京都府与謝郡与謝野町幾地
京都府与謝郡野田川町幾地
京都府与謝郡市場村幾地
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幾地の概要
《幾地の概要》
加悦谷平野の北西部、岩屋川の沿岸に位置する。加悦街道および出石街道沿いに集落が形成され、地内には市場前・市場後・市場上などの地名があり、中世に市が開かれていたことがうかがえる。なぜイクジというのかは不明だが、クシフル系かあるいはイズシなどと同じ意味かも。
幾地村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年市場村の大字となる。
幾地は、明治22年〜現在の大字名。はじめ市場村、昭和30年からは野田川町の大字。平成18年3月からは与謝野町の大字。昭2年の丹後大地震ではほとんどが全壊、80%が焼失した。
《幾地の人口・世帯数》 1401・443
《主な社寺など》
古墳(四辻も含む)(『野田川町誌』より)
市場の家外古墳 幾地小字家外にあり、、一八五メートルの山頂に南北一二・四メートル、高さ三メートルの円墳が現在完全に残っている。土師器の破片が、付近に散在している。
市場の愛宕山古墳 四辻小字愛宕山頂にあり、円墳、竪穴式石室で、昭和二年の丹後震災のとき山崩れがあり、石棺が出現し現在崩壊。副葬品は碧玉管玉、同勾玉、金環、刀剣(破片)、鉄鏃、須恵器類。
市場の戌石古墳 幾地小字戌石にあり、山腹に円墳横穴式石室が三基ある。一基は全壊し、一基は現在半壊で、土師器が出土していた。一基は、完全に現存している。
町内文化史跡を訪ねて・幾地・戌石古墳群
幾地小字戌石にあり、山腹に円墳横穴式石室が三基といわれていましたが、最近完全な形のものが一基発見されて四基となりました。
一基は全壊していますが、二号墳は完全に現存しており三号墳は現在半壊されており多数の土師器が出土しています。
遺体を安置する玄室(主室)と玄室に至る通路の羨道は、一号墳ではよく見られ、両袖式石室で、古墳時代後期の石組みの様子がよく判ります。
なお、被葬者は、この辺りの支配者か実力者だといわれております。
この古墳は、戌石とか犬石といいますが、山の出端に犬の形に似た石があったからとか、比丘尼城から戌の方位に当るからともいわれています。
(『町報野田川』(昭和55.2.28)) |
市場の香久山古墳 幾地区香久山(七〇メートル)頂にあり、山頂に円墳が二基あって、いずれも東西、南北、各一四メートルの大きさである。頂上部付近には土師器の破片が散在する。
地蔵山中世火葬墓地
地蔵山には室町・戦国期の庶民火葬墓地である地蔵山遺跡がある。
町内文化史跡を訪ねて・幾地・地蔵山遺跡
幾地小字井根谷、東西約二五〇米、南北約二〇〇米の山林にあり、室町から安土、桃山時代までの庶民火葬墓で、俗に地蔵山基地と呼ばれています。
昭和二十七年、幾地史跡保存会の方々により発掘され、火葬墓地であることが判明、日本歴史上、中世史は解明が非常に遅れていて、特にこうした墓地は参考になるといわれています。
このような墓地の様子を墓制と呼んでおります。つまり地下に埋納してある様子が 貴重なのです。発掘された宝篋印塔、五輪塔、阿弥陀仏像、地蔵菩薩像などは現地復元されていますが、刀子、骨藏器等の副葬品は幾地公民館に保存されています。同じ井根谷で二号墓地が発見されていますが、やはり階段形式となっており、出土品人骨等も一号墓地と全く同じものが発見されています。
(『町報野田川』(昭和53.12.21)) |
↑現地の案内板
火葬墳墓
古墳末期より江戸初期までの約九百五十年間は、火葬の時代であった。庶民の場合は、青竹または、枝などで火葬場をつくり、故人の霊を祈った。
岩屋の墳墓 岩屋小字庄内の釈迦堂伝説地に、一石に二体合祀の坂碑があり、小字水ノ手には五輸塔、板碑の墓地があるが、いずれも室町期の火葬墓であろう。小字林替には、四家族のものと考えられる五輸塔があり、そのうち宝珠が埋没しているのがある。小字法華堂に五輸塔と板碑がある。
幾地の地蔵山墓地 幾地小字井根谷、東西約二五〇メートル、南北約二〇〇メートルの山林にあり、室町から安土、桃山時代までの庶民火葬墓である。山の高さ約八〇メートルが段築され、上段が室町期、下段が桃山期という。年号を刻んだ宝篋印塔が一基、その銘に、「一結一五人、文明二八吉日」とあり、宝珠と台石のみが同質の石である。個人の墓塔と違い、信仰上の供養塔といわれる。石造物としては、五輪塔が五〇基(うち一石五輪塔一〇基と板五輪塔一基)と板碑が一一九体数えられる。阿弥陀仏像一〇九体、地蔵菩薩像七体、阿弥陀、地蔵二尊像一体、妙法の題日像二体がある。その他に、臼状の石(すり臼)一個、石塚などがある。副葬品は宝篋印塔塔付近から出土した刀子一個と、陶器並びに土器類となっている。陶製の骨蔵器三個、土製の経筒三個、土製の盤三個とがあり、また、この地方の特色として、凝灰石を使って供養塔にした石塔二基がある。一つは五輪塔で、他の一つは自然石を円錐状にしたものである。現存遺物は、幾地区公民館に保存されている。つぎに、同じ井根谷で、地蔵山二号墓地が発見された。山林面積三畝六歩、やはり階段形式となっており、北側の円形の墳墓から五輪塔の宝珠と笠各一個、板碑九体、阿弥陀仏八体並びに阿弥陀、地蔵二尊像一体が出土した。人骨も一号墓地と同じく発見されている。
(『野田川町誌』) |
深田神社
深田神社
市場村字幾地小字新宮、村社、祭神日若御魂命、由緒不詳、氏子百二十戸境内保志奈、玉野木、赤良の小祠あり祭三月十六日、又小字市場に中村神社あり八月二日角力の奉納にて賑し、小字山王に日吉神社、新宮に愛宕神社、中石口に狭田彦神社、城山に稻荷神社等あるも皆無格社なり。
(『与謝郡誌』) |
深田神社 幾地小字新宮(元小字深田鎮座)
和久産巣日神または、若御魂神(ワカミタマノカミ)を祀る。
「御名義は、平田篤胤の説に『稚(ワカ)とし申す故は、御子豊宇気姫神(トヨウケヒメノカミ)に至りて穀物は成り出でたるなるを、此神はその産霊(ムスビ)の御徳を保持ち絵へるのみにて、未だ成し終へ給はざりしかば、豊字気姫神の神徳の広く大なるに対して、御親神なれども稚とは申ししなるべし。』とあり。」(大日本神名辞書)とある。神像はみずら童子形、室町期の作。大祭は、四月二十五日である。
特殊な信仰崇拝として、米の粉で蚕の繭の形のものをつくり、これを神前に供える。麦、稲米を供える風習がある。これは、祭神が、養蚕穀物の神であることに由来している。
余興として、江戸時代になってから能狂言があり、神楽による五穀豊穣の祈念も行なわれた。そのため、みこしが元宮祉の小字深田まで出向き、途中小字柳町に休憩所を設けていた(五・四メートル四方の石垣をめぐらし、杉が一本植えてあった)。
この休憩所は、道路工事のため、明治十六年取除かれた。また境内裏には、田地があったが、現在は荒地となっている。境内に保志奈、玉木、赤良の各祠がある。小字山王に日吉神社、小字平石口に狭田彦神社、小字新宮に愛宕神社、小字城山に稲荷神社の各社がある。
(『野田川町誌』) |
町内文化史跡を訪ねて・深田神社(幾地)
御祭神は和久産巣日神で、「御名義は、平川篤胤の説に『稚とし申す故は、御子豊宇気姫神に至りて穀物は成り出でたるなるを、此神はその産霊の御徳を保持ち給へるのみにて、末だ成し終へ給はざりしかば、豊字気姫神の神徳の広く大なるに対して、御親神なれども稚とは申ししなるべし。』とあり。」(大日本神名辞書)とあり、神像はみずら童子形で、室町期の作です。特殊な信仰崇拝として、米の粉で蚕の繭の形のものをつくり、麦、稲米を供える風習があり、これは、祭神が、養蛮穀物の神であることに由来しています。
祭日の余興とし江戸時代には能狂言があり、また神楽による五穀豊穣の祈念も行なわれました。境内には保志奈、玉木、赤良の各祠があり、大祭は四月二十五日に行われます。
(『町報野田川』(昭和56.8.31)) |
町内文化史跡を訪ねて・加悦谷祭・幾地地区
幾地地区の氏神は、深田神社で和久産巣日神を祀り、神前に麦、稲米を供えるのは、祭神が、養蚕穀物の神であることに由来しています。四月二十四日の宵宮は、祭礼は行いませんが、子供屋台と子供神輿が深田神社に集結し、夫々が町内を練り歩きます。
二十五日祭典の日は、深田神社で儀式を挙行、神官、区役員、隣組長、大人神輿、子供屋台の順で町内を行列し、深田神社神前にて祭儀を行ない、祭典は終りを告げます。
中村神社では、四月祭りの外、九月三日(現在は九月第一日曜日)に祭りが執行されますが、この神は、ヤワラの神として奉納相撲があり、現在も、子供奉納相撲の行事は続けられています。
(『町報野田川』(昭和55.11.11)) |
中村神社
町内文化史跡を訪ねて・市場の住居跡
幾地小字市場にあり、付近の地名に、市場の上、市場の下、市場の前、市場の後、八丁市がある。
中村神社は江戸時代市場大明神と称し、大市姫命を祀り市の神、店舗の神として崇められ、但馬の街道筋であったので、市が開かれ、普から市場千軒の名が残っていますが往時の市場の形成を物語っているようです。
付近の田畑のいたるところから土器の破片が掘り出され、広い地域が屋敷跡と思われますし、彼の地蔵山古墳群のぼう大さは、昔のここの繁栄を物語るものではないでしょうか。
小字市場の名称は室町時代につけられ、明治以後は市場村の名付地となったと伝えられています。
(『町報野田川』(昭和54.2.14)) |
中村神社 幾地小字市場
天児屋根命、大市姫命、市場大明神と称され二柱を祀る。
天児屋根命は、「神皇産霊神の系統、神道祭祀の中臣氏の祖神、天照大神が天の岩屋に籠った時、太占(ふとまち)の卜事をなし、祝詞を読んだ。これより、神祇祭祀に与かったので、世に神と君との中を執り持つ家職となった。中臣鎌足は大化改新に与かり、藤原氏の姓を賜った。」(日本宗教辞典)。
大市姫命は、「市姫神とあり、市の神とも云い店の守護神である。大山祇神の女大市妃命をいう」(日本宗教辞典)。
大祭は九月三日。特殊な余興、または行事には、奉納相撲がある。また、特殊な信仰崇拝があり、胸痛(ヤワ)が起ったとき、平愈の願を掛け、直れば願済(がんずまし)として弓矢を奉納する。
神像は木彫で北神、中村大神一体、南神は不明。安政二年十二月十三日、神像二体を再造し、弓を持つ男神の立像が天児屋根命、鏡を持つ座像が大市姫命といわれる。別に鏡があり、文政八年、石田氏(惣右衛門、喜助)が施主である。
小字名に、市場、市場ノ前、市場ノ後、市場ノ上、市場ノ下という地名があり、中村神社境内に「市」が開かれていたと伝えられている。
境内に中の島があり、元の本殿跡と称され、社殿は南面していたが、昭和十一年十月に府道に沿い方向を北に向けて再建された。小字箱ノ宮の石灯篭が境内にある。これは明治の初めに現地より移された。氏子は、幾地の戸数の半数と称され、岩屋からの元氏子の参詣がある。
(『野田川町誌』) |
町内文化史跡を訪ねて・中村神社(幾地)
御祭神は、天児屋根命、大市姉命の二柱で、この中で、大市姫命は、日本宗教辞典によれば、「市姫神とあり、市の神とも云い店の守護神である。大山祇神の女大市妃命をいう。」とあり、小字名に、市場、市場ノ前、市場ノ後、市場ノ上、市場ノ下という地名があり、中村神社境内に「市」が開かれ、大変な賑わいであったと伝えられております。
境内に中の島があり、元の本殿跡と称され、社殿は南面していたが、昭和十一年十月に府道に沿い方向を北に向けて再建されました。
大祭は九月三日(現在は九月第一日曜日)に行なわれ、特殊な余興、行事として、奉納相棒があり、特殊な進行崇拝があり、胸痛が起ったとき、平癒の願かけが行われたと伝えられています。
(『町報野田川』(昭和56.9.30)) |
香久山勝右衛門の香久山城址
幾地香久山城跡 幾地、三河内の境界にある香久山の一角を切り開いた標高九〇メートルの丘陵に、南北一〇〇メートル、東西八〇メートルの範囲を占める。城主は、もと熊野郡日村岳(久美浜町湊大向)に居城していたが、天正七年(一九し九)、細川氏に降参して当地に来たり、この自然の丘陵を利用して築城したものといわれる。城主は、香山勝右衛門(後に隼人)という。のち、細川氏の家臣となって、慶長五年八月二十二日、関ケ原の合戦に参加し、美濃の竹鼻城を攻略した。
(『野田川町誌』) |
石川左衛門尉の幾地城址と「伝説の大泥棒・石川五右衛門」
町内文化史跡を訪ねて・幾地・幾地城跡
幾地小字城山にあり、城主は石川左衛門尉秀門で、大和国高市郡石川村(現奈良県橿原市畝傍小字石川)の出身だと伝えられています。
建武三年(一三三六)一色範光が丹後守護職に補せられたので、石川氏はその家臣となり、丹波郡(現中郡)に土地十三町九段を所偽する地侍となり、大正十年(一五八二)細川氏との紛争和議のため田辺城(細川居城)に出向き細川家臣と口論の末戦死し、嫡子文吾、二男五郎右衛門は、弓木城(一色居城)の守備囲めに偏向したため幾地城は十月一日落城したと記されています。
昭和三十七年幾地史跡保存会が結成され、その保存会の方々により、石標柱及び説明板が建てられ、史跡案内の一役を担っております。
(『町報野田川(昭和53.4.26)』) |
幾地城跡(そのA)
最近「ルーツの探求」という言葉をよく耳にいたします。
ところで、本史跡については、一二七号ですでに述べた ところですが、この史跡にかかわる一連の物語が、毎週木曜日NHKて放映されている「歴史への招待」で招介されることになりました。
寛文の頂、石川五右衛門と百地三太夫について書かれたという「賊禁秘誠談」なる古文書が石川、神宮寺にありますが、この石川五右衛門なる人物は、幾地(伊久知)城主石川左衛門尉秀門の長男文吾秀澄が そうではないかといわれています。そして天下の大盗賊石川五右衛門として京三条河原で成敗されたとか仇を討つためのものだったとか。史実は七月十三日の「歴史への招待」に期待してください。
(『町報野田川』(昭和53.6.26)) |
幾地城趾
市場村字幾地小字城山にてノブ谷より水を引きしと伝ふ、石川左衛門尉の拠りし所にて左衛門尉は天正十年九月八日一色義俊に従ひ田辺城に入りて主従同し枕に計死し其男文吾秀澄は義清の爲めに弓木山に籠城し其年九月廿八日討死す城地に稲荷の小祠あり次男五右衛門は盗賊となり豊大閤千鳥の香炉を盗み京都七條にて刑死せりと丹後旧事記同一覧集にあり同村別に小砦あり赤井五郎季治之れに居りしと。
(『与謝郡誌』) |
幾地城跡 幾地小字城山にあり、城主は、石川左衛門尉秀門で、大和国高市郡石川村(現奈良県橿原市畝傍小字石川)の出身。建武三年(一三三六)一色範光が丹後守護職に補せられたので、石川氏はその家臣となり、丹波郡(現中郡)に土地十三町九段を所領する地侍となる。天正七年(一五七九)、細川氏が一色氏を丹後中山城(東雲にあり)に攻撃した際、左衛門尉も奮戦した。天正十年(一五八二)、細川氏と和議が成り、左衛門尉は一色氏に従い、田辺城(細川居城)に出向き、細川家臣と口論の末戦死した。嫡子文吾、二男五良右衛門は、弓木城(一色居城)の守備を固め、幾地城は十月一日落城した。城跡には、城山稲荷社が祀られてあり、また、平地峠に砦の跡がある。この砦の城主は赤井平治と伝えられる。その名をとって平地(治)峠となったという。
(『野田川町誌』) |
伊久地砦 赤井五郎
同 平治
同村別城 石川左衛門尉
天正十年田辺城にて討死後嫡男文吾季澄当城に住す弓木に討死二男五郎左衛門盗賊となりて京都にて御仕置。
(『丹後旧事記』) |
*ふるさと第3部まちかどの記録〈18〉*石川五右衛門出生之地の碑*戦国の史実が伝説生む*
野田川町幾地の集落をやさしく抱くように、木々の茂る里山が迫る。そのすそに、高さ二b半ほどの伊久知城址の石碑があり、右の側面に「石川五右ヱ門出生之地」と刻まれている。
天下の大盗賊として知られる五右衛門は、時の権力者、豊臣秀吉に反抗したヒーローとして語り継がれ、歌舞伎「楼門五三桐」や浄瑠璃にも登場する。
江戸後期の「丹後旧事記」によると、伊久知城主は丹後守護職の一色義俊で、家臣の石川左衛門尉秀門の二男に五良左衛門という人がいた。この五良左衛門が五右衛門その人とする。
秀門は、天正十(一五八二)年、のちに秀吉の重臣として仕えた細川氏と戦い非業の死を遂げた。五右衛門にとって、秀吉は憎き父の仇というわけだ。歌舞伎の名場面に、伏見城に忍び込んで捕らえられ、秀吉に「お主こそ天下を盗み取った大盗賊だ」と叫ぶくだりがある。
歴史をたどれば、五右衛門の野田川誕生説も、うなずける気がする。
(メモ)五右衛門にはなぞが多く、出生地には伊賀上野(三重県)、遠州浜松(静岡県)という説もある。
(『京都新聞』(98.5.1)) |
世の中、大盗人とからコソドロまでヌスットばかりかも、ワタシは生涯決して一度も盗んだりしたことはありません、と言える人はあるだろうか。自分は良い人などと思い上がってはなるまい、ワタシも五右衛門かも。そんなあっちの五右衛門やこっちの五右衛門が、善人ズラして世の中を治める、はっきりいえばそっくり盗もうとたくらむわけだから、うまくいく道理ははじめからあるわけがないのである。聖人君主が政治に興味を示さなくなっていて、クズばかりがのさばっているような面もありそう、ビシバシと取り締まれる、権力にはきびしくくつわをかける、それしかないのではなかろうか。
赤井平治の平地砦がある
臨済宗妙心寺派大悲山養源院
大慈山養源院
市場村字幾地。本尊釈迦仏、寛永十二年東嶺文u和尚創建平僧地文政十三年四月恵範和尚天寧寺粗英禅師の法系を受けて住せしも、明治三十年十一月妙心寺直末となれり、宝物として桑飼村古墳出土の大形甕一個を蔵す。
(『与謝郡誌』) |
大悲山養源院幾地小字寺下
本尊釈迦如来。
臨済宗妙心寺派で、江戸時代天寧寺末寺として慶長七年建立され、開山は東嶺文益禅師である。
年中行事には、山門大施餓鬼、大般若経会がある。建造物には本堂、庫裡、薬師堂、鐘楼、土蔵がある。仏像は、釈迦如来像、その脇侍に、十大弟子の阿難尊者、迦葉尊者、他に、観音菩薩像、妙見菩薩像、如意輪観世音菩薩像などがあり、いずれも、江戸期の作である。「坂根家文書」に、天和元年再建とある。それは、坂根宮平太のときのことで、境内には椎の大木(まわり約六メートル)並びに五輪塔がある。これは、坂根家祖先石川氏の墓地と思われる。明治八年の土地台帳に、石川源十郎の名が記栽され、明治十年の「幾地山林検査図」にも、石川源十郎の名が墓地のところにしるされている。檀家は約百六十戸である。境内には、元阿弥陀堂にあった石造物(宝篋印塔並びに五輪塔の一部)があり、指定有形文化財の土師器の大壷(加悦町明石入谷古墳群より出土したもの。現京都国立博物館蔵)や、永正年間の鎧甲が保存されている。
(『野田川町誌』) |
町内文化史跡を訪ねて・大悲山養源院
幾地小字寺下にあり、本尊は仕釈迦如来、臨済宗妙心寺派で、江戸時代天寧寺末寺として慶長七年に建立され、開山は東嶺文益禅師とあります。
建造物主は本堂、庫裡、薬師堂、鐘楼、土蔵があります。
仏像は、釈迦如来像、その脇侍に、十大弟子の阿難尊者、迦葉尊者、他に、観音菩薩像、妙見菩薩像、如意輪観世音菩薩像などがあり、いずれも江戸期の作といわれます。
また、境内には、元阿弥陀堂にあった石造物があり、指定有形文化財の土師器の大壷(現京都国立博物館藏)や、永正年間の鎧甲が保存されています。近年盛んになっている三十三札所巡りでは、与謝郡西国三十三札所道案内よれば当寺は二十七番札所として案内されています。
(『町報野田川』(昭和57.10.29)) |
当光寺廃寺
観音堂跡
町内文化史跡を訪ねて・観音堂跡
市場小学校々歌
風なごやかな 五輪が丘に
鐘がひびくよ たのしい日
昭和二年の丹後大震災で校舎が倒壊し、昭和四年に再建されて今のような校地になりましたが、校門の辺りが「観音堂跡」の小字名で、校庭の方は畑だったり、雑木林だったりして、骨がいくらでも出るといいながら校庭が完成したのだそうです。もちろん、お地蔵さんや、五輪塔も出土して、今の忠魂碑の辺りに祭られていたこともありました。
その五輪塔が出土したことから五輪が丘墓地の名称が出来、市場小校歌にもその名が使われている訳です。
ちなみに市場小校舎の改築は昭和五十三年度ですべて完了し、近代的な教育の殿堂になりました。
(『町報野田川』(昭和54.3.29)) |
《交通》
《産業》
幾地の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎幾地村(四辻村の西北峯山海道)
【深田大明神】
【大慈山養源院】(臨済宗)
【石河左衛門城墟】
【赤井五郎城跡】
【付録】(中村大明神、愛宕権現、薬師堂) |
『野田川町誌』
市場地区 当町の中心地区であって、現在五区に小区分されているが、通常四辻と幾地に大別される。四辻は、その名の如く、府道宮津八鹿線及び福知山宮津線の分岐に旧道及び町道石川(亀山)道などの交叉点を形成し、その辻を中心に発展しているが、元来、集落は、八幡宮北東の山麓から南東部にかけてであったと思われ、八幡宮前に市場集落が発達し現在の形態の基をなしていたのではないかと考えられる。ともあれ、現状は加悦鉄道丹後四辻駅前あたりから、府道宮津八鹿線沿いに四辻を経て幾地区の常吉道三叉路付近まで、また、一方は四辻から府道福知山宮津線沿いに三河内地区の加悦谷高校前あたりまで、いわゆる四辻を中心に、銀行、農協、医院をはじめ衣料、食料、雑貨、時計、写真、文房具、理髪、飲食、パチンコ、映画館、自転車、タクシー、運送自動車卓修理、ガソリソスタソド、それに機業関係の商店等々と、いろいろの店が集まったメインストリートを形成しており、さらに、福知山宮津線に平行する新道には町役場、郵便局などが新しく移築されて、本町、並びに加悦谷地区の中心位置をも確立している。かかる府道の商店街に対して、四辻駅前から八幡神社前にかけての旧道筋には機業家庭が多く、八幡神社西南の坂誠工場は丹後機業の有数工場であり、この旧道より山麓にかけても、機業との関連をもつ家屋が集まっている。
幾地本来の集落は、四辻の山麓線に続く、深田神社から平地峠口に至る一区一三八戸の地域である。これは、上山田から山麓に沿って四辻、幾地を経て平地峠から北接の常吉へ、あるいは岩屋地区を通って但馬への古くからの道路に沿うものであり、機業、半農半機業がやはり主体をなしている。この山麓および谷口集落に対して、同じ幾地に入る前記府道宮津八鹿線および福知山宮津線の街村は、明治初期の地図には、僅か数戸が記入されているにすぎず、山田地区同様、これら街道筋の家並は新しいものである。
市場地区の総戸数は、六四六戸で、幾地(一〜三区)三九二戸、四辻(四、五区)二五四戸であるが、幾地の二区(主に宮津八鹿線)一一七戸と三区(主に福知山宮津線)は、四辻中心街に続くものである。なお市場地区と岩屋地区との境界上にある中村神社は、俗に「市場さん」と称せられ、九月三日の祭礼は今も賑わうが、この境界上の位置や俗称から考えて、日本各地に見られるように、かつてはこの境界に市が発達して付近の交易場となり、神社はその市神として奉祀されたものと考えられ、「市場千軒」の言葉もある程度往時の繁栄を物語っているようである。従って現在の市場はその後身とも見られる。 |
幾地の小地名
(四辻を含む)
市場
追路 亀山 五反田 根 山方 向田 坂根 追附 井原井 沖田 中縄 青田 才ノ神 福岡 御手洗 カン川 城山 戊石 箱ノ宮 王ノ木 アミダ堂 井根ノ谷 市場後 市場前 八丁岩 縄手 中岡 岡ノウラ 当光寺 堂ケ岡 穴田 地蔵下 安田岡 柳町 五輪ケ岡 観音堂 下桂林寺 坊主ケ谷 法性寺 浄水場 桜谷 家外 新宮 カクワ 城山 浄水場 ソブ谷 カクレ畑 休場 オシ谷 大谷 蔵ワレ 砦 藤ケ岡 二反田 大日東谷 大日 山王 ヤキヨ谷 ココ谷 今谷 古道 堂ケ成ル
関連情報
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丹後の地名へ
資料編の索引
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