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菟原中(うばらなか)
京都府福知山市三和町菟原中


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京都府福知山市三和町菟原中

京都府天田郡三和町菟原中

菟原中の概要




《菟原中の概要》
菟原小学校があるあたり、国道9号から府道97号線が南ヘ、分岐する交差点のところ。中世には菟原荘の荘域であったという。
菟原中村は、江戸期~明治22年の村。「正保郷帳」では旗本菅沼左近大夫知行地、「元禄郷帳」では旗本田中内匠知行地、「丹波志」では上総鶴牧藩領と旗本小宮山織部知行地。
旗本小宮山氏知行地は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、鶴牧藩領は同4年鶴牧県、豊岡県を経て、いずれも同9年京都府に所属。同22年菟原村の大字となる。
菟原中は、明治22年~現在の大字。はじめ菟原村、昭和30年からは三和村、同31年からは三和町の大字。平成18年より福知山市の大字。町村制施行以来、菟原村の中心地として役場・小学校・駐在所などが設置された。


《菟原中の人口・世帯数》 310・117


《主な社寺など》

細野峠(全国歴史の道百選)
細野峠には、西国三十三所、秩父三十四所、坂東三十三所の合わせて百観音を祀る堂があり、往来の人の休場となっていた。堂および百観音は現在龍源寺に移されている。そのほか道筋には旅籠構えの民家、景清稲荷、ぱんどう地蔵などがある。
細野峠入口(菟原中)
「山陰道細野峠越 歴史の道百選 菟原中口」と書かれている。
菟原小学校の方から府道97を行くと、龍源寺の少し先に、こんな案内板がある。↑山陰道。    篠山へ通じる府道97号線↑

山陰道の三和町菟原中から大身までの峠道。使われていた当時の道がそのまま残っており、峠の頂上付近に宝祚山百観音堂円通庵という小さな庵があった。平成8年文化庁の「全国歴史の道百選」に選定された。
こんな案内板がある。

制作に当たったのは、「平成20年度卒業記念制作・菟原小学校卒業生一同」。リッパな物を作ってくれた、卒業記念によいかも知れない。
細野峠は三和町菟原中から大身へ越える、全長約2㎞の峠をさし、「ほうの嶺」「朴の峠」などの呼び名があります。山陰道の要衝として数多くの通行者があり、小式部内侍の「大江山生野の道のとおければまだふみもみず天の橋立」にも詠まれているように、大江山生野道にあたります。
 江戸時代には参勤交代の要路ともなっており、福知山藩や宮津藩、出石藩他が通行しました。元禄2年(1689)にこの地方を旅した儒者伊能忠敬測量隊の分隊一行もこの峠を越えています。
 峠の頂上付近には、多くの通行人の信仰を集めた宝祚山百観音堂円通庵の跡地が残っています。百観音堂は弘化元年(1844)
菟原中村龍源寺20世良英和尚と地元の有志によって建立され、西国・秩父・坂東の100ヵ所の通行人の安全を祈りました。堂のカネノオの下には、100ヶ所のほかに四四八十八ヶ所やその他札所の名所の沙が納められ、ここにお参りしただけで多くのご利益があったといいます。百観音堂は、のちに無住となり、お堂と観音像は大正年間に龍源寺に移転しました。
 明治以降は国道整備が進み、鉄道など交通網の発達に伴い、峠を歩く人も次第に減少しました。しかし、現在も峠には、百観音堂の跡や茶屋跡、さらに万延元年(1860)に起こった大身騒動の首謀者の首が晒されたといわれる地や、旅人の喉をうるおした湧水が出る中田の地蔵跡などが残っており、古の姿を今なお色濃く伝えています。

かつては旅籠などがあったと思われる宿集落の民家の固まりの先は、こんな道になる。和泉式部も各藩の殿様もこの道を通った。
軽トラなら行けそうだが、引き返すことにした。
細野峠

影清稲荷
影清稲荷社
龍源寺のすぐ下にある。
悪七兵衛平景清という人は、両目を挟って自刃したとか、盲人となって日向に流されたとか、諸国に伝説の多い人で、彼を祀るのは特に眼病に霊験があるからといわれている。くりぬかれた目が飛んできたという日向の生目(いきめ)という所にも祀られている。垂仁の本名・活目(いくめ)入彦五十狭茅尊と同じように片目か両眼ともダメのことかも知れない。その死んだ目を生かすといった意味か、龍源寺の金昌山という山号といい、何か鉱山か鍛治屋さんによって祀られたものであろうか。

八幡神社
八幡神社(菟原中)
龍源寺の鎮守社でなかろうか、お寺の境内に接してある。鳥居の左側は細野峠から移された「百観音堂」。その左は龍源寺。と一かたまりになっている。

八幡神社
三和町字菟原中小字堂ノ上一〇四番地に所在。祭神は、誉田別命・配祠菅原道真・紀貫之を祀る。『菟原村史』には「祭神、誉田別命・配祠菅原道真・紀貫之とあり、合社山神社がある」とあり例年厄神祭で厄除けのため、一月十九日遠方より参拝する人が多い、天明三年(一七八三)の再建の棟札には、八幡天神を祭ると記されている。
当社は、龍源寺の境内に接し、明治の神仏分離以前は寺と一体であったと考えられ、本殿が茅葺の鞘堂の一隅におかれているのもそのためであろう。前記の棟札に、龍源寺の住職が筆をとり、願主であり入用銀寄進の当村氏子逓中八八名の名を記している。龍源寺は、安永八年(一七七九)全焼し、天明元年に再建されており、その後続いて再建されたのであろう。現在の社殿は、向拝繋虹梁の若葉化した絵様、貫頭木鼻の形など多少時代のさがる様式がみられ、幕末から明治ごろにかけての建立または修復された可能性も考えられ、正面は両折式唐戸風で厨子様であり、本地仏が安置されていたことを想像させる。
本殿の構造は、二間社流造、柿葺で身舎側背面には勾欄つきの切目縁がまわる。身舎は円柱椶付で出組とし、向拝は連三斗を組み浜縁をつけ、身舎とは海老虹梁でつながれる。軒は二軒繁垂木である。妻は持ち出し、虹梁大瓶束とする。後に和歌、馬の絵馬が懸けらている。絵様など当時にしては進歩的である。
(『三和町史』)
龍源寺境内より
高台にあって菟原の集落が一望できる。

曹洞宗金昌山龍源寺
寺伝によると永平寺二四世龍察(正保三年没)を開山とする。創建年次は不明であるが、寛永頃までは天台宗、あるいは真言宗であったという。本尊は聖観音で、安永八年諸堂残らず焼亡したが、天明元年再建。領主小宮山氏の菩提寺で、小宮山氏の位牌がある。
龍源寺(菟原中)

龍源寺  兎原中村
曹洞宗法地本寺ハ船井郡胡麻村
境内一町四面斗除地六斗程田地寺附 除地
鎮守堂  鐘楼有
(『丹波志』)

金昌山 龍源寺 曹洞宗  菟原村字菟原中
本尊 聖観世昔昔薩   開山 龍察大和尚
    和尚は大本山永平寺二十三世勅賜日照孤峯禅師、正保三年八月一日寂年六十九。
   中興開山 月潤智大和尚  延享二年三月十八日寂年七十八
安永八年二月廿五日夜失火諸堂残らず焼亡依て天明元年三月五日再建、七世抜山祖超大和尚の時なり。
記鈴焼失創建不明なれども寛永項までは住持の宗旨に従って或は天台、或は真言となりしも孤峯禅師より曹洞
宗となれりと云ふ。‐
   檀家九十戸 信徒三十戸 所有地 田三反四畝二十歩。畠五反七畝廿四歩 山林壹町貳反三畝九歩
◎当寺に藩政時代に於ける領主の位牌あり。
   高鶴院殿華岳登龍居士  弘化二年三月七日 小宮山七代磯五郎藤原昌孝
   …    
大梵鐘並銘
   … 
(丹波志)本寺の末寺宝祚峠(菟原中村より船井郡下大久保へ越ゆる昔の山陰街道に当る)に宝祚山円通寺あり本尊阿彌陀如来脇立百体の観世音菩薩にして開山は円通良英大和尚、創建は天保十年三月十七日なりとぞ。
著者少時京都に往復せし頃にはこの峠の上に猶ほ御堂は在りて前に一軒の茶店ありしが(明治廿五年頃)今は如何なりしか、
(『天田郡志資料』)

金昌山龍源寺
字菟原中小字天神ノ下に所在する(「寺院明細帳」では小字上の山とある)、曹洞宗龍沢等末で、本尊は聖観世音菩薩である。『丹波志』によると、「曹洞宗法地、本寺ハ船井郡胡麻村、鎮守堂、撞鐘有」とあり、「寺院明細帳」には「本尊正観世音、由緒正保三戌年八日一日、龍沢寺二世当寺開山日照孤峰禅師龍察大和尚」とある。この正保三年(一六四六)は、龍源を文書・『天田郡志』『菟原村史』ともに開山の寂年としており、和尚の遺偈として「金鳥玉兎速、六十有九春、転歩那辺去、無処著渾身」の詩が残っている(龍源寺文書)。
寺の創建は、正保年間をさらにさかのぼると考えられる。『天田郡志』には「記録焼失創建不明なれども、寛永頃まで住持の宗旨に従って、或は天台、或は真言となりしも、孤峰禅師により曹洞宗となれりと云う」とある。同郡志に「中興開山、月澗智照和尚」(延享二年-一七四五-三月十八日寂)とあるが、和尚の中興むなしく、寛保元年(一七四一)四月二十六日夜、諸堂焼失し、寂後三年目」寛延元戌辰十一月、火後本堂再建」の記事がみられる(龍源寺文書)。安永八年(一七七九)二月二十五日夜、再び失火、諸党残らず焼亡した。天明元年(一七八一)三月、七世祖越大和尚の代に再建、再興の意をとげたが、さらに「文政三年辛巳五月四日牛時出火、諸堂焼失」(籠源寺文書)し、その後再建の記録は定かてないが、今日にいたっている。
弘化元年(一八四四)十月には、龍源寺の末寺となる宝祚山円通庵の観音堂一宇が建立され、開山は龍源寺の憎良英で、本尊には阿弥陀如来、脇立一〇〇体の観世音菩薩を祀リ、「往古観世音之霊場」(龍源寺文書)とされた。今日、細野峠に堂宇跡の敷地、庵の入口付近に「西国・四国名所御登の砂納あり、秩父・坂東、当堂」と刻まれた石碑が残っている。なお、屋敷の上一〇メートルほどの所に、「開闢沙門円通叟」と和尚名を刻んだ法回万霊碑も現存する。明治の末までこの地で近在および旅人の信仰を集めた。堂宇と一〇〇体の観音像は、住職の不幸後、大正年間に龍源寺境内に移築された。「百観世音御像施主名前寄進帳」によると、近在の人々のみならず、京都・出石など村外の広域から、また講中をはじめ、多様な職業の人々の信仰をあつめ、観音像一〇〇体の料金が納められ、京の御用仏師によって刻まれた。民佐文化財的な意義は大きいものがある。
さて、龍源寺の境内堂宇は本堂・庫裡・阿弥陀堂・鐘楼・土蔵・観音堂・八幡宮などである。阿弥陀堂は三間四方で、阿弥陀如来像か安置されており、作乳は平安時代であるが度重なる修覆の手が加えられ、原作の様子は不明である。原作に伝運慶といわれている。
同じく境内には、本章第一節「4中世の石造文化財」の項で詳述されているが、室町時代の宝篋印塔がある。花崗岩製で、後世ののものである。基礎の下部から笠の上まで高さ九〇センチあり、各部とも完備されている。この塔は基礎に近江式の開花蓮が飾られ、塔身の四方仏が像容と種子(梵字)の混合であるほか、隅飾に月輪が刻まかているなど装飾性に富んでいる。平成五年に町指定文化財となった。
地の什物としては、寛政六年(一七九四)の涅槃図、十六羅漢像などもある。また、位牌堂には江戸時代の領主であった畑本小宮山氏の位牌があり、正徳三年(一七一三)「小宮山丹後守室」天保八年(一八三七)「小宮山八代又七郎」、弘化二年(一八四五)「小宮山七代磯五郎藤原昌孝」他二基が納めてある。
(『三和町史』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


菟原中の主な歴史記録


『丹波志』
中村
高三百七拾五石五斗壹舛六合 民家百戸
 内今高貳百七十五石九斗壹舛九合三勺 水野俣領
      百七拾壹石貳斗四勺 小宮山織部殿領
京街道東エ越スヲ細野嶺ト云 頂ヨリ三四町斗下ル所ニ横溝有是天田船井ノ境ナリ 村嶺トモ云 嶺ハ中村分也 南ノ方ノ右ハ友淵村ノ山ナリ 左ノ方モ大身村ノ山也 友ニ天田ニ属ス 大身村ノ溝ヨリ向ハ船井下大久保村分也 中村ノ北ヨリ東ニ入谷道大身村ニ行也 日表日後谷ノ両側ニ道在牛馬道廿町斗北谷ヨリ左ハ下河合村ニ行道在 鏡石嶺牛馬不通三十町斗 中村ヨリ拾町斗大身村境北山ト云出戸三戸有

『福知山・綾部の歴史』

↑細野峠の位置(筆者作成)  街道と現在の国道9号を比較して、国道がいかに大きく迂回しているかわかる。
そして峠は残った
●全国歴史の道百選山陰道細野峠

国道九号から、三和町字菟原中のJRバス菟原停留所の信号を右手にとって、兵庫県の草山温泉方面へと向かう。曹洞宗龍源寺の下を過ぎるとすぐに左前方に小さな集落がある。菟原中の宿(しゅく)といかいちう垣内で、細野峠の麓の集落である。その名の通りかつては宿屋が数軒軒を連ね、現在も屋号が残る。
細野峠は、三和町字菟原中から字大身へ越す、全長約二㌔。・標高約二三〇㍍の峠である。江戸時代、細野峠は京街道の要路として、参勤交代や、京と丹後・但馬方面を結ぶ交易路として利用された。元禄の初め、貝原益軒がこの地方をこれ旅して『西北紀行』を著している。これには「是よりはほうその嶺を越」とあり、千束で宿をとっている。また、伊能忠敬の測量隊一行も細野峠を越えている。
弘化元年(一八四四)一〇月、この峠の頂上付近に小さな庵が建てられた。宝詐山百観音堂円通庵である。願主は龍源寺(菟原中)二〇世良英和尚である。良英和尚は一六歳の時から諸国を行脚して、所々の霊場の砂を小袋につめて持ち歩き、天保二年(一八四〇)に龍源寺に入った。そして、村の有志の支えにより、峠の頂上に百観音堂を再建したのである。なぜ百観音堂と言うのか。それはこの観音堂には西国三三、秩父三四、坂東三三、合わせて一〇〇体の観音像が安置されたからである。観音像の寄進は峠を利用する但馬や福知山・宮津の飛脚中、京の商人などから広く集まった。像作成費用は一〇〇体で五〇両であった。
また、良英和尚が集めた霊場の砂は、四国八八カ所や金峰山(奈良県吉野)などの砂とも合わせて、鰐口の鐘の緒の下にある踏み石の下の壷に入れて納められ、ここに立ってお参りすることでこれらの霊場へ参ったのと同じ霊験を得られるとされた。嘉永五年(一八五二)には百観音堂の製作で『丹波西国三十七所道中記』が再版された。堂は「新西国」としてその霊場に加えられており、いかに熱心に活動をしていたかをしのぶことができる。のち、明治の中頃に良英が没し無住となり、堂宇は大正年間に現在ある龍源寺に移転した。
細野峠は維新後も頻繁に往来があったが、明治九年(一八七六)に丹後国と天田郡が京都府の管轄となり、京都・宮津間の車道の開墾が本格化するなかで、裏街道となっていく。しかし、歩くことが庶民にとって唯一の手段であった時代は行商人などの往来が絶えなかったが、明治四三年に山陰本線が開通、また昭和一四年(一九三九)に省営バス園福線が開通したため、いよいよかつての賑わいは薄れていった。
かつての京街道はこうした交通基盤の整備によって改修され、高度経済成長以降のモータリゼーションの普及によって拡幅・舗装されていった。しかし細野峠は拡幅も舗装もされず、土道のまま往時の面影をとどめ、平成八年一一月に文化庁により歴史の道百選に選ばれた。(西村正芳)


伝説





菟原中の小字一覧


菟原中(うばらなか)
峠浦(とうげうら) 峠(とうげ) 押ケ谷(おしがだに) 子ブノキ(ねぶのき) ユフ子(ゆふね) 畑ケ谷(ほそがたに) サニシ サキノハタ トチ谷コユラ 長谷(ながたに) 木戸口(きどぐち) 北谷(きただに) 才ノ奥(さいのおく) 前(まえ) 宿(しゅく) ウシロ ツルイ垣内(つるいがいち) 道バタ(みちばた) 立畠(たちはた) シツケ 風呂ノ本(ふろのもと) 薮ケ鼻(やぶがはな) 森ノ下(もりのした) 谷(たに) ケヅアン 道ノ上(みちのうえ) ムセノモト 地主(じぬし) 垣ノ内(かきのうち) 大門垣内(だいもんがいち) ノウ カイチ 石原(いしわら) 道ノ下(みちのした) 天神ノ下(てんじんのした) 竹ノ内(たけのうち) 上ノ垣内(うえのかいち) 才ノ上(さいのうえ) カミヤソヲガ前 長ツロ(ながつろ) グミガ沢(ぐみがさわ) 検行林(けんぎょうばやし) ウバガ谷 堂ノ岸(どうのきし) 荒内(あらうち) 坪原(つぼら) 赤道(あかみち) 月ノ庄(つきのしょう) 笹尾(ささお) 芳ノ元(よしのもと) 念仏田(ねんぶつだ) 小田ノ谷(おだのたに) 燧岩(ひうちいわ) 梨ノ田(なしのだ) 池谷(いけだに) 萩砂(はぎさこ) ヒヨ田 立岩(たていわ) ナツヤケ東谷(なつやけひがしだに) 奥ケ谷(おくがだに) 西ノ谷(にしのたに) 土井ノ下(どいのした) 砂田(さこだ) 尾笹(おささ) 滝垣内(たきがいち) 日向尾(ひなたお) 於中田(おちゅうだ) 向大淵(むかいおおぶち) シヅク 堂ノ坂(どうのさか) 大淵(おおぶち) 堂ノ子キ(どうのねき) 川ノ上(かわのうえ) 嶋(しま) 薮ノ下(やぶのした) ハバ山(はばやま) 沢田(さわだ) 前田(まえだ) 屋敷(やしき) 細畑(ほそはた) ミスミ カンヘ ウガ前(うがまえ) コカ 古屋敷(ふるやしき) 久保イト(くぼのいと) モヲ子(もをね) 板屋垣内(いたやがいち) オイノモト セイノ垣内(せいのがいち) 北ス(きたす) 坂尻(さかじり) 市場(いちば) イナカ 別所(べっしょ) 義経(よつしね) 馬船(まぶね) ココヲミチ 才ノ田(さいのだ) サコノ林(さこのはやし) 清水元(しょうずもと) 彼岸田(ひがんだ) 六畝ノ元(むせのもと) 梅ノ木田(うめのきだ) 佐土(さど) 馬場(ばば) 岩ノ上(いわのうえ) 戸口(とぐち) 菖蒲谷(しょうぶだに) 小西(こにし) 天王(てんのう) 向峠(むかいとうげ) 峠谷(とうげだに) 才ノ畑(さいのはた) 上ノ山(うえのやま) 岼ケ鼻(ゆりがはな) カノ谷(かのたに) 奥ケ谷(おくがだに) 桜(さくら) 堂ノ下(どうのした) 向(むかい) ハバ 菖蒲ケ沢(しょうぶがさわ) 札ノ辻(ふだのつじ) 中田スルド(なかたするど) ミモイケ ウスギ 堂ノ浦(どうのうら) 峠坂(とうげさか) 餅ケ田(もちがだ) 辰巳殿屋敷(たつみどのやしき) 山子(やまね) 上ラカイチ(うえらかいち) 野代ガ谷(のしろがたに) 堀ノ土井(ほりのどい) カジヤ 槻木ガ砂(けやきがさこ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『三和町史』各巻
その他たくさん



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