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丹波の

菟原下(うばらしも)
京都府福知山市三和町菟原下


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京都府福知山市三和町菟原下一・二

京都府天田郡三和町菟原下一・二

菟原下の概要




《菟原下の概要》

土師川と友淵川との合流点の西に位置する。両川の東岸は菟原中になる。街道沿いに集落がある。中世には菟原荘の荘域であったという。当地は柳瀬(梁瀬)ともいい、その由来は、かつて領主の漁場で、川筋に簗を設けたことによるという(丹波志)。今は菟原下一と菟原下二に分かれる。
菟原下村は、江戸期~明治22年の村。はじめ旗本菅沼氏知行地、ついで旗本田中氏知行地を経て、のち旗本小宮山氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年菟原村の大字となる。
菟原下は、明治22年~現在の大字。はじめ菟原村、昭和30年からは三和村、同31年からは三和町の大字。平成18年より福知山市の大字。


《菟原下の人口・世帯数》 370・179


《主な社寺など》

菟原下遺跡
小字久保の丘陵腹の菟原下遺跡からは須恵器壷と鎌倉時代の古銭が出土したという。
昭和四十六年(一九七一)菟原下小字久保の林野より出土した。丹後郷土資料館の展示図録『南北朝時代の丹波・丹後』に紹介されており、総数六二四二枚、銭名の判読不明が一三〇九枚、判読されたもの二六三三枚のうち唐の開元通宝(六二一)から明の永楽通宝(一四〇八)にいたり、銭種三五種と報告されている。三和町郷土資料館では平成三年度・四年度の二回にわたり再調査をおこなったがその結果、現在保管の銭数は総計五八八七枚、判読不能三五九枚、年代は開元通宝(六二一)から皇宗元宝(一二五三)が下限の年代、銭種三一、銘種六六であった。五八八七枚の銭貨が容器一四・二センチ×三二・六センチの壺とともに指定となった。
(『三和町史』)


埋納銭(三和町郷土資料館提供) 菟原で出土した埋納銭と、これらが入っていた壺。

地下に埋められた貨幣
明治二五年(一八九二)、福知山市猪崎の畑で大きな甕に入った約一万七、○○○枚の一文銭が発見された。他にも、福知山市内では荒木(数千枚か)・観音寺(約四、○○○枚)や、三和町菟原(約六、○○○枚)、綾部市寺町(約一万二、五〇〇枚)・福垣町(約二、○○○枚)で中国や朝鮮の貨幣が見つかっている。これらの出土銭が中国で鋳造された時代は、おおむね北宋を中心にしているが、洪武通宝や永楽通宝明銭まで含んでいる。鋳造年代から見れば、埋納時期は一五世紀以降と考えられる。当時の貯金だったのか、非常時の隠し金だったのだろうか。結局は戦いとか何かの事情で取り出せないままになってしまったようだ。なお福知山城の本丸でも、天守閣の再建工事中に、刀の柄・鏡・竹筆とともに九三六枚の貨幣が壷に納められて出土した。やはり北宋銭が最多で、明の洪武通宝や永楽通宝、李朝の朝鮮通宝まで含まれていた。この城の例は他と異なり、建設の地鎮のためかといわれている。中国からの輸入銭は、全国的にも大量に出土しており、埋納銭とか備蓄銭とか称されている。寛永通宝の出現までは借り物の貨幣ではあったが、中世の銭貨の流通は大都市だけでなく、このように広い範囲にまで及んでいたことがわかる。(大槻伸)
(『福知山・綾部の歴史』)


梅田神社
梅田神社(菟原下)
鎮座地が書によってよいかげんなことで、探すのに一苦労したが、旧街道の菟原駐在所のある所から下へ降りたところ、参道案内板も立っている。「高台」と書いた書もあったが、ここは土師川の氾濫原みたいな低い土地である。土師川と友渕川の合流点の右岸側で、川を向いて立っている。土師川は写真で言えば、鳥居の先の本来の神体岩と思われる「姫岩」(耳を当てるとコットンコットンと機織る音が聞こえるという、お姫様の機織り岩と伝えられる、こうした神殿が建てられる以前からの祭祀場であろうか)、その先に少し橋が見えるが、その橋は福林寺の方へ行く橋になる。水位が2メートルも上がれば浸水しそうな所である。大原の産屋のような、というのか、あそこよりももっと低く、水辺である、人はこうした所で生まれ、神はこうした所におられるのか、山の中に住む人々の古い過去が何となくしのばれる。旧街道は社殿の後の河岸段丘上を走り、当社を越えた辺りで川面まで下り土師川を渡っていたよう。
近世は菟原下村・菟原中村の氏神で古くは春日大明神と称した。祭神は天児屋根命・紀貫之。文治5年(1189)の草創と伝え、梅田七社の第一という。七社とは友淵の春日、細見辻の梅田、高杉の春日、多紀郡草山郷の梅田春日社、同郡藤坂の梅田、同郡小原の梅田の七社。社僧は福林寺末天台宗神護寺の住僧が務めたという。
祭礼は九月九日で、菟原下村が社を造営した際、他の六社の神輿が九月九日に菟原下村に集まったのにちなむという。

本殿の中に2社ある。向かって右が「梅田社」、左が「春日社」。
本殿の左側に「日吉神社・八幡神社・太田神社」。右側に「恵美須神社」の扁額が架かる祠。
中世の菟原荘は元応元年(1319)頃に、一部は日吉神社の所領となっていた。

梅田社 兎原下村建中村トモニ産神
祭神紀氏先祖 祭礼九月九日
右春日大明神 左西宮大明神
本社二社造巳午ノ方向 舞殿 篭家 華表
境内凡五十間四方 梅田大明神ト篇セリ
下村福林寺末天台宗 社僧大川山神護寺
右社地古へ半分斗也 其後細見氏伊右衛門先祖ヨリ寄附地
此社ハ文治五年草創スト云伝 梅田七社ノ初ナリ
所謂七社ハ ○下村梅田三座ノ社 ○友淵春日ノ社 ○細見辻村梅田三座ノ社 ○高杉春日ノ社 ○多紀郡草山郷草山村ノ神社 桑原村遠方村川坂村ト四ヶノ産神祭礼九月廿一日 ○同郡神田ノ郷大芋ノ庄藤坂村梅田ノ社祭礼九月十五日 ○同郡小原村梅田ノ社 小倉村二熊村三ヶノ祭礼九月十五日
往古下村初メテ社ヲ造営ス依之外六社御輿九月九日下村梅田神社ヘ来リ集リ玉フ 中邑門松ヶ端ト云所ノ西ニ多紀郡ヨリ御輿来リ玉フ道テ今御幸道ト字セリ 後祭礼日遠ヘリ 往古梅田ノ祭礼旧式挙遠へり大身邑広谷大明神ノ祭礼式是ナリト云伝
(『丹波志』)

村社 梅田神社  仝村字菟原下鎮座
祭神 天児屋根命  紀貫之(或云、春日大神、事代主神 孝元天皇卜)
草創 文治五年にして再建は天保五年梅田七社の初めと云ふ、即ち同村友淵、細見村中出(以上同社名)前記春日神社、多紀郡草山村草山神社、同郡神田村梅田神社、同郡小原村梅田神社なり。
境内 往古は境内狭かりしを氏子細見伊右ェ門の先租の寄進に由り広めしと云ふ、凡方五十間、千六百五十三歩、末社、姪子社、八幡社、日吉社、
社殿 二社造、梁行四間、桁行七間   氏子 二百五十戸   財産
往古は当社祭礼の時は他の六社の神輿、此所に渡御ありしと云、今菟原字中に松ヶ端といふ所の西に多紀郡よりの神幸道ありて御幸道と字す(郷土史料)
(『天田郡志資料』)

梅田神社
所在地は菟原下小字川ノ上六九番地。祭神は、天児屋根命・彦布都押信(ひこふとおしのまこと)命である。明治十六年(一八八三)の「神社明細帳」には、天児屋敏命・紀貫之とあるが、『丹波志』には「祭神紀氏先祖」「祭礼九月九日、右春日大明神、左西宮大明神」とある。また「下村福林寺末天台宗、社僧大川山神護寺」と宮寺があったこと、「文治五年草創スト云々、梅田七社ノ初ナリ」と他の七社の祭神が同様であることも記している。さらに『菟原村史』には、「梅田神社は紀氏の祖先を祀ったもので、紀太成雄(しげお)と云う人、比の菟原の郷に文治元年、人草孝元天皇第四皇子、彦布都押信命を紀った神祠を建てたのがこの社であると云う」と、述べている(彦布都押信命は彦太忍信命とも記されている)。また、同社には日吉社(大山祇命)・水無月社(瀬織津姫命)・蛭子社(事代主命)・八幡杜(誉田別命)が合社されている(『菟原村史』)。鶴牧藩による慶応四年(一八六八)六月の改帳では、「梅田大明神、春日大明神、下村ニ有之候ニ付改不申候、御旅所ト称シ八幡宮龍源寺境内ニ有之候」(山南町木戸氏所蔵文書)とある。
 梅田七社の中での梅田神社のしめる位置については、「梅田七社の頭に位し、所謂菟原村の梅田社・細見谷の梅田社・高杉、友測村の春日社・多紀郡草山村本郷春日社・同大芋村藤坂梅田社・同小原村梅田社を七社と云う。往古菟原に初めて本社を造営され、前記六社の中心となり、七社の神輿は旧九月九日菟原下梅田神社に勢揃いし給うという。菟原中の松ケ端と云う所に、この神輿が集り給う時の道を今も御幸道(みゆきみち)と称せられ、この音神事と共に言い伝えられている」と『菟原村史』にあり、『丹波志』にも同様の記述がある。
 本社建造について『菟原村史』には次の記事がある。「天保十二年四月十八日災禍にあい、弘化五年三月十五日再建され現今に干っている」。また、藤田小右衛門の記録によると、天保十三年(一八四二)四月十八日に罹災、嘉永元年(一八四八)三月十五日上棟、宮移しとある(藤田家文書)。
 次に規模と構造についてみてみよう。本殿は一間祉流造を二棟並べて接続させた連棟式社殿で、比翼流造ともいえる。右の梅田社と左の春日社はまったく同じ形式で、接近の度合いは、相互の斗?(ときょう)の先端が数センチで触れるほどで、軒廻りの桁は一体に続いている。両身合の間の脇障子は一枚の鷲の彫物で板床とし、組入大天井を張る。身舎は総円柱で縁をまわし、正面には吹寄格子状の扇、浜縁・浜床がある。妻は二手先詰組、上に一段持ら出し、二重虹梁大瓶束とする。それぞれの身舎正面に軒唐破風をつけ、全体の屋根中央に千鳥破風をもうけている。身舎と向拝は海老肛梁でつなぎ、手挟が配される。彫物や絵様などほ律動的であり、緊密な構成をもち、大工の腕がうかがえる。斗キョウ間に良質の彫刻が多く施され、嘉永当時の建築としてはかなりの贅をつくしたものである。建立については前述したが、建築構成や虹梁の彫りの深さなど、幕末から明治の建築の動向を、よくあらわしている。
(『三和町史』)

薬師堂が境内にあったというが、それらしきものは見当たらない。
薬師堂 三間四面
梅田明神ノ境内ニ在 本尊座像 四尺余 脇士二体 今当村梅登山神宮寺持仁王五尺斗
古菟原下村鹿倉山太平寺退転ノ時此所ニ引ト云
(『丹波志』)


天台宗観昌山福林寺
福林寺(菟原下)

十一面観音堂
土師川左岸の高台にある。十一面観音堂↑

観昌山福林寺  兎原下村
天台宗古叡山下近年氷上郡神池寺ニ附 境内凡一町ニ一町半斗 田地百刈斗有之
鎮守稲荷社有 田地廿刈斗有除地
古筆十六善神ノ唐絵二幅有 鐘有
十一面観音堂三間四面 八番ノ札所
(『丹波志』)

観昌山 福林寺  (天台宗)   同村学菟原下
『天田郡志資料』()

観唱山福林寺
福林寺は、菟原下小字寺段に所在する天台宗の寺院である。「寺院明細帳」によると、「天台宗、本尊阿弥陀如来、由緒、天正十九丁亥年創立本願伝法法師、其他不詳、境内仏堂壱宇観音堂、本尊十一面観音、秘仏不動・毘沙門天、由緒寛永元甲子年設立、本願常力法師」とある。『丹波志』に「観唱山福林寺、天台宗、古叡山下、近年氷上郎神池寺二附、鎮守稲荷社有、古筆十六善神ノ唐絵二幅有、十一面観音堂、三間四面、八番ノ札所」と記されている。
 その他、『菟原村史』を参考に略述すると、福林寺は元観唱山延寺と号し、仏供田は亀山藩主菅沼定昭の寄進で、諸役免許の印旨があったという。元禄五年(一六九二)八月の寺改めによると、福林寺には末寺が宮寺・神護寺(寺屋敷にあり、開基当寺三世円盛和尚)・極楽寺(開基当寺四世宥円和尚)の三ヵ寺があったとされる。また福林寺には開創以来数回の火災にあって、諸堂が炎上したので、旧本堂は、江戸時代後期の再建と思われ、別棟の三間四面の観音堂は、元禄七年(一六九四)十月、智明浣実音和尚の再建とされている。梵鐘の銘には「一乗開門、延寿証明、観唱再力、庶呼法蓮、舒除其声、興世憎栄」とあったが、太平洋戦争時に供出された。「観音堂の本尊は観世音仏、脇士毘沙門天・不動明王を勧請し、さらに明治二年(一八八七)本寺である神池寺から薬師三如来像および十一神将仏などを迎え、安置された。これらの仏像は近隣にみない彫刻で、彩色美しく、古代美術の観を深からしめるものてある」と賛されている。庫裡は昭和二十年(一九五五)七月檀中の力で再建された。本堂は、平成六年に改築された。
(『三和町史』)


浄土真宗本願寺派鹿倉山成満寺
成満寺(菟原下)

成満寺 (正徳二年八月廿一日寺号許可)  同村字菟原下小字石仏
本尊 阿彌陀如来立像 (拝戴元禄四年二月三日)
創建 元禄五年八月道場として創立、寛延三年再建、本派本願寺真宗
檀家信徒 檀家五十戸 信徒三百人
財産 田壹反貳畝余歩 山林壹町五反歩
(『天田郡志資料』)

鹿倉山成満寺
菟原下小字石仏に所在する、浄土真宗の寺院である。元禄五年(一六九二)に作成された「丹波国御下寺開基之帳」によると、「開基人未詳、慶長八癸卯年道場令建立也」とあり、慶長八年(一六〇三)に道場として建立されたとある。また『天田郡志』には、「創建元禄五年(一六九二)八月、道場として創立、正徳二年(一七一二)八月二十一日寺号許可、寛延三年(一七五〇)再建」と記されており、同じく本尊の阿弥陀如来立像」、「元禄四年(一六九一)二月三日拝載」とされている。「寺院明細帳」によると「本願寺末成満寺、本尊阿弥陀仏立像」、由緒は「開基正善、丹波国天田郡菟原下村水口氏、元禄元戌辰年八月三日創立、縁起不詳」とあるが、由緒については調査を要する。
 境内には本堂・庫裡・山門・鐘堂・太鼓堂がある。本堂は、平成四年(一九九二)基礎・木柱などが修理されたが、総欅造りで、瓦屋根も平成元年にふきかえられた。太鼓堂は、その構造・建築様式など、平安の建築を思わせる建物である。梵鐘も昭和二十七年(一九五二)四月に再建修理された。境内の庭には銘木の大銀杏が天空にそびえ、太鼓堂とともに当寺を象徴している。
(『三和町史』)


紀貫之の旧棲地
何か雰囲気のよい旧街道筋が残っている、かつては本陣があったり、市場があったという。どこかこのあたりなのだろうか。文化人がいそうな感じもある。
当地細見氏などのご先祖の紀氏を代表するということでだろうか、神社に彼を祀り、住居もあったという。
人はいさ 心も知らず ふるさとは  花ぞ昔の 香ににほひける
あつかましく、彼の句碑くらい立てればどうだろうか。
出雲守紀忠通旧栖  兎原下村
街道端也 京ニ行ハ左 屋形垣内ト云 俗ニ曰 紀貫之ノ旧栖ナリト唱ハ誤レリ紀忠通ノコトナリ 後ニ中村ノ北ノ方ニ屋敷在 此所天神ノ社ヨリ西ノ方ナリ 京道ニ大門ト云所有 門ノ跡ナリト云 又古ニ云伝ニ屋形ノ下ニ岩有 其上ニ猿渕此所俗説有于今九月七日ヨリ九日迄太鼓ノ音聞エ其上ニ大渕ト云所 御涼所同ツホヲト云所有リ 坪表也 御持宮天神八幡守リ阿彌陀仏有 宮守ノ僧 妙法ト云 中村ニ有之 金昌山龍源寺ノ鎮守也
紀忠通ノ住玉フテ子孫有 九曜ノ紋ヲ三人ニ三ツニ分テ玉ハルナリト云 系図今細見玄?ニ在之
按ニ紀貫之此所ニ来リ玉フコト古書ニ不見 郡郷部細見辻村ノ条下ニ委
(『丹波志』)

紀貫之の従兄弟らしいが、紀友則も名歌を残している。
ひさかたの 光のどけき 春の日に   静心(しづごころ)なく 花の散るらむ




紀氏の系図
紀氏が歴史に登壇するのは、天照大神の岩戸隠れの時までさかのぼる。『書紀』にある神話のハナシではあるが、紀伊国造家が祀る紀国一宮「日前神社・國懸神社」の神体鏡は石凝姥が天香山の銅で作ったもので、日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)という、この鏡で天照を岩戸からおびき出したという。このあとに伊勢神宮の八咫鏡も作ったという。銅鏡製造の技術を持っている氏族である。最先端金属技術を持っていなければ大きな氏族にはなれまい。
また孝元記に、
内色許男命の女、伊迦賀色許売命を娶して、生みませる御子、比古布都押之信命。
比古布都押之信命、木国造の祖、宇豆比古の妹、山下影日売を娶して、生める子、建内宿禰。此の建内宿禰の子、井せて九たり。

として、
次に木角宿禰は、木臣、都奴臣、坂本臣の祖。
とある。
紀角宿禰や紀大磐という人物は、朝鮮にも進出したと伝わる。

古墳時代後期になれば、石棚付きの石室古墳を造営する、当地には古墳は見られないが、南の篠山市に1基、東の亀岡市の梅田神社があるあたりに7基見られる。
美浜原発のある美浜町丹生にもあって、紀氏と丹生氏は同族という。
川合の大原神社の末社に木神社があるが、紀氏そのものをズハリ祀るのは、三和町ではあるいはこの社くらいだろうか。


鹿倉山(四神楽山・四ヶ倉山・しかくらやま)520メートル
鹿倉山(菟原)
菟原下の一番南、兵庫県との境にある。龍源寺より↑
シカはスカで砂鉄を示すことから古代の鉄に関わる山名かもしれないといい、鹿倉山にあったという太平寺は元はタイラと読み、タタラ製鉄のタタラを意味するともいわれる。

大平寺跡
塔頭五ヵ寺以上、天台宗の中本山の格式を有したが、明智光秀の謀反の際焼打ちに通って滅んだと伝え、山頂にある熊野権現は同寺一山の守護神であったという。
鹿倉山太平寺古跡  兎原下村
此山ノ東ノ麓ニ在平地也 寺五箇寺ノ旧地有之 鎮守権現社有ト六善神ノ懸絵三幅ノ内二幅当村梅林寺有 右天台宗ノ寺ナリト云 稲葉侯福智山在城ノ時ニ本尊ノコトニ付退転スト云 鹿倉ノコト姓氏ノ部ニモ出
(『丹波志』)

『丹波志』の「古跡」は友淵から寺尾にかけて十ヶ所をまとめているが、その特徴はほとんどが薬師如来を祀っていることである。その中でも、中心的存在であったのは鹿倉山太平寺であり、鹿倉山の山麓に五ヶ寺が存在していたことを記している。これは鹿倉山を中心とした山岳修行の場であったところである。
(『福知山市史』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


菟原下の主な歴史記録


『丹波志』
下村  又梁瀬ト云  小宮山織部殿領
高三百三拾七石五斗四舛六合  民家百斗
按ニ兎原中村下村有テ上村ト云ナシ 友淵高椙上村ナルヘシ 下村ヲ梁瀬ト云事古領士家ヨリ此所川 簗ヲ立タリ 于今簗場ト云所川筋ニ有之
又此所ニ鹿ノ倉小ノ倉猪ノ倉トテ古三ツノ倉アリ権現不動稲荷ヲ祭レリ 按ニ上古屯倉ノ古事ヲ不聞中古ノコトナルヘシ
?ト云所川ヨリ西ニ在 不名ハ野垣内 ??廿軒斗寺モ有此所ヨリ南ヘ入所寺カ谷ト云廿町余多紀郡桑原村エ出ル牛馬道 簗瀬川ヲ北エ越三町斗行ハ柏原ト云民家十戸斗有之 此所ヨリ申ノ方エ六町斗谷ヲ右エ行ハ鍋坂嶺ト云 細見ノ中手村ニ出ル廿町斗牛馬道 又下村ヨリ西ヘ川渡リ 南エ三拾町谷奥ニ嶺有 多紀郡桑原村ニ越ス間道牛馬不通 又鹿倉山ノ麓ニ多紀郡境ニ槻ノ木在之
又簗瀬川出水ノ時渡リナシ足場悪シ 此時和田ニ至リ川ヲ左ニ見 高杉村エ至リ 川ヲ越ス 凡三拾町斗京道牛馬不通 但馬道也 又下村ヨリ北エ川ヲ左ニ見テセウロカ腰ヲ行ハ川合谷梅ヶ原迄拾八町斗荷馬不通下河合迄壹里


『新修亀岡市誌1』
石棚を持つ石室
先ごろ、大英博物館で日本の古墳の乾板写真が多数発見されたことが新聞で報じられた。これは英国人ウイリアム・コーランドか日本各地の古墳を調査した時の記録の一郡であった。その中に鹿谷古墳群の石棚のある石室の写真が含まれている。ゴーランドは明治五年(一八七二)に冶金技師として日本に招かれ、大阪造幣寮(現造幣局)に籍を置いて働いた人である。日本に滞在した一六年の間に各地の古墳を調査して実測図や出上品の記録を残し、日本考古学界の恩人と呼ばれた。新開に紹介された鹿谷古墳の写真には厚い板石を両側壁に組み込んだ石棚のある、かなり持送りの大きい石室奥側の様子が鮮明に写っている。この石室は今は失われているから、まことに貴重な写真をゴーランドは残してくれたといえる。
 前述したように行者山の山麓周辺では石棚を持つ石室の分布が大きな特色となっている。拝田一六号墳、小金岐七六・一一二墳、鹿谷古墳群中の三基と計七基を数える。鹿谷古墳群のものはゴーランドの写真のほか実測図が報告されていて、その図によると石棚の下に槨壁が立てられている(『南桑田郡誌』)。小金岐一号墳、拝田九号墳に類似の施設があることが注目される。石棚は京都府域では丹後地域の大宮町新戸一号墳にも一例がある。典型的な石棚ではないが奥壁に雛壇を持つ石室が野田川町高浪一号墳、弥栄町ゲンギョウノ山一号墳で発見されている。
 石棚を有する古墳の集成を行われた川上邦彦によれば、その分布は和歌山県を中心として近畿、四国、九州の西日本に広がっている(川上邦彦「石棚を有する古墳について」)。京都府の周辺では奈良県、大阪府、滋賀県、兵庫県、福井県に分布する。和歌山県では記ノ川河口付近に集中しており、中でも岩橋千塚では三二古墳、三三石室を数えている。岩橋千塚は紀氏の墳墓とされており、川上は石棚を持つ古墳を紀氏あるいはその同族の墳墓と結論しているのは妥当な見解と思われる。石棚は当初は玄室の壁面の補強のため発生したものであるが、後には副葬品の一部や時には追葬の被葬者を安置することもあったと考えられている。
 さて亀岡盆地の石棚付石室七基は和歌山県以外では最も集中的に分布する事例であって、この地に紀氏と関係の深い氏族が居住したことがうかがわれるのである。兵庫県側の丹波においては多紀郡に多紀町岩井山三号墳、今田町本荘の古墳の二例があり、山陰道を通して地域的につながりを持つことか推定される。


『南桑田郡誌』(図も)
…鹿谷古墳群の現状は以上の如きも、こゝに特記す可きは嘗て此の群内に石棚のある石室の存せし事実なりとす。該古墳今は全く破壊せしも小字茶ノ木山にありしものにして、当時の届書に依るに周囲に湟の址をとどめたる二段築成の梢々大なる丸塚なりしが如く、其の中央に南面の横穴式石室あり、明治二十年代に石材採掘の為これを穿てるものなりと云ふ。石室の構造は既に早く故若林勝邦氏に依りて学界に紹介せられしが(考古学会雑誌二ノ七)今は後藤守一君恵与の図に依りてこれを見るに発掘当初既に玄室の中央に崩壊せる部介ありしが如きも構造は上述の現存石室と相似たる室と羨道との区別ある系統に属せること容易に察せらるゝも、其の奥壁面より扁平なる石材を挺出して石棚を作り、またこれと対応する底面には槨壁を立て、敷くに栗石と扁平石を以てせる特殊の設備を加へたるものなり。(図参照)

発見の当時此の石棚の西隅に轡あり、棚の下、槨壁内に直刀及び金銅珠片等を存し、また壁の前に陶質器を置き、室の西壁には直刀一口を立懸けありしと云ふ。此の遺物の配列より見るに遺骸は槨壁内に置かれしものにして上述特殊の装置は蓋し、其の爲に作られたるものと解せらる。石室の玄室内に石棚、槨壁等を設けたるものは肥後筑後等九州の古墳に其の類多きも、近畿にありては紀伊海草郡岩橋の千塚、越前敦賀郡松原村穴地蔵古墳其他二三例あるのみ。されば此の石室の如きは其の分布の上より見て特記に値するものなり。ただ早く破壊して今は存するなきを憾となす。



伝説


『三和町史』
とどろき水(轟水)
兵庫県との境に立つ、三和町で最も高い山、鹿倉山(五四八㍍)をご存じでしょうか。昔から、この山の麓から高い所まで、美しい田がいくつもいくつもあって、道を通る人は誰も、あんな高い所までどうして水があるのだろうと不思議に思うぐらい、どんな日照りの年でも稲が青々と伸び、秋には美しい黄金の波をただよわせています。どうしてそんな高い所に水があるのてしょう。それには次のような話が伝わっています。
 今からちょうど三百数十年あまり前のことです。山の麓に次郎左衛門という人が住んでいました。たいへん義侠にとんだ人で、村人の世話をよくするので、村の人はみな、次郎左衛門さん、次郎左衛門さん」と崇めていました。そして仕事によく励んでおりました。
 しかし、この村にたった一つ困ることは田にかける水の十分ないことでした。水の流れている川はありますけれど、はるか下の方を流れています。山の奥から流れてくる谷川の水は、ちょっと日照りが続くとすぐなくなってしまいます。
 そこで、この村の人は都合よく雨の降るのを待つよりほか、仕方ありませんでした。そして村中には年々荒地がたくさんできて、村は衰えるばかりでした。「どうかして水がほしい、大きな溜池かほしい」、と付の人達は皆思っていました。
 今年も田植えが近つきましたが水が足りそうにありません。何日たっても雨も降りません。村の人は「いよいよ雨乞いだ」と、それから男も女も、子供も老人も総出で、死に物狂いの雨乞いが始まりました。夜となく昼となく、まったく命がけの雨乞いのお経が村中に響きました。しかし、幾日たっても雨の降る様子はなく、村の人々は空を仰いでため息をついては嘆くばかりでした。
 この有様を見た次郎左衛門さんは、何かを決心して、ある日の夕方、手ごろの鍬一挺持って鹿倉山の項上に上りました。そして頂上の岩の上に座禅をくんで天に向って「どうぞ、この村の水の出る所をお示しくださいますように私の命は、おとりくださってもよろしゅうございます」、と一心に祈り始めました。村の人々も一所に集って一心に雨乞いをしています。
 次郎左衛門さんは、夜が明けると、鍬を持っで水の出そうな所を探してまわります。だが、その日は駄目でした。ぐったり疲れた体で頂上の岩に帰りました。二日目も前日のとおりにしましたがまったく何のしるしもありません。三日目も四日目も五日目も六日目も同じでした。
 次郎左衛門さんは断食をして一心にお祈りしていましたので、ほとんど動けないようになりました。ただし、頭はいよいよすんできて、村人の窮状がはっきりと頭のなかに浮んでくるとき、一刻もじっとしていられない気分になります。七日目の晩のことです。疲れ切った体で一心に祈っておりますと、いつしかぐっすり眠り込んでしまいました。夜の大分更けたころ、次郎左衛門さんは誰か自分を呼ぶ声に目を開きました。
「次郎左衛門、次郎左街門」どこからか聞こえてきます。次郎左衛門さんは、不思議に思い立ち上がりました。ところが、あれほど疲れていた体に元気が出て、少しも苦しいことがないのです。次郎左衛門さんは鍬を持って声のする方へついて行きました。ところが山の中腹のもみの木の根元まで来たとき、ばったりその音は止みました。次郎左衛門さんは、がっかりして何のことやらさっぱり分らず、そこにどっかりと、腰をおろしました。

 「おやっ」、腰をおろした所の土のなかから、かすかに水音か聞こえるのです。次郎左衛門さんは夢中で掘り始めました。最後に大きな石をぼっくり掘り起こすと、その穴からなんと不思議、もくもくと水があふれ出ました。「ヤアー水だ、水だ」。水はだんだん吹き出ます。それから次郎左衛門さんは、自分がどうなったか、まったく覚えていませんでした。
 この夜がほのぼのと明けそめたころ、一所に集って雨ごいをしていた村人の耳に、不思議な水のとどろく音がひびいてきました。「アッ水の音」「どこだ、どこだ」「鹿倉山の方からだ」「それ不思議なことだ。急げ急げ」と水をほしいと思っているときですから、我も我もと水の音を頼りに山に上がって行きました。真っ先の一人が「オー水だ。こんなに水がわき出ている」「ワァー水だ、水だ」と、と皆は大喜び 「アッ、あそこに倒れている人…」「アッ次郎左衛門さんだ」「どうしたのだろう」。
 次郎左衛門さんは鍬をしっかりと握って、ずぶ濡れになって倒れているのです。中の.1人が「次郎左衛門さんが、ずぶ濡れになっておられるところを見ると、この水は次郎左衛門さんがみつけてくださったのに遠違いない」「オー、そうだ。」
  村人たちは口々に、声をはり上げて「次郎左衛門さーん、次郎左衛門さーん」、と叫びましたが次郎左衛門さんは、こんこんと眠っています。村人は「次郎左衛門さんがこのままになってほならぬ」と大切に守って屋敷に運びました。次郎左衛門さんは、のち村人の熱心な看護で、ようやくもとの体になりました。 体がもとのようになると次郎左衛門さんは、「私達に、天が水の元を授けてくださったのだ。これからどの田にも、水が行きとどくように、我等の力でしなければならない」、とまた自分から真っ先に立て、村人を指揮して、溝を作ることに骨折りました。
 苦心に苦心を重ねてとうとう三年目に水が通うようになりました。このときの村人の喜びはどんなだったでしょう。村人はこの水の出る所を、とどろき谷と言い、水をとどろき水と呼ぶようになりました。このことがときの領主、旗本小宮山織部氏にも聞こえ大変に感心され、次郎左衛門様は「水口」の姓をもらい、賞として中田一段歩をくだされました〟そしてこの田は、明治の始めまで免租となっていました。
 水口次郎左衛門さんは、元禄元年八月二十一日、八十六歳でとどろき水を末期の水として、あの世の人となりました。のちの人はその功をたたえるため、また御恩を忘れぬようにするため、正善様として祀り、今も・八月二十一日を御命日として盛んな供養をしています〔菟原下〕。
 「とどろき水」の話は、『郷土ものがたり』第二輯に採録されているものを一部口語体に修正し収録した。水口次郎左衛門は実在の人物であり、轟水からの上井根の開鑿については第三章第五節「1農業の発達と諸産業」を参照いただきたい。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『三和町史』各巻
その他たくさん



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