丹後の地名

布甲神社(ふこうじんじゃ)
与謝郡式内社
宮津市小田

付:普甲山


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京都府宮津市小田

京都府与謝郡上宮津村小田

布甲神社の概要




《布甲神社の概要》

式内社、与謝郡20座の一つの小社である。宮津谷の奥、大江山山塊には、普甲山、普甲道、普甲峠、普甲寺跡、普甲トンネルなど実際に現在もあるので、どこかその辺りにあったとされる神社であるが、山地の広い場所でその確かな跡地は確定できていない。フコウというのは恐らく「吹く尾」で、「鉄を吹く尾根」の意味と思われる。あるいは「吹く男」であろうか。
「丹後国式内神社取調書」に引く「丹後国式内神社考」は、
普甲峠の中間に普甲寺の跡あり、夫より少し隔りて鳥居あり、普甲神社なる事疑なし、されど寺は廃絶し分散せる時、神社も何地へか遷せしなり、今之を考るに小田村の内字富久と云地の神社是なるべし、
 或書に布甲神社は天之吹尾命、今云温江峠を吹尾越亦吹尾峠と云、又旧記に岩窟内有風気云々、俗謂風穴云々とあるを考ふるに、吹尾峠は布甲峠の旧名なるをふかうと呼ならん、布甲と書るならん、富久の地にある社、中古来妙見と称して太しき古社なり、
とする。そのほか諸説はもと普甲峠周辺にあったとする点では一致するが、現宮津市字小田の富久能(ふくの)神社とするのは確定ともいえない。


付:普甲山(ふこうさん)(宮津市)

普甲峠(このあたりにでもあったのか−)
→普甲峠の頂上。「千歳嶺」と書かれた石柱から大江山スキー場をのぞむ。

普甲嶺・布甲山・千歳嶺とも呼ばれる。宮津市南部の大江山山塊中の山で標高482m。「与謝の大山」の異称をもつ杉山(697m)と大江山(832.5m)の間に位置し、大手川と由良川支流の檜川と宮川の分水界をなしている。別名・千歳嶺と呼ばれるのは、京極高広が宮津入部の際に普甲が不孝・不幸に通じるとして改められたものといわれている。今普甲道の石畳が今も残る
塩基性岩類からなり、現在は「大江山スキー場」として利用されている山だという。有名な割にはさほどに大きな山でもないように普甲峠から見れば見える。
西麓にはKTR宮福線の普甲トンネルと、京都縦貫道宮津橋立線の大江山トンネルが貫通している。普甲峠は府道11号線・綾部大江宮津線が通る。
古くからの山陰を辿る重要路の難所(普甲道)にあたり、平安初期に普賢菩薩を本尊とする山獄道場の普甲寺が開かれた、織田信長の焼き打ちにあうまでは北の高野山と喧伝されるほどであったが、現在は寺屋敷のわずかの集落と普賢堂・弁財天堂のみが残る。「与謝の大山」の比定地には諸説あるが、一説に普甲山をあてるとするものがある。




布甲の主な歴史記録

《室尾山観音寺神名帳》
従二位 深生(フコウ)明神

《丹哥府志》
【布甲神社】(延喜式)。布甲神社は今ある處を詳にせず、或云布甲神社は元亀二年普甲寺と同じく廃すといふ。又云今の内宮は村の名にあらず、内宮あるを以て内宮村と称す、元普甲村とも称す、蓋一郷の惣名なりよって布甲神社は今の内宮なりといふ。二説未だ孰か是なるを知らず。

《丹後旧事記》
布甲神社。布甲山。祭神=富久能大明神 天吹男命。延喜式竝小社。
普甲山。延喜式神名帳に與佐郡布甲神社と云を載たり今此社定らならず又元亨釈書に普甲寺と云ふ伽藍有て慈雲と云ふ高僧の住けるよし此故に普甲山と呼ぶ、慶長五年京極修理大夫高知入国の砌不幸音をいみて千歳峠と改むべしと令ありしとかや天橋記に此山を與佐の大山といふ名所と記せり。帝都より南麓内宮村迄廿四里あり山陰道往来の大道なり夫より峯まで二里此間に二瀬川あり左の方に千丈ケ嶽鬼の窟あり又峯に宮津より二里の建石あり其東の山中に普甲寺の伽藍の旧跡あり是普賢の道場にして開山は棄世上人といふ今も小さき普賢堂あり又砂石集に丹後国普甲寺といふ昔尊上人ありと云々棄世上人は愚中興 集に見えたり。俚俗の云伝へしに普甲山は大伽藍にて荘田貮万石あり今に関東には普甲寺旧跡の地ありと也與佐の大山といふ事は歌所の部に記す。

『丹後史料叢書五』「丹後国式内神社取調書」
布甲(フカフ)神社
○今云布甲峠有B岩窟内C有B風穴C出
【田数帳】普甲寺ト云見エタリ【道】未考布甲峠ハ与謝那加佐郡ノ間ニアル高山ナリ沙石集ニ布甲寺ノ僧ノ事ミエタリ考ベシ扨今宮津ノ奥ニ宮村八幡ト云アリ二丁バカリ山ニ上リテ社アリ式社ノアリサマナリ【式考】普甲峠ノ中間ニ普甲寺ノ跡アリ夫ヨリ少シ隔リテ鳥居アリ普甲神社ナル事疑ナシサレド寺ハ廃絶シ分散セル時神社モ何地ヘカ遷セシナリ今之ヲ考ルニ小田村ノ内字富久ト云地ノ神社是ナルベシ或書ニ布甲神社ハ天之吹男命今云温江峠ヲ吹尾越亦吹尾峠ト云又旧記ニ岩窟内有風気云々俗謂風穴云々トアルヲ考フルニ吹尾峠ハ普甲峠ノ旧名ナルをフカウト呼ナラン布甲ト書ルナラン冨久ノ地ニアル社中古来妙見宮ト称シテ太シキ古社ナリ【覈】布甲山ニマス【明細】小田村祭神迦具土命祭日七月廿四日【考案記】同村富久能神社最モ古社ニシテ氏子モ多シ是ナランカ)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)

《大日本地名辞書》
布甲(フカフ)神社】延喜式に列す、今上宮津村大字小田゙に在り。神祇志料云。此社今富久の神と呼ぶ、旧址は普甲寺山の窟是也と。応仁記に、山名入道の被官、垣屋平右衛門丹波を発向し、普甲寺山に陣を取るとあるも此とす。

《丹後宮津志》
上宮津字小田小字寺屋敷普賢堂はその昔普甲寺の遺跡なりと云ひまた延喜式神名帳に載する布甲神社の旧跡なりともいふ、
上宮津小田寺屋敷の富久野神社は布甲神社なりとの伝説あり未だ公認せられざる…

《宮津市史》
布甲神社 普甲山付近に存在したらしく、近世の地誌類にも普甲山に存在したとしているが、残念ながら跡地は不明である。
 普甲山には、成相寺とならんで市内の重要な山岳寺院である普甲寺が存在した。普甲寺は、平安時代創建と伝える山岳寺院で、『沙石集』の迎講の説話(一七七)の舞台と考えられているが、安土桃山時代に火災にあったとされ、現在は普賢堂、弁財天の小祠、若干の礎石、経塚が存在するにすぎない。
 また、この式内社を字小田小字宮ノ谷の富久能神社(日吉神社)に比定する考えもある。この神社はかって妙見大明神と呼ばれており、現在の本殿は天保十二年(一八四一)の建立である。
 ただ、普甲山付近に式内社が存在したことは、厳しい山道である普甲峠越(現在の宮津市と大江町あるいは舞鶴市を結ぶ山道)が、古代にさかのぼる理由の一つとなるのである。

《与謝郡誌》冨久能神社(宮津市小田)
富久能神社
 上宮津村字小田小字金山寺屋敷、村社、祭神大直毘命、延喜式布甲神社、丹哥府志には普甲神社と載す。神祇志料には小田村富久にあり、按本郡北向峠之を普甲峠といふ。嶺に岩窟あり、神社の旧跡也云々と。天保十二年四月再建、明治六年村社に列せらる、例祭九月廿四日、氏子四十三戸。

《上宮津村史》
布甲神社
布甲神社が醍醐の延喜元年(九○一)に藤原時平らが上った「延喜格」の「与謝郡二十座(大三座、小十七座)」中の小十七座に含まれていることは明かで、それを布甲山の何処に祭祀したのか、古来さまざまにいわれて、いまもなお明かでない。しかし少なくとも平安初期には立派に祀られてあったことは否定できない。そこで明治十七年五月に調査された「小田村進達係社寺取調」の京都府へ提出した文書によると−

 村 社  冨久能神社
   丹後国与謝都小田村字宮ノ下二七五・二七六番地
 一、祭   神    不詳(天吹男之命カ)
 一、由   緒
    勧請年記不詳、明治六年二月十日旧豊岡県ヨリ村社被列
    式内布甲神社ト古老ノロ碑ニ云伝フ
 ー、境   内
            三千三十六坪
 一、境内一社
    日 吉 神 社
     一、祭   神     大山咋神(命)
     二、由   緒
                不 詳
   一、 氏子戸数
             五十八戸
     明治十七年五月十二日
        神主  牧 正 就                 宮本  宇平治
        総代  宮本宇平治
             宮本安左衛 門
             沖上多七
        戸長  粉川市右衛門
                 
  一、参   考
 抑、布甲トハ如何ナル意義力卜云フニ、布甲神社ノ祭神ハ「天吹男命」卜称スル神ニシテ「吹男」ヲ「布甲」卜訓ミテ社名トナシ、社名ハ即チ山名卜ナレルモノナリ。而シテ天吹男命ハ如何ナル神ニ座スカト云へハ、本名ハ「大直毘命」卜申 シ、此ハ福ヲ直サント欲スル御霊ニヨリテ成座シ、天照大神ノ和御霊神ナリト神代系ニ見ヱタリ。此神社ヲ中古仏教ノ盛大ニ他ニ移シ、之ニ代フルニ普賢菩薩ヲ安置シ、普賢徳卜大直毘神ノ神徳トハ符合セル所アルヲ以テ大直毘神即チ普賢菩 薩ナリト唱へシモノゝ如シト云フ。暫ク記シテ参考トス。
とあり、この調査は冨久能神社に関するものであるが、実際は不明の「布甲神社」について記した文書である。では官庁の調査はどうであったか、いま明治初年の豊岡県および京都府が調査した「丹後国式内神社取調書」によると−

  布 甲 神 社
  一、田数帳「普甲寺卜云見ヱタリ」
  二、丹後・但馬神社道志流倍(但馬朝来郡宮本池臣ノ考輯)「未考、布甲峠ハ与謝郡加佐郡ノ間ニアル高山ナリ、沙石集ニ布甲寺ノ僧ノ事ミヱタリ、考フベシ、担今宮津ノ奥ニ宮村八幡卜云アリ、二丁バカリ山ニ上リテ社アリ式社ノアリサマナリ。」
  三、丹後国式内神社考(籠ノ神社権禰宜大原美能里)
    「普甲峠ノ中間ニ普甲寺ノ跡アリ、夫レヨリ少シ隔リテ鳥居アリ、普甲神社ナルコト疑イナシ。サレド寺ハ廃絶シ、分散セルトキ神社モ何地へ力遷セシナリ、今之ヲ考フルニ小田村ノ内字冨久卜云地ノ神社是ナルベシ。或書ニ布甲神社ハ天之吹男命、今云温江峠ヲ吹尾越亦吹尾峠ト云、又旧記ニ岩窟内有風気云々、俗謂風穴云々トアルヲ考フルニ吹尾峠ハ布甲峠ノ旧名ナルヲフカウト呼ナラン、布甲ト書ルナラン。冨久ノ地ニアル社中古来妙見宮ト称シテ太シキ古社ナリ」
  四、神社覈録「布甲山ニマス」
  五、明細(式内神社明細帳カ)「小田村祭神迦具土命、祭日七月廿四日」
  六、豊岡県式内社未定考案記「同村冨久能神社最モ古社ニシテ氏子モ多シ是ナランカ」
と結び、「二、丹後・但馬神社道志流倍」が宮津町宮村八幡宮をあげているほか、大体いずれも小田村冨久能神社が布甲神社であろうというのである。
 さらに地方郷土史家として、とくに地方の式社考証に尽力した故永浜宇平氏が、昭和一五年五月発表した「式社史料拾遺」中、布甲神社については−

 布 甲 神 社
 一、丹 後 細 見 録
    布甲神社、普甲山、延喜式並小社、祭神、冨久能大明神・天吹男命
 二、大日本史国郡誌
    宮津(郷)、後日宮津荘、有宮津川宮津城、有二寵多由・布甲社一延喜式
三、丹 哥 府 志
    「布甲神社」延喜式
    布甲神社は今ある処を詳にせず、或云布甲神社は元亀二年普甲寺と同じく廃すという。又云今の内宮は村の名にあらず、
   内宮あるを以て遂に内宮村と称す。元晋甲村と称す。蓋一郷の惣名なり、よって布甲神社は今の内宮なりという。二説、未だ孰が是なるを知らず。
四、橋 立 新 聞  (大正十四年八月十五日紙上)
    富 久 能 神 社
      −延喜式内布甲神社か−
    村役場に立寄って布甲神社の所在を聞いて徒うこと僅かで宮津御城下一里塚に達し亜で小田に入ると金山というがある。昔金鉱が出た処だとかで、ツイ近年も採掘を試みたものがあったとの話、村外れに老樹欝蒼神々とした鎮守の森があり、社頭の華表に富久能神社と扁額が懸っている。延喜式布甲神社蓋し是れではないか、抑も与謝郡内延喜式内社で今所在の判明せぬもの吾野神社、阿知江神社、布甲神社の三つある。其他にも疑わしいものは二三ないでもないが、如上の三社は先ず所在不明と謂って差支ない。丹哥府志、丹後旧事記、丹後一覧集、丹後細見録、みな普甲山にありと見えて居れども、 広い普甲山の何処の辺に祭ったかが分らぬ。 所が栗田博士の神祇志料に「布甲神社小田村富久にあり、富久能神社と云う。即ち是也」と見えている。何は兎もあれ、鼻を掠めて崎だつ急峻な石段を攀じ登って神前に額いた。醍醐天皇延喜以来一千有余年祭祀に渝りのない神社であるか何 うか。遽かに分られが、宮殿の階上に安置してある石獅子一対優に鎌倉時代か遅くも南北朝は降るまい。恭しく内陣を拝 するに槙木の御神像、これ又同時代と見るべきか、世にも有難い御姿と拝察せられた。
 足利時代幾回となく戦乱の為めに踏み荒された此の土地に於て猶斯かる貴き御姿を汚さずに保存することを得たのは神慮のまします処であろうが、実際涙ぐましき迄に崇厳の気に打たれた。郡内でも最近多由神社の公認された実例もあれば、当社式内社として公認せらるる可能性を帯びて居ることも、全然否定すべきものでない。今の社殿は天保十二年四月再建 の由であるが、向拝の竜の彫刻と象頭獅首(釈迦三尊の徴象)は何うしても当時のものと見えね。恐らく戦国以前の遺物 であろう。境域の森厳と相俟って床しく感じた。などと記し、その他大正四年上宮津小学校で編集された「上宮津村誌」中にも−

 二、神  社
    冨 久 能 神 社
    東西五間四尺 南北二十間 百十三坪
    本村ノ南  祭神 不詳ナリ
    然ルニ本郡籠神社宮司海部武富氏ノ著「籠神社誌」ニ拠レバ宮津町南方上宮津村ヲ過ギテ加佐郡内宮村ニ達スル峠アリ此嶺ヲ布甲山卜云フ、此ニ布甲神社アリ山名ハ社名ヨリ出ヅ此社ハ延喜式神名帳ニ載セラレタル官社ナリ年代隔タリ今ハ何処ニ鎮座スルカ定ナラス、氏カ実地踏査ニヨリバ布甲山布甲神社ノ古址ハ今ハ普賢堂トナリテ普賢寺ノ旧跡トナレリ中古普賢堂ヲ建立セシ際、布甲神社ヲ布甲ノ麓ニ移シ後慶長五年京極高知入国ノ砌千歳嶺ト改メ、此際布甲神社ノ社名モ今ノ富久能神社ト書キ改メタルガ故ニ後世不明トナルト
ともあって、その他古来多くの文人墨客なども、或は記行に所感に、普甲寺や布甲神社について書いているが、いずれも大同小異で、事実は不明というばかりであるが、そのいずれにしても現在小田小字富久に鎮座する「富久能神社」を布甲神社の元地から移したものと考証することに一致しており、恐らく足利末期から徳川初期の間に普甲寺と共にその宮居を移されるか、荒廃しつくしたものと断ずるのほかなく、しかもこの布甲神社が上宮津村発祥の根元に多大の関係あることは、否みえぬことであろう




関連項目

「普甲寺」




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん




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