旧・菟原村(うばら)
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京都府福知山市三和町菟原中・菟原下・友淵・高杉・大身 京都府天田郡三和町菟原中・菟原下・友淵・高杉・大身 |
旧・菟原村の概要《旧・菟原村の概要》 土師川中流域の友淵川が流入する地点で、菟原小学校があるあたりを中心にする、天田郡では最も東側に位置する。川沿いにわずかな河岸段丘平地があり、大部分は階段状の水田と傾斜畑。それ以外は周囲は標高300~400mの山々。東西方向に京街道(国道9号)が通る。 中世は菟原荘で、鎌倉期~南北朝期に見える荘園。摂関家領。 菟原村は、明治22年~昭和30年の自治体。菟原中・菟原下・友淵・高杉・大身の5か村が合併して成立。旧村名を継承した5大字を編成。中世の荘園名、江戸期以来の地域称をもって村名とした。 昭和30年三和村の一部となり、村制時の大字は三和村の大字に継承された。 菟原地名の由来考 菟原は茨(うばら)か フツーは、往古、当地は茨の原野で、のちそれを「ヌバラ」「ウバラ」と訛り、やがて菟原の字を宛てるようになったものだといわれている。 しかし「茨」は元々が、というのか上古語ではウバラで、茨木・茨城もウバラキである。ウバラキというか、ウマラキ、ムバラキ、ムマラキなど色々な呼び方が行われてきたが、古くはウバラキであった。それらが後に訛ったというのか、呼び方の変化で、イバラとかイバラギと呼ぶようになったものである。ウナギ(鰻)も古くはムナギであった。 仮に菟原が茨の意味なら、それは「訛った」のではなく、はるかな上代語をそのまま保存している貴重な化石語である。 漢字では菟原・兎原と書くから、イバラの原ッパにウサギがたくさんいたから、こうした地名になった。 ウッソー (‥;)! もしそうなら誠にのどかな楽しい子供のような空想だが、紀氏の末裔伝承とか、先祖が海人らしい民俗風習とも合わない。それは地名研究とは呼べないレベルの駄洒落のクラスでなかろうか、地域の歴史の解明などにはなどには何も役立つまい。ワタシはそうは考えない。そうした説では納得しない。もっと重要な意味があるかも知れない。探ってみよう。 菟原とは摂津国菟原郡のことで、元々の意味は海辺のこと。菟原は海辺(ウナベ)の意味ではなかろうか。 摂津国菟原郡は今の芦屋市と神戸市の東灘区・灘区のあたりとされる。『和名抄』の菟原郡(「宇波良」の訓注がある)、あるいは菟原という地名は「伊勢物語」「法華験記」「今昔物語集」などに見え、また「万葉集」には芦屋の菟原処女をめぐり求婚した和泉の血沼壮士・菟原壮士の悲恋が詠まれている。郡内には菟原処女の墓所と伝承される乙女塚が3基(処女塚古墳、その所在地から西約2㎞の位置にる西求女塚古墳、東約1.5㎞の位置にある東求女塚古墳)ある。血沼壮士が乙女のところに通ったことからも明らかなように、当郡は大阪湾を南ヘ行けば和泉・紀伊に接している。 「血沼」はチヌ、クロダイのことでなく、和泉地方の古名。血沼・血渟・珍努・珍・千沼などとも書かれる。和泉国和泉郡とその周辺部をも含んだ地域名で、正確な範囲は不明。同地域に面する海をチヌの海と称した。対岸から男が通ってきたという、新井崎から小浜の蘇洞門くらいである。当時の海人壮士にとってはヘでもない距離であったと思われる。 チヌから通ってくるなら、その隣の紀伊からも当然にも渡って来る者が多かったと思われる。 「菟原処女」はウナイオトメと読まれている、菟原は万葉仮名では、菟名日、菟会、菟名負、宇奈比と表記されていて、これが菟原の元の本来の地名の呼び方に近いようである。 宗部が曽我井、綾部が文井となるような、ウナベはウナイとなる。 『日韓古地名の研究』(金沢庄三郎)は、 倭名妙摂津国、兎原郡 宇波良(後世茨原郡と名づけ、茨(うばら)住吉社あり)を、萬菓九に菟名負(うなび)菟会(うなび)に作ってゐるのは海辺(うなび)の義で、神功皇后紀には令三海上(うなび)五十狭茅(いさち)祭二活田神一と見えて、この地の名族であるが、この海上(うなび)の上(び)は、大和国十市部池上 伊介乃倍、薩摩国河辺郡川上 加波乃倍 の上と同義で、辺(べ)をビと訓むのは、大和国高市都畝傍(うねび)の例を以て知るべきである。 「海上五十狭茅」の「海上」をよく下総国海上(宇奈加美の訓注がある)郡のことと考えているが、そうではなく、当地の菟原のことだとしている。 ♪碑(いしぶみ)の上(え)に こうべ垂れ…と浮島丸の追悼歌にあるが、上はウエと今は読むが、古くはウヘ、あるいはヘで、それは辺のことだ、海上とは海辺のことであり、菟原のことじゃと。本来は海辺(うなへ)であったが、いつの間にやら、菟原と書くようになったのだと言う。 菟原郡は安曇海人・住吉海人の拠点 本住吉神社(東灘区)。 菟原郡には住吉郷や津守郷がある。阪神やJRの駅に「住吉」があるが、当地には本住吉(もとすみよし)神社がある。茨住吉社で、難波の住吉大社に渡る以前の元宮と伝わる。安曇海人が北九州から瀬戸内海を東遷してきて、当初は菟原郡あたりに東瀬戸内海の拠点を置いていたと思われる。 住吉の得名津に立ちて見渡せば 武庫の泊ゆ 出づる船人。 『万葉集』に詠われているが、お互いすぐ近くに見わたせる位置であった。 住吉の名児の浜辺に馬立てて 玉拾ひしく常忘らえず。 ナコ・ナグ・ナギ社は住吉海人系の神社なのであろうか。しかし『万葉集』には宗像大社の名児の山も詠われている。 元住吉ばかりでなく、廣田神社(武庫郡)や長田神社(八部郡)、生田神社(八部郡)など海人系神社が集中している。神戸市の神戸とは長田神社の神戸のことだそうである。何も最近になって急に港町になって発展したというものでなく、二千年以上も昔から超重要な、王権に関わった港だったと思われる。 菟原郡は銅鐸銀座 最近も淡路島から銅鐸が7点出土したが、兵庫県は県別で見ればこれまでに出土した銅鐸は68口(全国では532口)と全国ナンバーワンの銅鐸王国である。「千年の都」とかの京都府は15口、奈良県は24口でしかない。 ワタシは舞鶴銅鐸しか知らないのだが、海を見下ろす二尾の出土地を見ていると、銅鐸は農耕社会の祭祀用具というよりも海人と関係がありそうだと考えてはいたのだが、菟原郡を見ればその感がますます強まってくる。ベトナムの銅鼓と関係ある、などいった説を読んで、それは信じられないと考えていた時代もあったが、うなづけるハナシに思えてくるようになった。 摂津国は多く、すでに50口もあろうか、菟原郡域からもすでに10口ばかり出土していたが、昭和39年にさらに神戸市灘区桜ヶ丘(通称神岡)で銅鐸14口と銅戈7本が出土した。大量なうえに絵画銅鐸であった。国宝に指定されている。 ←桜ヶ丘出土5号銅鐸に描かれた絵。 銅鐸と海人の繋がりを言いたいのだが、絵を見る限りは、船や魚の絵はない。流水紋や渦巻紋を見ると海人だとワタシは勝手に推定しているのだが、その紋のある銅鐸も出土しているが、その一口は滋賀県新庄、鳥取県泊の二か所から出土したものおよび辰馬悦蔵氏所有のもの(二口)と、一口は岸和田市神於、一口は鳥取県本庄から出土したものと同笵という。 銅鐸・銅戈の鋳型は、茨木市の東奈良遺跡や当地より西の播磨国に出土していて、当地あたりの出土は今までのところはない、だからあるいは他所で制作されたものかも知れない。 東奈良遺跡は茨木市東奈良、沢良宜西一帯に広がる弥生環濠集落遺跡だが、サラキは鐸のことであろうから、地名から考えてもここで銅鐸が作られていたのではなかろうか。 但馬国養父郡式内社に、更杵村大兵主神社がある。今の和田山町寺内に更杵(さらきね)神社がある、ここもあるいは鐸の製造地であろうか。兵主神はヒボコ系だろうから、後に習合したものであろうか。 サナキと言うのだが、サラキのほかサヌキとも訛る、大原に「サヌキ田」という小字があるが、ここもあるいは鐸と関係があるのかも。 銅鐸は現在の技術でも製造するのは難しいものだそうである。あんな薄いものに細かい絵が描かれている。その全体に湯が回るようにするのは至難の超絶技術だそう。二千年も昔の技術を自称技術立国がマネできない。和銅開珎などは鋳造だが、今のの五円十円銅貨は鋳造でなく鍛造、プレスだそうである。 茨木というのも、茨の木が生えていたとか言ったことでなく、茨(うばら)の村(キ)といった意味と思われる。海辺の村といったことが元々の意味でなかろうか。 海人系の青銅器製造集団が住んでいた所が菟原や茨木でなかろうか。元々は安曇系海人か紀伊海人かと思われるが、それがなぜ海辺を離れて内陸へ、三和町菟原や荒木神社周辺に入ってきたのであろう。それは鉱石を求めてではなかろうか。 紀氏も八咫鏡の製造者と伝わるから、同じ技術を持っていたと思われ、一緒にやってきたものかも知れない。 ミカゲ神社の故地か 「住吉」駅の山手に阪急の「御影」駅がある。このあたりはまたミカゲとも呼ばれる。ミカゲ石(花崗岩)はこのあたりで切り出される良質石材である。本住吉神社は安曇海人の社だから海に近く、その北側の六甲山に近い所に「弓弦羽神社」があり、この社が、いわばミカゲ神社のように思われる。記紀の神功皇后伝説に迎合したのか、独自の本来の伝えらしきものが伝わらないが、ミカゲはミカグ、カグとかカゴは銅のことであろう。 近江の三上神社や舞鶴の弥加宜神社と、あるいは丹後一宮籠神社、コではなくカゴが本来か、そうした重要な神社や日子坐王や丹波道主と関係がある。紀伊の国懸神社には、明立天御影命も祀られている。元々は紀氏が銅を祀った鉱山と鍜冶の神様かも知れない。 菟原と茨木童子 福知山市堀の式内社・荒木神社は「茨木童子」の神社でなかろうかと推測しているのだが、この氏は上野条にもいる。 ミカゲ社は三日月社となって大江町内宮のあたりに分布している。丹波当地周辺の山々は、由良川をさかのぼったというよりは瀬戸内側から入ってきたこれらの氏族の鉱山開発があったものと思われる。 旧・菟原村の主な歴史記録『三和町史』 天田都域および三和町域の地名の研究については、当地方の地名研究の先達者であり、良くその研究をリーどされてきた天野主氏による豊富な成果がある。ここでは『天田郡(三和町・夜久野町)の地名(序説)』(以下『序説』()・『天田地方の地名考』(以下『地名考』)などの多くの成果を参考に考えてみたい。 「菟原村」の文献での「菟原」の初見は、鎌倉時代前期の寛喜三年(一二三一)五月の民部卿広橋経光の日記「経光卿記」に「五箇庄内菟原・竃谷」とあり(第二章第二節「1荘園制の展開と村」参照)荘園名として登場する。『丹波志』によると古代は六人部郷に属していたと考えられる。「蒐原」の語源は「幾千年も以前にはこの里は茨の原で、どちらの峠を越して来ても手のつけられぬ高低のはげしい茨の野で、谷々に住みついた原住民が、いつともなく茨田とよび、ヌバラ・ウバラとなまり、漢字で兎原と書くようになった」(『菟原村史』)とあり、兎の字に草冠をつけて菟と書くようになったとされている。ゆえに、山地の多い地勢から勘案して、茨の原からウバラとなったのが妥当であろう」(『序説』)。 菟原の地名がしめす範囲の確定は年代ごとに考証する必要があるが、少なくとも中世においては菟原荘の領域をさしたとして間違いはなかろう。ただし、中世における菟原荘の領域については不明確である。『丹波志』によると菟原下・菟原中・友渕・高杉・大身が菟原荘とあり、また細見辻村を一説によると菟原と同荘であるとしている。長享三年(一四八九)の梅田神社の煉札の写しには「丹州天田郡蒐原庄細見村」とあり、また慶安五年(一六五二)の細見中出村の検地帳の表題にも「丹波国天田郡兎原之庄細見村」とあるが、これは後補のものと思われるので定かではない。ただ、菟原下村と中村の祭神である梅田神社同様、友渕村・高杉村・細見辻村にも梅田神社が祭祀されており、何らかの関連も考えられなくもない。明治l二十二年(一八八九)四月一日、兎原下・兎原中・友渕・高杉・大身の各村が合併し「兎原村」となった。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『三和町史』各巻 その他たくさん |
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