市の賑わいが偲ばれる。廃寺跡付近出土の古代瓦から、存続期間は平安時代から鎌倉時代までと推定されている。(桜井雅子)


伝説





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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