丹後の地名

朝妻(あさづま)
京都府与謝郡伊根町朝妻


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京都府与謝郡伊根町大原・新井・井室・六万部・泊・津母・峠・畑谷

京都府与謝郡朝妻村

旧・朝妻村の概要




《旧朝妻村の概要》

朝妻村(伊根町)は、明治22年〜昭和29年の与謝郡の自治体名で、大原・新井・井室・六万部・泊・津母・峠・畑谷の8か村が合併して成立した。大字は旧村名を継承し、8大字を編成した。元々このあたりは朝妻と呼ばれていたのだが、その古い地名を近代の自治体名に復原したもの。
昭和29年伊根町の一部となり、村制時の8大字は伊根町の大字に継承された。遺称として、朝妻川や朝妻小学校、朝妻保育園、泊の松岩寺の山号は朝妻山がある。

《旧朝妻村地区全体の人口・世帯数》 593・215

大泊橋

朝妻小学校跡(大原)

松岩寺跡(泊)
↑泊の松岩寺跡(今は集会所)

朝妻という所は近江の「朝妻筑摩」(坂田郡朝妻郷・米原市)と大和葛城の「朝妻」(御所市)がある。何か関係があるのではと言われる。もっと古く遡ると、
『新撰姓氏録抄』に、山城国諸蕃。秦忌寸として、
太秦(うづまさ)公宿禰同祖。秦始皇帝之後也。功智王。弓月(ゆつき)王。誉田天皇十四年来朝。上表更帰国。率百廿七縣伯姓帰化。并献金銀玉帛種々寶物等。天皇嘉之。  賜大和朝津間掖上地之焉。…
今の御所市朝妻と御所市立掖上小学校のある地は7キロばかりも離れているが、このあたりが当初の秦氏の渡来地であったようである、山城太奏へ来る以前はここにいたのではあるまいか。より古くは葛城氏の本拠地であり、鴨氏もここにいたし、尾張氏の本貫地でもある。伊根町朝妻と関係ないはずはないと思われるが、何も関係を示すようなものは残されていないのだが、こうした関係の氏族の開発になったのでは見られる地名が周辺にも残されている。

近江国坂田郡朝妻郷は、浅妻・朝嬬・旦妻とも書いた。大和の朝妻の朝妻造(あさづまのみやつこ)の一族が移住したことによるか(『坂田郡志2』)とされる。当地は天野川の河口南岸に位置して、古代から要港として知られる。東山・北陸両道の分岐点箕浦にも近く、坂田郡はもとより東浅井郡・犬上郡を含む一帯随一の要港であったという。なお当地の南に接して尚江という村があったが正中2(1325)年10月の大地震により神社とわずかばかりの家を残して全集落が琵琶湖に沈んでしまったという伝承がある。

『新撰姓氏録抄』に、
朝妻造。出韓国人都留使主也。
とある。この氏は大和国葛上郡日置郷の朝妻を本貫とした豪族で、朝妻手人や朝妻金作など渡来金工人集団を統率した伴造とされる。また「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に引く「塔露盤銘」の、推古天皇四年(596)に完成した飛鳥寺の塔の「作金人」であった阿沙都麻首未沙乃も同族と見られている。
この都留使主は百済国人の津留牙使主や津留木と同一人物だろうとされ、そうだとすれば、
『新撰姓氏録抄』
山城国諸蕃。百済。
末使主。(すえのおみ)
   出百済国人津留牙使主
『新撰姓氏録抄』
山城国諸蕃。百済。
木曰佐。(きのおさ)
   末使主同祖。津留牙使主之後也。
『新撰姓氏録抄』
未定雑姓。山城国。
木勝。(きのすぐり)
   津留木之後也。
と同族であり、木は紀で、彼らは山城国紀伊郡の郡司、郷長クラスの豪族であったという。葛城氏と紀伊氏は特別に関係が深く、葛城氏系だろうが、新しく紀と名乗っていてもおかしなことではない。

オケ・ヲケとも関係が深く、朝嬬皇女というのは仁賢(オケ)の皇女だし、彼らの祖父(履中)の同母弟となる允恭は男浅津間若子宿禰命(雄朝津間稚子宿禰尊)といい、彼の皇后は忍坂大中姫命で、彼女の兄の意富富杼王(意富本杼王・おほほど)は継体の祖父になり息長氏の祖でもある。ホドというのだから溶鉱炉と関係がありそうだし、水陸の交通網を押さえている。大和朝妻から近江朝妻へ移動してきたことは間違いなかろうと思われる。若狭三方郡美方町あたりに浅妻サンが見られる。当地丹後の朝妻はそうした文献的なことがわからないが、この流れの先に丹後が、さらに先には朝鮮があったのではなかろうか。


《主な名所など》
朝妻狩座(あさづまのかりくら)
「曽我物語」の「朝妻狩座の事」によれば、住昔、藤原保昌が任国丹後に下って当地で狩りを催した際、夜半におよんで鹿の鳴き声を聞いた妻の和泉式部が「理やいかでか鹿のなかざらむ 今宵ばかりの命とおもへば」と詠んだ。保昌は歌に感じてその日の狩をやめ、鹿のために6万本の卒塔婆を書き、6万人の僧を請じて供養をした。そして「朝妻の狩座を末代とどむべし」といって永久に廃止してしまったという。比定地は伊根町井室・六万部・泊あたりとされる。井室・六万部の谷間を流れて泊の海に注ぐ川を朝妻川と称し、泊の松岩寺は江戸期に山号を朝妻山と号した小字小泊の後背山地中腹、新井へ越す峠のあたりに「狩場の桜」と称する地がある。

《交通》

《産業》




朝妻の主な歴史記録


『丹後旧事記』
浅妻。世継物語の略に曰く保昌翌日は狩せんとて物とり玉ひたる夜に男鹿のいたく鳴けれ  後拾遺 ことわりやいかてか鹿の鳴さらん 今宵はかりの命と思へは 和泉式部 斯歌ひければ其日の狩は止てけりと云々。同書に曰く曽我物語に曰く保昌丹後の任に下りけるに彼国に浅妻とて日本第一の狩倉あり(中略)保昌式部が歌の理りにめでて道心を発し長く浅妻の狩を止て鹿の為に六百人の僧を請し六万本の卒塔婆をたてて供養有けるとかや今も此地を六万部村と云近江国の名所に浅妻といふ所あれども是は山里にあらず。…

『丹哥府志』
【浅妻】
世継物語曰。藤原保昌翌は狩せんとて物とりつどひたる夜半鹿のいたく啼ければ、和泉式部「ことわりやいかてか鹿の鳴かさらん今宵はかりの命と思へは」かくよみければ其日の狩は止みけりと云々。

◎六万部村(泊村南、以下三村泊村より亀島へ出る道にあり皆海浜にあらず)
曽我物語に、藤原保昌丹後の国に朝妻とて日本第一の狩くらあり、藤原保昌丹後の任に下りける頃翌は狩せんとてつどひたる夜、掉鹿のいたく啼ければ式部歌をよみて御前に遣す、保昌其哥によって菩提の心を発し永く浅妻の狩くらをとどめ、鹿の為に六百人の僧を請じ六万部の法華経をよみ六万本の卒塔婆を建たりといふ、今の六万部村は其跡なり。

「京都新聞」02.10.03
*京都地名探訪6*
*丹後半島の朝妻 糸井 通浩*
*近江国の人々が移り住んだ*

 昭和二十九年、伊根村、筒川村、本庄村、朝妻村が合併して伊根町となり、町村名から朝妻の名が消えた。しかし、朝妻が村名となったのも、明治二十二年のことで、泊、六万部や徐福伝承の地である新井など、八つの集落が合併した時である。その八つの集落名に朝妻の名はなかった。にもかかわらず村名として朝妻の名が選ばれたのは、六万部あたりを朝妻と称するという伝承があったからであろう。一方、伊根や筒川などは、庄または保の名となったことから、歴史的に記録にとどめられている。
 朝妻の名をめぐる伝承は、『曽我物語』(巻五)が伝えている。平安中期、藤原保昌が丹後の国守として赴任していた時、妻の和泉式部もつき従っていたが、「朝妻の狩りくら」で鹿狩りをする前夜、鳴く鹿の声を聞いて和泉式部が詠んだ「ことわりやいかでか鹿の嶋かざらん今宵ばかりの命と思へば」(後拾遺集)の歌に感銘し、保昌は狩りを中止、道心を起こして六万本の卒塔婆と六万人の僧をもって供養したという。これが後の資料では、六万部という集落名の起源談にもなっている。
 朝妻といえば、大和国葛城の金剛山の麓や近江国坂田郡内の地名としてよく知られている。林屋辰三郎氏は、『続日本紀』(養老三年一一月条)に「朝妻ノ子手人龍麻呂、賜C海語連ノ姓E、除C雑戸号E」とあることを手がかりに、大和と近江の朝妻を結びつける論を展開している。この論によると、『新撰姓氏録』(大和国諸蕃)に「朝妻造 韓国人都留使主之後也」とあり、「朝妻手人」は朝鮮半島からの渡来系の技術者集団であったと考えられ、葛城の地から近江の坂田郡朝妻郷に移り住み、同じ「朝妻手人」として宇海語連(ルビ・あまがたりのむらじ)の姓を賜ったのだとみておられる。朝妻には港があり、平安時代以降は朝妻船でよく知られているが、海人の技能を持ち、筑間御厨(つくまみくりや)としては漁労による御贄(・みにえ)を朝廷に貢進もしていた。また朝妻郷には世継という地名が残るが、海語連として、継体天皇や息長帯比売(神功皇后)とも深くかかわる息長氏の伝承を語り伝える人々でもあった、と論じている。
 渡来系といい、海語といい、狩りによる御贄のことといい、丹後半島の朝妻の地は、近江国の朝妻の人々が移り住んだところと考えてみたい。大和と近江と丹後・但馬の間には、いろいろな繋がりが認められるからでもある。例えば、天の日矛にまつわる兵主神社の分布に象徴される新羅系の人々の移住伝承がある。また、雄略天皇に父を殺された億計・弘計の兄弟が逃れていった伝承地にも伺える。二人を助けたのは日下部氏であるが、日下部氏といえば丹後国風土記逸文の浦嶋伝説では、筒川の嶋子が日下部首らの先祖であると語られている。息長氏にもまた丹後とつながる伝承があった。垂仁天皇の后となった、丹後の日葉酢媛は、日子坐王と近江の息長水依比売を祖父母としているのであるが、開化天皇から垂仁天皇・倭姫命に渡る皇統譜には、三つの地域のかかわりが色濃いのである。 (龍谷大学教授)
 いとい・みちひろ氏 1938年京都市生まれ。京都大学卒。愛媛大学助教授、京都教育大学教授を経て94年から現職。主な編著に「小倉百人一首を学ぶ人のために」など。

朝妻氏は上にあるように葛城氏下の百済渡来系で、金属や交通と関係が深い氏族のようである。金人とか金作とか呼ばれていた人もあった。
『日本古代氏族辞典』は、
渡来系氏族。氏名は大和国葛上郡朝妻(奈良県御所市朝妻)の地名にもとづく。姓は造。『新撰姓氏録』大和国諸蕃に「朝妻造。出D自B韓国人都留使主C也」とあり、一族には神護景雲二年(七六八)十月に従五位下に叙せられた朝妻造綿売、承和元年(八三四)正月に外従五位下となった朝妻造清主がいる。ほかに無姓の朝妻氏として、天平勝宝二年(七五〇)ころ内匠寮の銅鉄工であった朝妻望万呂がおり、これも朝妻造氏の一族であろう。また「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に引く「塔露盤銘」には、推古天皇四年(五九六)に完成した飛鳥寺の塔の「作金人」であった阿沙都麻首未沙乃の名がみえる。これを朝妻造氏の祖先の一人とすれば、同氏の旧姓は首だったことになる。〔星野良史〕




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『伊根町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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