京都府与謝郡伊根町本坂
京都府与謝郡筒川村本坂
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本坂の概要
《本坂の概要》
筒川の上流域に位置する農山村地域。中央を主要地方道弥栄本庄線が東西に走り、集落は沿道に街村形態を成す。
本坂村は、江戸期〜明治22年の村名。野村の枝郷。慶長6年から宮津藩領、寛文6〜9年・延宝8年〜天和元年と享保2年以降は幕府領。足谷。吉谷がある。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年筒川村の大字となる。
本坂は、明治22年〜現在の大字名。はじめ筒川村、昭和29年からは伊根町の大字。
《本坂の人口・世帯数》 49・23
《主な社寺など》
八重垣神社
八重垣神社
筒川村字本坂小字上地.村社、祭神五男三女神、往昔八大荒紳の處例によって維新の際に改廃六月村社に列せらる氏子二十三戸例祭三月三日。
(『与謝郡誌』) |
八重垣神社 本坂(旧村社)
祭神 五男三女神(元八大荒神)(山神)
天忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理毘売命・市寸島比売命・多寸津比売命
例祭 四月二十五日(元十月十五日)
沿革 創建は康正元年(一四五五)十月とされている。
明治六年(一八七二)二月村社
明治二十年(一八八七)七月社殿修繕
大正七年(一九一八)二月積雪のため破壊され、四月五日に地鎮祭をなし、九月十四日遷宮式が行われ再建された。
(『伊根町誌』) |
筒川大仏(丹後大仏)
集落の南方の道路ぶちにある筒川大仏(丹後大仏とも)は青銅仏坐像(阿弥陀如来、高さ八尺五寸)、大正8年(1919)建立。明治34年(1901)丹後繭糸蚕種生産販売組合が創立され、本坂に筒川製糸が始められた。のち新綾部製糸株式会社筒川工場と称された。大正7年、女工ら130名が東京旅行の途中流行のスペイン風邪にかかり、帰社後多くの命を失った。これを機に翌年物故者供養の筒川大仏が建立された。筒川製糸は昭和9年(1934)頃まで続いた。
筒川大仏
筒川村字本坂の下にあり同村字菅野の妙光寺、字野村の知足院の発起にて大正八年奠座四月八日入仏式を行ふ、本願品川萬右衛門氏等にて鎌倉大仏を模し、大阪にて鋳造したる青銅仏座像式八尺五寸(座幅六尺五寸)上品上生の阿弥陀如来、背光及連座なく花崗岩台上に安置せる露仏なり、経費四千九百五十円を要したりといふ、茲に青銅の獅子一対を置き境内木を樋ゑ池を穿ち典雅称すべし、招魂碑あること前章塔碑の条既に言へり。
(『与謝郡誌』) |
大仏応召
戦局の不利を極力国民に隠し、ひたすら戦意の高揚をはかったが、軍需物資の不足は極限に達し、金属回収が盛んに行われた。一般家庭の鉄、銅、しんちゅう等の製品はすべて供出され、火鉢、うすばた、雨樋等のほか、寺院の仏具や焚鐘までが強制的に供出されるようになった。筒川地区の本坂山麓にある丹後大仏(筒川大仏)は、現在は石造の仏像であるが、元、鎌倉の露坐の大仏を模して大正八年(一九一九)に鋳造され、高さ八尺五寸(二・五メートル)、座幅六尺五寸(一・九六メートル)の青銅製の阿弥陀如来像であり、周囲には高さ一丈(三メートル)の青銅製の灯籠、直径三尺(九○センチ)余の大火鉢、金銅製駒犬等が据えられていたが、すべて供出され、仏像もついに昭和十九年(一九四四)三月に供出された。当時の写真を見ると仏像に赤たすきがかけられ、大仏応召の姿が撮されている。
(『伊根町誌』) |
丹後大仏 伊根町字本坂の山麓(字本坂小字キワラ)にあって、自然石で花崗岩の台座を敷き、その上に安置された石造の阿弥陀如来像で、丹後大仏(筒川大仏)と称される露座の大仏である。本体は二メートルの座像で総高は約四メートルある。由来は筒川製糸工場が明治四十二年(一九○九)六月十四日全焼し、大正八年(一九一九)にその再建がなった後、同年一月従業員一一六名が東京観光をなしたが、当時流行の感冒(スペイン風邪)にかかり、従業員一三名が死亡し、村内にも多数の感染者を出し多くの死亡者を生じたので、その供養のため妙光寺原中和尚と知足院の岡田和尚が発起し、本願は品川萬右衛門により鎌倉大仏を模して鋳造された。元、高さ八尺五寸(二・五メートル)座幅六尺五寸(一・九六メートル)の青銅製の仏像であった。また鋳造当時は仏像と共に青銅製の高さ一丈(三メートル)の灯籠一対、竜口付直径三尺(九○センチ)の大火鉢、高さ四尺(一・二メートル)の台付狗犬一対が配置され、その他多数の石灯籠も並び据えられ、大正八年(一九一九)四月八日に開眼入魂の式が挙げられ、丹後大仏と命名されて祀られた。その後第二次世界大戦中昭和十八年(一九四三)に、金属類の供出によって大仏以外の青銅製灯籠・大火鉢・金狗犬等すべて供出し、翌昭和十九年(一九四四)三月仏像も供出された。青銅製の大仏が安置されていたころは、毎年四月に盛大な花祭り供養が執行されていたが、仏像が供出された後は、境内も荒廃することが予想されたので、品川偉太郎・品川俊・新田弁蔵・太田藤吉・小西武雄・新田八治郎の六名が主唱者となり、大仏奉讃会を結成して、金仏に代わる石仏を再建することを村民に呼びかけ、昭和二十年(一九四五)四月八日開眼供養した。現在は本坂区長が大仏奉讃会長となり、地区全員で境内の清掃と花祭り供養がつづけられている。
注 筒川製糸工場の火災は、上巻発行後に新しい当時の史料が発見され、明治四十二年であることが判明した。
(『伊根町誌』) |
丹後大仏の「応召」
戦争が長期化し軍事物資の不足が深刻になった一九四一(昭和十六)年八月、政府は「金属回収令」を公布し、翌四二(昭和十七)年五月には、寺院の仏具や焚鐘などの「強制譲渡令」を発動しました。
当時朝妻村筒川(現在の伊根町筒川地区)には、「丹後大仏」と呼ばれる青銅製の大仏が祀られていました。これは、一九一八(大正七)年、東京見物に上京し旅先でインフルエンザに感染して死亡した筒川製糸工場の女子工員四十二人の霊を慰めるために、翌一九(大正八)年、工場主の故品川萬右衛門氏よって建てられたものですが、「金属回収令」は、この大仏も見逃しませんでした。まず一九四三(昭和十七)年に、大仏に付属していた灯籠、大水鉢、駒犬の合わせて一○七六キログラムの金属が供出され、一九四四(昭和十九)年三月には、大仏本体が持ち去られました。
当時の記録には、大仏の調査のために訪れた役人に向かって、村人たちが「大仏の供出については出来得る限り後回しにされたい」と懇願したことが記されています。また、建立者の品川氏をはじめ村長、村内各区長など村の人々が代替の大仏設置に努力し、終戦直前の一九四五(昭和二十)年五月、石造りの大仏が再建された事実からも、戦時とはいえ、大仏までも差し出さなければならなかった、村民の無念な思いが伝わってきます。再建された石造の大仏は現在も残っており、その由来を書いた札も立てられています。
(『京都の戦争遺跡をめぐる』) |
現地の案内板
丹後大仏
明治三十三年ここ筒川の地に建設された筒川製糸工場は、順調な発展を遂げ、農村経済の発展に苦しく貢献していたが、明治四十二年工場を焼失し莫大な損失を蒙ったのである。
だが、役職員一同一致団結して工場復興計画に協力し工場を復興させた。
大正七年十月、工場長品川萬右衛門は従業員の慰労のため、全員を引率して東京見物の途に着いたのであるが折り悪く悪性の流行性感冒に見舞われ、帰郷後四十二名の死者を出すに至った。
工場長品川萬右衛門は、殉職者の慰霊のため、ここに青銅の露天大仏を建立したのであるが、太平洋戦争中鉄類の供出にあい、昭和二十年現在の石仏大仏を再建し今日に至るものである。
丈六尺五寸 巾五尺八寸 奥行四尺
爾後、毎年四月八日 花祭りを行い殉職者の冥福を祈り居るものである。 |
中世の本坂城址がある
《交通》
《産業》
本坂の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎本坂村(菅野村の次、筒川谷)
【足谷】
【八大荒神】
【吉谷】
【山神】(祭八月九日) |
本坂の小地名
本坂
岩鼻堰下 ヲテ畑 岩鼻 ナカセ ホモ池谷 コスワカ尾 尾テ山 ホリコシ ヤフノフチ トノ尾 カメ 畑ノ谷 スエフチ ハサコ イノキ 上シ 成田 ナハテ 宮添 コモ池谷 トノ尾下 畑ノ谷中 畑ノ谷下 畑ノ谷川上 ハサコ川上 ハサコ中 ハサコ大田 成田上 成田下 ナハテシムス田 ナハテ川上 上シ上 上シ下 上シ苗代 上シ川上 イノキ下 イノキ宮添 フチ尻 イノキ上 宮添ノ上 上シ宮田 上シ宮ノ前 上シ中 宮ノ下 フチシリ 前田 向イ 向イカラカラ 忠ケ原 奥ノ谷 小滝 向イタキ 向イ谷 向イ奥ノ谷口 向イ上 向イ下 向イ川上 前田川上 前田家下川上 タキ 向イ下切 向イ中切 コサカ 下野 尾下 トエフチ 苗代 キワラ ヲクノ谷 池ノ成 大畑ケ 大成坂 センカミシヤクノ ナカシ谷 大シモ 尾畑ケ コサガ下 コサガ上 コサガ中 下ノ下 下ノ大田 下ノ下内 下ノ上 ヲシモ川上 川ノ坂 川ノ上 家ノ下川上 シトウ 家ノ成 林ノ下 墓ノ成 長者霞 仲ノ下 清水林 立畑 アイシリ クロユワ ヒチリ 石原 ヲサクラ コシヤ畑ケ 小松尾 坂ノ上 家ノ上 家ノ下 地蔵カ尾 カヤカ成 トリコヘ セヨカミ セヨカミ 大谷 石原下 ヒチリ シヤハメ 尾谷林ノ下 ホト谷口 ヒトチマチ 柳谷口 トリコイロ ヨコミチ ナメラカ谷 柳谷 タキノ谷 カヤヤ成 ホトタニ林ノ下 ヒトチマチノ下 柳谷 大平 石原 大トシ 出合 タンバシヨウ クルスノ 大段前田 大段家先 大段界川 大段家上 大段家ノ下 岩尾 ユスリカ尾 宮田 ホモ池谷 フチ尻 奥ノ谷 高尾 シヤクノ ナケシ尾 尾畑ケ 尾成坂 セヨカミ ホトタニ 柳木谷 地蔵ケ谷 シヤハメ カメ ナカセ 藪ノフチ アサミカ原
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