丹後の地名

本庄宇治(ほんじょううじ)
京都府与謝郡伊根町本庄宇治


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京都府与謝郡伊根町本庄宇治

京都府与謝郡本庄村宇治

本庄宇治の概要




《本庄宇治の概要》

東は本庄浜、南は本庄上に接し、国道178号が中央を南北に貫通し、府道本庄浜本庄宇治線が東へ分岐する。農山村地域で国道沿いに集落がある。筒川と長延川の合流点。
本庄宇治村は、江戸期〜明治22年の村名。端郷に曽布谷(そびたに)。宮津藩領、ただし寛文6〜9年・延宝8年〜天和元年・享保2年〜宝暦9年は幕府領。寛文9年(1669)永井尚征が入部して本庄村を細分するまでは本庄村のうち。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年本庄村の大字となる。
本庄宇治は、明治22年〜現在の大字名。はじめ本庄村、昭和29年からは伊根町の大字。

《本庄宇治の人口・世帯数》 103・42

《主な社寺など》

三柱神社
三柱神社(伊根町本庄宇治)

三柱神社 本庄宇治小字森ノ下
祭神 火産霊命・興津彦命・興津媛命
例祭 八月二日
沿革 宝暦二年(一七五二)二月創建
  元治元年(一八六四)四月十三日宇治全村火災の際に類焼する。
  明治十九年(一八八六)十一月八日現在の境内地を定め、翌年十二月五日建築に着手し建立する。
  明治三十一年(一八九八)七月九日、秋葉社・愛宕社を合祀し、同時に曽布谷次郎を追祀する。
 昭和四十二年(一九六七)社殿の修理をなし塗板屋根葺とする。
境内に稲荷社と薬師堂があり、稲荷社は明治二十二年(一八八九)建立され、昭和四十二年(一九六七)改築された。薬師堂は隣接の籠堂を昭和四十二年(一九六七)境内に移転する。
(『伊根町誌』)
曽布谷次郎屋敷跡の碑


高野山真言宗平野山来迎寺
来迎寺(伊根町本庄宇治)
平野山と号し、高野山真言宗。かつては宇良神社の別当で、開基創建は聖徳太子という伝承をもつ。天和2年(1682)の丹後国寺社帳にその名がみえる。来迎寺境内に古墳期の箱式石棺と伝える石組みがあり、また至徳2年銘単制石幢がある。

平野山来迎寺
 本庄村字本庄宇治、本尊聖観世音菩薩、薬師、阿弥陀二仏及び毘沙門天と十一両菩薩も記る.故と浦島神社の別当にて開基創建聖徳太子といふも詳かならす。寛文八年宥舜上人再興元治元年焼失明治八年再建す。境外受持仏堂長延虎成鼻に地蔵堂あり、寺宝超子昂筆十六善神画像一幅有名なり。
(『与謝郡誌』)

平野山来迎寺(真言宗) 本庄宇治 檀家四二戸
  御詠歌 来迎の大慈のちかひあらたかにて二世の安楽住の江の里
本尊 聖観世音菩薩
配祀 薬師如来・阿弥陀如来・毘沙門天・十一面観音
中興開山 観音院宥舜法印(延宝三年(一六七五)八月五日入寂)
由緒 元本庄上平野にあって、明暦元年(一六五五)九月十七日、浦嶋神社の境内に移転し、神社の別当寺として代々神社の管理にあたる。寛文八年(一六六八)宥舜法印は寺院を再建し中興開山とされ、元禄九年(一六九六)三月、二世真南法印の記した「五社之弁」には次のように記録され、神仏習合の代表的な事例を具体的に示している。
   浦嶋五社(五社・五仏)
 本神 中 嶋子  本地 聖観音自在菩薩
 左脇 浦嶋太良  本地 昆沙門天王
 同次 母 御前  本地 阿弥陀如来

 右脇 竜  女  本地 十一面観音
 同次 今田三良  本地 薬師如来
 外に曽布谷二良本地地蔵菩薩是別社鎮座也
 その後この寺院は真言宗寺院として現在に至るまでつづき、浦嶋神社本地仏(五社・五仏)を守護するとされたが、元治元年(一八六四)四月十三日、大火により宇良神社とともに類焼し、明治八年(一八七五)現在地に小堂が建立され、明治二十四年(一八九一)現状に整備された。現在無住であり宮津市字日置の金剛心院の住職が兼務している。境内には六地蔵石幢一基があり、至徳二年(一三八五)三月と南北朝時代の北朝年号で記され、足利三代将軍義満の時代にあたり、石塔類では当町内最古のものである。また宝篋印塔一基があり、一部相輪を欠いているが、塔身には梵字で仏像が刻まれ、年代は不明であるが石幢と同時代のものと思われる。

湯呑堂(地蔵堂) 元来迎寺境外仏堂 長延
もと長延集落の北東約八○○メートルの虎成鼻の地に建立され、創建年代は不詳であるが、口伝としてこの地に「故乎美」という長者が地蔵尊を安置し、小堂を建立したと伝え、眼病に霊験があらたかであるとして知られていた。
 この小堂はかつては婦人達が籠堂としてよく使用していたが、文政五年(一八二二)十一月二十一日夜出火し堂宇が焼失したが、その折に仏像のみは難をのがれたので益々人々に信仰され、翌文政六年(一八二三)八月再建された。
その後天保十一年(一八四○)田原村(現宮津市字田原)の僧宗源と、下長延宇代重右衛門が寄進をつのり、堂宇を修繕してかたわらに開基の碑を建てた。祭儀は古くは毎年二月二十四日と八月二十四日に行われ、婦人が多く参詣し老女は夜籠をなした。現在堂宇は長延集落の中央の地に昭和六年(一九三一)に移され、毎年七月二十三日に施餓鬼を行い供養がなされている。
(『伊根町誌』)


布引の滝
布引の滝

布引の滝
国道178号線沿いからよく見える丹後一の名瀑布。水が落ちている時はあまりないが…
布引ノ瀧
本庄宇治村の山上にあり山を雲引山と名づく、高三十余丈幅三丈斗当国第一の瀧なり、此辺に浦島子亭の跡といふ所あり。
(『宮津府志』)

雲竜山(雲引山) 本庄上の背後の山は雲竜山または雲引山と呼ばれ、浦嶋太郎が竜宮から帰って乙姫様からもらった玉手箱を開いた時、白雲が立ちのぼりこの山に棚引いたとされている。
布引の滝 雲竜山の頂きから、白布を真直ぐに垂れ下げたように爆布がかかっている。高さ約一○○メートルの落水があり布引の滝と呼ばれている。梅雨の季節には真白な滝の水が山の中腹の緑の中にあざやかにかかり、その眺望は布引の滝の名にふさわしく、乙女が純白の布を垂れ下げたような新鮮で清純な感を覚える。
今田三郎の碑 今田三郎は浦嶋太郎の弟とされ、現在本庄上今田の三柱神社に合祁されているが、その神社の麓にある屋敷跡と伝えられるところに、昭和五十三年町教委のあっせんにより「今田三郎の碑」が建立された。
曽布谷二郎の碑 浦嶋太郎の弟と伝えられる曽布谷二郎の住居跡があり、地蔵が肥られ、その地に昭和五十三年に碑が立てられている。
(『伊根町誌』)


《交通》

《産業》


本庄宇治の主な歴史記録

『丹哥府志』
◎本庄宇治村(龍穴より二三丁)
【平野山来迎寺】(真言宗)
開基聖徳太子、浦島の本社寺と櫓を斉ふす、よって宮殿楼閣相並びて記す。
【浦島社】…略…
【水の江】(一に澄の江といふ)
万葉和歌集第九曰。春日之霞時…略…。反歌…略…
後撰集 あけてたに何にはせん水の江の  浦島子を思ひやりつつ (中務)
新古今 あし鷹のさわく入江の水の江の  世にすみかたき我身なりせは (人丸)
千才集 百千度浦島か子は帰るとも  はこやの松は常磐なるへし (俊成)
続古今集 見すはまたくへしからまし水の江の  浦島かすむ春の明ほの (後嵯峨院)
夫木抄 神さひてよわひたけたる松風の  猶水の江にふきまさるらん
【布引の滝】(出図)
宇治村の後山を雲滝山といふ、山の絶頂より飛流直に下る凡七十五丈、聊樹木の遮るなし、実に銀河九天よの落つるに似たり、滝の下に不動堂あり又其辺りに島子の亭跡あり。
【曾布谷】(宇治村の端郷)
島子の伝記に所謂曾布谷次郎の宅地なりとて聊か小祠を建たり、今其子孫なりといふものあり。
【三宝荒神】(曾布谷)
 【付録】(秋葉大権現、愛宕大権現、金毘羅、薬師堂、辻堂)




本庄宇治の小地名


本庄宇治
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『伊根町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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