蛭子山古墳(えびすやまこふん)
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京都府与謝郡与謝野町明石 |
蛭子山古墳(1号墳)の概要古墳公園の駐車場の山手に蛭子山古墳がある。雪をかぶっているのが大江山で、その支脈の一つが東の加悦谷に延びていて、その丘尾を整形造成して作られたと思われる。大きなもので、要するに山そのものである。この支脈の南はすぐ作山古墳群があり、北はすぐ日吉ヶ丘遺跡である。大江山側の山々は古墳だらけ、反対側の水田側も遺跡だらけの弥生古墳時代の遺物の宝庫である。 その宝庫一帯の中でも、一番のすごい宝物がこの1号墳である。 デカイもので、こんな大きなものはうまく写せるわけがない。右が後円部で、直径100メートル、高さ16メートル、3段目がずば抜けて高い。全長145メートルで、日本海側ではナンバー3の巨大古墳。大きすぎて地べたから見てる限りは全体の姿がわかりにくい。 ←左図を見ていただければよい。蛭子山2号墳(42×32メートルの方墳・高さ4.75メートル図でいえば右に造出し部)が隣接する。(2号墳の東にある3号墳も15メートルの方墳) 1、2号間の時間な前後関係は、どちらが先か不明で、ほぼ同時か少し2号が後と考えられている。2号墳は丹後弥生墳丘墓の伝統的系列を引いた王墓と思われる。 1・2号墳はお互いを壊さないように作られたものか、1号墳の一番下の1段目と2段目は2号墳にかかるため、1号墳としては完周していない。3段目は高く立派なものである。周濠はないとされたり、南側(埴輪資料館側)にはあったともいわれる。 1号墳はたいへんにビジュアル性に富んでいて、各段には埴輪列があり、葺石もあったが、今はまったく立てられていない。是非復元を、などと期待する。 何の飾りも無い素っ気ない方墳とこれが日本の物かとも思えるほどキラキラに飾られた前方後円墳、光と影のような2つは同時期である。隣の作山古墳群と比べても、1号墳はあまりにも規模や墳形は隔絶し、「月とスッポン」的で、同じ首長一族系列に属した首長の墳墓同士とは見がたいような超立派なものになっているのだが、同じ墓域にほぼ同じ時期につくられ、お互い壊さないようにしているものだから、やはり同一の一族と思われる。どうした思想をしているのかと頭の中がこんがらがって仕方ない、墓とは何かの考えが超バラエティーに富んでいたのか、何も大和的なものだけがすべてではなかったのだろう、大和もその一部だったにすぎなかったのかも知れない、伝統を受け継ぎながら、新しいかたち作りも楽しくて仕方がないお祭りさわぎのバラエティーの究極をいく古墳群のように見える、同族同士なのかはDNA鑑定してもらえればはっきりするが、埃及の木乃伊のようなものはカケラも残っていないようである。 ↑蛭子山2号墳。墳頂に「蛭子神社」がある。背後は1号墳。この神社はもともとは1号墳の頂上にあったが、丹後大震災で倒れ、その再建工事中に舟形石棺などが発見され、石棺は地上に引き上げられ開棺調査されることになったという。 蛭子山古墳の円筒埴輪 中の3つは1号墳、左は2号墳のもの。大きく開いているのを朝顔型円筒埴輪と呼ぶ。 丹後は古墳王国で、5000とも6000ともあるとされるが、その中で埴輪を持つ古墳はごくわずかで、たったの34基だけ、全体の1%にも満たないごく特殊なものだけである。 朝顔型の一番上を取り外したように、下部の器台部分だけのもののように見える↓円筒埴輪を「丹後型円筒埴輪」と呼んでいる。この丹後型円筒埴輪は、丹後3大古墳だけ、厳密には、それだけではなく10基が知られているが、バラバラ破片状態の埴輪から丹後型と認定するにはむつかしいという面もありそうだが、どちらにしてもこれが立てられた古墳は特にたいへん重要な古墳のように思われる。 このあたりでは蛭子山1号墳とすぐ隣の作山1〜3号墳、温江百合3号墳、鴫谷東3号墳、それと阿蘇海の法王寺古墳である。時期は古墳時代前期中葉から中期中葉の100年間くらいほどだけである。 埋葬施設は後円部に3基ある。その後円部の真ん中に第1主体。 蛭子山1号墳の後円部頂上に建屋があり、ここから出土した舟形石棺が納められている。このあたり産の花崗岩製で、全長3.1メートル、幅1.1メートル、蓋の短辺側にそれぞれ縄掛突起が2つ、身には1つ作られている。内側がくりぬかれて、石枕が作り出され、棺内外はベンガラが塗られていた。花崗岩が用いられるのは作山古墳でも見られるが、そこは組合式石棺で、このように刳抜式舟形の花崗岩石棺はここしか見られないものである。凝灰岩や砂岩の柔らかい石材を使ったものは見られるが硬質の花崗岩製舟形石棺は全国探しても唯一だそうである。石棺はもちろん王者のものである。 遺物は、棺内に長宜子孫内行花文鏡1、三葉環付鉄刀1。周辺から鉄刀6、鉄剣15、鉄槍4が出土している。 ↑この建屋の先代になる石棺覆屋の建て替えが昭和59年に実施され、それに先だって再度発掘調査が行われた。↓東側から写したもののようである。 舟形石棺を納めて墓壙を埋め戻し、南北に6メートル、東西に5.5メートルの据え付け用の溝を掘って方形の埴輪列を配置して、45個程度の朝顔型と丹後型の円筒埴輪が立てられていたという。そのコーナー付近の4ヵ所には家形埴輪があったようである。 第2主体は昭和59年の調査で見つかったもので、第1主体の東側にあった。↑の写真で言えば、手前の穴がそれである。墓穴を墓壙と呼ぶのだが、それは南北7メートル、東西3.5メートル、深さ1.4メートルで、竪穴式石槨を設置している。その北側(写真の右側)は、過去の盗堀だろうか、崩れていて天井石は取り除かれ、壁石も崩壊していた、南半分は残っているが、それ以上の調査はなされていず、不明である。墓壙を埋めたのちに、南北5.5メートル、東西4メートルの埴輪列を作り、1本ごとに据え付け穴を掘って16ほどの埴輪が立てられていただろうという、短甲型埴輪と家形埴輪が検出されている。石槨の上面にも数個の家形埴輪が立てられていたと見られている。 後円部墳頂部はさらに円く全体を囲むように埴輪列がめぐり、内方外円の二重の埴輪列があったといわれる。こうなると丹後の古墳というよりも大和古墳である。 第3主体はこれらの西側にあった。墓壙は東西幅2.8メートル、深さ1.2〜1.4であった、木棺直葬らしいとされるが、それ以上は不明。 『加悦町誌』『加悦町誌資料編』などより。(写真や地図も) これまでの考古学、地表の下から語りかけてくる事柄を年表にすれば、だいたい次のようなことだろうか。 「丹後王国」の最盛期の日本でも最先端の技術と富の遺跡や古墳が歩いて回れる範囲に集中している。丹後古墳は日本海側では突出した巨大なものである。ヤマトなどほかの地の勢力からは独立した古い伝統の「丹後王国」があったのなら、このあたりはその心臓部であったろうか。文献的歴史的には別に何も残っておらず、記紀などに残されたものよりも古い時代なのかも知れない。 ここの首長の名はたぶん与謝閼智ではなかろうか。
巨大古墳の経済力 丹後3大古墳はすべて潟湖に臨んでいたと思われる。網野銚子山古墳と神明山古墳は今では潟湖は埋まって姿はないが、潟湖に臨んでいて、そうした地の利を得た海運交易の繁栄と先学たちは推測されていて、すでにジョーシキとなっている説だが、ここ蛭子山古墳も例外ではなくそうしたこどてはなかったかと思われるのである。 下図はもし海面が仮に8メートル上昇したならばどこまで海になるかを作図したものである(カシミール3D)。蛭子山古墳の麓まで海になる。山田断層の南側は沈むのでなかろうか、全体に低い加悦谷が堆積物で埋められていくまでの、過去のいつの時代かには、こうした潟湖が存在したことは間違いなかろう、当時は阿知江と呼ばれていたかも知れないが、これを仮に「与謝潟湖」と名付けよう、この潟湖は霧ヶ鼻のあたりが狭く、たぶん汽水湖であったことだろう、それを証明する遺物もいくらか出土している。弥生前期中頃の藏ヶ崎遺跡が蛭子山古墳の少し北側低地にあるので、古墳時代には海は図よりももう少し埋められていたと思われるが、こうした潟湖の消滅と航路が瀬戸内海がメーンとなることに運命を共にするかのように丹後の繁栄も終わっていくように思われる。 上図を見れば、海とのつながりは利点だが、一方では大繁栄をささえるだけの広大な農地はなかったことになる。言えばナニだが、加悦谷も農耕に頼ればずっと貧しい村であったと思われ、だから縮緬なども起こったと思われる。交易だけなら対馬などには超巨大古墳がありそうなものである。 だからもう一つは金属経済である。3大古墳はまた鉄の巨大古墳だったと思われる。 この当時は鉄素材は輸入していたとされるのだが、その輸入品が出土しないのをどう見るか。即再分配したためここにはない、ということもなかろう、はるばる波濤を越え輸入した鉄素材を右から左へと山越え野越えて移動させるだけで巨大古墳の繁栄が生まれるものだろうか。 「鉄てい」と呼ばれる鉄素材・鉄の延べ板の形で輸入していたとされるが、それ出ない。大和にしろ、河内にしろ、吉備にしろ、時には莫大な量が出土しているが、丹後では聞かない。素材がまったくないのに、製品だけが弥生期から莫大に出土する丹後。丹後に限り製品で輸入していたのか、それとも素材も何んらかの方法技術で丹後では作っていたのか。 「鬼の大江山」の西麓に位置する、後の「大虫」「小虫」の両名神大社を祀り、この「虫」はたぶんヘビと思われるが、そうしたヘビやオニの地の古墳である。 おそらく古い小規模な技術であったと思われ、その技術革新に遅れ、こちらもやがて廃れていき、栄光の丹後王国の日が落ちる時がせまったのではなかろうか。 なお、蛭子山古墳は、渋谷向山古墳(伝景行天皇陵)(天理市。300メートル)や佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛陵)(奈良市。210メートル)と、相似形という。 前方後円墳は当時の大和国家政治体制と関係ありそうにたいていは書かれて、こうした墳墓があることから、丹後はこのころ大和の支配下に置かれたとかいうのであるが、卑弥呼から100年ほどしか経てない時代の話であって、まだ文字も歴史もない野蛮国ではないか、戦争当時は占領地の原住民をそういって馬鹿にしたのだが、そうした当時の日本に本当に全国を領土とした国家や大規模な中央地方の官僚組織というものがあったのかはまったく怪しいことで、文字もなく筆もない野蛮国で今でもむつかしい国家を、誰がどう運営したというのだろうか、何も書かれた歴史は残っていないではないか、国家なるもののハードやソフトの説明なしでは、絵に描いた餅のような、日本は昔より優秀なのだという証明もされない空想の思い上がりの歴史観が根底にある話ではなかろうか。 巨大古墳があるということはそこに巨大な財力があったということは言えても、それ以上は無理にこじつけなければ何もいえないのではなかろうか。全国に似たものが残っていたとしてもそれが統一とか支配とかを意味したかはまったくわからない別の話であろう、日本車が全世界にあふれていても日本が世界を支配しているわけではない、逆にどこかの国に支配されているではないか、ただ優秀で安い製品だから購入してくれただけである、前方後円墳は高価で贅沢な超高級車だが、そういうベンツとして威信材として購入したというだけのことかもわからない、立派な墳墓製品はこれしかないのだから、あくまでも金持ちの購入者の側の好みと財力や商売の問題としてここに残されただけなのかも知れない。交換に鉄をやるから前方後円墳を作ってくれ、といった話で、支配とか植民とかではなく、近く同士で、あるいは全国でゆるやかに連合とか統合ということが以前よりはより進んだとはいってもいいかも知れない。 ある日、異教徒のキリスト集団ががよそからやってきて、これからはデカイ十字架の墓をつくる、あるいはイスラム教徒がやってきて、その様式の超大型の墓をつくるなどと言って先祖伝来の墓域にそうした墓を実際に作ったとしよう、そうした非常識なやり方で、本当に新しい国家がまともに作れるだろうか、よほどに強力な軍事力でも背景になければできまいし、永続はありえないだろう。先方後円墳は大和国家支配説は、当時の皇軍島国根性の幻想に基づいた誤れる史観ではなかろうか。朝鮮や満州など植民地にも天照大御神を祀る神社を作りこれを拝めとやったわけだが、呆けとれと、結局四面楚歌、勝手な押しつけで自ら孤立して破滅したではなかったか。 キリスト教やイスラム教は土葬で、火葬の日本では土葬墓が作れないという。条例で土葬を禁止している自治体もあるとか、宗教に関する事柄は権力的に決めたりするものではなかろうと思うが、決めてはいない所でも彼らの教理に従って土葬すれば周辺住民から苦情や反対がでるとか、国際化の現在でも墓づくりは宗教観が異なればスムーズにはいかない。だいたい火葬はインド教くらいではなかろうか、その影響を受けたか仏教の一部くらいか、狭くて人口の多い日本でも一般に少し前までは土葬、明治政府は火葬禁止令を出したりもしたのだが、そうした所でも今ではめったにはみつからなくなった土葬できる墓地を求めて彼ら異教徒は大変な苦労する。古代ではそうしたことがなく、大和がこれだと言えばハイハイと従ったというのであろうか。 蛭子山古墳の主な歴史記録現地の案内板
関連情報 |
資料編のトップへ 丹後の地名へ 資料編の索引
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『加悦町誌』 『加悦町誌資料編』 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2012 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |