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和泉式部(いずみしきぶ)
in 丹後
くろかみのみだれもしらずうちふせば
まづかきやりし人ぞ悲しき
あらざらんこのよのほかのおもひでに
いま一たびのあふこともがな
情熱の恋の歌人のイメージのイラストなのか、どなたのものか不明で、フリーでないと思うのですが、勝手に使わせてもらってます、ゴメンナサイ。 |
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和泉式部(いずみしきぶ)
夫(二十歳ばかりの年上・再婚)の藤原保昌が丹後守となったのは寛仁2年(1020)くらいで、万寿2年(1025)には大和守となっている。この期間には和泉式部も丹後にいたであろう、彼女は40歳前半くらいだったと思われる。
(明治になっても平均寿命はこれくらいだったから、今ならヤングだろうが、当時は棺桶に両足を突っ込んだ状態の年齢だろうか)
夫は地方長官で税金をくすね、本来のお仕事をさぼるのにも余念がない、自分の利益しか考えず丹後国をよくしようなどとはツユほども考えてはいないようす、いつの世もどこの国も同じようなことで、人間社会の、いや官僚天国社会の限界かもと考えさせられる。
かくも無責任で不行き届き者ばかりならば納税者はいよいよ大バカをみるだけで、当然にも税金を払ってはくれなくなる。
ほかに社会のあり方をしんけんに探るか、子や孫やひ孫の将来世代に大ツケを背負っていただくか、それとも大クソどもの道連れで国そのものが滅ぶか−。われわれが選択すべきときであろう。
式部は楊貴妃や小野小町と並び称される美女(『平治物語』)といわれ、中宮彰子の文化サロンの「四天王」の一人、日本を代表する女流歌人、千年が過ぎても彼女を超えるような人は多くはいない、そんな恋多き超才女にとっては、丹後の田舎生活は超たいくつな物足りないものでなかっただろうか。
どうせたいくつならいっそうのこと、もっとも退屈な場所に住んでみるか、とそう思ったのかも知れない。
どうしてまたよりにもよってと、ホンマかいなと考え込こまざるを得ないような周囲の世界から隔絶した山中である。
式部は山中の里に住み、夫のいる府中へ通ったともいわれるが、史実としてはいつ生まれいつ死んだのか正確にはわからない、どこて死んだかも不明。
和泉式部の墓と庵の跡
↓「和泉式部の墓」と伝えられる(宮津市山中)。この手前側山ぶちに彼女の庵の跡というものがあったという。
はななみのさととしきけば物うきに
君ひきわたせあまのはしだて
「はななみの里」という地名、平安期にはあったのであろう、今はない。どこだ、ワシとこじゃ、いやそこではないワシとこじゃ、とみにくい取り合いになる。実は天文7年(1538)の『丹後御檀家帳』に「いたなみ」と見えるところのことで、今もそう呼ぶ天橋立の北岸一帯のこと、ここでは夫の赴任先・丹後国府があった場所の地名である。
花波の里などと聞くも物憂く気が進まない、あなたワタシを天橋立まで連れて行って引き渡して下さいな。といった意味。
よさの海に浪のよるひるながめつつ
思ひし事をいふ身ともがな
与謝の海の波を夜昼ながめながら、思うことを言う身であったらなあ、という意味。実際はそうではなく、言える人がいない。夫の事を言っているのか、一般的な話なのかはわからないがたぶん両方だろう。
−超簡単な伝記−
和泉式部は平安中期の女流歌人。越前守大江雅致の女。母は越中守平保衡の女。すぐれた抒情歌人として知られ『和泉式部集』正・続1500余首の歌を残し、『和泉式部日記』の作者として名高い。『後拾遺集』をはじめ勅斤集にも多くの歌を収めている。
20歳のころに和泉守となった橘道貞の妻となった。和泉式部の名は、夫が和泉守であったことによっており、父が式部丞ででもあったものかと考えられている。
2人の間にはまもなく小式部内侍が生まれる、10歳ばかり年長の夫にはあきたりないものがあったらしく5年ほどで離婚。
冷泉天皇の皇子為尊親王との恋愛。しかし親王は長保4(1002)年、26歳で亡くなった。一周忌も近い翌年春、為尊親王の弟・敦道親王から求愛された。この兄弟は三条天皇の弟、花山天皇の異母弟になる。歌の贈答が続くうちに親王は周囲の反対に抗して式部を自邸に引きとり、そのため宮妃は邸を出るというまでになった。この間の恋愛の経緯を140余首の歌を中心に記したのが『和泉式部日記』。しかしこの親王も27歳で亡くなった。
式部は藤原道長の召しにより、娘の小式部内侍とともに道長の女、一条天皇中宮彰子に仕えた。彰子のまわりには紫式部・赤染衛門らがいた。式部は女房として仕えるうちに、道長の家司藤原保昌の妻となり、丹後守に任ぜられた夫に伴われて丹後へ下るのであった。
しかしいつまで親密な関係にあったかはわからない。
式部と恋愛の関係にあった人物は、ほかにも数人あり、小式部内侍のほかにも子があったと考えらているという。
テレビはハード面はよくなったが、コンテンツは以前よりだいぶに落ちるのではなかろうか。普通の番組か芸能番組かわからないような昨今で、というか、みな全部が芸能番組のような状態に見えるが、この人ならきっといいネタになることだろう。
ひとのことなどほっとけばいいもの、その人の勝手でしょう、とワタシは思っていて、式部のプライベートなどはどうでもいいのだが、ここは仕方がないようで…
背景画は「じゅうにひとえ」というすごく華麗な12枚の重ね着の着物で、おひな様人形くらいしかワタシは見たこともない、ほんものを見てみたいものと願っているのだが、丹後には丹後縮緬という絹織物の名品がある。和泉式部の時代にはまだなかったと思うが、この歌にあるものは、その前身ともいわれる、中宮彰子に丹後土産として白練の糸を献上したという。
白絲のくるほどまではよそにても
こひに命をかけてへしなり
白絲は枕詞でくるにかかる。丹後の田舎にいるけれども、恋に命をかけるべきなり、という意味か。自分で書いていてもよく思うが日本語はあいまいなところがあるのか、文がどんどん長くなって、それでも何となく通じるような通じないような言語である、訳は当たっているのか当たっていないか、だれも教えてくれないのです。
和泉式部伝説in丹後
和泉式部伝説は全国にある。絶対に関係がなかろうと思われる土地にもある。伝説を持ち歩いた女性の集団があったのではないかと柳田国男はいう。彼は彼女の伝説については多く書いている。
『定本柳田国男集二十六巻』「辞書解説原稿」(和泉式部(いづみしきぶ)には、
伝説〔解説〕 和泉式部に関する伝説の分布は頗る弘く、その誕生地と伝へる所が、西は肥前杵島郡に始まり、因幡・播磨・丹後から、駿河・信濃・磐城を経て、北は陸中の和賀郡に及んでゐる。これは、静御前や大磯の虎女、松蟲・鈴蟲などと同様に、この人達の伝記を語物にして歩く女性が、中世日本を隈なく経廻ってゐたからで、しかもその芸の分布には、予ねて一つ以上の中心地があったらしい。… |
実際に彼女がいた丹後の場合はどうなのかわからないが、どんな伝説と遺跡があるのか一応見ておこう。
和泉式部の歌塚
上の画像は切戸の文珠さん(智恩寺)境内の「和泉式部の歌塚」。
宮津市指定有形丈化財(建造物)
石造宝篋印塔(鎌倉時代) 宮津市字文珠 智恩寺
この石塔はいつのころからか和泉式部の歌塚と伝えられている。『丹哥府志』によれば、丹後守藤原公基が日置金剛心院において、和泉式部が書捨てた和歌を持ち帰り、なみだの磯(涙が磯)に埋めて鶏塚と呼んだという。その反古の一首が、
いつしかと待ちける人に一声も
聞せる鶏のうき別れかな
その後明応(一四九〇〜一五〇一)のころ、砂に埋まった塚を掘り出して文珠堂の傍らに建てたのが今の 歌塚であるという。
彼女が丹後に下って詠んだ歌のいくつかは知られているが、前記の歌が丹後において詠まれたものかは分からない。丹後において各処の和泉式部伝説のあるなかで、これもそのひとつとしてうけとればよい。
塔は堂々として基礎の格狭間や、塔身の薬研彫の四方仏の種子、笠石四隅の突起等に時代的な特徴がみられる。 宮津市教育委員会 |
和泉式部産湯の滝と一杯水
当時とは地形が変わっていて、今もあるのかどうかわからないが、
【和泉式部産湯の滝】(飛石より西へ入る)
和泉式部山中の草庵より兼房卿の許へまゐらせける途中、婦人の産に臨むを見る、よって和泉式部扶て之を産しめ其産む所の児を此滝の流に洗ふ。其頃観世音菩薩の出現して産婦を扶け玉ふといひしが三とせ斗過て後実は和泉式部にてぞありけると聞ゆ、是以此滝を和泉式部産湯の滝といふ。(土人の説)
(『丹哥府志』) |
磯清水
天橋立の濃松の橋立明神の近くに「磯清水」と呼ばれる湧水がある。千金の磯清水、日本名水百選。
磯清水
橋立明神社の西にあり。橋立内外海潮の中に在て少しも鹹味を交へず、名水といふべし。延宝年中永井尚長公井欄を設け、林祭酒をしてこれが記を書かしむ
磯清水記
丹後国天橋立ノ磯辺ニ有リ二井池一清次浦キ出ツ。蓋シ在リ二海中一而別二有ル二派之源一乎。古来以テ為シ二勝区ト一呼ンデ曰フ二磯清水ト一郷談二有リレ言へルコト和泉式部ノ和歌ニ曰橋立農松農下奈留磯清水都奈利勢波君毛汲末志卜云々。式部従ニ二藤原保昌ニ一来レバ一当国ニ一則チ其ノ所二傳称スル一非ルレ無キニレ縁リ也。今応サニ三清丈混ス二海鹹ニ一而尋ネ二其水路ヲ一新タニ構ヘ二幹欄ヲ一以テ成シ二界限ト一永ク使テ下二勝区之名ヲ一垂レ二於不朽ニ一而考古之人ヲシテ無カラ中弁尋之疑ヒ上。
延宝六戊午年 月 日
当国宮津城主大江姓尚長建
弘文院林学士誌
(『宮津府志』) |
磯清水(濃松の内橋立明神の御手洗をいふ)。衆抄集 橋立の松の下なる磯清水
都なりせは君も汲見ん 和泉式部
(『丹後旧事記』) |
【【磯清水】(明神の傍)
碑文云。丹後国天橋磯辺有二井池一清水湧出蓋在二海中一而別有二一派之源一乎、古来以爲二勝区一。呼曰二磯清水一舊談有レ言和泉式部和歌曰、橋立濃松濃下奈留磯清水都奈利勢波君毛汲末志云々式部従二藤原保昌一来二当国一界其所二傳称一非レ無レ縁也。今応清水混海鹹而尋其水路新構二幹欄一以成二界限一永使下二勝区之名一垂二於不朽一而考古之人無中弁尋之疑上延宝六丙午年当国宮津城主大江姓尚長建 弘文院林学士撰
愚按ずるに衆妙集に此歌を玄旨法印の歌となせり、いづれか是なるをしらず。
(『丹哥府志』) |
【磯清水】 社の西にあり、井欄永井尚長建立建立弘文院記作る郷談有(かえり点)言和泉式部和歌云々。しかれとも幽斎の歌なり。
衆妙集 與佐の浦松の中なる磯清水 みやこなりせは君も汲みん (法印玄旨)
(『丹後与謝海名勝略記』) |
磯清水
天の橋立濃松明神の傍にあり。橋立内外海潮の間にありて少しも鹹味なく名水といふべし。
橋立の松の下なる磯清水都なりせは君も汲まし 和泉式部
磯清水
橋立や神代のまゝの井戸一つ 岳輅
丹後国天橋立磯辺有井池清水涌出蓋在海中而別有一派之源乎古来以爲勝区呼曰磯清水旧談有言和泉式部和歌曰橋立農松農下奈留磯清水郡奈利勢彼君毛吸未志云々式部従藤源保昌来當國則某所伝称非無縁也今応清水混海鹹而尋其水路新溝幹闌以成界隈氷使勝区之名乗於不朽而考古之人無弁尋之疑
延宝六丙午年當国宮津城主大江尚長建
弘文院学士撰
磯清水の東方広場を岩見重太郎仇打の場所とて慶長の昔剣客岩見重太郎父の讐仇を報ぜしといふも定かならず。
(『与謝郡誌』) |
鹿葬寺と六万部
↑今の振宗寺(井室)
華厳院鹿葬寺と藤原保昌
伊根町字井室にある荷玉山振宗寺(曹洞宗)は、平安時代中期に真言宗の寺院として創建され、寺伝によれば藤原保昌の開基とされている。元「市ヶ森」(現在地の真向いの耕地)にあってはじめ華厳院鹿葬寺と号されていたが、室町時代の応永十五年(一四○八)に曹洞宗に改宗して真宗寺と改名され、さらに文明十一年(一四七九)振宗寺と改称された。この藤原保昌が丹後国司として在任中のこととして、井室(当時「伊振」の里)泊をはじめ朝妻の地にいくつかの物語りが伝えられている。その一つが華厳院鹿葬寺の創建と六万部の地名の由来である。藤原保昌が丹後国の国司として在任したのは、後一条天皇の治安二年(一○二二)から万寿四年(一○二七)のころで、翌年長元一年(一○二八)十月には大和国の国司としてあったが、金峰山の僧徒により非法を訴えられた記事が見える。伝えられる物語の概要は次のように伝承されている。「丹後国の国司としてあった藤原保昌が、多くの配下を従えて狩りを催した。本宿舎を日置と波見の界付近に設け、獲物を求めて朝妻の里に至った。この地方は当時「浅妻の狩倉」と称され、猪、鹿などの多い、狩場として知られていた地である。保昌たちは数日間かけめぐって多くの獲物を得て、井室の「市ヶ森」に仮の宿舎を設け、一夜酒宴の席を開いた。この席には平安朝の歌人として知られる和泉式部も、保昌の妻としてはべっていたところ、捕えられていた小鹿の鳴く声が聞えた。このとき和泉式部が「ことわりやいかでか鹿の鳴かざらん今肖ばかりの命と思へば」と詠んだ。
保昌は哀れをもよおして翌日より狩りをとりやめ、供養として仏場四十九院を各地に建立し、第一仏場として華厳院を創立し、本尊として華厳釈迦を安置して、その寺を鹿葬寺と号した。さらに鹿などの供養のために六百人の僧をよび、法華経六万部を読誦し、六万本の卒塔婆をたてその霊を慰めたので、この地を六万部と呼ぶようになった。」という物語である。
(『伊根町誌』) |
和泉谷
和泉谷
旧事記曰和泉式部吹井抄云仕ノ女ハ古郷ニ隠レタル程神山ニ籠リテ男ウラム斯有テアレカシノ歌有今元吉原ニ和泉谷ト云伝フ所有隠居ノ跡ナルヘシ同書曰和泉式部板列ノ館ヲ出テ吉原ノ奥山紙ノ神ニ参詣思フ事神ニ告テ七日程祈願有ケル迚仕ヘノ女ニ語セケル
悪シカレトヲモハヌ山ノ峯ニタニ
多フナル物ヲ人ノ歎ニ
此願ヒ終テ後ハ仕へノ女カ故郷ナル儘吉原ノ里ニ?レテ有ケルトカヤ
(『峰山古事記』) |
和泉式部の歌塚・大江町
下記引用参照
内宮に歌塚があることは知っているのだが、外宮にもあるのは知らなかった。どなたかさんから一度問い合わせがあったのですが、いまだ調査はできていません。
和泉式部の娘だけあって、少女の頃から和歌や色恋に秀でていたという。年齢に合わず上手にたくさん作るので、母の和泉式部が代作しているのではないかと一部では疑う人もあった。
藤原定頼という人も疑い、
「丹後に使わした人は戻られましたか」とか、いらぬ声かけをしたという。
それに即答、彼の目の前でサラサラとしたためたのが、
大江山いくのゝ道の遠ければ
まだふみもみずあまのはしだて
遠い丹後の母の手紙など見ておりません(代作はしてもらっていません)。
ガ〜ン。なななな、なんと。定頼は仰天、返事の声も出ず、ただオロオロワナワナ、ててて、天才じゃなもとか逃げ帰ったという。
この時小式部は12〜3歳だった。超有名なこのうたは小6〜中1くらいの少女のものである。そんな少女がこんな歌を即興で歌うのだから、定頼ばかりでなく話を聞いた人はみな、ウッソーと腰抜かした。
これ以来小式部内侍は歌よみの世界で母にも勝ると覚えめでたかったという。小式部内侍は産婦死のようで、25〜6歳で母よりも早くに亡くなった。自分の才能を受け継いだ娘の夭逝に式部の落胆は大きかった。
藤原保昌(ふじわらのやすまさ)
伝説の世界では大江山の鬼退治で有名。天徳2‐長元(958〜1036)
平安中期の廷臣。藤原武智麻呂の孫になるがこのころは一族零落していてドサ廻り。致忠(むねただ)の子。母は醍醐天皇の皇子源元明の女。左衛門督、左馬頭などを務めるかたわら、日向、肥後、大和、丹後、再び大和(重任)、摂津の各国守を歴任している。藤原道長・頼通の有力家司の一人で、武勇にすぐれ〈勇士武略の長〉と評された。夜の都大路で大盗袴垂(はかまだれ)を威圧恐怖させた『今昔物語集』の説話は有名だが、袴垂は彼の実弟である。和歌をよくした武人。酒呑童子伝説では源頼光とともに鬼退治にあたっている。
和泉式部の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎山中村(皆原村の次是より新宮村へ出て加佐郡漆原へ出る)
【山王社】
【薬師堂】
【和泉式部の庵跡】和泉式部は越前守大江雅致の女なり、和泉守道貞の妻となる、よって和泉式部といふ。和歌を善くす。女子一人あり小式部といふ。道貞の没後上東門院に仕ふ(歌遷伝)、既にして亦藤原の保昌の妻となる(袋双紙)。先是性空上人といふもの播州の書写山に居る世を挙て之を崇信す。式部歌を作て之に贈る、其歌に曰「くらきよりくらき道にそいりぬへきはるかにしらせ川の端の月」、世の人情妙とす。(新古今和歌集)詞葉和歌集に云ふ。後保昌忘られて侍る頃兼房卿訪ひければよめる
人しれず物思ふことは習ふにも 花に別りぬ春しなけれは
又云ふ。前保昌に具して丹後に居りけるに忍びて物いひ来せる男の許えいひ遣しける
我のみや思ひこせんあしきなく 人は行衛もしらぬ物故
丹後旧記云。藤原の保昌丹後の守となる頃和泉式部保昌に随ひ丹後に来る。保昌既に任国終て再び都に帰る其後和泉式部は与謝郡山中村といふ處に庵を結び、之に居て老を慰めける。保昌の次に兼房卿丹後守となる、折々和泉式部の草庵を訪ひ和歌の物語などありしとぞ。今其庵の跡に浅黄桜あり、俗に式部桜といふ。
【和泉式部の墓】(庵跡の東出図)和泉式部の墓といふもの處々に建ちたれども多くは是式部の和歌塚なり。吾丹後に於ても又三ケ處に在り一は鶏塚なり、一は桜山なり、蓋其風操の名高きを以て好事のもの之を為せり。其終焉の地はいずれの處や詳ならず、今居住の地を以て考る時は京師と丹後の両所に定る。又細に其両處を考るに和泉式部の卒せしは正暦三年なり、保昌と倶に丹後に来るは是より前僅に四、五年保昌四年の任国終て後式部は丹後に留る、之を以て観る時は式部終焉の地丹後と為して可なり。
【辻の谷】(惣村の南宮村の枝郷)
【虚空蔵】(祭六月十二日) |
『丹後旧事記』
丹後守藤原保昌朝臣。大織冠鎌足三代右大臣武智麻呂の三男巨勢麻呂の子黒麻呂六代苗裔右京大夫致忠の二男なり。本系抄に肥後守正四位下保昌左京権太夫とも號す、摂州平井に居す依て平井保昌とも云ふ。秋斎閑語に頼光大江山の兇賊退治之時丹後守たりしかば嚮導したるなり、頼光の臣たるようにいふは非なり。按ずるに此時未だ国司にあらず前太平記の妖賊平均の賞として頼光は肥後の守に任ぜられ保昌は丹後守に転ぜらるるなり、保昌は正暦の末より長徳長保の国司にて一条天皇の臣下なり又勅命に依て和泉式部を具して下られける事詞花和歌集拾遺続古今拾遺等の和歌の集に見えたり。和泉式部は御集に大江雅致の女母は越前守保衡女昌子内親王の乳母なり、又和泉守道定の妻なるゆえ和泉式部といふ上東門院の女房なり辨之内侍とも號すと百人一首拾穂抄に見えたり。
丹後守兼房朝臣。寛弘長和の比国司與佐郡板列の庄大垣の里を国府とす金葉和歌集に曰く兼房朝臣丹後守に下りけるに遺しける。君うしや花の都の花を見て 苗代の水に急ぐ心は 大納言経信。返し 余所に聞く苗代水に哀れ我か おりたつ名をも流しけるかな 兼房。詞花集に曰く保昌に忘れられ侍る比兼房卿とひ給ひけるによめる人知れず、物思ふ事は習ひにき花に別れぬ春しなければ
天正記宮津府志順国志等に曰く保昌任国終て後に和泉式部は当国に留り與佐の山中村といふ所にさはかりの草の扉をしつらひ老をなぐさみ有けるを兼房次の国司に下り此庵を訪ひ折々和歌の閑談ありけるとなり今も此庵の跡とて浅黄桜の古跡あり名所の歌に式部桜と記す。詞花集に曰く保昌に具して丹後国にまかりけるにしのびて物いひ来れる男の許へいひ遺しける。はれのみや思ひ起さんあちきなく 人は行衛も知らぬ人ゆえ 玉葉集栄雅物語等に曰く上東門院枇杷太皇后の御為に仏作らせけるに保昌丹後守に侍りければかざりの玉をめさせけるとて赤染衛門に仰を下し給へば 数ならぬ泪の露をかけてたに 珠のかさりを添へんとそ思ふ 和泉式部 なり足軒殿の配所日記に曰く上東門院の命に依つて赤染衛門当国に下り保昌式部とも與佐の水の江の浦めぐりして光能石を求められけるに橘の志布比の浦より拾ひ出せし石の御仏の玉のかざりと成けるより御しき浜とよぶべきよし仰せを下させられけるを今伝へて云也五色浜と記するは後俗の誤なり。 |
『宮津府志』
式部櫻
府城の巽の方二十餘町山中村と云あり、山端の畠中に和泉式部が宅地の跡とてあり、其所の岸に臨て枯がての櫻あり、土俗浅黄櫻と呼び、式部が手づから植し櫻といひ伝へたり。其側に石塔五輪二三あり、これ式部が石塔なりといふは非なり、又少し脇の山端に森あり、小社あり、此森の内に大木の楓あり珍敷大木にて枝生ひ茂れり。
山中に いねられさるや 夜もすから
まつ吹かせに おとろかされて 藤原高則
此歌宮津記にのせたり、これに付てさまざまの俗説ありといへども信じがたし。 |
『舞鶴史話』
藤原保昌と和泉式部
このへんで一寸藤原保昌と和泉式部のことについて述べておきたいと思います。藤原保昌は丹後の国司として源頼光の酒顛童子退治に協力したといわれ、袴垂に関する有名な話もあって世人は武勇一天張りの人だったとしか考えていないようですが、むしろ平安朝中期の歌人といった方がよく当っているようです。
藤原不比等の後裔で、父は左馬頭致忠、母は元明親王の女でした。長じて肥前守、太和守、丹後守、摂津守となり、更に右馬頭、正四位下に進みました。寛弘四年以後和泉式部を娶って摂津に赴任していました。更に和泉式部と任国丹後に下ったのは長元年中だろうと思われます。後京師に帰りましたが、大和守となった時分式部と離別しました。長元九年七十九銭で亡くなりました。歌は殆んど残っていませんので歌人としての存在を忘れられてしまったのでしょう。丹後へ来たのは長元年中と考えられますからかりに長元元年に赴任したとしますと七十一歳の時だった勘定になります。式部と連れ立っていた期間は大体二十年間だったと思われます。和泉式部は梨壺の五歌仙の一人で有名な平安時代の女流歌人であります。越前守大江雅致(まさむね)の女で、年頃になって和泉守橘道貞に嫁して一女をあげました。これがあの百人一首の中に出て来る小式部内侍であります。一条天皇の中宮上東門院に仕えている時分、冷泉院の皇子為尊(ためたか)敦道二親王の寵を受け、二親王が相ついで夭逝された後は藤原保昌の妻となりました。夫保昌とは二十年位連れ添って後不和になり離別したようですが晩年のことははっきりわかりません。その歌は誠に情熱に充ちたもので、本邦女流歌人中の尤なるものであります。歌は拾遺、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今、及び以下の勅撰集にもたくさん載っており、家集には和泉式部集(五巻)和泉式部集(二巻)があり、又敦道親王との麦渉を叙した和泉式部日記(一巻)もあります。
式部に関しては伝説的な逸話が多く、その墓の如きも京都の京極、宮津の文珠境内を一初めとして全国に十数ヶ所を数える程であります。この情熱の歌人の横顔を少しのぞいておきたいと存じます。
和泉式部やその夫が任地(宮津)へおもむく為に通った道筋はいくつかあったと考えられますがその一つは京都から亀岡や園部をへて歌で名高い生野を通り、福知山を経て河守上村に入り、
普甲峠を越えて宮津へ出たものと考えられます。普甲峠はそのころ與謝の大山と呼ばれておりまして和泉式部の歌の中にも出てまいります。その歌は
待つ人は行きとまりけりあぢきなく
年のみ越ゆる與謝の大山
というのですが誠にすらすらと詠まれていてよい歌だと思います。
花浪の里としきけば住みうきに
君ひき渡せ天の橋立
等と式部はこの他にもいくつもよい歌を残しています。
(註)花波は庄名で、日置の郷より西の方府中七ヶ村岩滝の辺までをいったものであります。
夫保昌に忘れられそうになった頃貴船神牡の足酒石(あしすゝぎいわ)の近くで詠んだという
物思へば沢の螢も我が身より
あくがれいづる魂かとぞ見る
等は多思多感な和泉式部を目の前に見るような気がいたします。平安時代の麗人が螢の光のように光って見えるではありませんか。この式部の墓というのが宮津の文珠の境内にあります。真偽の程はさておいてその苔むした石に遠い昔の麗人の一生をぜひ皆様も思い浮べてみて下さい。 |
『丹後の宮津』
和泉式部のこと
宮津駅の前から岡田由里行きのバスに乗ると十五分、山中という部落につく。ここはそのむかし「山中の里」といわれ、現在よりずっと家数も多く、かなりの村であった。バスをおりて道の反対がわの山すそをみると墓地があり、よい道がつけられている。その道を墓地の下まで行くと、道の左手に入りこんで二基の小さい宝篋印塔の石塔と、いかにも年古い楓の一株があって、「安産祈願成就」の旗が二三本たっている。これが「和泉式部の墓」と伝えられるところである。式部が丹後で死んだか、京都で死んだか、その墓といわれるところが一ケ所でない現在、どことハッキリできない。
けれども丹後に数年間いたことは事実で、はじめ藤原保昌が丹後国司となると一緒に下丹し、府中の国府にいたことであろう。ところが保昌が丹後を去って、新たに摂津や大和へ赴任したときは、すでに式部は別居しており、保昌の後任である兼房郷のもとへ通ったというのは、ここ山中の里に庵をむすび、ここから二里の道を遠しとせず、府中国府へ往来したのであった。その庵の跡というのは、この「和泉式部の墓」と伝えられるところから西に向って、ちょうど直線の山すそに竹薮と二三本の杉が見える古屋敦があり、ここが式部の屋敷跡だといい伝えている。ここにはかって「浅黄桜」があって、俗に「式部桜」といつたと「丹哥府志」に書いてあるがいまはない。
式部かって播州書写山(兵庫県姫路市の北)の高僧性空上人へ書きおくった歌にーー
くらきよりくらき道にそいりぬへきはるかにしらせ山の端の月
とあるのなどをみると、やはり心のなやみをもち、その救いを願っていることが察せられる。
またここ山中の里から兼房郷のもとへ通う当時の歌にはーー1
人しれす物思うことは習うにも花に別れぬ春しなけれは
ともあり、保昌がすでに丹後を去り、式部を忘れたころの、そのおもいを詠った歌だともいわれる。あの有名な同時代の歌人赤染衛門が訪ねたのも、この山中の里であり、式部にちなむ遺跡として、ここにたつものに時代をこえてひしひしとかぎりない感慨にふけらせるところである。土地の人にきくと、「この式部のお墓に安産の願をかけると妙にお産がかるいので、いまにおまいりする人がたえません。」
とのこと、「安産祈願成就」の旗のわけがこれでわかったことであった。 |
『宮津市史』
丹後守保昌と和泉式部
藤原保昌の家系と経歴
摂関時代の丹後守の中でもっとも著名で、多くの逸話を残しているのが、藤原保昌である。
彼の在任は治安三年(一○二三)の前後で、すでに道長は摂政を退き出家していた時代に当たる。年代から推して、先述した源親方の前任と考えられる。
この保昌は藤原武智麿を祖とする藤原南家の出身で、北家が主流となった藤原氏の中では傍流に属する。曾祖父菅根は文章博士であったが、祖父元方は大納言にまで昇進し、娘祐姫を村上天皇に入内させ、運良く外孫の皇子に恵まれながら、藤原北家の師輔によってその立太子を阻まれてしまった。傍流の悲哀というべきであろう。彼は、恨みを抱きながら世を去ったが、その後師輔や娘安子が相次いで死去したうえに、師輔の外孫冷泉天皇が病弱だったことから、彼が怨霊として祟ったという噂が生まれている。
また、叔父には貪欲な国守の代表の一人陳忠がいる。彼が任国信濃からの帰途、谷に転落しながらも、茸を採集して京における蓄財に備えたという『今昔物語集』の逸話はあまりにも有名である。当時、強引な徴税を郡司・百姓から訴えられた尾張守元命とともに、受領の貪欲さを代表する人物とされる。さらに『尊卑分脈』によると、弟保輔こそば平安京を震撼させた大盗賊袴垂だったとされる。
なかなかの曲者を輩出した系統だが、摂関家の栄光と対照的に、貴族社会の中で衰退・没落の危機に瀕した一族が必死に生き延びる道を模索している様子がうかがわれる。保昌は、そうした血筋を受けていたのである。
保昌の経歴をたどってみると、官職の上では日向・肥後・大和・丹後・摂津の国守を歴任して正四位下に至った典型的受領であった。こうした地位を保持できた背景には、藤原道長に政所別当である家司として奉仕し、道長の「一子のごとし」と称されるほどの信任を受けたことがあったと考えられる。道長に仕えた縁で、後述するように道長の娘彰子の女房和泉式部と結ばれることにもなるのである。その一方で彼は、右大臣藤原実資にも家人として伺候するという世渡りの巧みさを見せている。
武人としての保昌
さらに、「兵の家に非ずといえども、心猛くして、弓箭の道にいたれり」と称された武勇も、彼の大きな特色だったのである。保昌はたまたま子孫に恵まれなかったために「兵の家」として名を成すことはなかったが、『今昔物語集』に、当時の大盗賊袴垂に付け狙われながらも、ついに隙を見せなかったという説話があることは周知の通りであろう。もっとも、先述のように袴垂を弟の保輔とすると、説話の信憑性も問題になるが。その妹は多田満仲の室となり、先にもふれた頼光を生んでいる。彼の一族の武勇は、源平の武将に匹敵するものだったと考えられる。『今昔物語集』によると、丹後守在任中も郎従を引き連れて鹿狩に明け暮れていたという。
『古事談』や『十訓抄』には、丹後守に就任して郎従とともに丹後に向かった保昌が、「ヨサムノ山」、すなわち、与謝峠で桓武平氏の武将平致頼に出会ったという説話が伝えられている。彼は、国守に下馬の礼を取らない白髪の武士が、「一人当千」という馬の立て方をしていることから、ただ者ではないことを見抜いて、無礼を咎めようとした郎従を制止した。間もなく左衛門尉致経の一行と出会い、先程の老人が致経の父で武名高い致頼であったことを知ったというのである。
この説話はさまざまなことを物語っている。まず、保昌は国守として丹後に向かっていたのだから、赴任する国守は与謝峠を通っていたことになる。院政期とは異なり、当時は遥任化しておらず、国守は現地に下向するのが当然であった。長元元年(一○二八)九月にも、丹後に赴任する国守藤原兼房に、右大臣実資が馬を送った記録がある。また、馬の駐め方から一目で相手の力量を見抜いたことから、保昌の優れた武芸の力量が浮き彫りにされる。さらに、桓武平氏一門の有力武将が丹後にいたことも判明するのである。
この致頼は、平将門の叔父良正の子とも孫ともいわれる武将である。良正は将門と激しい私闘を繰り広げたが、結局は敗れて病死したとされる。致頼は長徳四年(九九八)、坂東から拠点を移した伊勢において、貞盛の子維衡と所領をめぐって争ったために、山陰の隠岐に配流された経験をもつ。したがって、隠岐からの帰途に丹後に滞在した可能性は十分ありうるものと考えられる。
しかし、致頼は寛弘八年(一○一一)に没しているのにたいし、先述のように保昌の丹後守就任は治安三年を大きくさかのぼらないと考えられることから、年代の点では大きな矛盾がある。このため、両者の遭遇を事実とすることは難しい。おそらく、ともに武人として著名だった致頼の丹後滞在と、保昌の国守就任という事実から、後世に創り出された説話の可能性が高い。
国守としての事績
さて、保昌の国守としての事績についてふれておくことにしたい。
彼の丹後守就任・離任の時期は不明確だが、実資の日記「小右記」の治安三年正月二十三日条に、丹後守として大内裏の藻壁門の成功をおこなったとする記事があるので、その前後の四年間在任したものと考えられる。
ただ、これ以外に確実な史料が残っていないため、その事績はほとんど知ることができない。逆にいえば、大きな事件や災害に巻き込まれることなく、任期を終えたものと考えられる。
しかし、離任後には丹後の封物の未済や相撲人の選抜を怠ったことを責められる有様(『小右記』万寿元年十月九日条)であったから、とうてい模範的な国守とはいいがたく、他の受領たちと同様に収奪に努めて私腹を肥やすことに奔走していたことは疑いないだろう。
また、丹後守在任中に兼任していた左馬頭も解任されている。左馬頭とは、宮中の軍馬を管理する左馬寮の長官のことで、解任の理由は左馬寮の破壊がことに甚だしかったためとされる(『小右記』万寿二年二月一日条)。これも収奪に専心して京の政務を怠ったことを物語るのではないだろうか。
『今昔物語集』に、受領離任に際して不正な書類の改ざんをおこなった際、この職務を担当した国衙の下級役人書生を殺害した悪辣な日向守の逸話がある。物語ではその姓名が抹消されているものの、『都城市史』は実はこの日向守こそ保昌だったと推測する(野口実氏執筆部分)。武人として荒々しい気質をもつ保昌には、自身の悪事を隠蔽するために平然と殺人を犯す酷たらしさもあったのかも知れない。
保昌と妻和泉式部
さて、先にもふれたように、保昌の妻は王朝を代表する情熱の女流歌人和泉式部であった。式部は学者の家として知られる大江氏の出身で、父は雅致、母は冷泉天皇の皇后昌子内親王に仕えた平保衡の娘であった。橘道貞との最初の結婚は、娘小式部内侍を儲けたものの破局を迎え、今度は冷泉天皇の皇子為尊、ついで敦道両親王の求愛を受けるもともに死別するに至った。やがて道長の娘で、一条天皇の中宮彰子のもとに女房として仕えるようになった式部は、道長の家司保昌と出会うのである。
二人の婚姻は寛仁二年(一○一八)以前のことで、丹後守就任より少し前と考えられる。当時は、一党領の任地への下向が当然とされたため、二人は連れ立って丹後に赴くことになる。後述するように、摂関時代において、丹後はすでに有名な歌枕の地として貴族たちに知られており、式部も赴任に際して天橋立や与謝海の景色を目の当たりにすることに期待する面もあったと考えられる。とはいえ、京で生まれ育った式部にとって、丹後への赴任には大きな不安もあったに相違ない。
彼女の丹後下向の際の和歌や挿話については、山中裕氏の人物叢書『和泉式部』に詳しい。同書に取り上げられた逸話を紹介しておくことにしたい。まず、出立の前、主君である皇太后彰子より天橋立を描いた扇と、
秋ぎりの隔つるあまのはしだてを いかなるひまに人わたるらん
という和歌を賜った式部は
おもひたつ空こそなけれ道もなく きりわたるなるあまのはしだて
という、旅立ちの不安な気持ちをこめた歌を返している。
また、友人の大輔命婦には、「とまる人よく教へよ」と、京に残す娘小式部内侍の指導を依頼しつつ、
別れゆく心を思へわが身をも 人のうへをもしる人ぞしる
という和歌を贈った。この小式部内侍は、和泉式部の丹後在住の間に出席した歌会で、周知の逸話を残している。すなわち、中納言藤原定頼から「丹後へつかはしける人はまいりたるや」と戯れ言を掛けられたのにたいし、
おほえ山いくのゝ道の遠ければ まだふみもみずあまのはしだて
という百人一首で知られる名歌を詠み、歌人としての名声を確立したのである。この逸話は鎌倉時代の説話集『古今著聞集』『十訓抄』に掲載されており、広く人口に膾炙されたことがわかる。
一方、丹後に下った和泉式部の和歌には寂寥感が漂っていたという。
よさの海あまのしわばとみし物を さもわが焼くとたるるしほかな
まずかがみいとみぐるしやむべこそは かげみし人のかげはみえけれ
彼女の寂寥感の一因は、もちろん京を離れた心細さにあり、それだけに頼りとする夫が不在の時には不安は募ったようである。
丹後にありけるほど、守のぼりてくだらざりければ、十二月十余日、雪いみじうふるに
まつ人はゆきとまりつつあぢきなく としのみこゆるよさのおほ山
公務で上洛した夫が不在のまま、雪の中て年を越す不安と寂しさが色濃く惨み出た作品といえよう。やがて、保昌は大和守に選任する。万寿元年(一○二四)には源親方が次の丹後守に就任しており、これ以前に式部も夫とともにして丹後を去ったものと考えられる。しかし、式部が天橋立をはじめ、丹後に関する歌を数多く詠んだことから、丹後に式部に関する伝承も、たくさん生まれることになる。智恩寺にある歌塚を始め、山中の里などに式部の墓が存在しているのも、このためである。
保昌・和泉式部夫妻が丹後を去って三年程のち、外孫を天皇・東宮として半永久的な外祖父の地位を占め、栄耀栄華をきわめた道長が世を去る。摂関政治は全盛を過ぎ、時代は院政に向けて大きく展開してゆくことになるのである。 |
『大江町誌』
和泉式部
この山淑太夫と並んで、この地方に残るもう一つの伝説が、和泉式部伝説である。
和泉式部は、紫式部、清少納言と並んで王朝文学の三才女といわれる有名な歌人である。貞永元年(九七六)から天元二年(九七九)までの間に、越前守大江雅致の子として生まれ、少女時代は冷泉天皇の皇女昌子内親王に仕え、長じて和泉守橘道真の妻となったので和泉式部とよばれた。夫道真が和泉の国司として任地にあった留守中に、冷泉天皇の皇子為尊親王との恋におち夫と離婚させられる。親王の死後は、弟の敦道親王と恋仲になるがこれも病死。そのあと一条天皇の中宮彰子に仕えたが、その後十数歳も年上の藤原保昌と再婚する。このように「愛欲の歌人」と評されるにふさわしい奔放な恋愛のくり返しの生涯であったが、女の情念を一筋に貫いた歌人としてその評価は高い。
この地方と和泉式部とのつながりは、藤原保昌の妻となったことによって生じたものであろう。藤原保昌は、源頼光の酒顛童子退治に登場してくる人物で、藤原不比等の末孫に当たり、各地の国司を歴任したのち、長元年間(一○二八〜三六)に丹後守となって国府宮津へやってきた。妻の式部は宮津の山中の里に住み、夫のいる府中へ通ったといわれる。式部が橋立や橋立への道をよんだ歌は数多い。
橋立の松の下なるいそ清水
都なりせば君も汲ままし
待つ人は行きとまりけりあじきなく
年のみ越ゆる与謝の大山
はななみの里としきけば物うきに
きみひきわたせ天の橋立
思ひ立つ空こそなけれ道もなく
きり渡るなる天の橋立
式部は、保昌と約二○年連れそったといわれるが、これも離別し晩年は歌稿を整理しながら回想の世界に生きた。没年は不明だが七○歳ぐらいまで生きたといわれる。
和泉式部と橘道真の問に生まれたのが小式部内侍で、有名な
大江山生野の道の遠ければ
まだふみもせず天の橋立
の歌は、小式部内侍の歌がすぐれているので中納言藤原定頼が、「母の和泉式部が入れ知恵をしているのかも知れない」と疑い、母の和泉式部が丹後へ下っている留守中に行われた歌合わせの折、「丹後の母のもとへ歌を教えてもらう使を出しましたか」とからかったのにこたえて即興的によみ、母にもまさる歌才を認めさせた歌である。
両丹地方には、和泉式部にまつわる遺跡が多い。なかでも宮津の山中の里にある式部の墓といわれる二基の石塔、天の橋立文珠堂境内にある式部の歌塚(応永年間(一三九五〜一四二七)にここへ移されたと伝える)が有名であるが、大江町にも、元伊勢内宮境内の和泉式部歌塚、元伊勢外宮の近くの式部経塚といわれる宝篋印塔がある。式部の伝説は、この地方だけでなく全国各地に散在しており、それぞれが生誕の地とも墓とも伝えている。これは、中世になってから憧れの的であった和泉式部の伝説を、歌と共に運び歩いた女性の一群があって、彼女らによって和泉式部伝説が伝播したのではないかといわれている。大江山の麓、仏性寺と北原を結ぶ道にある地蔵峠には、古いお地蔵さんが残る。かつては、かやぶきの小祠があったが、林道改修のときに取りこわされ、今はブロックづくりの小さい桐にまつられている。その祠のそばに、かなり大きな五輪の塔がある。地元の古老たちは、これを式部の墓だとも、行き倒れになった高貴な女性を葬ったところだとも伝える。あるいは、こうした和泉式部伝説を運び歩いた女性群の墓なのかもしれない。 |
関連情報
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『岩滝町誌』
『岩滝村誌』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん
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