丹後の地名

岩滝(いわたき)
京都府与謝郡与謝野町岩滝


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京都府与謝郡与謝野町岩滝

京都府与謝郡岩滝町岩滝

京都府与謝郡岩滝村岩滝

岩滝の概要




《岩滝の概要》

野田川河口部の北に位置し東は阿蘇海で旧岩滝町の中心、その場所に現在は与謝野町役場がある。立町・浜町・薮後(やぶのしろ)・東町に区分され、それぞれ商店街をなしている。道路からも今もパタパタと機織る音が聞こえるが丹後ちりめんの中心地の1つで、昭和54年には織機台数約1、600台を数えたという。中央を南北に国道178号が走り、西の板列山を越えて三重谷(京丹後市)に至る大内(おおち)峠と鬼坂(おんさか)峠(右坂(うさか)がある、頂上に右坂地蔵がある。
この右坂の登り口に大風呂南墳丘墓(弥生後期)があり、平成10年にブルーに輝くガラス釧が出土した、そんな時代から繁栄の鬼の地、鉄の地、海外との交易の地であった。
中世には岩滝や板列、華浪と呼ばれた阿蘇海周辺の中心地。
岩滝村は、江戸期〜明治22年の村名。宮津藩領。ただし寛文6〜9年と延宝8年〜天和元年は幕府領。
当村は加悦谷や奥丹後を後背地として野田川と日本海の港津があり、道路や峠道などが交差し丹後水陸交通のカナメの町、丹後縮緬の中心地としても繁栄し、江戸中期には商圏をめぐって宮津町問屋資本と対抗し、それを制限しようとして宝暦8年に当地への他国他領船入津禁止令が藩から出されている。
本庄氏領の時代には阿蘇海以北の与謝郡北半部、36ヶ村・1万5、000石の中心地で岩滝組大庄屋として千賀姓・糸井姓などが見える。文久年間の宮津藩内大小船数取調によれば、大船11・中船12を有して、大・中船数は郡内で卓越していた。
港としての岩滝村の状況の一部は岩滝区有文書からもうかがえる。(『京都府の地名』より) 
渡海船入津仕并当村にも大船有之、毎年三十艘斗当
 浜に冬囲仕、船引場銭船引貸小宿等其外儲筋多分に
 有之、或は五十河村山中江入込薪いたし、糞取売木
 をも拵、中郡・竹野郡村々御年貢米津出し宿、加悦
 谷村々御年貢河船にて積下し、是亦賃米ケ様之以助
 成御皆済仕来候           (明和四年)
 元来当村之儀は往古より塩其外何に不寄船手買寄揚
 仕、峯山御領分久美浜御支配所中郡村々当村江津出
 し仕候に付、右人足帰り荷物に買取候 (寛政二年)
幕末になると小室家(山家屋)・糸井家・千賀家など廻漕問屋の兼営する絹問屋が成長し、生糸は遠く奥州から買い寄せ、大きな生糸商は京都に出張店をもっていた。岩滝には古くから縮緬のほかに「岩滝縞」が織られて「縞売り」と称する行商があったという。宮津の糸絹問屋資本や宮津藩権力と結んで京問屋の独占と対抗する一方で在地問屋資本として京問屋に代わる機屋支配を行った。文政5年の全藩的一楼には、これらの問屋が打毀にあっている。幕末尊王攘夷派の小室信夫は山家屋の京都支店を経営していた。明治4年宮津県、豊岡県を経て同9年京都府に所属。同22年岩滝村の大字となる。
岩滝村は、明治22年〜大正10年の与謝郡の自治体名。弓木・岩滝・男山の3か村が合併して成立。旧村名を継承した3大字を編成。村役場を岩滝に設置。
岩滝町は、 大正10年〜現在の与謝郡の自治体名。岩滝村が町制施行して成立。大字は村制時の3大字を継承。
岩滝は、明治22年〜現在の大字名。はじめ岩滝村、大正10年からは岩滝町の大字、平成18年3月からは与謝野町の大字。

《岩滝の人口・世帯数》 3259・1172

《主な社寺など》

   大風呂南墳丘墓



鬼坂峠(右坂)(念仏峠とも)を少し登った所に携帯電話の中継機が2基あるが、その下側のアンテナのすぐ隣にある。↓これは背後の板列山林道から見た2本のアンテナ。
縦貫林道から見る2本のアンテナ

大風呂南墳丘墓(岩滝)
↑ 城山公園の駐車場から、岩滝小学校前から見る二本のアンテナ。これを目当てに行く。



↓ そこには四つの石が置かれている。草の茂る季節ならわかるまい、案内板に気をつけていないと見落とす。この下2メートルに木棺があった。2本のアンテナは岩滝の町からよく見える、これを目当てに行けばよい。古代街道右坂(鬼坂)の登り口である。下側に建つAU中継機の下側である。草ボウボウの状態のところ。
大風呂南墳丘墓(岩滝)

黒く見える道が鬼坂の道、道はグルッと墳丘墓の三方をめぐる、今は上まで通れて、三重側へ出られそうであるがとにかく狭くキケン、Uターンも難しい。古い昔、この墳墓が造られたころから重要な幹線だっただろう、もっとも現在のこの道だったかはわからないが、今は誰も通らない。
高く木々が生えているので見えないのだが、阿蘇海が眼下によく見渡せる尾根上にあると思われる。墳墓が造られたのは卑弥呼の時代である。ここにも岩滝卑弥呼がいたのだろうか。峠道がグルっと墳丘を回り、道路拡張工事で墳丘が削られている、そんなことから墳丘墓の大きさを正確にできなかったというが、弥生時代の台状墓としては最大級の縦約30メートル、横約25メートル、高さ2メートルと推定されている。
カメラのGPSによれば、北緯35°34.733′ 東経135°10.735′ 高度33メートル。
↓これは草が枯れた時の状態。
大風呂南墳丘墓

現地の案内板
大風呂南墳墓群(一号墓・二号墓)
 大風呂南墳墓群は、今からおよそ千八百年前(弥生時代後期)に作られた、当時の丹後地方を代表する王の墓です。
 まず、阿蘇海を見下ろす眺望の良い丘陵を削り、そこに大規模な平坦面を確保しました。墳墓群には、ニ基の墳墓に大小合わせて十の埋葬施設が確認されています。一号墓の中心には、長さ七・三b、幅四・三bの太さな墓穴を深さ二・一bまで掘り込んでいます。その中には、長さ四・三bの大きな舟底状の木棺が納められていました。
 木棺内部には、朱が敷き詰められ、全国的も出土例の少ないガラス釧(腕輪)一点や、貝の腕輪の形を真似て作られた銅釧(腕輪)十三点、貝で作られた腕輪の一部のほか、ガラス製の勾玉十点、石製管玉二首七十八点の豊富な装飾品と、十一本の鉄剣や、四本の銑鏃(やじり)、鉄製のヤスなど多量の鉄製品が副葬されていました。その中でも、直往九・七aのガラス釧は、透明感を持つ淡いコバルトブルーの色調を呈しており、保存状鑑も良く、完形品として発見されたのは日本ではじめてです。また、弥生時代の墳墓からこれだけ大量の鉄剣が出土したのは全国的に見て例のないことです。
 鉄やガラスなど、当時としては貴重な品々を副葬品として持つ大風呂南墳墓群の被葬者は、日本海の海上交通を利用して九州や山陰、遠くは朝鮮半島や大陸と広範囲にわたる交易を掌握していた人物だったと考えられます。…平成十三年十一月  岩滝町文化財保護委員会 岩滝町教育委員会

朱はmade in china の本物の辰砂のようで、ガラス釧の原料もそうだという。
『京都新聞』(99.6.2)
*岩滝町で出土「ガラス釧」**中国産のカリガラス製?**奈文研が成分分析**青は鉄で着色  加工技術解明に期待**大きさは最大級*
 昨年九月、京都府与謝郡岩滝町の大風呂南一号墓から出土した弥生時代のガラス製の腕輪「釧」(くしろ)が、中国産のアルカリ珪(けい)酸塩ガラス(カリガラス)製である可能性が強いことが、一日までに奈良国立文化財研究所が行った成分分析の結果から明らかになった。カリガラスの遺物としては最大級の大きさという。同時に、釧の鮮やかな青色は鉄で着色するという珍しい手法が使われていたことも分かり、古代丹後の勢力の大きさを示すとともに、ガラス釧の入手経路や成形加工技術の解明に期待が寄せられている。
 カリガラスは、中国で原料となる鉱石を溶解したのち、日本に運びこまれたらしい。丹後半島からはこれまでにも、カリガラス製の管玉や小玉が多く見つかり、管玉類は丹後で加工していたことも分かっている。しかし、ガラス釧が国産か中国産かについて今回の調査では判明しなかった。
 奈文研によると、、青色のガラスは通常、銅かコバルトを使って発色するが、ガラス釧には鉄が使われていた。鉄で着色したカリガラス製品は、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳から出土したなつめ玉などわずかしか確認されていないという。
 成分分析は奈文研遺物処理研究室が行い、ガラス釧の表面から出るエックス線の含有元素を分析するエネルギ一分散型蛍光エックス線分析装置を使用した。
 弥生時代のガラスに詳しい藤田等静岡大名誉教授は「弥生時代後期の日本は溶解したガラスを中国などから入手しており、加工する技術と勢力を持った集団が丹後半島に存在した証拠だろう」と話している。

「府民だより」−ゆかりの地をたずねて−
大風呂南墳墓群
鉄の文化

京都大学名誉教授・
財世界人権問題研究 上田 正昭
センター理事長

 京都府与謝郡岩滝町の大字岩滝大風呂で、平成10年に注目すべき発掘成果がありました。丹後半島の南にある阿蘇海に臨み、南東方向に派生する丘陵上に築かれた大風呂南墳墓群の発掘調査は、平成10年7月から実施されました。5墓の埋葬墓のなかで、一号墓は弥生時代の後期後半、二号墓は弥生時代の後期末頃のものと考えられます。
 とりわけ重要なのは、一号墓の第一主体部から鉄剣11本、ヤス状鉄製品、見事なガラス製釧クシロ(腕輪)や銅製釧13個、ガラス製曲玉などが出土し、一号墓の第二主体部から鉄剣2本、鉄鏃2本、やりがんななどがみつかり、二号墓の第一主体部から鉄剣1本とやりがんななどが検出されたことです。
 ガラス製釧はコバルトブルーの深みをおびた外径9・7センチ、内径5・8センチ、厚さ1.8センチの完成品でした。成分分析の結果、カリウムの含有量が多いカリガラス製で、鉄によって着色されていたことが判明しました。中国製の可能性があるという説もありますが、この地域の首長クラスの権威を象徴する副葬品です。
 見逃すことのできないのは、鉄剣があわせて14本も出土し、鉄鏃ほかの鉄製品がみつかったことです。ついで峰山町の赤阪今井墳丘墓(弥生時代後期後半の最大級の方形墳丘墓)に鉄鏃・やりがんなほかの鉄製品が副葬されていたことがわかりました。従来の見解では、鉄の文化は北九州が中心とみなされてきました。ところが、最近では日本海沿岸地域での鉄器の導入と鉄製品が脚光を浴びています。
 島根県安来市の弥生時代後期の塩津山遺跡群で鉄の鍛冶炉と鉄製品、鳥取県青谷町の青谷上寺地道跡から多彩な鉄製品270点余、弥生時代中期後半から後期にかけての鳥取県の大山町から淀江町におよぶ妻木晩田遣跡から鉄器200点以上などが出土した例をみてもわかりますように、日本海側の鉄の文化のありようが改めて問題になっています。
 『三国志』魏志東夷伝の弁辰の条には「国、鉄を出式韓・カイ・倭皆従って之を取る。諸市買うに鉄を用う」と述べています。朝鮮半島南部では遅くとも紀元前二世紀から鉄生産が本格的に行われていたことが明らかになっていますが、金海の府院洞貝塚をはじめとする遺跡から、山陰系土器が数多くみつかっていることも注意をひきます。北シ海(日本海)ルートによる鉄文化の導入とその生産を考える際にも大風呂南墳墓群は重要です。日本海沿岸地域は渡来文化の表玄関の役割をはたしていました。

この時期の鉄は素材を朝鮮などから手に入れたものと普通は言われるが、弥生墳丘墓の地は丹後の場合は鉄の地であり、鉄素材もここで生産されたのではなかろうか。板列山は風化した花崗岩で道がすぐ崩壊する。放射線量が多い石とテレビなどでも話題になる石だが、地下深くのマグマから出てきたものだから放射性物質ばかり金属も多く含まれていて鉄もとりやすかったのではなかろうか。
…とワシは考えるのだが、そうした遺跡はいまのところなしじゃ。ド素人の言うことはどうでもよいとして、これは従来説がくつがえるかも知れない超重要な遺跡、上田教授もあるいはそうした考えかも。


   岩滝丸山古墳

先の墳丘墓と向かい合う位置にあった古墳で、300年ばかりの時間差があるが被葬者は同系譜の人物なのかも知れない。
丸山古墳(岩滝)
↑この墓地は丸山墓地というが、ここに丸山古墳があったという。今も下にある称名寺の墓地になっていて、古墳はあとかたもない。たぶんいま堀切りの道路になっているところにあったと思われる。
ここは鬼坂の登り口である。写真でいえば右下に道がある。道と海と鉄とを押さえた首長なのか。made in china の鏡が出土している。



丸山の石棺
籠神社誌に
 去歳板列神社の附近に古墳の跡を発見し其の基より発掘せし古刀及土器破片数個は頗る古雅なるものにて裏面に波紋の跡ありて鼠色を帯べり之より推すに年代は千四、五百年以上のものと認めたり従って古墳は県主一族の墳墓ならん… (与謝郡誌P一〇六〇)
 鬼坂峠に至る道を称名寺から約六〇〇メートル程登ると路沿いに小高い丘がある。ここが通称丸山と呼ばれている所で、昭和二十一年七月昭和二十一年七月地主である岩滝の小室武夫が同地を開墾中、地下約〇、四五メートルの所から石棺を発見し、立命館大学から林屋、藤岡両教授を招いて調査を依頼し、その後更に京都大学考古学教室樋口隆康教授により現地踏査がなされた。その結果、次のようなことが明らかになった。
一、形式 造り山でなく自然の山を利用したものである。
一、時代 応神(二七〇〜三一〇)仁徳(三一三〜三九九)帝の頃と推定される。
一、出土品 (イ)石棺 縦約一、八メートル(六尺)横約〇、六〇メートル(二尺)深さ約〇、六〇メートル(二尺)の石の厚み約〇、六メートル(二寸)御影石の箱組合式内部には朱詰の人骨があった。
(ロ)古鏡 三角縁画文帯四孔神獣鏡(舶載鏡)と称する中国六朝時代の作(石棺にはさまれ破損していた。)
(ハ)環頭太刀(鉄剣)一振
(ニ)銅鏃 十六個
出土品中、人骨は高岡医学博士に、太刀、銅鏃等は府中妙立寺にそれぞれ納めた。附近に更に一個の石棺があるといわれているが未発掘である。
(『岩滝町誌』)

岩滝町岩滝の大風呂南1号墓の所在する尾根の先端、阿蘇海の向こうに天橋立を望む標高四○メートルの位置に、直径三○メートル・高さ四メートルを測る岩滝丸山古墳があった。昭和二十一年、開墾中に偶然石棺が発見され、神人車馬画像鏡。銅鏃一六、素環頭鉄刀が掘り出された。石棺は、大田南5号墳、舞鶴市切山古墳に類似する凝灰岩製の精緻な箱形石棺である。時期については、土器や埴輪がなく決めがたいが前期後半としておきたい。
(『宮津市史』)

岩滝丸山古墳出土鏡
このように、丹後においては由緒正しく、かつ古い鏡としまして、次に私が挙げたいのは、岩滝町丸山古墳から出土しました「画像鏡」があります。この「画像鏡」も、非常に質がよく、鋳上がりのいい鏡であります。
 この鏡の内区の図文はまず馬車であり、その反対側に動物がおり、その隣合わせのところには人物の群像二組があります。四乳によって分類された区割内に配置されています。
 そのうちの馬車ですが、普通の馬車は一頭か二頭の馬で曳きますが、これは三頭立ての馬車であります。馬が三頭というのは、そのうちの二頭で馬車を引き、一頭は添え馬を意味しています。これは、驂馬といいまして、途中で交代する予備の馬です。車体には傘形の屋根のある輿が付いています。当時の貴族たちが使った馬車だと思います。馬の首の上のところには、鳥の文様が描いてあります。
 馬車と対向の位置にあるもう一つの動物については、よくわかりませんが、双角のある鬼の面のような顔が正面にあって、体をくれらしています。このような形は、普通なら龍と思われますが、その下半身がひっくり返っているような形は、北方のスキタイの動物文様などによく出てまいります。あるいは、その方面と関係があるのかもしれません。その龍に向かい合うような形で、人間の顔と手をしているが、胴体は龍と同じ形をした小さい像が顔を向けて、同じように体をくねらせています。
 群像になっております二組の人物像を見ますと、車馬の前の区画にある方では、真ん中の大きな人物は結髪をした婦人で、まっすぐ立って、長い衣を着て、広い袖の中で両手をあわせております。その両側には二人の女官がおり、手には扇のようなものを抱えています。対向の群像を見ますと、真ん中の人物は三山冠をかぶり、七三のポーズで正面向きになって、少し右を向いております。そして、両手は長袖の中ですが、前の方に上げているようなポーズであります。衣の裾は、下の後ろの方へ垂れ下がっております。その右側には長袖を翻して、踊っている舞姫が描かれています。左側には、扇を持った侍女が立っています。その中心になる二人の人物を比較してみますと、三山冠の方が男であり、結髪をしている方が女の像となると思われます。他の似たような画像鏡を見ますと、ここに「東王父」「西王母」という銘文が書かれている例もあります。そういうことから、この二つの群像は、東王父と西王母を表わしたものと判断できるわけであります。
 このように、中心になる図柄があり、その主文帯の外側には一幅の狭い銘帯があります。その銘文は「田世作竟四□□ 多□□□□民息 胡虜珍滅天下復 風雨時節五穀熟 長保二親」という七字句のものであります。このような銘文は、よく画像鏡に出てまいります。
 さらに、その外区には尻尾が唐草風になった四匹の動物の文様帯があります。さらに、縁のところは少し高くなって、盛り上がっております。画像鏡には、平縁のものと少し盛り上がっているものとがあって、盛り上がっているものは、三角縁神獣鏡の特色であります。画像鏡は、そのような三角縁神獣鏡に近い断面を持った鏡に発展してまいります。
 後漢時代には画像石と言って、山東省や陜西省・四川省あたりで墓室やその前の祠堂の中に、石に彫って、当時の歴史上の人物や神仙、葬られた人の生前の様子などの絵を描いたものがありますが、画像鏡は、それと非常によく似た図様を表現している鏡であります。したがいまして、そこに描かれているのは、具体的な人物や動物が多いのです。鏡は単なる化粧道具ではなく、真実の姿をはっきり映し出すという特色から、一種の悪魔除けや、化物退治、病気の治療というように、昔から心霊的・呪術的機能を持っています。そういう一種の神器でありますから、そこに描かれている図柄も、神仙思想という、中国の当時の人たちにとり、非常に信仰的な支えとなった思想が表現されています。
 この図柄は、中国的なものであり、鋳上がりも非常によく、中国で作られたものであると言っていいと思います。それが丹後国から出土していることは、たいへん興味のあることと言えます。
(『謎の鏡』)


-岩滝丸山古墳の石棺-

役場の近くに与謝野町立生涯学習センター「知遊館」があり、その隣の広場に移されている。一見して舞鶴の切山古墳石棺と似ている、大きさは同じようなもの、おそらく同じ石材、日置あたりのピンクがかった凝灰岩石材であろうか。切山古墳の場合は被葬者は女性との見方もあるが、こうした色合いの石材を使った石棺の被葬者はあるいは女性なのかも…。
ひいき目かも知れないが舞鶴の石棺の方がよくできている。よくわからないが、人骨には朱が塗られていたそうだが、棺そのものの内面には朱が塗られていたようには思えなく、ワタシはその筋の専門家でもなく、こんなロープが張ってあっても中には入れない、コレコレくらいならいいが、おかしなオっさんがおるでと、いきなり警察を呼ばれるかもわからず、カネなく、権力なく、武力なしの市民であって近くでしっかり見ることはできない身である。しかし何かこちらの方が簡略化されたいるのかも…
舞鶴の切山古墳はこうした副葬品がないよう。あってもよさそうに思うのだが…
丸山古墳石棺
日置あたりにピンクの凝灰岩があるのかどうか私は知らないのだが、舞鶴の切山古墳のピンク石棺については、舞鶴ではそのように言われてきている。しかしひょっとすると熊本産(阿蘇ピンク石)かも知れないということもあり得る、刳抜式なら大王の石棺だ、その方がグっと面白いが、私のピンク石知識はなく、この凝灰岩の産地の特定は進めた方がよいのではなかろうか。


現地の案内板案内板
与謝野町指定文化財(考古資料)
岩滝丸山古墳の石棺
指定日 平成20年3月12日
 岩滝丸山古墳は、岩滝小学校の北東にある丸山墓地の丘陵上にあった直径30メートル程度の円墳とされています。
 本墳は、1946年に耕作中に発見され、石棺と銅鏡・銅のヤジリ・太刀などの副葬品が出土しました。1966年には道路工事に先立ち発掘調査がなされ、調査後に石棺は移築されました。
 本墳は、丁寧に造られた石棺や銅鏡などの副葬品から推測して、今から約1650年前(古墳時代前期後半)の阿蘇海北岸地域の豪族の墓であったと考えられています。
平成20年3月 与謝野町教育委員会

この石棺は弥栄町和田野の、大田南古墳群5号墳出土石棺と似ていると言われいる、私はそれを見てないので本当かどうかは保証できないが、専門家がそういうのだから本当なのたろう。その棺内から青龍三年の年号銘を刻む方格規矩鏡四神鏡が出土しで全国的な注目を集めた石棺である。願興寺古墳群のなかに似ているものがあるそうだし、時代が違うとも言われるがこれら3つあるいは4つの石棺はあるいは丹後王家の3姉妹あるいは4姉妹なのかも知れない。



   板列稲荷神社

大祭当日の板列稲荷神社
↑大きな立派な重そうな御輿だけれど担ぎ手には若い衆が少なそう…。ここも「還暦なら若い衆」の世界か、伝統を守るのも命がけ、御輿を何度も放り上げたりしたら大変なことになりそう…。ジイさんたち大丈夫か、と、こちらもジイさんが心配した。

与謝郡式内社・板列神社の比定説もある。男山の板列八幡神社と争うがどちらかはもはや不明てあろう。

板列神社
○【元亨釈書】丹州与佐縣板浪里 ○宮津人云此社橋立ヨリ半里アマリ男山村ニアリ板列ヲハンナミト唱フト云ヘリ
【道】男山村八幡宮ト称ス岩瀧ハ往古ヨリ紛レナキ八幡宮氏子ナリ然ルニ岩瀧村ヲ明治二年ヨリ式内ナリト云出タリ男山村ト云ニ付テハ八幡宮ハ式内ニ非ズト云モ非ナリ男山古ハ多治谷村ト云シナリ八幡ト云ニ付テ山城ヨリ勧請セシコトニ思ヒテ男山トシタルナリ板列庄ト云カラハ板列ハ村ノ古名ナリ但馬太田文ニ式内神社ヲ八幡別宮八幡宮ナド云コト多シ出石郡須義神社菅八幡ト云當板列八幡宮丹波氷上郡狭宮神社ヲ狭宮八幡ナド云皆式内社ナルヲ考へチ知ルベシ【覈】府中男山村【明細】同祭日八月十五日又岩瀧村祭神倉稲魂命祭ニ月初午【考案記】男山岩瀧争諭アリ元来男山岩瀧府中村合セテ板別庄又ハ板列山ト古称アレバ一涯ニ岩瀧ヲ板列田トモ男山ヲ板列山トモ云ガタシ宮津府志ニハ男山村ト岩瀧村ノ間ニ板列神社アリシガ衰廃セリ今古墳アル地是ナリ或云衰廃ノ後八幡ヘ合祭スト今考ルニ男山村八幡ヲ板列ト唱シモ古キコトゝ見ユ又明和ノ検地帳ニ岩瀧村ニ板列面ト字スル田アリ依テ後世稲荷ヲ勧請シ板列稲荷ト称ス是モ非ナリト云ガタシ唯此社ヲ以チ式社ト唱シハ如何アラン【式考】岩瀧稲荷却テ由アリ其ハ櫻井家旧記ニ丹州与謝縣板列里稲迺売神云々トアリ其祭神ノ名ヲ稲荷ト訛リシナルベシ)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)
(「丹後国式内神社取調書」)

板列稻荷神社
 岩滝町字岩瀧小字板列鎭座指定村社、祭神稻廼売命、旧と修験、龍泉寺、相伝院の鎭守として陀吉尼大稲荷を祀りしも、再三祀融に罹りて寺院廃れ山伏僅かに命脈を繋ぎ、丹哥府志岩瀧村の附録の部に「稲荷大明神」と録するもの蓋し当社なり。幕未当時宮津藩の寺社御調書の中に岩瀧村稻荷社宮守岩本典膳とあるは即ち相伝院の山伏にて維新改廃神職となり修験行者全く廃る。明治六年二月豊岡縣より村社に列せられ同十二年水無水堂を移して社殿に充て漸く神社としての實を備へ、同四十三年四月十二日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。或は曰ふ延喜式所載板列神社は当社にして元伊奘冊命を合祀せしも何時の間にか稻酒売命だけ祀られたりと。祭典五月一日氏子三百四十四戸。
 小字大風呂に三寳荒紳(日内神社)天満宮、小字町田に境荒神あるも無格社なり。
(『与謝郡誌』)

板列稲荷神社
鎮座地  京都府与謝郡岩滝町字岩滝小字板列五八二番地
神社名  板列稲荷神社
祭神   稲迺売神
祭日   五月一日
社殿   本殿 流造  間口二間(三メートル六三センチ)
            奥行二間(同)
     拝殿 切妻造  間口二間(三メートル六三センチ)
             奥行二間(同)
     幣殿 切妻造  間口二間(三メートル六三センチ)
             奥行五間(九メートル九○センチ)
       奥行二間半(四メートル五五センチ)
       上屋  切妻造  間口四間(二メートル二七センチ)
主要建物   輿倉  社務所
境内地    八七四坪(二、八八九平方メートル)
境内神社   水無月神社
氏子数    七九一戸(昭和四十三年現在)
由緒
 当社の創立年代は不詳であるが、延喜式神名帳に「官祭に与れる一社」とあるところからみると、相当古いものであると想像される。
 然るに、中世に至り社運衰退し、殊に地続きであった別当の龍泉寺が一色家の祈願所であるという理由で永禄年間(一五五八−一五六九)細川氏のため焼却され、板列神社はそのまきぞえをくい、境内の建物は悉く焼失した。当時の村民は深く之れを歎き、その焼跡に小祠を建て祭事を続けて来たが、その後、文政九年(一八二六)再度の罹災で僅かに残存していた古記、社伝等すべて鳥有に帰した。
 こうして永い歳月の間に今日の如く板列稲荷神社と称し稲迺売命を奉祀している。
 尚現在の社殿は明治七年(一八七四)仮建築をしたまゝのものである。
 (註) 稲迺売神は伊勢御鎮座本記にある宇賀御魂稲迺売命(豊受大神)の別名である。
(『岩滝町誌』)


 岩滝獅子神楽。岩滝は丹後神楽発祥の地である、ここから丹後各地へ広まったとされる。伊勢大神楽を引き継いできた。
岩滝神楽
↑ 御宝楽舞(板列稲荷神社。5月1日の例大祭)
獅子神楽には、鈴の舞・四方掛り・剣の舞・扇の舞、三宝の舞・乱(りゃん)の舞・御宝楽の舞の七種がある、この舞は板列稲荷神社の神前のみで奉納される特別な舞。 長い鼻の仮面をかぶった猿田彦がササラをかき鳴らし、軽快な拍子で獅子と合わせる。



イタナミあるいはハナナミ、ハナミといった地名はここばかりでなく、意外とあちこちに残されているのだが、何のことであろう。
板列や花浪といった地名については、古今東西の論者がいろいろと書いてはいるが、こんなに古い地名ともなれば、皆がエエかげんな話で正解はないようである。
イタナミ=ハンナミ=ハナナミ=ハビ・ハミ=蛇=天橋立。これがワタシの解である。
板列稲荷神社の社前には板列公園があり、裏山の頂上には板列展望台が作られている。現在の地名からならこのあたりが「板列」の本貫地かも。
さて古くは御檀家帳は「いたなみ」と呼び、今もそう呼ぶのだが、
『丹後旧事記』に、
花浪の里
 花浪は庄名なり板並板列庄など書也里にはあらず日置の郷より西の方府中七ヶ村岩瀧の地迄を云ふ。
  家集 花狼の里とし聞かは住うきに
       君引渡す天の橋立  和泉式部
とあるが、板列はイタナミではなく本当はハナナミ、だからハンナミと読むのであろうことがわかる。ハンナミとはハナナミで、ハナナミとはハビ・ハミのことで、蛇のことである。
このあたりに本物のにヘビがいたのかどうかはわからないが、ヘビがいると信じられていたのでなかろうか。八岐大蛇を指摘するまでもなくヘビと金属は関係が深いが、ここはそれもあろうが、もう一匹大きなヘビがいた。その古代のヘビ信仰のかすかな残りのような話が「本当にあった話」として今に語り継がれている。
『みやづの昔話』に、
成相山の大蛇  中野  松井ぬい
これな、ほんまにあったことだで。成相山のつくった話だなしに、なあ、あのいく分かな、尾や鰭がついてはおるか知らんけえど、実際にあったことの話だ。
あそこに、あの今はな、あの底なし池言うとったけえど、今は底なし池だない、お茶屋がでけたりしとりますけぇな、弁天山の下に。そこにな、成相に小僧さんがおってな、その小僧さん、ここのかまいりがくると、たらいに乗って、あそこの底のない大きな池だって、ほて、蓮の花を切りにいくのに、小僧さんに、あの、お上人が小僧さん乗せて花切りに行くのに、毎年そのたらいに乗った小僧さんを蛇体が飲んだんだ。蛇体いうて、淵におろうが。
底なし池におるおおぐちなわが毎年飲んでどもならんで、小僧さんがかわいそうだで言うて、ほて、あのわら人形こしらえて、衣きせて、その腹の中に、煙硝玉をな、仕掛けて、花切りに行かせなはった。ほたら、そなこと知らんで、いつものおおぐちなわが出てきて、その小僧さんを頭から飲んだ。飲んだら、あの、お腹の中ではじいてな、ほて、破れたんだな。ほいで、あの熱いもんだでな、じゃあと山から国分寺いうところに、下り坂になるな、国分寺は、このつづきだし。ほて、そこにおりてな、もはや、どこらへんまできたんだろう思うて、ひょいと頭をもちあげてみたらな、国分寺のな、その、吊り鐘の下に頭がはいってな、ほて、ぬこうしても、あの、吊り鐘が深いで、ぬげなんだ。
それから、そのまんま、鐘をかぶったなり、じゃあとおりて、この内海に入って、向うが見えんいうし、ほいで、行ったら、文殊さんの、あの、細うなったところにな、あの、行ったら、ほたら、そのお腹が破れたところからな、水が入って、どないにもいたたまれんようになって、そこで、沈んだというてな。それが、あの、この内海からあっち、大天橋の方へ出るところにな、あの、浅瀬があって、そこにお腹がつかえて、そこに沈んでしもうたんだって、その蛇体が。そこは、いまでも浅いだいうて、私ら子どものときにな、文殊さんに旅するのに、その浅いところを通らんで、こっちゃの深いところを通って行ったもんだ。そこに行くと、昔のお爺さんが、ここらじ沈んだだろうで、ここは浅かろうが言うて。ここらへんは、あの、波の静かなときには、「蛇体の死骸が見えるかもわからんで、あんばいのぞいてみい」言われちゃあ、「ほんまかしら」思うて、舟ばりに指じゃいづいて、「今年も見えなんだ。蛇体が今年も見えなんだ。来年になったら見えるかしらんだあ」言うて、「そうかな」言うちゃ、毎年文殊祭りに行くのに見たけど、何年のぞいて見ても、蛇体の死骸どもあへん。あそこ、あの、沈んだことはな、沈んだ言うて。いろいろの話してもろうたけど。

『おおみやの民話』に、
内海の水  新宮 井上 保
 なんでも昔、成相山の仁王さんの子供が、底なしの池に落ちたら、池におった大蛇が一口に呑んでしまっただそうな。
 その大蛇は、それから大きなって、大きなって、底なしの池におれんようになって、山の下の内海に入ってしまった。それを見た仁王さんの爺さんの方が、
「婆さんや、あの内海の水を飲みほしてしまって、大蛇を退治しょうかい」いうとら、婆さんが、
「それゃ爺さんなるまいで、水がなかったら人間が困る」というただそうな。おかげで今でも内海の水は、いっぱいあるんだ。

おもしろいね、ゾクゾクもの。こんなに興味惹かれる神話があちこちに伝わっているなら、もっともっと早く気がつかなければならないのだが、都のガクシャセンセやそれをマネする者たちは、地元はバカにして、どこか彼方ばかりを見ているのだろうか。丹後人よ、仕事は一杯残されているぞ。がんばれよ。
ヘビは山にいたのか海にいたのか。確かに海にはいる、今もその姿をわれらはシカと見ることができる。
天橋立の長く伸びた砂嘴はヘビと見立てられていたと思われる。内海に入った大蛇、それが天橋立だ。
だから橋立の付け根を中心に半円を描いて板列とか花浪などと呼ばれたのではなかろうか。さらに波見とか、勘注系図には、海部直勲尼・葬于余社郡板波波布地山。(このハブはハミ系でなかろうか、もしそうでなければ羽布か埴土が採れる地)、まさにここにピタリの地名ではなかろうか。
天橋立とあの砂嘴を呼ぶのだが、そのように呼ぶのは都人たちの雅称で、地元の俗称はヘビ(ハビ・ハミ・ハブなど)であった。北岸側の広い範囲もまたヘビと呼ばれていた。言われてみれば簡単すぎるのか、アタマが良すぎて難しく考えすぎるのか、花のミヤコの方ばかりにココロもアタマも飛んでいて地元の伝承に注意を払わなかったのか、当時の地元庶民が見た、そして今もそこに見える大きなヘビにこれまで気づいたものはない。

 大蛇展望台から与謝海に横たわる大蛇を見る。



 大蛇山を行く(付録)



出船祭飛龍観
今も「飛龍観」とか、文珠堂の「出船まつり」には金銀の龍が舞うとか、これらはそれほどは古いものとも見えないが、近くは橋立をヘビとは見てないが龍とは見ているよう…(左写真は坂根正喜氏『心のふるさと丹後1』による)

こうしたイメージか↓







 浄土宗本誓山西光寺
西光寺(岩滝)

本契山西光寺
 岩瀧町字岩瀧にあり。本尊阿彌陀三尊、開基慶譽上人(天正八年入寂)なりといふも創寺詳かならず。故と同所立町にありしも宝暦年間火災に罹り今の場所に移転せるものなりといふ。之より曩き数回祝融に罹り縁起古記録の類悉く焼失し沿革は知るに由なし。本寺庭前に大銀杏樹あるより書院を銀樹閣と云ふ。又桜は有名なるものにて陽春墨客の杖を曳くもの少からざりしが先年枯れて今は若樹の植ゑ亞かれたるも惜むらくは曩日の面影なし。
(『与謝郡誌』)

西光寺
本誓山西光寺 浄土宗 智恩寺末

当寺は天正の初、現岩滝区公会堂周辺の地域に創建され、爾来一一四年間続いたが、安永の頃善八火事に類焼し、諸堂宇悉く烏有に帰した。そこで、弓木と岩滝との境界である「日の内」の一廓をトし、山林原野を整地して取敢えず本堂其他の仮普請を完了し、五十余年後の明和年間になって本堂の新築落慶、ついで庫裡、鐘楼門、其他を漸次増築した。開山立寺は天正元年(一五七三)であり、開基順慶大和尚の出生地、履歴書等は全く不明である。…
(『岩滝町誌』)


 浄土真宗報恩山称名寺
称名寺(岩滝)

報恩山称名寺
 岩瀧町字岩瀧にあり本尊阿彌陀仏、楠木氏の遺族千窟落城の後この地に蟄居せるもの、子孫慶長年中に僧となり一宇を建立し元禄年間に至りて公然寺号を称す。最初岩瀧小字日内に在りたれば住職は日野姓を称し其一族にし工檀徒となりしものに楠木氏の遺族なることを記念せん爲めに楠田氏を名乗るもの多しといふも事実如何に哉。日内には京極丹後守別墅を営むに及び今の竹ヶ鼻に移れり。檀徒七十戸。
(『与謝郡誌』)

報恩山 称名寺
真宗 西本願寺末

草創以来、火災に罹ること再三、記録等烏有に帰し、何等徴すべきものは残っていない。伝説によれば開山日野氏は北朝時代楠氏一族の落人であって、開基善入は字日内の谷間に草庵を結び得度して善入と号した。そのうちに次第に信者ができ、山号寺号を有する寺院の形式をとゝのえたが、約二百年後、一色、細川の攻防戦が前後十年にも及んだので、此間他の人家と共に戦火に焼かれ、海岸に近い田圃中に移転しなければならなかった現在の橋立中学校が其の跡である。ところが京極丹後守高知が此処に別荘を築くために移転を命じ移ったのが現在の竹花町新道角、宮崎国治家がその跡である。更に百余年、安永五年(一七七六)七月九日夜、岩滝未曽有の大火があり、岩滝の半数以上を焼き「現在の町役場のところから男山が丸見えだった」。と伝えられている。称名寺はこの火事の時も罹災したので現在の地にまた移転した。

二十一代 諦教 八十九才丹波野花福知山市)・花崎氏
二十二代 行信
諦教は龍谷大学の前身文学寮出身の俊才で、各地に教鞭をとり三十才近くで当山を継いだのであるが、窮迫の、極にある寺の経済状態を見て呆然自失する外無かったという。
寺の敷地が大半他人の所有で年々一石の年貢米を支払うに至っては寺院の恥辱さえ感じられた。
そこで鋭意寺門の興隆を謀り、家伝灸の研究と宣伝、夜間は青年学校の講師を勤めた。
灸の客は日増しに遠近から来るようになり遂に門前市を為すの有様、糸井素太郎の眼科の看者数と並び称せらるるに至った。こうして逐年買い集めた田地からは毎年数十俵の年貢米を収納することとなり、土蔵、客間、堂等を増築し、庭園も造られ、寺院としての模様を整え、更に与謝郡真宗寺院連合会長を多年勤続、岩滝産業組合幹事を二十年もつとめ、日置の田井源四郎、野間の木下と共に郡内三名監事と評せられた。
「丹後国寺社帳」
称名寺 山号報恩山 
本尊阿称陀如来
真宗本派本願寺末 仏性寺末
建武延元の昔、楠公戦死の後、一族此地に来住せるものの後裔に善入なる者あり。慶長二年(一五九七)一宇の草堂を営みて称名に力めたもの之を当寺の開基とし、元禄五年(一六九二)法地公認、祐山を中興となす。…
(『岩滝町誌』)


《交通》

《産業》




岩滝の主な歴史記録


『丹後御檀家帳』
岩瀧一圓
   蒲田佐渡守殿      佐渡殿御子息
                 蒲田新左衛門尉殿
 同弟 同彦八郎殿   同名萬五郎御子息佐渡とのまこ子
                  同 宮松どの
    同市郎左衛門殿       同 三郎左衝門殿
    同雅楽助殿         新五郎殿
   かうおや            かはた御内
    孫左衛門殿           與七との
      〆

一 いたなみ
      一城の主也          かはた佐渡殿おい子
    林左衛門太夫殿       蒲田源左衛門尉殿
一 いみの木    此里地下は表へ入こみ也
   大なる城主也
     稲富どの     稲紀伊肋どの
     福西どの     糸井隠岐守殿
     土方新右衛門殿  まへはかんちやつと申
一 いみの木の地下にて
     そうめん屋殿        助左衛門殿
     中川かさ殿
    〆

『丹哥府志』
◎岩滝村(弓木村の次、是より右阪を越て中郡森本村へ出る)
岩滝村より一宮へ海程凡一里、文珠へ一里、宮津へ二里、時々刻々便船あり乗合船といふ、船の賃銭一の宮並文珠へ各十銭、宮津へ十五銭。
【愛宕社】
【本誓山西光寺】(浄土宗)
【報恩山称名寺】(一向宗)
【龍泉寺宗伝院】龍泉寺宗伝院は弘伝上人の開基なり、今修験者となる。抑弘伝上人は元常陸の人なりしよし、其弟子に華順といふものあり共に廻国して丹後に来る。始め弘伝上人稲富一夢に炮術の秘法を授く、故を以て稲富一夢懇に之を留む、よって遂に丹後の人となる。其後上人の宿願なりとて其弟子華順を同して内海に至り水底に入る。其辞世の歌
底清く後の世迄も照すべし  三世を契りの袖ぞ惜しき
 【付録】(稲荷大明神、三宝荒神、境荒神)

『丹後与謝海名勝略記』
【岩滝村】 但馬よりの宿駅又宮津よりの船着也。是より宮津へ舟路一里半成相へ十六七町文珠へ三十町はかり、右坂といふは中郡へ出る道なり。

『丹後の宮津』
岩滝の町ー弓木をふくむ
板列さんから出て西へ、鋪装されたよい道を岩滝の町へはいると、この地方では立派な家並のそろっていること、いかにもなにか特殊な産業にさかえているということがわかる。いうまでもなく、昔からの機業地である。徳川時代、丹後にちりめん機業がはじまると、ここもはやくちりめん産地となったが、それはこのちりめん以前からすでに織物産業があったからである。ちりめん以外に岩滝織りなど、地方人ばかりでなく、他地方へも売り出されていたが今はない。年間おそらく七八億円の産額をもつここのちりめんは、その消長がともに町全体の消長でもある。かって岩滝は旧藩時代の宮津領では、城下町宮津をしのぐ豪商が支配する町であった。とくに千賀・小室・糸井の三氏一族一党は、まさに宮津藩の財政を左右する有力者たちでもあった。その資本は大船をもって日本海を往来し、絹糸・縮緬・米・などの仲買問屋として高利貸的政商をかねる連中である。一時は丹後ちりめん全体が、ここの資本に左右されたこともあり、藩と結たくした政商が、文政百姓大一摸(一八二二)のもっとも大きい被害者となったのも、このためであった。だが今は、その豪商一族はたいてい没落し、現在はかっての二流三流が表面にあらわれている。明治前期の日本政界にあらわれた小室信夫、自由民権の斗士小室信介の父子は実に岩滝人の歴史的代表者である。交通は国鉄にはめぐまれないが、阿蘇の海に文殊・宮津をつなぐ航路と、丹後海陸のバス網の一つの結び目となって、かなり便利である。

『岩滝町誌』
角力取のこと   岩滝に白藤、弓木に倉橋、男山に小鷹、三人の名力士があった。
小鷹は本名長四郎、こんにやく屋、高岡儀右衛門六代前の人である。その当時は今日の映画とテレビの如く、芝居と相撲が何よりの娯楽として歓迎され、次ぎ次ぎに来ては興業した。
ある時、江戸相撲の一行が来て、今の町役場の西隣の広小路に板囲いをして十日間興業した。一行は商人宿日下部清右衛門(たけや)に泊っていた。現在の千賀雄爾家の西隣が其の跡である。
ところが、小鷹長四郎が、この一行と毎日勝負して九日間勝ち続け、愈々千秋楽という十日目の前の晩、一行の大関が幹部と密談を凝らした。それというのは、江戸相撲ともあろうものが、田舎の百姓力士に負けてしまったとあっては先行きができぬ。明日はどうしても勝たねばならぬ。そこで俺の十八番である上から締めて締め殺す、こ、の手を用いる外無いといった。
こうしたこともあろうかと、長四郎兄弟分ともいう親友が、こっそり探偵に来ていたので急ぎ帰って長四郎に報告し、明日は病気か何かにかこつけて立合中止を申し出てはと、極力止めて見たが、長四郎は頑として動かぬ。
「これ程好きな角力だ。土俵の上で死ねば本懐だ。」といい、とうとう翌日出てしまった。そして江戸大関の上から締めつけて来たのに対して、長四郎は下から大関の褌を両手に掴んで下から締めつけた。
こうして上と下と必死の締め比べをつゞけたが長四郎が機をみて一寸緩めたので、大関はやれやれと思ったのかハァと吐息をした。その瞬間、脚の力が抜けた。間一髪、長四郎は渾身の力をふるってひっくり返して大関を土俵に投げつけてしまった。
親の長右衛阿は長四郎が毎日田の草取りに出るといっては相撲にいっていることを知らせられて大いに立腹し、殊に今日は大関に殺されるかも判らぬと聞いてびっくり仰天し、田圃から鍬をかついだまま相撲場へ駈けつけた。
木戸口で、長四郎を呼び出してくれと、只ならぬ勢なので、木戸番はまあまあとなだめて中へ案内した。
見ると今、大きな江戸力士と、小さい伜の長四郎と取り組みの最中だ。
余儀なく固睡をのんで見ていると、大木を倒すように侵四郎が大関を見事にころがしてしまった。
その瞬間、長右衛門は感極まって覚えず土俵に駈け上り、鍬を振り廻しつゝ、
「男は小きいが倅が勝ったー。うれしい、うれしい。」と、絶呼したので見物一同も総立ちとなり、うわあ、うわあと鬨の声を揚げた。

『京都丹波・丹後の伝説』
名力士小鷹
与謝郡岩滝町岩滝
 岩滝村(いまの岩滝町)に三人の名力士がいた。体重三十貫(一一二・五キロ)近い巨体の白藤、押しの倉橋。そして小兵ながら、どこに怪力がひそんでいるのかと思える小鷹。この三人、性格、気質からけいこ方法までそれぞれ異なっていた。巨体の白藤、けいこはあまりしなかったが、村で彼にまさる力持ちはいなかった。押しの倉橋はただ腕力だけを鍛えていた。
 一方、ヤセの小鷹は、なによりも相撲が好きでたまらない男。白藤に挑戦しては負けてばかりいた。しかし、根っからの相撲好き。体重の少なさをなんとかカバーしようと暇をみてはけいこに励んでいた。
 そんなある日、地方巡業の江戸相撲一行が岩滝村へやってきて十日間興行することになった。これを喜んだのは村の人たち。そしてヤセの小鷹も、江戸の力士と相撲が取れると大喜び。半面、いやなのがやってきたーーと、顔をしかめにのが白藤と倉橋。この二人、村では東西の両横綱。村人たちも二人に期待を寄せていた。
 さて初日。倉橋は上手をとられ、あっさり土俵外へデンー、白藤は初日は勝ったものの、二日目、上には上があって、前頭そこそこの関取にあっさりと負けた。「やっぱり江戸の力士は強い」と、村の人たちも村の横綱に失望した。
 ところが一人、九日間勝ち続けている男がいた。小鷹だ。桟敷の半分を割っていた観客も、この話を聞き応援に繰り出した。
 千秋楽前の九日目夜。江戸のある大関が幹部と密談していた。というのも、江戸相撲が田舎の力士に負けては名がすたる。「あすは十八番の右上手でヤツを絞め殺してやる」と大変なけんまく。
 そんなこともあろうかと、様子を探りにいっていた小鷹の親友がこの話を聞き「江戸の大関がお前を殺すといっている。病気かなにかにかこつけて、休場を申し出ろ」と忠告した。しかし小鷹は「相撲はオレの命。土俵の上で死ねれば本懐」と聞き入れない。
 いよいよ千秋楽。例の大関と決死の覚悟の小鷹の一番。グッとにらみ合った二人。軍配と同時に大関の張り手が小鷹を見舞い、右上手をとって相手の体を絞めつけにかかった。ところが、大関「これで勝った」と顔をゆるめた瞬間、小鷹は大関のまわしをとるやいなや力をふりしぼり、見事な上手投げ。ワーッと座布団が土俵に雨と降った。
 体力不足を執念の炎でカバーし、江戸の大関を破ったこの小鷹、岩滝町史によると本名は長四郎といい、コンニャク屋高岡儀右衛門の六代前と伝えられている。
《しるべ》
岩滝町の中心部は宮津市から約八キロ。国鉄宮津駅から丹海バス「岩滝」で下車。その間約二十分。昔から機業が盛んで、丹後ちりめんの産地として知られており、機業は町の基幹産業となっている。





岩滝の小地名


岩滝(いわたき)
板列(いたなみ) 大風呂(おおぷろ) 解谷(げしだに) 千原(ちはら) 野田(のだ) 日ノ内(ひのうち) 森ヶ崎(もりがさき)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『岩滝町誌』
『岩滝村誌』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん

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