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丹波の

和久寺(わくでら)
京都府福知山市和久寺


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京都府福知山市和久寺

京都府天田郡福知山町和久寺

京都府天田郡下豊富村和久寺

和久寺の概要




《和久寺の概要》

和久川の流域の姫髪山(406m)南麓に位置する。標高30~70mの傾斜地にある。和久寺という白鳳寺院があったことによる地名と思われる。
和久寺村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。
享保19年の強訴で当村庄屋善左衛門はその計画に加わったとの嫌疑を受けて領分から追放、田畑家財の闕所を申し渡されている。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下豊富村の大字となる。
和久寺は、明治22年~現在の大字。はじめ下豊富村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。


《和久寺の人口・世帯数》 167・55


《主な社寺など》


有舌尖頭器
地内東部から縄文時代草創期の尖頭石器が出土している。土器は発見されていないそう。起源は旧石器にさかのぼるが、小さなものでヤジリのような感じだが、まだこの時代は弓矢はなく、投げ矢の先端に附けられたもののよう、1万年以上は昔のものと思われる。

下山古墳群
裏山には100基以上といわれる下山古墳群がある。

白鳳の和久寺廃寺
和久寺廃寺の案内板
和久寺廃寺
和久寺一帯では、古くから瓦が採集されており、寺院の在ったことが予想されていました。ほ場整備事業に伴い、昭和五十七年より三か年に亘って発掘調査が実施され、金堂や塔などの建物や周囲を取り囲んだ築地塀などが見つかりました。
寺院が建立されたのは、奈良時代であり、京都府北部では最も古く建立された寺院の一つであることがわかりました。周辺には沢山の古墳が造られており、早くから開けた場所で、大きな勢力が存在していたのでしょう。福知山市教育委員会

公民館の向かいに農村公園があり、そこにこの案内板がある。その後が鹿島神社。今の感覚では、山の中の狭い谷間の傾斜地にどうして当時の日本としては最先端文化であった白鳳寺院が建てられたのか、と不思議に思う、当時は当地あたりこそが中心地だったのだろう。奈良前期に遡る古い寺院は、府北部では俵野廃寺(網野町)と綾中廃寺(綾部市)と当寺しか発見されていない。
和久寺廃寺三重塔の心礎
鹿島神社境内の三重塔の心礎↑(鹿島神社境内)

鹿島神社
鹿島神社(和久寺)
当村の産土神の鹿島神社。当村の桐村氏・大西氏は大呂から来住したと伝え、大呂にも大中臣氏の祖神を祀る鹿島神社があり、その分社だろうか。当社の周辺一帯が和久寺廃寺跡である。
鹿嶋大明神  和久寺村
祭神     祭礼八月十四日夜
本社四尺五寸 境内十二間八間 鳥居
(『丹波志』)

浄土真宗本願寺派恵日山願成寺
願成寺(和久寺)

恵日山 願成寺 (真宗本派本願寺派) 下豊富村字和久寺
本尊 阿彌陀如来 (木像御丈け一尺二寸、明治十二年十二月廿四日本山より下賜)
開基 霊瑞和尚 (丹波何鹿郡山家藩主、谷播摩守の士、四方宗九即の三男、弘化元年真宗に皈依せるに依り本山にて得度法名霊瑞と称し道場に入り当山の開基となる。明治十八年十二月八日寂す。
創建 明治十一年五月三十日、以前は上夜久野村字直見専福寺の道場たりしを本山の許可を得て願成寺と公称す。
(伝説)和久寺には、もと七堂伽藍ありて字大門は其山門の在わし所なり。字塚の前、塔の塚、塔の殿、或は鐘鋳場、観福寺、成蓮寺等の字遺れり、今の宮の森附近は当寺塔など多くありし所か、地中よむ古瓦など出づること屡なり。
檀家 三十戸
現住第二世佐々木璧城師は、異彩ある人にて明治十年六月、豊岡師範学校卒業、教員となり、学務委員、明治十五年七月京都府会議員、京都府属、育児院長、慈善会長、其他のあらゆる民間事業に鞅掌し賞状、表彰状を受けたること屡々なり。安政三年正月十八日生、本年は丁度八十才、郡内にては住職中の最高齢者ならん。著者も師の学務委員在任中に勤めたることあり。
(『天田郡志資料』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


和久寺の主な歴史記録


『福知山市史』
和久寺の古墳(下山古墳) (字和久寺)
 字和久寺の古墳は、その数からいえば豊富谷の北側斜面で最も多く、南郷谷の笹尾・正明寺古墳、字猪崎の醍醐寺野古墳と鼎立の位置にある。和久寺の古墳は三ケ所に大別される。その一は集落の西端の丘陵にあるもの、その二は同集落の東部の丘陵上にあるもの、その三は同字和久寺池の東北の松林の中から長安寺参道付近にかけて存在するものである。第一群は規模の相当大きい、古墳が丘陵の稜線に沿うて並んでいる。すべて発掘され、墳石は一個も見られない。第二群のうち最前方のものは大西重喜氏宅のすぐ後にあるもので、相当大きく、高さ約五メートル周囲約四○メートル、横穴式で前面羨道の部分は若干けずられてはいるが、その一部と玄室は完全に残っている。既に発掘され、南に口を開いている。今大体の輪郭を述べると、羨道の部分は現在約一・五メートルしかないが、元は約二・五メートルはあったものと思われる。その幅は約一・二メートル高さは約一メートルである。玄室の部分は、幅約一・四メートル、奥行約三・一メー卜に 高さは約二メートルである。相当な巨石をもって構成され、奥壁は幅約一・五メートに 厚さ一・一メートルのものと、幅約一・五メートル、厚さ約六○センチの二大石で造られ、見るものを驚嘆させる。右側壁は三石、左側壁は比較的小さい石を数多く積んで造られている。天井は長さ約二メートルと、一・二メートル以上の二枚石でおおわれている。
 その北方十数メートルのところに、同規模の古墳があるが墳石はすべて持ち去られている。それより北方林の中の小道を進むと、字奥野部から長安寺に上る道に合する。その道の付近にも点々と古墳を見るが、和久寺墓地の東北松林の中に特に多い。その付近のものは高さ一メートル余、周囲五メートル前後のごく小規模のものが多い。和久寺集落一帯は南向きの日当たりのよいところで、しかも年中河川の氾濫の心配もなく、古代人の生活には最も適したところであったらしい。

『福知山市史』
和久寺廃寺の遺跡・遺物
 字和久寺の集落の南方、ゆるやかに傾斜する水田の中に鹿島神社という小祠があり、その一隅に一大礎石が残っている。この礎石は、以前はこの祠の西南約三○メートルのところに約一坪の小高い土地があって、そこにあったものを近年になってこの地に移したものである。この礎石は早くから学者の注目するところであって、既に昭和二年に佐藤虎雄氏によって一応調査されたもので、今その報告によって大体を述べ、次にその後に発見された資料によって説明を加えることとする。
 礎石はこの付近の古墳の石榔に用いている石と同じく、姫髪山に産する閃緑岩である。その形状は、自然石を一面平滑にしてすえたものである。当初の位置では長軸は南北を指し、その長さ約一・三六メートル、幅約九一センチであって、側面は北部が地上に約四一モンチの高さを有し、それより南方にやや緩斜していたのであった。そしてその表面のほぼ中央に、径約三七センチ、深さ約二センチの穴があり、その凹所の曲線は極めてつたないもので、地方色をよく表わしている。この石はまさに礎石らしく、かつ寺院建築の上からみて、塔婆の心柱の礎石としてまず差支えないものである。村人の間にもこれは塔婆の礎石であると伝えられて来た。これについて天沼俊一工学博士は次のようにいっている。
  この礎石を利用した塔はおそらく三重塔であったであろう。一体この種の礎石に柱を立てる場合に、尾入と臍入との二つの方法がある。もし前者とすれば直径約三六センチの心柱と考えられるが、その場合には四天柱あるいはその礎石の位置は、この心柱に重なり触れる位置にあって成立しない。又凹穴は不正円径であってそのカーブが拙いのは臍入に都合がよく、且つ四天柱の礎石の位置は心柱の礎石に触れることなく成立する。果してこの種の柱ならばわずかのチリを残して直径約五二センチを出ないであろう。
 この礎石が創立当初の位置のままであるとすれば、この土地が少しく高い(昭和の初めは高かったが今はそうでもない)のは土壇と見なければならず、その上に塔楼が立っていたことがしのばれる。その付近周囲の地形は南北が山にかこまれて東方が開けているから、ここに立っていた堂塔伽藍は東面していたものであろう。東面した例は奈良県・徳島県などに一~二ヶ所ある。
 次にこの礎石付近の土地を掘ると布目の古瓦の破片が多く発見される。多くは黒黝色であるが中には土器のように赤いものもあり(福高所蔵)又写真に示すように大形の菱格子の浮出のあるもの、又反対にその格子の骨の部分が凹んでいるものもある。格子の組み方があらいもの、細いものもあるが、とにかく大体格子模様が施されていることは極めて珍しく、和久寺独得のものと見てよかろう。時に縄目の模様のあるものもある。佐藤氏調査の際は、鐙瓦(丸冗)は発見されなかったらしい。これらの瓦はさきの礎石上の建物をふいたものと思われる。佐藤氏はかくて「上記の礎石及び瓦は遺物そのものから推考して奈良時代のものなり。他に歴史的資料ありて時代下りても平安朝初期迄のものなり。飛鳥時代にも平安朝中末期にも入らざるものなり。和久寺大門等の廃院の旧趾遺物ならん。更に文献及び考古学的資料の発見を待ちて考察を下すべきものなり」。(京史調報第八冊)
 桜井清彦氏の分類にあてはめれば、和久寺廃寺の礎石は?穴(ぜいけつ)礎石であるが、?穴礎石は一般には礎石の上に円形の柱座を造り出して、その中央に直径一五-一八センチ、深さ六○-九○センチのはめこみを掘ったものが多く、それらは大和の豊浦寺、河内の野中寺など白鳳時代に流行した方法である。この和久寺の礎石は造り出しはなく、礎石の表面に直接に?穴をうがったものであり、その規模はかなり大きい方である。大和の大窪寺や甲斐・飛騨の国分寺など特に大形のものは、白鳳末期から奈良時代初期にかけて行われた(駒井和愛篇「考古学概説」)。この説によれば礎石の大小いずれにしても奈良時代初期を下らないことになる。
 また佐藤氏調査の際に発見されなかった鐙瓦が、昭和二十六年春福知山高等学校考古学班員竹下与作君によって拾得された。この鐙瓦は全体の約五分の一位の破片であるが、中房の内部を除いてほぼその全形が復原出来て貴重な遺物である。この瓦当を奈良時代以前の古寺の瓦と比較するならば、その複弁の形態、周縁部の鋸歯文、それから周縁に珠文がないことなどは、法隆寺の飛鳥時代の鐙瓦とよく似ている。ただ花弁が法隆寺瓦に比べて明りょうに二つに分かれて長く、したがって中房の径の瓦の直径に対する割合がやや小であること、内区の周囲に二重の重圏をもっており、周縁の鋸歯文と蓮花文との間がかなり広いことなどが異っている。中房の中の蓮子は何個あったか不明である(蓮子の数と配置は他の古代瓦を参酌して加えたものである)。なお鋸歯文は法隆寺瓦は線が浮き出されているのに対し、和久寺瓦は鋸歯の部分が全体凹んでいる。もちろん飛鳥時代までさかのぼることは出来まいが、文様の上に一連の系統が存する点が認められる。
 注 奈良時代の瓦当文は複弁の蓮花文が全盛を極め胡桃が長くなり、中房が小さく、周縁が広くなるといわれている(全掲書)のであるから、和久寺のこの瓦も奈良時代のものと考えねばならないであろうが、それにしても前記のごとく、この瓦が奈良時代の他の寺院のものと比べて、より以上に法隆寺瓦と似ていることは、さきの礎石論ともにらみ合わせて時代を一層さかのぼって考えてもよいように思われる。このように考えるならば佐藤氏の前記結論は一層強く裏づけられて余りあるものであろう。
 右に関し思い合わされることは近隣綾部市にも布目瓦と鐙瓦が発見され、それが明らかに奈良時代の東大寺瓦の様式に酷似していることである(村島氏編・三丹蚕業郷土史)。仏教がわが国に渡来してから、急に全国にひろまり推古天皇の三十一年(六二三)には全国に四六ヵ寺、それから白鳳期をへて、奈良時代には、各国の国分寺、国分尼等を含めて七百余の寺院があったという。これらの寺院のたいていは、今日のような、本堂と庫裡といった簡単な構成ではなくて、本堂・庫裡のほかに塔・講堂・経蔵・鐘楼・僧房・食堂・浴室などをふくみ、寺域も広く、一へクタール(一町歩)から、東大寺のように三○ヘクタール以上という広大なものもあった。それらの寺院はすべて木造建築であったので、火災にあえば、瓦や礎石だけが当時をしのぶ資料として残ることとなるのである。上代人の生活は生きるということ以外には、中央はともかくとして、地方では宗教以外に文化らしいものは求められなかったのであったが、この地方にも仏教が伝ぱして、前記七百余ヵ寺の中に入る位の寺が建てられていたものとも思われる。このように、福知山・綾部とも案外仏教文化の進んだところであったらしい。
 昭和四十七年に至って新しい形式の鐙瓦が発見された。長い星霜に耐えながら出土したその鐙瓦は、傷みがひどく、往時の姿は想像するしか仕方ないが、その大要は次の通りである。
 直径は一九・六センチで、周縁に一八個の連珠文と連珠間に四本の縦横文様、それに九葉の単弁蓮華文が間弁をはさむ形で作られている。中房部の傷みがひどく欠損しており、その復元はむずかしい。
 時代区分としては、府教育委員会の高橋技師は奈良山田寺の系統をひいた白鳳時代のものであろうと言っている。今後、再度出土する遺物によりなお研究されねばならない。

『舞鶴市民新聞』(99.8.27)
*由良川 考古学散歩63*
*遺跡の科学 その2*

 以前、「遺跡の科学 その1」として木簡の文字発見に科学が応用されているお話をしました。覚えてらっしゃいますか? 覚えてない?すみません。続けるつもりがこんなに遅くなってしまいました。詳しくは第54号を読んで下さい。
 今回は出土品の保存にかかわって行われる科学の話をしたいと思います。さて、博物館や資料館などへ行くと何々遺跡・なんとか古墳出土の刀とか剣とかってありますよね。え! 見たことがない。それではぜひこの機会に行くことをお勧めします。
 見たことがある方ならよく知ってるでしょうが、刀や剣あるいは鏃(ゾク=やじり)には大きく分けると石でできたもの、銅でできたもの、鉄でできたものの三種類があります。時間がたてば石は風化するし、銅や鉄はさびてしまいます。特に鉄は銅以上にさびるのが早く、放っておくと粉々に砕けてなくなってしまいます。
 一九八八年~一九九三年に発掘調査された福知山市和久寺の下山古墳群の鉄製品の多くも、発見されたときは錆でぼろぼろの状態。なんとか形は留めていますが、元々の鉄部分はほとんど錆に置き換わっています。放っておけばいずれはなくなってしまうのは確実でした。
 日ごとに形が失われる鉄製品。これ以上の破損を防ぎたい、何とか元の形に近づけたい。これは発掘調査を担当したものならば、誰もが思うことです。
 この思いの救世主となるのが鉄製品の保存科学処理です。京都府下では、山城町にある京都府立山城郷土資料館の橋本清一さんが、この仕事を一手に引き受けています。
 詳しい方法は、「科学」ですので私の理解の及ばないところもありますが、まず鉄製品の中に含まれている水分と塩分をできるだけ取り除きます。アルコールに漬けたり、真空状態にしたり、あるいはオープンのようなところで熱したりして徐々に取り除いて行きます。その後はあくまで根気の仕事。キュイーンという音を聞くだけで身震いする、歯医者さんで使うような砥石やダイヤモンドカッターで錆を削り形を整えて行きます。さびてなくなった部分は樹脂を埋め込み古色をつけます。最後にアクリル樹脂を主とする薬剤をしみ込ませれば、できあがりです。
 と、手っ取り早く書けば簡単なようですが、錆の中にある水分はなかなか取れず、錆の塊をとるのもずいぶん骨の折れる仕事です。また薬剤の調合は科学者の独壇場でしよう。
 橋本さん曰く、「今の方法が鉄製品の最良の保存処理方法ではない。もっと良い方法を考えなければならない」と、日夜研究の毎日です。 (八)

『舞鶴市民新聞』()
*由良川考古学散歩〈40〉*瓦礫のささやき*
 「あれ? 何だこれは!」それは、ある遺跡見学会でのお話です。福知山市の和久寺廃寺(わくでらはいじ)跡を訪れたとき、見学者の一人が何かを見つけたようです。どれどれ、何か珍しいものでも見つけたのかなと内心ワクワクして近寄ってみれば…。
 「ほら!」と差し出されたのは瓦のカケラ。「模様の入った軒瓦かな?」と、よくよく見てもただの平瓦(ひらがわら)。寺院跡からは沢山出土するもので、ここでも田んぼの片隅に礫と一緒に積み上げられ、まさに瓦礫(がれき)です。
 「ほら、ここですよ」というつ言葉に気を取り直して、もう一度見る。「んー、そうでした。確かに和久寺廃寺の平瓦はおもしろいんです。ただ、かなりマニアックですけれど」
 あっ、そうですね。ここで瓦の説明を一応、簡単にしておきましょう。
 日本で初めての瓦葦(ぶ)き建物は飛鳥時代に建てられた飛鳥寺と言われています。その後、各地の寺院建築や宮殿に使われますが、日本建築の代名詞のような黒光りする甍(いらか)の町並みは、江戸時代に発明された桟瓦(さんかわら)によるものです。
 また、形も少し逢い、丸瓦と平瓦を交互に組み合わせ、それぞれの軒先には軒丸瓦・軒平瓦と呼ばれる文様が描かれた本瓦茸さでした。首が少し痛くなるかもしれませんが、空を見上げて瓦の種類を見比べて下さい。
 話を元に戻しましょう。この平瓦は、片面に布目があり、もう片面には大きな菱形の文様があります。問題はこの菱形の文様。普通、平瓦を作るには桶(おけ)のような木型に粘土を巻き付け、叩(たた)き板で叩いて形を整えます。この叩き板には交互に斜めの溝が刻み込まれていますから、瓦には凹形の菱形が残るはずです。けれどもここのは菱形が凸。「う-ん、おかしい????」。まさか、板に菱形を彫りこんだものとは考えられないし、普通の平瓦を叩き板に転用した? などなど考え出すと、今晩寝られなくなりそうです。
 類例は、今のところ兵庫県伊丹市の寺院跡が唯一知られていますが、いつか似た瓦が出土する寺跡が見つかれば、和久寺廃寺との何らかの繋(つな)がりを考えることができるでしょう。
 考古学をかじっている人は、「だからどうなんだ」というようなことにもこだわります。この瓦の面白さを見つけたこの方、この世界(考古学)にどっぷりとはまりこんでいるんでしょうね。でも、こんな地面をよーく見れば、こんな風にいろんな発見があります。瓦礫の中からでも、もしかすれば歴史のひとかけらも見えるかもしれません…。 (八)

『福知山・綾部の歴史』
和久寺廃寺
和久寺廃寺の跡は、JR福知山駅から西北約三㌔の福知山市字和久寺にある。この周辺は由良川の支流和久川が貫流する細長い肥沃な河谷平野で、当地方きっての優良米の産地として知られている。しかも地域内の到るところに縄文・弥生時代の遺跡や新旧の古墳が散在しており、この地の開発の古さを物語っている。
和久寺地区の産土神「鹿島神社」の境内には直径三七㌢、深さ一一㌢の柱穴のある大きな礎石が残されており、その周辺では古代瓦の破片が数多く発見されていたことから、この一帯が古代寺院の跡であることは早くから知られていた。圃場整備事業の実施を機会に、昭和五七年(一九八二)から三年間にわたる発掘調査が行なわれた結果、初めて寺域の範囲、伽藍配置、寺院存続の時代などの大略が明らかにされた。福知山市教育委員会の調査報告書によれば、寺域はおよそ一〇〇㍍四方に及ぶ。伽藍配置は、現在の鹿島神社を中心に南面しており、塔跡・金堂跡のそれぞれの基壇が左右対称に並び、塔の後方には縦長の僧坊跡が確認された。僧坊跡に沿って回廊跡が北へ直線的に伸び、寺域の西北隅には工房跡らしき遺構、その南には井戸一基も認められた。門・講堂や食堂のような諸堂跡は、寺院廃滅後の削平が著しく遂に確認するに到らなかった。まがりなりにも七堂伽藍とおぼしき遺跡を確認できた上、周辺に出土した夥しい古代瓦や須恵器、黒色土器などから、寺院の存続期間が奈良時代
ら平安時代にわたることも判定された。調査担当者は、以上は調査の始まりに過ぎないと述べているが、いずれにせよ、そのような早い時期に、国分寺には及ばないにしても、これほどの寺院が草深い奥丹波の地に建立され、長期にわたって仏教文化の花を咲かせていたのは、郷土の誇りであり、今後なお一層の調査研究が期待される。



伝説






和久寺の小字一覧


和久寺(ワクデラ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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