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丹波の

夜久郷(やくごう)
京都府福知山市夜久野町


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京都府福知山市夜久野町

京都府天田郡夜久野町

京都府天田郡上夜久野村・中夜久野村・下夜久野村

夜久郷の概要




《夜久郷の概要》

「和名抄」天田郡十郷の1つに夜久郷が見える。今の夜久野町域に比定されている。
地名がどうした意味を持つものかは不明。田倉火山があるから「焼く」でないかとか、須恵器を「焼く」でないかとか。説はいろいろある。古代に田倉火山がどうした状態だったかは不明で、小さな火を吹き上げていたかも知れないから、無下に否定することもできない。
世界遺産・屋久島から来た人の地などは意外で面白いが、別に特に根拠があるわけではない。
居母山で播磨国揖保郡がふと頭に浮かんだのだが、そこには養久(やく)というところがある。今は兵庫県たつの市揖保川町養久というそう。何か関係があるのかも…


夜久郷の主な歴史記録


『福知山市史』
夜久の地名については、夜久野の田倉火山の噴火から類推して、焼くが夜久となったものであろうという人がある。しかし夜久野に人が住むようになってから、この山が噴火したかどうかが問題であり、先に述べたように、慶雲三年(七○六)秋七月に丹波但馬二国山ウ冠に火アリ遣三レ使奉二幣于神祇一即雷声忽応不レ撲自滅 とあるが、これが噴火の記事ではないかと思われることはすでに別の証拠から論及した通りである。あるいはまたこの付近の原野に薬草が生えるので薬野というようになったという説もあるが、これは単なる付会の説であろう。また一説には中世、夜久氏がこの地方の地頭となったころから呼称されたところであるともいう。こういうことは各地に例もあり一概に否定できない。なお次の邨岡邦輔氏の日本地理志料の記事も注目に値する。すなわち延喜式の丹波国の駄馬を列挙した中に前浪五疋というのがあり、その地の考証の最後に、按 夜久与レ駅同音、兵部省式所謂前浪駅或是耶、姑附 備考 と述べている。すなわち、夜久と駅とは同音である。しからば前浪駅というのは夜久郷にあったのでないかというのである。この説をとると、夜久は往古駅がおかれたことから転じて呼ばれるようになったことになるが、あるいは最後の説が最も真実に近いのかも知れない。
 夜久野は牧川の中上流々域を占めるのであるが、丹但国境で弥生式土器を発見したこと及び牧川の下流牧方面と中夜久野に古墳が多いことは、この地方の考古学的調査の章で述べたところである。一方兵庫県朝来郡側にも多くのそれを見ることが出来る。そうして夜久野に接する旧東河村にも数基の著しいものがある。これらのことから推察すると、古墳時代の人々や文化は、東は由良川から牧川の谷へ入り、西は円山川を上ってその支流東河川の谷へ入ったもののようで、この地方は由良・円山両河川文化地域の接触地帯ともいえよう。
 下夜久野村字末が陶器(須恵器)の産地であって、その窯跡があるのも注意されなければならない。次にこの谷筋が、中世平安時代には山陰道にあたっていなかったことは別項で述べたが、年を経るに従い交通もひんぱんとなり、重要な交通路となって行った。応仁の乱に、但馬を本拠とする山名氏と、丹波を地盤とする細川氏がこの夜久野ヶ原で激戦を交えたことは、軍事地理上の必然的事実ともいうべきであろう。かくて江戸時代には山陰街道としての幹線交通路となり、今日鉄道が縦貫するところである。
 夜久郷が史上に現われるのは、正平二十四年(応安二年 一三六九)に荻野朝忠が同郷の今西村を押領したので、時の管領佐々木頼氏が丹波の守護山名時氏に対し、これを禁ずる奉書を出したことが初めであろう。これを受けた時氏は守護代小林左近将監に対し同じ意味の遵行状を出した。ところがなお押領をさし止めることが出来なかったと見えて、翌応安三年に管領細川頼之がまた奉書を出した。その後も将軍足利義満は改めて旧今西村と何鹿郡八田郷を安国寺に寄せる寄進状を出した。それでもなお押領が止まなかったので、応永八年(一四○一)管領畠山基国が丹波の守護細川満元に対し押領を止めさせるべき将軍奉書を出し、満元は守護代細川遠江前司頼直に対し遵行状を発し、これを受けた細川遠江守は、夜久郷の地頭西倉二郎左衛門尉に打渡状を送って萩野出羽入道の押妨を禁じた。以上夜久郷今西村は応安二年の前から応永八年まで三十数年にわたり、荻野出羽入道によって押領されていたのであった。
 これらの事実は綾部市東八田の安国寺に残る文書によって知られる。なお安国寺には足利尊氏の母上杉清子から、夜久郷を光福寺(後の安国寺)へ寄進したいという意味の仮名書きの書状が残っている。その後しばしば土地の豪族によって押領され、その度ごとに足利将軍から安堵状が出ていて、第十代将軍義稙の御判御教書のごときは永正五年(一五○八)のものであって、文書に出ている最初の押領事件から百四十年もたっている。その間にはかの応仁の乱もあったわけで、寺社領などが荒されることは当時としては普通のことであったのである。安国寺文書による今西郷の究明は歴史編室町時代の章を参照されたい。なお南北朝時代のこの地方の研究のためには、下夜久野地区字畑の円満院について調査しなければならないが、これも後の章にゆずることとする。
 その後応仁元年 (一四六七)六月には但馬方面から山名方の大内政弘、河野四郎等がこの地方へ攻め入り、守護代内藤貞徳はこれを夜久野に迎え撃ち、直見大膳武綱は戦死するということもあった。また翌二年三月には細川方の長九郎左衛門、丹波の守護代内藤貞徳、夜久頼重等は但馬で戦ってことごとく戦死したともいうから、当時夜久野方面がその渦中にあって、ざわめいたであろうことが想像される。(応仁記・重編応仁記)


『上夜久野村史』
⑤推古朝二十四年(六一五)同二十八年(六一九)、奇明朝三年(六三一)に掖玖氏帰化及び掖玖氏漂着のことなどが年譜にみられる。
掖玖氏が夜久氏であるとして、奄美の屋久島から但馬に上り、当地夜久野に定住したものではないか。
北人に関するとおもわれることなどの草稿中に一応の問題として捉えたことで、論拠にも乏しく、むしろ否定的に考えているが、二点を紹介しておこう。
(A)屋久島の住人とおもわれるものが掖玖と記され、「夜久」と酷似していること。またそのまゝ夜久とも記されていること。
(B)但馬は丹後と共に朝鮮からの多くの帰化の民が住みついた土地柄であり、当夜久野は丹波にあるとはいいながら但馬の文化園に含まれた古文化をもつ土地であること。
(C)黒潮海流は奄美かち北流、対島海流となり但馬の岸辺を洗うので海流にのって掖玖人が当地に渡来したと考えられないか。
(日本書紀巻第二九)
天武十一年七月丙辰(二十五)
多禰人、掖玖人、阿麻弥人賜禄 各有差
(続日本紀巻第一)
文武三年七月辛未(十九)
多ネ、夜久、奄美、度感等人、従朝宰而来貢方物、授位賜物
各有差、其度感嶋通中国於是矣
(続日本紀巻第六)
霊亀元年春正月甲申朔
天皇御大極殿、受朝、皇太子(聖武)始如礼服拝朝、陸奥出羽蝦夷併南嶋奄美、夜久、度感、信覚、球美等来朝各貢方物其儀朱雀門左右陣 列鼓吹騎兵、元会之日、月鉦鼓自是始矣、
(続日本紀巻第十九)
天平勝宝六、正、発丑(十七)
大宰府秦、入唐副使従四位上吉備朝臣真備船、以去年十二月七日、来着益久嶋、、自益三後 自溢久嶋進発漂蕩著紀伊国牟漏埼、
以上夜久野の地名の由来については、何れもはっきりしないが、国、郡、郷に関する土地名は古く、容易には探究出来難いものがある。日本地名大辞典(沢田久雄)には、当地夜久野を記して、
“「夜久」丹波の国の古地名、天田郡夜久郷見ゆ、いま同郡に上、中、下夜久野の三村あり、夜久郷は凡そ此地に当る。”とあり、更に「夜久」筑前国の古地名、延喜兵部省式に筑箭中、夜久駅々馬十五疋と見え、太宰府往還の要駅たり、その地評ならざるも昭和十二年八幡市に入りたる遠賀郡、上津役村(こうずやくむら)の役はこの郷名を襲へるものなるべし。」とある。
調べたところでは全国に「夜久」の地名は、屋久島の「屋久」と、福岡県の筑前の古地名「夜久」に当地夜久野の「夜久」の三つを数える数少ない地名である。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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