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丹波の

岼(ゆり)
京都府福知山市三和町岼


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京都府福知山市三和町岼

京都府天田郡三和町岼

岼の概要




《岼の概要》
川合小学校の少し下側、旧河合村の中心地。川合川中流域の小盆地に位置し、川沿いを府道59(主要地方道市島和知線)が走る。
岼村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。「丹波志」に「河合谷ハ天正年中惣村断絶……河合一村ナリ。後岼村ヨリ出戸シ六箇ト成」と見える。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」とも河合村に含まれていたが、「巡察記」「旧高旧領」では6か村別々の石高を掲げ、当村は156石余。
明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年川合村の大字となる。
岼は、明治22年~現在の大字名。はじめ川合村、昭和30年からは三和村、同31年からは三和町の大字。平成18年からは福知山市の大字。


《岼の人口・世帯数》 111・54


《主な社寺など》

渋谷神社
渋谷神社(岼)

渋谷大明神  六部郷  河合村ノ内岼ニ建
祭神 渋谷土佐坊ノ霊  祭礼九月九日  岼ト上河合産神
本社南向  華表
境内凡三十間四方  宮守在
此地ニ毘沙門堂三間四方
(『丹波志』)

村社 渋谷神社   同村字岼小字宮ノ腰鎮座
祭神 饒速日命、
社殿 流造、槍皮葺、向唐破風向拝付。 境内 九百四十五歩。
祭日 例祭 十月九日  祈年祭 三月十六日  新嘗祭 十一月十六日
末社 若宮神社  祭神、大鷦鷯命、
氏子 百五十七戸
(『天田郡志資料』)

渋谷神社
三和町字岼小字宮腰に所在。饒速日命を祀る。『丹波志』には「祭神渋谷土佐坊ノ霊」とし、岼・上川合の産神とする。また「神社明細帳」には「饒速日命」とある。なお『丹波志』によると「此地ニ毘沙門堂三間四方」と記され、境内に毘沙門堂があったという。
規模・構造は一間社流造で、正面に唐破風造方一間の拝所を造りつける。この形式は江戸時代後期から丹波・丹後一帯に散見されるが、これは参拝の場である土間拝所に雨よけの機能をもたせたものであると考えられる。『川合村史』には「流造檜皮茸で唐破風向拝付」(明治二十九年-一八九六-十二月再建)とある。身舎は円柱で、尾垂木をつけた二手先斗木共である。向拝は二段組の連三斗で中備に彫刻を置く、軒は二段繁垂木、向拝軒は二軒吹寄垂木である。身舎と向洋のつなぎは海老虹梁、さらに手狭で飾られている。妻飾は二段に持ち出す。
 当社には、享保二年(一七一七)十月大工藤村正方の十分の一の図がある。現在の社殿は、擬宝珠に「明治廿八年」(一八九五)とあることから、同時期の再建であろうと思われる。
(『三和町史』)


曹洞宗光照山常楽寺
常楽寺(岼)
光照山常楽寺  河合村岼ニ建
臨済宗本寺船井郡胡麻村秀林山天龍寺夢窓国師開山也  末寺ニ中興附ヲト云
尊氏公建立寺三間半ニ六間斗堂三間四面 田畑高一石八斗五升除地ナリ
(『丹波志』)

光照山 常楽寺 曹洞宗船井郡胡麻村龍沢寺末  川合村字岼 
 本尊 聖観世音菩薩 阿禰陀如来   開山 菟原村字中龍源寺に同じ
 開基 請丹門益和尚         中興 本寺龍沢寺拾六世騨峯智戒大和尚
 行事 一月、大般若祈祷会 二月、涅槃会 三月、観音講、百萬遍祈祷会 四月、釈尊降誕会
    八月、大施餓鬼会  九月、観音講、百萬遍祈祷会 十月、祖師講、達磨忌
(丹波志)創建は正保三年なりといふ。又常楽寺址、岼にあり、今は唯一堂阿弥陀仏を安置す。願主樋口加賀守云々
 檀家 百八十戸(上川合、岼、加用に亘る)
(『天田郡志資料』)

『三和町史』
光照山常楽寺
常楽寺は、平成五年(一九九三)十月に岼小字山ノ神に移転した。前所在地は岼小字ヤシキであった。常楽寺は。『丹波志』によると、「臨済宗本寺、船井郡胡麻村秀林山 天竜寺夢窓国師開山所也、末寺ニ中興附スト云、尊氏公建立寺、三間半二六間斗、堂三間四面」とある。江戸時代の本末関係では曹洞宗となったが、それまでは臨済宗であったのであろうか。「寺院院明細帳」には、「曹洞宗本寺龍沢寺末、本尊聖観音」とあり、その由緒について「当寺ハ原天台・真言ノ伽藍、但シ村翁ノ伝説ナリ、先住良英代真言ノ仏殿ヲ改ム。中古臨済宗天竜寺派タリ、宗祖道元二十五代法孫永平寺二十五世、本寺龍沢寺二代勅使被賜紫衣、諡号日照孤峰禅師諱龍札、正保三丙戌年本尊観音ノ夢想ニテ住ミ、開山トナル。而テ此観音ノ来由ヲ尋ルニ、小松重盛卿ノ作ト云フ。又俗ニ敷符ノ観音ト云イ伝エリ」と記されている。
創建は正保三年(一六四六)で、本尊は聖観世音菩薩・阿弥陀如来であり、開山は龍札大和尚、開基は請円門益和尚、中興は禅峰智戒和尚とされる(『川合村史』)。
当寺には、諸仏像、金剛般若経(貞享二年-一六八五-)、百方遍数珠(享和二年-一八〇二-)などの什物がある。平成五年、現在地へ新築移転するにあたり、大法要が営まれた。


中世の城館跡
集落の北に岼城跡、樋口加賀守の居城跡で、西方の谷を殿ノ奥(どんのく)といい、ここに加賀守の墓があった。江戸時代にはその本家源右衛門が代々庄屋を勤めていたという。また不立ノ城(たたずのしろ)とよばれるものがある。浅木山城は三俣との境にある。
河合岼城跡堂ノ奥城跡不立ノ城城跡浅木山城跡

一古城跡  河合村
此地日向ト云所山上ニ在 樋口ノ出城也ト云 山裾ニ上ツホ子 下ツホ子ノ屋敷ト云古跡有 土居高貳間斗 大土居東西三十間北南エ鐘木形ニ十五間斗土居有 両方平地ナリ 此所ニ土民家居スレハタゝリ有ト云 今堀ノ内ト云
河合ノ谷四ヶノ古城ハ皆樋口ノ持城ナリ
一古城
古城主樋口対馬守
此地日代ノ段西ノクマト云 麓?ノ字ニ云 木ニ三ノ形有是細見中手村樋口氏ト同シ 樋口次郎光感子孫ナリト云 姓氏部ニ委出
一古城堂アイナ山   川合村ノ岼
民家ヨリ北四十間上ル平地 古城主樋口加賀 此西ノ方ノ谷ヲ今殿ノ奥ト云 此所ニ墓有 子孫一統五軒斗有之 樋口讃岐守佐渡守加賀守持
一不立ノ城  同所岼
此古城地ヲ取ヘシト普請ノトキ敵来テ討故ニ城主何地トモ不知失ス依之不立ノ城ト云 樋口佐近古城主也
一古城山
岼ノ村ノ中ヨリ辰巳川向ニ在
古城主  子孫不知
(『丹波志』)

浅本山城〔岼〕
浅木山城跡は、岼の西北、三和町と福知山市三俣の境界付近の山頂(標高四二七・四メートル-比高約二六〇メートル)にあり、町域の山城としてはもっとも高いところにある。山頂からの眺望はよく、ことに綾部市の安場川辺りが限下にある。
 最高所の主郭を中心に、左右の尾根に帯郭状の削平地がのびており、山頂部分の全長は約一〇八メートルである。主郭は一辺一八メートルの方形に近く、主郭の西方には堀切りと土塁が設けられている。高所としてはていねいに構築されている。
『丹波志』には次のように記している。
古城、浅木山ト云、三俣村、古主浅木縫殿ト云、無子孫、浅木カ嶽トモ云、河合ト三俣ノ堺也、三俣分ノ地也、四方山高シ、依之外ヨリ不見、東浅木カ岳ト云ヨリ京愛宕鞍馬山丹後山見ル、西天田、東何鹿後八木氏移之往スト云、八木尾張守ト云(中略)、備前守浅木山ニ移、夫ヨリ山家ノ城ヲ責ル、其夜大雨ニ紛レ上原辺ノ郷士白抱地氏山家ノ谷氏ニ加勢シ夜打ス(以下略)
同じく、「見取図」も三俣村として「八木尾張守、船井郡八木山城内藤内、出張也」としている。『丹波志』の記述によれば、この城は東浅木カ岳にあたるのかもしれない。また、この山家攻めが内藤氏の山家攻めにあたるとすれば永禄六年(一五六三)のこととなるが、谷氏の出家入部の二十年以前のことであり、位置的にも首肯しがたい。しかし、内藤氏の奥丹波進攻の基地として使用された可能性は十分考えられる。

タタズノ城〔岼〕
川合川の左岸、岼・下川合の境界付近の標高約一九〇メートル(比高約九〇メートル)の尾取にある。東南の山頂から北西にのぴる尾根が幅広くなって台地のようになった背後を、空堀と土塁で遮断している。土塁の幅は一・五~一・八メートル、高さ一・五~一・八メートルで、延長は七六メートルある。主郭は等高線に沿って長方形に仕切られているが、あまり明確ではない。また、北西へとのびる削平地はところどころ石垣で仕切られているが、石垣が一部でも築城時のものとすれば、当地方の山城としては貴重な遺構といえよう。
『丹波志』は「不立ノ城」として「此古城地ヲ取ルヘシト普請ノ時、敵来テ討、故ニ城主何地トモ不知失ス、依之不立ノ城ト云、樋口左近古城主也」と記している。また「見取図」は「不建放」と記し、堀切りと土塁に沿って一二間四方の郭とその下方に奥行き三間の蔀二つを図示している。伝承通りこの城が途中で放棄されたものとすれば、当地方における石垣の使用時期をさぐるうえでも重要なものとなろう。同じく途中放棄であれば、城郭の築造順序が最初に背後の土塁・堀切りを造成してから郭主体部にかかるということが想定され、稀有な例となろう。また、その名前の通り「タタズ」でなく完成をしていたならば、その規模は町域では特筆すべき大きなものとなっていたと思われる。

殿ノ奥城〔岼〕
川合谷のほぼ中央部、川合川右岸の標高二〇〇メートル(比高約八〇メートル)の尾根にある。西方からの尾枚を三重の堀切りと土塁で遮断し、尾根が急勾配となる東端まで削平地が連なる。空堀から東端までの全長は約一七四メートル、主部部分は約六一メートルである(図25)。
 「見取図」には「堂垣ノ上、天正年中、樋口加藤守古城、高一丁、代々惣本城也」と記す。『丹波志』には「堂アイナ山」として「民家ヨリ北西十間上ル平地、古城主樋口加賀、此ノ西ノ方ノ谷ヲ今般ノ奥ト云、此処ニ墓有」と記す。
 さすがに「河合四力城の総本城」を標榜するだけあって、町域でももっとも洗練された縄張りが施されている。ことに、南北の斜面に竪堀を要所要所に構築して防御を固めているのが特徴的である。
 川合地区にはこの他にも古城とされるものがある。加用に残る小字「城のもと」は、城郭関連の地名であろうと思われるし、岼の長宮と上川合稲葉の谷を二つに隔てるように連なる山も、明治六年(一八七三)の岼村絵図(岼区有文書)には「城山」と明記されているが、ともに遺構を確認することはできなかった。寺院跡と伝承きれている台頭の霊山ケ嶽の山頂部分(綴高四五二・九メートル-比高約二五〇メートル)は、山頂から一段低く帯郭状の削平地がめぐらされており、城郭とも考えられる。また、大原の蛇ケ谷と中津戸をわける山(標高二七二メートル-比高約一〇〇メートル)の尾根は、堀切りで切断されている。他に城郭の遺構は確認できなかったが、小字も「ホリガタワ」ということから何らかの関連があったのではなかろうか。
(『三和町史』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


岼の主な歴史記録


『綾部市史・資料編』「巡察記」
岼村 土性赭埴ニ塩土ヲ混ス 地獄谷ノ辺ハ塩
多ク壌土ヲ為セリ 長官ト鷺谷モ亦此レニ同シ
田方七町五段六歩畑方十町七段二畝二十七歩
高百五十六石五斗九升 家数五十二軒人別二百
四十六人牛二十七疋
当村ノ産業大抵上川合ニ同シ 烟草繭楮椶モ売
リ出シ茅ハ千駄ニ及ヒ薪木ハ五千駄ニ余レリ
蒟蒻玉モ百駄ニ下ラズ

伝説


『三和町史』
かえるになったボタモチ
むかしむかし、とっても貪欲なおばあさんが住んどった。美味いものは、何でも戸棚に隠しておいて、嫁さんには一つもやらなんだそうな。その日も、よそからボタモチを大きなイレコ(箱などを、大小順次に重ねて組み入れるようにしたもの)にいっぱいもろたが、嫁さんには何も言わずに、独り言をいいたがら戸棚に隠したそうな。
 「これ、ボタモチや。もし、嫁が見たらのう、知らん顔して蛙になっとれよ。忘れるんじゃないで」。誰もおらんとおもて、独り言を言うて戸棚に隠して畑へ出て行った。
 それを、障子の裏で聞いていた嫁は、おばあさんが畑へ行くと、戸棚のなかのボタモチをぜんぶ食べて、たんばで捕まえてきた蛙を、イレコに入れといた。
 畑から帰って、ボタモチを食べようと思い、イレコを開けたおばあさんは、中から跳び出してきた三匹の蛙にたいそうおどろいたそうな。そして、これは、ボタモチがわしと嫁を間迎えたに違いないと思て「これ、ボタモチや、嫁さんじゃないそ、ばばじゃぞえ。これ、ボタモチや、跳ぶなよ。ばばじゃぞえ。ボタモチや、跳ぶなよ ばばじゃぞえ。ばばじゃ。ばばじゃ」と空になったイレコを抱えて蛙を捕まえようと、何度も、何度も呼びながら、追って行ったそうな〔岼〕
 『ふる里川合』から採録し、一部修正した。




岼の小字一覧


岼(ゆり)
エビト エビト道ノ上(えびとみちのうえ) エビト道ノ下タゝズ(えびとみちのしたたたず) イヤノ奥(いやのおく) 向田(むかいだ) トウド石(どうどいし) 向田トウド石(むかいだどうどいし) 町(まち) 宮ノ下(みやのした) 田仲川(たなかがわ) 宮ノ前(みやのまえ) 宮ノ前下(みやのまえした) 宮ノワキ(みやのわき) 宮ノ上(みやのうえ) ハゞ カケ上(かけうえ) 井根ノ内(いねのうち) 宮ノ越(みやのこし) 梅木田(うめのきだ) 箱谷(はこだに) 菖蒲谷(しょうぶだに) 平野(ひらの) アラボリ 後野(うしろの) 小菖蒲谷(こしょうぶだに) カハタゲ下漆ノ上(かはたげしもうるしのうえ) 堂ケ市(どうがいち) 漆ノ下(うるしのした) クツカケ 漆(うるし) 上佃(うえつくだ) 中佃(なかつくだ) サコ畑(さこばた) 佃井根ノ下(つくだいねのした) 寺ノ下(てらのした) 前田(まえだ) 古屋敷(ふるやしき) ノケ 家廻(いえのまわり) ノケ古屋敷(のけふるやしき) ノケ家廻り寺ノ上(のけいえまわりてらのした) 家回り家下(いえまわりいえのした) 浅町(あさまち) エゲ 井戸ノ上(いどのうえ) 溝ノ上(みぞのうえ) 屋敷(やしき) 堂ノ下(どうのした) 上ケ山(うえがやま) 上ケ山家廻り(うえがやまいえまわり) 殿ノ奥(どののおく) 万五郎(まんごろう) 家ノ前家ノ上(いえのまえいえのうえ) 谷(たに) 谷家ノ前(たにいえのまえ) 谷川ノ上(たにかわのうえ) 大野ノ下(おおののした) 家ノ上(いえのうえ) 家ノ下(いえのした) 与助屋敷(よすけやしき) 井戸ノ下(いどのした) 川ノ上(かわのうえ) マト場(まとば) 寺坂(てらざか) 今屋敷(いまやしき) マト場寺ノ前(まとばてらのまえ) 大野(おおの) 道筋川ノ上(みちすじがわのうえ) ハイヤモト 平野家ノ横(ひらのいえのよこ) 平野家ノ前(ひらのいえのまえ) 平野家ノ上(ひらのいえのうえ) 稲谷(いねんだに) 井根ノ谷(いねのたに) 井根ノシリ(いねのしり) 山ノ神向(やまのかみむかい) 小松尾(こまつお) 大松尾(おおまつお) 市ノセ(いちのせ) 杉尾(すぎお) 堂ケ成(どうがなり) サギ谷ヒシロ(さぎたにひしろ) サギ谷日向(さぎたにひなた) 忠治ケ尾(ちゅうじがお) カチヤ谷口(かちやたにぐち) 岩谷(いわだに) 岩谷奥(いわのたにおく) 長宮岩谷口(ながみやいわのたにぐち) 岩谷口(いわのたにぐち) 長宮道ノ向(ながみやみちのむかい) 長宮(ながみや) 長宮コトンジヨ口(ながみやことんじよぐち) 長宮スミサコ(ながみやすぎさこ) 長宮道ノ向下(ながみやみちのむかいした) 長宮道ノ下(ながみやみちのした) 長官馬頸(ながみやうまくび) 馬頸(うまくび) 長宮小屋谷口(ながみやこやのたにぐち) 長宮小屋谷(ながみやこやのたに) 長宮家ノ奥(ながみやいえのおく) 長宮家廻り(ながみやいえまわり) 長宮道ノ上(ながみやみちのうえ) 長宮木戸口枝元(ながみやきどぐちえだもと) 長宮トビト下(ながみやとびとしも) 長宮トビト川向(ながみやとびとかわむかい) 長宮川ノ向奥(ながみやかわのむかいおく) 長宮道ノ向谷(ながみやみちのむかいたに) 長宮トビト(ながみやとびと) 長宮木戸城(ながみやきどしろ) 長宮木戸(ながみやきど) 長宮クツカケ(ながみやくつかけ) 長宮向(ながみやむかい) 長宮木戸口川ノ下(ながみやきどぐちかわのしも) 長宮木戸口(ながみやきどぐち) 長宮木戸家ノ下(ながみやきどいえのした) 長宮田ノ上向共(ながみやたのうえむかいとも) 長宮木戸奥(ながみやきどおく) 長宮峠道ノ上(ながみやとうげみちのうえ) 長宮峠(ながみやとうげ) 長宮峠道ノ下(ながみやとうげみちのした) 長宮家廻り奥(ながみやいえまわりおく) 長官板サコ口(ながみやいたさこぐち) 長宮板サコ向(ながみやいたさこむかい) 長宮板サコ向共(ながみやいたさこむかいども) 長宮石ヅミ(ながみやいしづか) 長宮大畑(ながみやおおばた) 長宮アカ谷(ながみやあかたに) 長宮細サコ(ながみやほそさこ) 長宮小屋谷口奥(ながみやこやたにぐちおく) 長宮小屋谷口奥道ノ上共(ながみやこやたにぐちおくみちのうえとも) 長宮家ノ下タ下(ながみやいえのしたしも) 越谷(こしだに) 向上(むかいかみ) 寺ノ前(てらのまえ) 友助屋敷(ともすけやしき) 尾甫谷(おうらたに) 小杉尾(こすぎお) 向山(むかいやま) 家ノ前家ノ下(いえのまえいえのした) ヤナギ谷(やなぎたに) 家廻家ノ上(いえまわりいえのうえ) 城山(しろやま) 長宮日向(ながみやひなた) 堂ケ成サルヤ馬場(どうがなりさるやばば) 山ノ神(やまのかみ) 堂ケ尾(どうがお) 北ツクダ(きたつくだ) 森ノ脇(もりのわき) 大杉尾(おおすぎお) 下佃(しもつくだ) 木堂ケ市(もくどうがいち) サギ谷(さぎたに) 町(まち) 山ノ神向(やまのかみむかい) 堂ノ上(どうのうえ) サギ谷越谷(さぎたにこしたに) 長宮家ノ下(ながみやいえのした) 長宮奥(ながみやおく) 木土(きど) 長宮道ノ向田ノ上(ながみやみちのむかいだのうえ) 長宮小岩谷口道ノ下(ながみやこいわたにぐちみちのした) 小屋谷口奥(こやたにぐちおく) 長宮板サコ(ながみやいたさこ) 小岩谷口(こいわたにぐち) 長宮杉サコ(ながみやすぎさこ) 杉サコ口(すぎさこぐち) 長宮板サコ道ノ上(ながみやいたさこみちのうえ) 道ノ上(みちのうえ) 殿ノ奥口(とののおくぐち)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『三和町史』各巻
その他たくさん



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