丹後の地名プラス

丹波の

辻(つじ)
京都府福知山市三和町辻


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府福知山市三和町辻

京都府天田郡三和町辻

辻の概要




《辻の概要》

土師川とその支流細見川の合流点付近に位置する。国道9号と府道709号線(三春街道・栢原綾部線)が交わり、細見川沿いを三和町・春日町街道が南ヘ走る。その沿道に集落が立地し、段丘上に水田が広がる。
細見谷は谷口の三和町側よりも谷奥の氷上郡・多紀郡との商取引や婚姻の交流が深かったというが、しかしその峠道は狭く長い。古くは細見川の谷を長谷(ながたに)といい、中流に細見村(元禄13年丹波国郷帳の段階では中手付と中嶋村に分れていた)、さらに上流に細見奥村があった。
辻は、昭和10年~現在の大字名で、はじめ細見村、昭和30年三和村、同31年からは三和町の大字。平成18年より福知山市の大字。
もとは細見村大字細見辻といい、土師川沿いの広い段丘を河内ケ野(こうじがの)というが、同地は早くから潅漑による水田化が試みられたが、水利の便が悪く容易に進展しなかった。同29年京都府の事業として上流菟原村柏田に揚水ポンプを設置し、約0.6kmの幹線水路を敷設し18haの水田を潅漑することになり、米の増収が著しくなったという。
細見辻村は、江戸期~明治22年の村。枝郷に細見奥村と「古者中手村・中嶋村」の細見中出村がある。はじめ綾部藩領・幕府領、正徳年間からは旗本小宮山氏知行地。
明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年細見村の大字となる。
細見辻は、明治22年~昭和10年の細見村の大字。昭和10年細見の冠称を省き、辻と改称した。


《辻の人口・世帯数》 251・100


《主な社寺など》

氏神は中出の梅田神社。
氏神は「丹波志」に「中手村、辻村、中嶋、西ノ谷四ケノ産神」とある梅田大明神で、同書によると祭神を細見氏の祖紀氏とし、祭礼は九月八日。同書の菟原下村の梅田社の項によると、同社は梅田七社の一つで、往古その第一の社である菟原下村の梅田社が社を造営した際、ほかの六社が菟原下村に集まったのにちなみ、九月九日の祭礼の日には六社の神輿が集まったという。またかつては河合村の梅原に鎮座しており、古跡を「古宮」といった。同書によると祭神の紀氏は長谷に流された出雲守紀忠通で、また天台宗の神宮寺もあった。現在寺の什物帳が梅田神社に残る。

稲荷神社



細見一族の中世城館跡。
地内殿屋敷に細見山城守の細見辻城址、小見山に細見将監の細見城址があり、小見山には将監塚という塚がある。細見中出との境近くにも城址があり、城主は細見長助であったという。

古城 殿屋敷ト云  細見村 辻村
辻村ヨリ奥エ行道ノ右ノ方ニ在 古城主細見山城也 是ヨリ谷口ニ南側山ノ中ニ古城跡有 古城主細見村(将)監ト云 此所ヲ小見山ト云 其山俗ニ谷川有リ 二町斗川上ニ大将イ子ト云堰有
小見山ト云所ニ屋敷有 古辻野左エ門ト云者住ス今辻村ノ内也 将監ト戦 辻野討負 山ノ内ノ庄 入住ス其跡エ将監移ル 其後又辻野左エ門尋来 将監ト戦 城ヲ責落其侭辻野氏ハ山ノ内ニ引 此城跡ニ将監塚有 十一月廿三日子孫ヨリ祭 古ノ惣墓ハイマイハト云所ニ在 子孫東株ト云本村ニ本家今細見玄柳也 姓氏ノ部ニ出ス)

古城 シロカタマト云  細見辻村上ルコト廿間
辻村中手村入組ノ場所谷ノ中ノ山ノ麓ニ城跡有 西ノ方エ三十間斗横二十間斗平也 今畠ト成ル 畠ノ続墓有 榎木ヲ植 古城主細見長助 馬冷池ト云 今壹間四面程残ル 水有 子孫姓氏部ニ出ス

細見山城守旧栖 細見辻村
イチ谷ト云所 高山西ニ西復ニ東ニ向所 壹所四方斗チ 今韓堀アリ山城守墓所在之此屋敷跡ニ土民一戸住ス 今殿屋敷ト唱フ 細見玄柳屋敷ヨリ拾丁斗西也 子孫姓氏ノ部出之
此所取合有 細見ノ市山合戦ト云 玄柳所持ノ感状ヲ證ト云 又多紀郡ニモ此時ノ感状ヲ所持スル者有 市山合戦ト有也 云伝子孫無之 姓名不知

細見山城守 子孫 細見辻村
家系ハ人王八代孝元天皇ノ末紀姪ナリ 今玄柳清負 紋丸ニ三ツ皇文十六葉ノ菊
秀忠公ヨリ山城守エ被下御感状所持ス 足利高恒公ヨリ山城守ニ感状一通外ニ竿定紋貳ツ彫物有之 系図有之 旧栖ノ部 郡郷ノ部ニモ出ス
本家細見玄柳 分家四郎右衛門 河内ノ野ニ新七 赤坂ニ久兵衛平兵衛五軒 紋丸ニ三ツ星又違ヒ菊枝古ノ矢根有 又久兵衛ニ鎗ト長沢ノ系図有 是ハ三代前桑田郡篠村ノ長沢伝十郎ヨリ養子一人貰ヒ其後伝十郎家断絶ス 依之系図此家ニ伝フ
(『丹波志』)

細見城(細見辻村) 細見長助、同山城守等あり、細見氏、孝元天皇の後と云、紀氏也。(辻付より奥へ往く道の右方にあり又細見将監の城址とて小見山といふあり、其麓に谷川ありて二丁許上れば大蒋堰といふゐせきあり、小見山には又屋敷あり古、辻野左エ門といへる者住めり、此者かの将監と戦ひしに、辻野は打ち負けて山の内庄に隠れ、其址へ将監移れりと云、其後辻野又将監を攻め落ししが、辻野は山の内庄へ引返したり、この城址に将監塚あり、毎年子孫より祭事を営む、墓所はいまいばといふ所にあり、子孫を東株といふ、本村に本家あり、 細見黒柳といふ。しらがたまといふ古城址、同所にあり辻と中出と入組の地にあり、古城主細見長助なりと、又馬冷池とて方一間許の池あり。 ○中出に古城址あり、城主樋口氏、河合村、日代の段に居城せし樋口氏と同統なり、封馬守の墓は段といふ所にあり。
(『天田郡志資料』)

殿屋敷城〔辻〕
細見谷の中ほど、細見川左岸の山腹から山麓に連なる郭群。奥ケ市の集落西方の尾根標高二五〇メートル(比高約一三〇メートル)あたりに削平地があり、これは幅一九㍍で四~八㍍ごとに約三〇㌢の段差があり、大きく四郭にわたかれるが、遺構の削平状態はあまり良くない。ここから尾根づたいに麓の集落までの中間点「半僧坊」の辺りにもわずかな削平地と土塁の痕跡がある。麓の殿屋敷は畑地となっているが、区画を特定することは難しい。屋敷地の山根には小型の五輪塔や石仏が数基祀られている。非常の時に立七籠もる「詰めの城」と根小屋の関係が確認できる貴重な例である。「見取図」には「大正年中、細見山城守、古城」としている。『丹波志』には1辻村ヨリ奥へ行道ノ右ノ方ニ在古城主細見山城守」と記す。

小見山城 〔辻〕
細見辻と菟原の間の山頂(標高二九一メートル-比高約一七〇メートル)辺り、山頂よりやや北に下る尾敏にある。わずかに削平地らしいものが数段連なっているが、明確に城郭とは断定Lがたい。しかしさきにふれた通り、ここは町内でただ一つ合戦場として登場する山城である。
「見取図」に「天正年中、辻ノ左衛門ノ後、細見監物古城」と記し、堀切りと四段の郭(一一間・一〇間・一〇間・一〇間、幅は一三間前後)を図示している。また『丹波志』には「南側山ノ中ニ古城跡有、古城主細見将監ト云、此所ヲ小見山ト云(中略)、小見山ト云所ニ屋敷有、古辻野左衛門ト云者住ス、今辻村ノ内也、将監ト戦辻野討負山ノ内庄入住ス、其跡エ将監移ル、其後又辻野左街門尋来、将監ト戦、城ヲ責落」と記している。文意からすれば、『丹波志』のいう小見山は山頂部分ではなく、辻の集落の東の丘陵部にある館跡をさすのかもしれない。また、山頂から東へ、河内ケ野側の尾恨づたいの山頂(標高二八三・一メートル)は「丸出」と呼ばれ、北方へ下る尾根筋に数段の削平地があるが、これも小見山同様明確な遺構は見当たらない。いずれにせよ、南北朝の内乱との関わりは江戸後期には、もう忘れられていたのであろう。
(『三和町史』)


《交通》


《産業》


《姓氏》
細見氏



辻の主な歴史記録


『丹波志』
細見辻村  小宮山織部殿領
高三百三拾貳石弐斗壹舛三合 民家八拾五戸
往古長谷ト云 辻村本也 古検七百五拾壹石ノ所也 水帳アリ 古水帳ハ辻村ニ二年 奥村ニ壹年預レリ
按ニ往古ニハ石積ノコト無ナリ 中古ノ水帳ナルヘシ 此所一説兎原ト同庄ト云リコトハ其時司ル者ニヨリ統 村ノ多寡アル例多シ不事論シ 上古ニ紀忠通出雲守ノ丹波国長谷ニ流サルコト有 藤原保昌問之コト有 今兎原中村ニ旧栖有 旧栖部出 村俗謬テ紀貫之トス貫之此所ニ来玉フコト右書ニ無之 只紀忠通ノコトハ   見タリ 以之考ルニ長谷ハ兎原ヨリ細見迄ヲ出ト知レリ 梅田神社ノコト神社部出 神池嶺有草山村エ越ス少下リ谷ト尾道ト二筋有 右ヘ下ルハ牛馬道 左エ尾道有レトモ牛馬不通 又辻村ノ内河内ノ野貳町斗町有京通ナリ 此所ヨリ東川向ノ山ニ副民家五戸出戸ナリ字ヲ菖蒲カ腰ト云

『天田郡志資料』
細見辻村 高三百三十三石二斗一升三合 民家八十五戸 小宮山織部領
往古、長谷といふ。辻村は其本なりと云、古検七百五十一石の所なり、水帳あり、古、水帳は辻村に二年、奥村に一年預り来りしとぞ、按ずるに往古は石積のことなかりき、中古の水帳なるべし。此村一説に兎原の庄なりしといへり、蓋し庄は当時の支配者、統轄の便宜に依ること多ければ之を論ずるに足らず、又何れの頃にやありけん、此村へ出雲守紀忠通といへる者流され来り藤原保昌之を訪ひしことありといふ。民俗之を誤伝して紀貫之とす。
辻村の内、市ヶ谷といふ所より七丁許奥に、神池(みけ)峠といふあり、本郡草山村に出づべし、少し下りて二筋に岐る、右は牛馬通すべし、左は尾上なれば牛馬通せず、又辻村の内に河内ヶ野とて二丁許の町あり、即京街道なり、此所より東川向の山裾に沿ひて民家の出戸五軒あり、字菖蒲ヶ腰といふ。

『綾部市史資料編』「巡察記」
細見村 土性塩壌 田方十五町四段余畑万十九
町八段余 高三百四石二斗四升六合 家数百十
一軒人別四百五十五人牛四十二疋アリ
当村ハ天明四辰年村替仰せ付ケラレ御上リ地ト
為レリ 其ノ時ハ本高二百八十三石五斗六升ニ
新田十九石六斗八升六合ト別テ記セリ 然ルニ
寛政十二申年御替戻ト為リタル砌リ高ニ結ヒ
テ御代官小堀氏ヨリ御引渡トナレリ 其ノ時ニ
ハ家数百三十二軒人別五百三十四人アリキ 其
後凶作及ヒ疫癘等アリテ村内漸々衰微ニ及ヒ戸
口減少シテ今ノ人別トナレリ 且ツ当村ノ蒟蒻
玉ハ昔名高キ物産ナリシガ百姓困窮シテ其ノ種
子ヲ買ヒ入ルコトモ叶ハズ蒟蒻ノ作ル者ノ無キニ
至レリ 其ノ他薪木炭等ヲ売リ出タシテ渡世ヲ
営ミ農事ヲ勤ルト雖トモ田畑過半他村ノ有ト為
リ村内ニハ悪田ノミナルヲ以テ食物ノ給ラザル
ニ窘モノゝ頗ル多キ様子ナリ 然レハ斯ノ如キ
貧村ハ愚老力勧化ノ日一銭ヲ積立ルコトモ得ベカ
ラス 因テ熟々按スルニ君侯モシ此村ノ困窮ヲ
済救シ昔ノ如ク安堵ナル村ニ恢復シ給ハンコト欲
給ハゞ此ノ村古新田高十九石六斗八升六合ノ御
年貢十年ノ間御倉ニ上納セズシテ山裏郷ノ大庄
屋ニ御預ケナサレ年々其ノ御年貢ヲ積立テ利倍
セシメバ十一年目ニハ元利合シ二百金ト為ルベ
シ 此ヲ元ト金トシテ借シ付ルトキハ年々三十両
ノ利足金ヲ得ベシ 年々此ノ利金三十両ヲ此ノ
村ニ合カセバ庄屋サへ厳密懃厚ナレバ三十年ノ
間ニハ此村必ス富贍スベシ 愚老此ノ村ノ庄屋
ヲ見ルニ直ニシテ温厚ナルコトハ人物ナリ 然レ
ドモ老且ツ懦人ナリ 此等ノコトヲ任シ難シ 官
シク骨硬ナル後見アルベシ 但シ此ノ策ヲ郡奉行
等御勝手方ノ憲宦コレヲ聞カバ愚老今般当国
ニ来テ末タ寸功モ有ラザルニ茂早御取箇ヲ減シ
タリト云ハン御一按アルベシ 又上ノ正後寺村
モ亦此村ニ同シ


伝説


丹波志によれば、往古細見谷へ紀出雲守忠通なる人物が配流され、藤原保昌が同人を訪れたというが、後世、この忠通が紀貫之と誤伝されたという。


『天田郡志資料』
郷土物語
村の恩人   細見村
 「水!水!あ。水がほしい」いつもより遅く田から帰った與衛門は、自分の室へ入ると家人には目もくれず考へ続けるのでした。
與衛門の心は、いつも此の木一つない草原や石河原の様な荒地をどうかして立派な田にしたい、お米のとれる田にしたい、そして此の寺の段の村が、お米を買はない村にしたい、美しい黄金の波をたゝせたいとの思ひで一杯でした。
 今日も隣村田ノ谷からの帰り道、高岩といふ所で腰を下して、枯れ果てた我が村の荒地と、隣村の黄金の稲を見比らべて一人思案にくれるのでした。美しい谷川の水をせき止めた足もとの井水……あゝこんな水が我が村へも引けたらと、日の暮れるのも忘れて考へ続けるのでした。
それからは毎日の様の竹筒を特つた與衛門の姿が草原の中に見え出しました。雨の日も風の日も測量に出かけました。枯れ果てたすゝき原や、石河原の中にかゞしの様な姿の與衛門は、同志の卯衛門、佐衛門の二人と共に測量に懸命でした。進んだ今の世とは違って測量の器具とては只竹筒に水を入れたごく粗末なもので、土地の高低を測るのです。或は転び或は落ち或はつまづき等してその辛苦は他人目にも気の毒な程でした。こうした難儀の中にも、やつとのことで目安の測量が出来ました。
 明けて明治四年の春、與衛門は、時の領主九鬼大隅守へ、この由をお願申上げた所、早速のお許を得て、代官役として、池田政蔵、同志役として、新田仲太夫のお二人をつかはされ、尚山裏郷の村へ人夫の御沙汰が出ました。山裏郷とは今の中六人部太内村より上六人部村及細見中出まで都合十四ヶ村のことで、当時の人夫賃はお米七合でした。かくと聞いた村人は都合五百六十余人、與衛門等が測量の溝の開鑿に従ひました。
 與衛門は、同志と共に先に立ち、朝は早くから夜遅くまで、一心不乱に働きました。特に井溝より少し下の所は大岩石で、これを打砕いての仕事は仲々のことです。けれざも測量の正確なのと且割当のよろしかった上に、我が事の様に皆の衆の働きとによりて、八百数十間の大溝も数日を出でずして出来上りました。
けれさも一難去った今日、どうした事にか水が中程半分位しか来ないのです。口さがない村人達は、誰言ふとなく騒ぎ出しました。
 「測量が下手だったのだ」
 「こんな高い土地へ水を引くなんて、水か来ないことは、始めから知ってら」
 「たくさんのお金を使って」
考へ深い與ェ門は、こんなことにならなければよいがと、ひそかに心配して居たのでした。それでとりわけ測量には気を附けたのです。それからは毎日の様に溝を見廻るのでした。村人の蔭口、悪口に心を痛めながら、あゝやっぱり私の考がいかなかったのか、「米一升も国益だ」と同志と共に誓ったあの夜のことが、しみじみと思ひ出されるのでした。
たくさんの人夫を使って、こんなことでは、申訳がない。それよりも、領主綾部の九鬼様へお詑びの仕様がない。私を助けて下さった地主の、坪倉、西山、高見、細見、長沢の方々までもが、私と同じ様に心を痛めて居られるであらうに。あゝどうしよう。
 「お母さん」
今しかた遊びに出たと思った坊やが、大声で泣きながら帰って来たのを、妻は、
 「どうしたの、何を泣いてゐるの、男の子は泣くもんでないよ」
 「あのう、あのう、お前のお父さんは村人をたぱかつた」
 「そんな子とは遊はないよ」
と言って誰も連れにしてくれずに、ぶつのです、と頭のふくらみを押へて、又も泣き続けるのです。この様子を裏口で見て居た與エ門は、やっぱりそうなのか、一昨日も西山さんの子がいぢめられて居た。今日も溝からの帰り道いぢめられて居たあの子も、やっぱりさうなのだらう。自分の子ならまだしも、同志の家の子まで、而も小さい女の子にさへも、と一人涙にくれて届ました。
 「あゝ坊や何も言って呉れるな。じつと我まんをして居てお呉れ。村の子が悪いのではないよ。悪いのは、この父様だ。父様はどうなつとして、この荒地を直したいばっかりに、これも国の爲と思って、溝を作ることを考へたのだ。いや今にきまって水が流れるよ。それまでは、じつと我まんをしてお呉れ。昨日もな野火止の用水の話をしてやったではないか。さゝ坊やはよい子だ。泣かないな。」
人一倍の、子思ひの與ェ門は、馬になり、鬼となって遊ぶのでした。
 けれども、淋しい夜が訪れて来た時には、與エ門は、もうじっとして居られなくなるのです。そして、いつも十二時過ぎには、程遠からぬお社へ、家人に気附かれぬ様、そつと床をぬけ出で、お詣りするのです。
 「どうか早く水を通して下さい。村人の爲にお願します。」
或日のこと、いつにない元気な坊やが、
 「お父さん、お父さ-ん」
 「水か水が。早く早くお出で……」
 びっくりした父の與ヱ門は、昼飯もそのまゝにして、転ぷ様にして走る坊やの後を追かけました。
見れば、濁水が、どうどうと溝を洗って居ます。これを見た與ヱ門は、恰も雀の子の様に、坊やを抱いて喜びました。日頃の心のかひあって、昨夜の雨が、この水路を作ってくれたのです。あゝこれでいゝよ。これていゝよ。私の願ひがとゞひたのだ。美しい黄金の波が、目の前にちらつくよと、後ればせに走って来た母様と共に大声で喜ぶのでした。
 それからは、いつとはなしに村人の悪口もやんで、ほからかな元気さうな與ェ門の顔が、村人の目に映り出しました。そして、日一日と開墾してゆく村人の目にも感謝の念が溢れて居ました。そしてその年の暮には、あの広いすゞき原も、美しい稲穂の波が、さはぐのでした。
 あの十六年の日でり年にもこゝばかりは、重もさうな首をたれた豊作の稲が、村人をどれだけ喜ばせましたか、昨年の暮れでした、播州の西山といふ者ですとて一人の薬屋かたづねて来ました、そしてこんな高い所までよく水が流れて来ますナァと申しました、それで今話したやうなことをはなすと、なぜか涙ぐんでゐました。聞くとこの薬屋のお父さんも、これと同じ様な工事の爲に亡くなられたとのことでした。可愛がって下さったお父さんの姿が、たまらなくこひしかったのでしょう。
今はこの溝も辻の村迄切り開かれて、いついつまでも村人の爲に美しい稲田を養ってゐます。





辻の小字一覧


辻(つじ)
上ケ山(うえがやま) 新田(しんでん) 大橋(おおはし) 辻ノ下(つじのした) 山根(やまね) 中ケ市(なかがいち) 沢田(さわだ) 上中ケ市(かみかなかがいち) 森ノ下(もりのした) 田ケ市(たがいち) 高良舟(こうらふね) 不動(ふどう) 稲田(いなだ) 触谷(ふれだに) カイヤ 前沢(まえざわ) 青木森(あおきもり) 施我鬼畑(せがきばた) 杉沢(すぎざわ) 曲り(まがり) 明石(あかし) 下曲(しもまがり) 広田(ひろた) 山添(やまぞえ) 菖蒲(しょうぶ) 桃迫(ももさこ) 三反田(さんたんだ) 河内ケ野(こうじがの) 落合(おちあい) 赤坂(あかさか) 黒瀬切降(くろぜきりくだし) 長谷(ながたに) 菖蒲越(しょうぶこし) 流谷(ながれだに) 向野(むかいの) 釜ケ池(かまがいけ) 成田(なりた) 奥ノ谷(おくのだに) 中出(なかで) 鳥ケ坂(とりがさか) 長田(ながた) ダマ 殿屋敷(とのやしき) 大谷(おおたに) 小倉(おぐら) 川ノ上(かわのうえ)

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市

若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『三和町史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2016 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved