丹後の地名

亀島(かめしま)
京都府与謝郡伊根町

伊根町亀島

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京都府与謝郡伊根町高梨・立石・耳鼻・亀山

京都府与謝郡亀島村

亀島の概要




《亀島の概要》

丹後半島の北東部、町の南東部にあたり宮津方面からだと日出村に続いて高梨(たかなし)および伊根湾を挟んで対岸の立石(たていし)耳鼻(にび)・亀山の区域、伊禰浦3ヵ村の1。伊根湾に面し、山を背にした狭い場所に漁業集落が立地する。亀山の西に青島を臨む。2階建ての230軒ばかりの船屋が密集する伊根湾に面する。湾の奥は平田で入口両側が亀島である。
近世初めまでは伊根湾内(「間内(まうち)」と呼ぶ)の漁業であった、こんな狭い所で…と思われるかも知れないが、若狭湾の全体が巨大な天然の大敷網(おおしきあみ)のようなもので、魚類が若狭湾内を陸地に沿って時計回りに廻遊すると、伊根湾が最後の袋網になって、この直径1qばかりの円形の湾内に魚は自分から入ってきた、しかも一度迷い込むとなかなか出にくい地形をしている。(くじら)もイルカも(ぶり)(しび)(マグロ)も真内のすぐ岸近くでたくさん捕れたという。そうした信じられないほどに超めぐまれた湾であった。
しかしやがて湾外(「間外(まそと)」)にも広がっていく。江戸期以来の鰤・(いわし)などの近海漁業の根拠地であり、近年は遠洋漁業、ちりめんなどの織物業が導入された。夏季には民宿が開業。海上交通として丹海汽船伊根航路亀島駅がある。平田と連続して、伊根町の中心市街地を形成し当町では人口が最も多い地区。
明暦以降は亀島村は伊根湾の捕鯨を独占した。鯨が湾内に入ると網置をして漁船数10艘を出して船端をたたいて監視、鯨を追いながら銛を打ち込んで仕止めた。それを青島の蛭子社の下に引き寄せて亀島4ヵ集落の入札にかける。落札高の10分の1を鯨運上として上納し、いっさいの経費を差し引いた残りを亀島村百姓株75に平等配分した。捕鯨は夜かがり火をたいて行った。鯨を処理したのちは村内4ヵ寺(大乗寺・正法寺・慈眼寺・海福寺)によって浜供養をして霊を弔った。鯨の種類は座頭(ざとう)背美(せみ)長須(ながす)などであった。湾内に鯨の入った最後は大正期であったそうである。

伊根湾空撮(NHKクリエイティブライブラリー)

亀島村は、江戸期〜明治22年の村名。高梨・立石・耳鼻・亀山の4か村から成り、亀島はその惣名という。慶長6年から宮津藩領、寛文6〜9年・延宝8年〜天和元年は幕府領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年伊根村の大字となる。
亀島は、明治22年〜現在の大字名。はじめ伊根村、昭和29年からは伊根町の大字。


 青島(蒼島・亀島)
青島(亀山側から)

伊根湾口に浮かびぶ島で面積約100m2・周囲720m・標高50mの亀のような姿の二つの島。全島にシイなど樹木が生い茂る。東側対岸の亀山まで約130mの間に真口(まぐち)あるいは小間口、西側対岸高梨まで約300mの間に淀口(あるいは大間口)と呼ばれる狭い水道がある。ここを通って伊根浦に鯨が入る。「丹哥府志」は「其蒼々たる樹影海に映じて、いかにも浅深はかるべからぬ勢あり。是鯨の入る所以なり」とし、江戸期の捕鯨の島として知られる。島内にある水産資料館に藩政期の捕鯨用具などを記録した古文書類が残存。島の真口側の山頂近く蛭子神社があり、淀口側にはハマチの養魚場施設もあった。伊根湾の舟小屋景観によくマッチした青島の風景は観光資源の1つ。



青島は伊根五ヶ村の墓所也
(『宮津府志』)

【青島】嶋の長サ五六町、嶋の広サ一町斗、高梨、平田の辺より海を隔て六七町南、日出より僅に一町斗北、亀山よりも亦然り左右各均し地理まづ如此ものなり、天潮を通ずと雖も嶋を限りて別に一鏡面の海なり、此處にて鯨を取る、凡島山の上雑木ありと雖も多くは椎の木なり、其蒼々たる樹影海に映じていかにも浅深はかるべからぬ勢あり、是鯨の入る所以なり。
(『丹哥府志』)

ふるさと第3部まちかどの記録〈9〉
クジラの墓
伊根湾で昔盛んに捕鯨(「京都新聞」98.5.9)
 舟屋が取り囲む伊根湾の入り口に浮かぶ青島。頂上に祭られた蛭子神社へ続く石段を少し上がり、右手に折れた所に「クジラの墓」はある。
 伊根湾ではその昔、盛んに捕鯨が行われた。記録によれば、江戸時代初期の明暦2(1656)年から大正2(1913)年までの257年間に350頭を捕ったとある。クジラが湾内に入ってきた時には、村中総出でかかり、湾の入り口をふさいで、夜を徴して追い詰めた。
 墓は全部で3基あるが、文化5(1808)年の墓には、こんな話が伝わる。一頭のクジラを捕獲した時、そばに寄り添う子クジラがいた。母クジラが息絶えた後も、乳をねだり離れようとしない。漁師たちは、やむなく子クジラも捕獲したが、かわいそうに思い、食べずに島に葬った。
 地元の人によると、漁をしなくなってからも、昭和50年代ごろまではクジラが湾内に姿を見せた。今、当時の面影はないが、子クジラの話とともに、語り継がれている。
 メモ 青島へは定期航路がなく、一般の人は行くことができないが、漁師さんに頼めば送ってくれることもある。

青島魚雷発射場の建設と飛行機献納
 昭和十八年(一九四三)四月十八日、連合艦隊司令長官山本五十六大将がソロモン島上空で戦死し、五月二十九日にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全員戦死又は自決し、これを「玉砕」とよび、玉砕の悲劇はこののち南洋の島々でくりかえされていった。このように戦況が不利になると、本士防衛策がとられるようになり、この時期に伊根青島に魚雷発射場の建設が進められた。
 青島の魚雷発射場は昭和十八年に舞鶴港防備のため、青島の南側沖に向けて建設され、島の頂上に監視所を設けて警備にあたった。この魚雷発射場は一度も使用されることもなく敗戦を迎え、戦後爆破されて今は突堤のみがその名残りをとどめている。一方、このころになると日本は全く制空権を失い、飛行機の不足が明らかになった。そのため各地で飛行機の献納運動がおこされ、伊根地区では魚雷発射場の建設にともなって、青島の一部の土地が軍部に占有された際の売却代金を基金として、海軍機「伊根浦号」が献納された。京都府では当時郡毎に飛行機献納を割り当て、与謝郡からは「与謝郡民号」一機が献納されている。
(『伊根町誌』)


 高梨(たかなし)
高梨(伊根町亀島)

◎高梨村(日出村の次)
【船番所】
宮津より吏卒出張、卅日更代。唯海賊を改むるのみならず凡廻船の津入、津出し、ぬけ買、ぬけ売、一切これにあづかる。
【八幡宮】(祭六月廿九日)
【高照山正法寺】(臨済宗)
【妙典山大乗寺】(日蓮宗)
 【付録】(愛宕社)
(『丹哥府志』)

 立石
左から立石・耳鼻・亀山(伊根町亀島)
◎立石村(鳥屋の次)
【あじかまの潟】宮津府志に栗田郷宿野村にあしか浜といふあしかまの石は此處ならんかと疑を存して記せり。されど立石村あしかといふ古き社あり、恐らくは此處なるべし。あしかはあしかまの略語なり、今あじやといふは非なり。
【あしかの社】(あしかは地の名なり、あしかまの潟にある社なり)
あしかの社は何を祭るや村人もしらず、されど珍ら敷社の名なれば村長に頼みて扉を開き拝み奉れば古代の装束にて古き尊像あり、是より前五十建速石別命を祭りてより村を建石といふと古老にきくしかも何れの社なる事をしらず、今此尊像を拝みて初て此社なる事をしる、五十建速石別命は丹後道主命の孫なり、丹後道主命に五女あり皆召されて后妃となる、五十建速石別命は第四妃薊瓊入姫の子なり、兄を速石別命といふ、与謝板並速石里より貢を奉る、弟を五十日足彦尊といふ与謝五十日の里より貢を奉る、五十建速石別尊には与謝稲浦より貢を奉る、よって五十建速石別命を祭るなり。
【亀島山海福寺】(臨済宗)
【普門山慈眼寺】(曹洞宗)
(『丹哥府志』)

 耳鼻(にび)
耳鼻のあたり

耳鼻のあたり

◎耳鼻村(立石村の次)
【愛宕社】

【万代の浜】
村の地面亀の形に似たりよって村を亀嶋といふ。東の方に耳鼻村といふあり、亀の耳鼻にあたる處なり。抑亀嶋といふより万代の浜といふ名ありと云。
藻塩草 浜の名に君か齢の顕れて  長閑き波も万代のこゑ  (無名)
(『丹哥府志』)


 亀山

◎亀山村(耳鼻村の次)
【青島】嶋の長サ五六町、嶋の広サ一町斗、高梨、平田の辺より海を隔て六七町南、日出より僅に一町斗北、亀山よりも亦然り左右各均し地理まづ如此ものなり、天潮を通ずと雖も嶋を限りて別に一鏡面の海なり、此處にて鯨を取る、凡島山の上雑木ありと雖も多くは椎の木なり、其蒼々たる樹影海に映じていかにも浅深はかるべからぬ勢あり、是鯨の入る所以なり。
【鯨】(出図)三才図会云。鯨は海中の大魚なり、大なるものは長サ千里、出れば即潮下る入れば則ち潮上る、雄者爲鯨雌者爲鯢云々。然れども斯く大なるものはある事なし、まづ卅間餘りのものを以て最大なるものとす、吾丹後に於て捕ふるもの僅に八、九尋より十五、六尋を以て大なりとす、蓋鯨は他の魚と異り水中にて息する事能はず是非水上に浮み潮を吹て息するなり、よって鯨の通行する必ず人目にかゝるなり、種類も数多あれどもザトウ、ナガス、セミ三種の外に出てず。抑鯨の稲浦へ入る、大海より鰯の類を逐来り夫より海磯にそふて遂に稲浦に入る、其潮を吹て青嶋の内へ入ろを待ちて、高梨より嶋の方へ網を張切る、亀山の方も如斯網をはり網の上に舟を並べ、老人子供共舟に乗りて太鼓をたゝき張り切りより鯨の出ざる様に防をなす、若き者は各モリ(鯨をさす鋒の名)を以て鯨の潮を吹く處へ往てこれをうつ、初めてうつ者を一番モリといふ、褒美二番、三番に優る、既に六、七本もモリを撃て舟を引かしむれば稍疲ると見へて頻りに潮を吹く、よって彌々モリをうつ、卅本斗もモリをうって暫く舟をひかしむ、殆ど斃るを見て網を引廻し轆轤を以て嶋の方へ引あげる、いよいよ斃るに及て必ずはねて西に向ふ、於是浮屠氏の説をとる、よって鯨をとるごとに伊根浦の寺院相集りて施餓鬼をよむ、少し不思議に思へども今地理を以て考ふれば、嶋の方は東にあたる、鯨の嶋の方へむけば必ずはねて西に同ふは水の方へむくなり、若し西手の浜へ引上たらば必ず東の方へむくなるべしと覚ゆ。初め鯨を浜の方へ引よせてまだ息の絶えざる間に其背に登りて三尺四方斗肉切り腹抜き、腹内へ水をいれて冷さなければ少しの間に臓腑必ず腐敗すといふ、夫より次第に屠る、第一舌に脂あるとてまづ轆轤をかけて口を開き柱を立て、二、三人斗口の内に入り舌を切る。最初モリを五、六本うつ頃は所謂血の海なり、屠る頃は處々に泡の如く水に浮きたるものあり皆脂なり、水共に汲みて脂に製す、一人にて二斗三斗も取る、是寡婦の利なり。三才図会にいふ如く大なるものにはあらねど親しくこれを見て.噺に聞くとは存外大なるものなりと覚ゆ、詳なる事は鯨考にあり。
【モリ】(鯨を刺す鉾の名)
鋒の長サ三尺、鋒の頭鏃の如く三角の羽あり、唯淘の處鋼鉄を用ゆ其餘は曲りても折れざるを要とす、柄の處に縄を付けて舟に繋ぐ、鯨を刺す時其繩を柄にそへて柄のぬけざる様に持つなり、柄の長サ五、六尺大サ三寸まわりもあり。
【蛭子社】(青嶋)
【鯨の墓】(青嶋)
鯨をとる毎に施餓鬼をよむときく、よって鯨をとればのこらず此墓に葬るかと思ひしが、左にはあらで子鯨の墓なりといふ。嘗て鯨をとりしが子鯨母鯨にそふて上となり下となりて其情態甚親しく、既に母鯨の斃る頃も頑是なき鬼の母の死骸にとり付て乳を飲む様にも見へたり、よって屡々これを取除んとすれども遂に離れず、無拠子母共に殺すに至る、いかなるものも其様を見ては其肉を食ふに忍びす、此處に葬りて墓を建て供養せりといふ。或説に鯨もセミとナガスは捕り易けれど独りザトウ甚捕りがたしと、子持鯨はまづ児鯨さへ捕りたれば母鯨は少しも其場を去らず身を以て子を掩ふに至る、是を以て却て心易く捕れるものなりといふ、定て此墓の鯨もザトウなるべし。
【カナツル】
【石梅】
【ケンシャ龍】
【マンボウ】
【ベッカウ】
【カルイシ】
【黒珊瑚】以上数品伊根浦の産物にあらねど、折々とる品なれば爰に示す。
【鷲崎】伊根浦より鷲崎の間に亀石、スキ崎、アカ崎あり。
【カナヅル】鷲崎を廻りて鷹の巣、笠グリ、ツボクリ、ワリクリあり、皆奇観なり。
【丹後鰤】冬至前後晩方よりツボクリ、ワリクリの間に網を設けて翌朝これをとる。凡網は魚をとり廻して捕るものとのみ思ひしが鰤を捕るは左にはあらず、細き麻繩にて結ひし網の目三寸斗もある網を魚の通る筋に従ひて縦に張り置く、鰤其間を行く折節網の閃くに恐れて左右にそれて網にかゝるなり、蓋魚の性進む事を知りて退く事をしらずといへども、斯様な事にて魚の捕れるは理外の理ともいふべし。
【遠見番所】立石村より鷲が尾に登りて稲か道といふ處に番所あり、遠見の番所といふ、ワリクリの上に当る大洋一望の場處なり、此番所は高梨村の番處ともがひ政事にかゝはらず唯異国に備ふるのみ、よって千里鏡を以て第一の備とす。
(『丹哥府志』)


《亀島の人口・世帯数》554・177(4地区の合計)


《主な社寺など》
臨済宗妙心寺派高照山正法寺
正法寺(高梨)
高照山正法寺
 伊根村字高梨、本尊華厳釈迦腹佛十一面観音固と府中村にありしを明応八年青島に移し後も高梨今の地に遷すといふも由緒詳ならず文化八年周貞和尚中興、檀徒五十二戸。
(『与謝郡誌』)

高照山正法寺(臨済宗) 高梨 檀家五四戸
  御詠歌 井ねのうらのほりくたりの歌舟も今宵はこゝにふりかゝりけり(丹後旧語集順礼歌)
本尊 華巌釈迦牟尼仏
開基 馨岩周貞禅師
開山 心燈妙照禅師(別源禅師)
由緒 明応八年(一四九九)府中難波野より真言宗宝蔵院を青島頂上に設け、天文七年(一五三八)現在地に移転して正法寺と改称し、別源禅師を請じて開山となした。
青島にある正法寺屋敷はその後安政五年(一八五八)代銀三百匁で亀島村に譲渡されている。…
文化八年(一八一一)十世観州和尚仏殿の再興をはかり、文化十一年
(一八一四)三月本堂再建の許可が下る。

 明治三十五年(一九○二)本堂、庫裏共に焼失し翌年再建された。
境内には元禄七年(一六九四)の三界万霊塔、元禄八年(一六九五)の青面金剛塔、文化十五年(一八一八)三月、文政三年(一八二○)七月、安政六年(一八五九)八月建立の百万辺供養塔などがあり、文政八年(一八二五)銘の石仏六地蔵が祀られている。また当寺には南北朝時代の様式をもった貴重な石幢があったが売却され、現在宝珠と龕部(灯龍の火袋)を失っているが、笠部と請花、円柱の塔身、基礎が残っている石幢一基がある。…

境内に金毘羅社、稲荷社がある。…
(『伊根町誌』)


臨済宗妙心寺派亀頭山海福寺
海福寺(立石)
亀頭山海福寺
 伊根村の立石にあり本尊釈迦佛、慶安三年宗室和尚創立檀徒二十二戸。
(『与謝郡誌』)

亀頭山海福寺(臨済宗) 立石 檀家二二戸
本尊 無量寿仏(阿弥陀如来)
開山 心燈妙照禅師(別源大和尚)
由緒 慶安三年(一六五○)宗室和尚により創立されたが、正法寺の開山とされる知恩寺の別源大和尚を追認して開山と定められている。その後寺院の経営が困難となり衰微したが、天和三年(一六八三)宝渓宗宝禅師により復興し、宝永年間(一七○四〜一七一○)文中宗郁により中興された。…
(『伊根町誌』)


曹洞宗普門山慈眼寺
慈眼寺(亀島)
普門山慈眼寺
 同村字亀島、本尊聖観世音菩薩・正和四年大和初瀬寺の僧慈眼高梨に来り一字を草立す、爾来慈眼寺と云ひ初瀬寺の支院として真言宗なり、大永二年立石に移転し振宗寺二世舜可和尚を請じて中興とし曹洞宗に改宗、貞享三年火災四年再建天保四年営繕、檀徒八十二戸。
(『与謝郡誌』)

普門山慈眼寺(曹洞宗) 立石 檀家八五戸
本尊 聖観世音菩薩
開基 法室良恩首座
開山 竹香舜可大和尚
由緒 正和四年(一三一五)大和国泊瀬寺(真言宗)の僧慈眼が諸国を歴遊して、始め高梨に居住し、村民の帰依を得て一宇を建立した。泊瀬寺の僧であったから、同寺の本尊聖観世音菩薩の分身として、仏像を拝請して本尊となし、真言宗泊瀬寺の支院として、普門山慈眼寺と号した。
 大永元年(一五二一)九月洪水にあい、更に堂宇が炎上焼失したと伝えられ、翌大永二年(一五二二)高梨村より亀島村小字立石の現在地に移り、振宗寺二世竹香舜可和尚を諸じて再興し、曹洞宗振宗寺の末寺となり、竹香舜可を開山と定めた。
 寛文二年(一六六二)大地震のため伽藍頽廃し再建したが、貞享三年(一六八六)類焼し、同四年(一六八七)是巌和尚により再興された。
 その後宝永五年(一七○八)夏、庫裏を再建し、韋駄尊天厨子の一異面に「宝永五戌子年(一七○八)孟夏」の文字が見え、庫裡再建の内容が記されている。
 韋駄天は元来増長天八将軍の一で仏法守護の神とされ、小児の病魔を除く神ともいわれる。禅宗寺院にあっては食物を司どる神として、庫裏に安置し、カマドを含む炊事場の安全を守り、火難、水難を除去する神とされた。天保四年(一八三三)玄鏡和尚の時本堂の再建に着手し、天保八年(一八三七)八月庫裏を改築した。
 現在の本堂は天保十五年(一八四四)三月十一日再建された。明治九年(一八七六)本山大教正より法灯免許をうけ、振宗寺三十三世土山(太田)玉峯大和尚を法地開山とする。
 境内には元禄六年(一六九三)八月建立の三界万霊塔があり、歴住塔の一基に寛延二年(一七四九)の年代が記され、各地の寺院の墓地にある歴住塔には、年号の記されている例は少なく珍しい。また太平洋戦争の末期、昭和二十年(一九四五)七月三十日、伊根湾内に停泊中の潜水母艦「長鯨」が米軍機の空襲により被爆し、乗組員一○五名の戦死者を出し、その「英霊之碑」が昭和五十七年春、火葬場より当寺院の境内に移され建立されている。
境内堂宇
 開山堂 本尊道元大禅師木像安置
 鎮守堂 本尊豊川?枳尼真天(豊川稲荷大明神)
 境外仏堂
  地蔵堂 本尊地蔵菩薩(立石入口にあり)…
(『伊根町誌』)


日蓮宗妙典山大乗寺
大乗寺(高梨)
妙典山大乗寺
 伊根村字高梨、本尊同上、慶長六年九月妙圓寺開山日応上人開基創立安永四年焼失日秀再興明治十四年四月寺格昇上檀徒九十八戸。
(『与謝郡誌』)

妙典山大乗寺(日蓮宗) 亀島小字高梨 檀家一○三戸
本尊 一塔西尊四士「祖像」読経像
 南無妙法蓮華経宝塔・釈迦牟尼仏・多宝如来・上行菩薩・無辺行菩薩・浄行苦薩・安立行菩薩
開山 本教院日応上人
由緒 元真言宗の寺院であったが、日応上人が若狭国より巡錫し、当地方に法陣をしいて説法をなし、住持某阿闍梨を論破し、法華宗に転宗せしめたと伝えている。日応上人は宮津市日置顕立山妙円寺を開き、慶長六年(一六○一)九月、当寺院の開山とされるが、実質的には二世本寺院日順上人(宮津市妙典寺開山)により日蓮宗寺院として確立する。
その後安永四年(一七七五)三月一日夜お経会のあと火災がおこり、本堂、庫裏その他諸仏像、諸道具すべて焼失した。
現在の本堂は安永四年(一七七五)五月再建が図られ、その折の勧化帳が昭和五十六年(一九八一)ふすまの裏張りより発見された。…
(『伊根町誌』)


八坂神社(高梨)
八坂神社(高梨)

7月27・28日の本祭には高梨・立石・耳鼻・亀山から4艘の船屋台が出て歌舞伎の競演をみせ、「海の祇園祭」と呼ばれる。
高梨の宮山に鎮座する八坂神社(祭神:建速須佐之男命)は明治初年までは牛頭天王社とよばれ、平田・亀島両村の氏神とし「村の支配」として村の社の筆頭にあげられた。近世初め亀島村の氏神として建てられ、亀島の百姓株と結びついて祭祀が行われてきた、のち伊禰浦全体の氏神的位置を占め、豪華な海上渡御が行われるに至ったという。
亀島村が八坂神社に奉納した祭典座歌は昭和16年に中絶、そのまま廃絶してしまったが、同じく八坂神社を氏神とする平田村では、その奉納する稚児舞も「亀島の花おどり」といったという。伊禰浦3ヵ村地区の座歌系統の奉納神事は宮津市養老地区にもあり、岩ケ鼻村山王社(日吉神社)を中心とする祭祀圏が養老地区から伊禰浦3ヵ村に及んでいたことが知られる。

八阪神社
 伊根村字平田亀島小字宮山、村社、祭神建速須佐之男之命、由緒不詳、明治六年村社に列せらる、丹哥府志には平田に八幡宮を挙げ附録に大下と愛宕を録せるより見れば八幡宮の方崇敬ありしならんも今境内末社に祀る、例祭同上氏子三百十二戸。
 此地高梨に秋葉、青島に蛭子、耳鼻に金刀比羅、秋葉、亀山に稻荷、城山に愛宕、立石に稻荷、七面山に愛宕あり皆無格社なり。
(『与謝郡誌』)

八坂神社 平田・亀島宮山三番地(旧村社)
祭神 建速須佐之男命
例祭 七月二十七・八日
 古くは陰暦六月二十七・八日であったが、大正十二年(一九二三)から陽暦七月二十七・八日となり、昭和三十四年(一九五九)に伊根町の祭日は八月三日に統一されたが、昭和四十八年(一九七三)にふたたび七月二十七・八日となり現在に至っている。
沿革 創建年代は執権北条泰時の時代の貞永元年(一二三二)八月とされているが、江戸時代の初期に八幡神社とともに、平田・亀島地区住民の氏神として建立されたと推定される。日吉神社(現宮津市字岩ヶ鼻小字宮山)の天文十八年(一五四九)十月の棟札に、「奉造立伊禰山王社御遷宮時百姓中官途之人数」として日出・平田・亀島の代表者の名が記録され、当時伊禰庄八か村(日ヶ谷村・外垣村・岩ヶ鼻村・大島村・日出村・高梨村・平田村・大原村)の氏神は「一宮山王社」(日吉神社)であり、江戸初期に日出・高梨・平田・大原の四か村は分離し、それぞれ各村内に「牛頭天王」を勧請し、「祇園牛頭天王社」と称された。その後明治元年に「神仏分離令」により「八坂神社」と改称し現在に至っている。江戸時代に別当寺は正法寺である。
 現在の本殿は安永五年(一七七六)十一月十二日に再建され、社殿の形式は槍皮葺の流造で斗?の木割が太く、古めかしい手法がみられるが、再建にあたって江戸初期の前身建物を模して再建されたものと思われる。…
(『伊根町誌』)

阿字野(あじや)神社(立石)
阿字野神社(立石)

【あじかまの潟】宮津府志に栗田郷宿野村にあしか浜といふあしかまの石は此處ならんかと疑を存して記せり。されど立石村あしかといふ古き社あり、恐らくは此處なるべし。あしかはあしかまの略語なり、今あじやといふは非なり。
【あしかの社】(あしかは地の名なり、あしかまの潟にある社なり)
あしかの社は何を祭るや村人もしらず、されど珍ら敷社の名なれば村長に頼みて扉を開き拝み奉れば古代の装束にて古き尊像あり、是より前五十建速石別命を祭りてより村を建石といふと古老にきくしかも何れの社なる事をしらず、今此尊像を拝みて初て此社なる事をしる、五十建速石別命は丹後道主命の孫なり、丹後道主命に五女あり皆召されて后妃となる、五十建速石別命は第四妃薊瓊入姫の子なり、兄を速石別命といふ、与謝板並速石里より貢を奉る、弟を五十日足彦尊といふ与謝五十日の里より貢を奉る、五十建速石別尊には与謝稲浦より貢を奉る、よって五十建速石別命を祭るなり。
(『丹哥府志』)

アシカマノ潟
  一説栗田郷宿野村の海辺あしか浜といふところならんと。
(『宮津府志』)
あしかま潟
 本書に栗田郷宿野村海辺にあしの浜といふ所ならむかと記す、一説に与謝郡蒲入村海辺をさすと。
(『宮津府志』)


『伊根町誌』(写真も)阿字野神社御神体
阿字野神社 亀島小字立石
祭神 五十建連石別命
例祭 十一月十五日
沿革 創建は寛治元年(一○八七)四月七日とされているが明らかでない。丹哥府志(巻之四)に「あしかの社」として「五十建連石別命は丹波道主命の孫なり 丹波道主命に五女あり皆召されて后妃となる 五十建連石別命は第四妃薊瓊入姫の子なり 兄を速石別命という与謝板並速石里より貢を奉る 弟を五十日足彦尊という与謝五十日の里より貢を奉る 五十建連石別尊には与謝稲浦より貢を奉る よって五十建連石別命を祭るなり」とある。御神体は古代の装束をした古い尊像があり、現在は塗り替えられ、装束も取りかえられた部分がある。社は昭和十六年(一九四一)再建され、昭和二十八年(一九五三)上屋が新築された。

例年七月十日には伊根浦の漁民は船団をくみ、大挙して雄島(大島)参りを行い、ペーロン競漕よろしく伊根浦の立石に帰り、あしかまの杜(略してあしかの社というが土地の人は阿字野(あじの)さんという)に参り、改めて豊漁と海上安全を祈るという。『宮津府志』によると、同社には丹波道主命の孫と伝える五十建連石別尊を祀るというが、その淵源はやはり海神に由来するのではなかろうか。
(『丹後半島の旅』)


蛭子神社(青島)
蛭子神社(青島)

【蛭子社】(青嶋)
(『丹哥府志』)

蛭子神社 鎮座地青島
祭神 八重事代主命(地域住民は「蛭子」を祭るとし「夷」又「恵美須」とも書く。)
例祭 八月二十日
沿革 江戸時代初期に福井県丹生郡四ヶ浦(現越前町)から御神体を移し青島に安置されたと伝え、社殿は元和五年(一六一五)三月に創建された。
 …
  祭典行事
宵宮(八月十九日)
 亀島四区より祭礼船(高梨蛭子丸・立石神楽丸・耳鼻稲荷丸・亀島宝来丸)を出し、提灯九灯をともし横一文字をえがき、笛・太鼓の祇園囃で神社に参拝する。
本祭(八月二十日)
 亀島四区よりあらかじめ定められたくじ順によって祭礼船に乗り込み、幟を押し立て青島に向かう。到着すると祭礼船を「こばりあい」にそなえて、表を正面にして艫(船尾)を島側につけ神社に参拝する。
奉納相撲
 1.中学生の子供相撲につづき、青年の花相撲が行われ、現在も継続し催されているが、戦前は特に盛んであり、東(勧進)・西(寄り)の二組に分かれ、数十番の対抗相撲をとった。役相撲の取り組みになると見物人も力が入り、勝者には前頭(白御幣と金一封)、小結(銀御幣と金一封)、関脇(金・銀色分けの御幣と金一封)、大関(金御幣と金一封に小刀または弓)がそれぞれ与えられた。
昭和十五年(一九四○)の皇紀二六○○年奉祝の一記念行事として、全国青年の相撲大会が明治神宮に奉納された時、伊根地区より三名が出場して団体戦・個人戦に優勝した。
「こばりあい」(祭礼船競争)
 奉納相撲が終ると四区の若者がそれぞれ一人は神楽樽をもち、三人で幟をかついで、くじ順に神社の石段を勢いよく五、六段飛び越えて海辺に下り、祭礼船に四区の乗り込みが揃うと同時に、「おせんどう」をあげて一斉に「こばりあい」をする。腕自慢、力自慢の若者達がこの時とばかりに船舷に両足をふんばり、八丁
櫓を握りしめ、ときの声をあげて力一杯に汗をふりしぼって競い漕ぎあう。これが「こばりあい」である。
 伊根湾内を青島から大浦へ向けて海上約一キロ、四隻の祭礼船が色とりどりの幟をはためかし、若者の意気をしめすさまは壮観であり頼もしい。
(『伊根町誌』)

老人島神社は大浦半島の野原、小橋、三浜(現舞鶴市)の氏神として祀られているが、かつては伊根、泊、新井、本庄浜、蒲入等すべての漁村にあって「島参り」と称して参詣し、伊根浦では七月十日、新井では現在四月中旬より五月上旬の間に「島参り」をしている。特に新造船が進水すると、大漁旗を掲げ満艦飾に飾り立てて海上安全と大漁を祈願する慣習がつづいている。海部氏と丹後海沿岸の漁民が深くかかわっていたことは、伊根湾口の青島にある蛭子神社の棟札にもあらわれている。蛭子神社は江戸時代以前よりの古社であるが、数多くの棟札中に「従五位下海部美濃守」の名が見え、漁民が海上安全と漁猟繁栄を祈り、漁民の信仰神として祀り、江戸時代に至るまで海部氏とのかかわりを示している。
(『伊根町誌』)


カルビ古墳
『舟屋のむかしいま』(写真も)カルビ古墳石棺(亀島)
伊根浦はいつごろから開けたか

一九八五年一〇月伊根町大字亀島小字中崎で、五世紀代のものと推定される組合せ式石棺が発見され、「カルビ古墳」と名づけられました。更にその前一九八一年八月には、亀島小字大浦中尾で、六世紀末から七世紀初頭のものと推定される、無袖式の横穴式石室をもつ円墳が発見され、「中尾古墳」と名づけられました。
カルビ古墳は標高三九b、中尾古墳は二七bの高台にあり、伊根湾はもちろん、宮津市大島、波見崎から、遠く舞鶴方面まで見渡せる位置にあります。
 この二つの古墳により、伊根には五・六世紀頃には人が住みついていたと推定されます。

ここで焼き肉を食べたからカルビか、近くにもカルビーという御菓子のメーカーの工場があるがそれか、違うな、小地名に「かるび」があるから、ここの地名と思われる。カルは銅、あるいはここは銅の産地かも…、被葬者は薊瓊入姫かも…

中世伊根城址。島津藤兵衛・同伊織の城跡
島津下総守。後村上天皇貞和の頃加佐郡倉谷城に居す、此苗裔一色之幕下となり與謝郡伊根浦亀島に篭居し天正年中細川藤孝の為に落城討死。
(『丹後旧事記』)

伊根城趾、田原城趾
 伊根村字亀島の小字亀山にあり天正年中島津藤兵衛島津伊織の居りの所にて山頂遺跡歴然たり島津は大島の千賀山城守の城山にて天正十年九月に亡ぶ伊根の背後なる田原村に小出左京の城山あり。
(『与謝郡誌』)


《交通》

《産業》


 現在がこうだからと、そのまま延長して過去も未来もこうだろう、とフツーは考えるのだが、もしそうなら史家は楽だが、それは成り立たない場合も多い。この伊根浦もそうで、過去は違った様子をしていたように思われる。しかし誰も気付いてない様子で、若干の考察をこれまでに書いてはいるが、もう一度とりあげてみよう…
噴火口ではないかともいわれる伊根湾、そんな成り立ちから金属も多かったのかも知れない。誰も分析したことがないようだが、以下のようにこの地は鉄である。

 「伊根のなげ節」という労作歌が伝わるそうで、次の歌詞がある。(『伊根町誌』より。なぜか一番最後の大事な歌詞部分は誰もが勝手に削除して引用しない様子であるが…)

 ♪ 伊根はよいとこ後は山で、
  前で鰤とる、鯨とる。千両万両の金もとる


ブリやクジラだけでなく、ここは金も採れた、しかも千両万両と採れた、と、そう歌われている。
金とあるのはゴールドのことか金属一般のカネかは不明だが、いずれにしても誠に伊根はよいとこ。
過去の金属採取を語る唯一の超重要な口承証拠だが、不思議にいずれの先人たちも注意していない。そんなコトあるわけない、の勝手な思い込み、ワシほど偉いモンはあるはずがないの心のわずかな傲慢が歴史を見る目を曇らせていたのだろうか、地域の微かな歴史痕跡を見逃すようなら、郷土史家などは勤まらないだろう。

耳鼻。ニビと読むが、『丹哥府志』が言うように、亀のミミとハナではなく、丹生の転訛地名。丹生は驚くほどの変化をみせるが、徐福伝説の新井(にい)という所が少し北にある、これと同じでニイ、ニヒ、ニビ、どれも水銀朱が出た所と思われる。爾比都売(にびつひめ)神社が鎮座する水銀の地もあるが、これと同じ「爾比」である。
また『丹生の研究』は、
もちろん地下の水銀鉱床は、表土に多少なりとも鉱徴を見せる。そのうちとくに鉱徴が著しく、古代人の眼を奪った部分には朱砂の利用があり、それには朱産を意味するニフ・ニホ・ニイなどの名が与えられた。それらが漢字で表記されるようになると、ニフは仁布・仁宇・仁歩・壬生と書かれ、なかでも丹生氏が開発に関与した地点には丹生の名が残された。またニホに対しては仁保・邇保・丹保・丹穂・仁尾・丹尾などの漢字名が起り、ニイは仁井・二井・仁比と表示された。しかし鉱徴は顕著でも、それが利用されなかった部分には、ただその景観の異様さから赤穂・赤生などの漢字地名が生まれるにすぎなかった。ニフというコトバに山・谷・野などの地形を指すコトバが添えられた場合には、自然発露的な地名の簡略化から、また地名は2字に統一するという政府の原則やそれに基く慣習から、ニフが入の1字と化したものもあった。
としているが、その「仁比」である。
さらに先には蒲入(かまにゅう)があるが、この「入」も丹生であろう。観光案内くらいを見ていた時には、信じられないハナシかも知れないが、それは先人たちが誰も解明できなかったためであり、カシコ〜イはずの現代学者センセたちもスコ〜ンと見落としているためでもある、別に皆さんが不勉強なわけではありません。丹後では舞Iと同じように伊根町周辺は古代は水銀の産地であった。いろいろ古文献にこの地と舞Iとが何か縁がありそうにみえるのはそのためかも知れない。

高梨。この地名も全国に見られるが、どこかでも書いているように高穴師の転訛である。
『播磨風土記』の揖保郡に、
上筥岡(かみはこをか)下筥岡(しもはこをか)魚戸津(なへつ)朸田(あふこだ)
 宇治の天皇のみ世、宇治連等が遠租、兄太加奈志(えたかなし)弟太加奈志(おとたかなし)の二人、大田の村の與富等(よふと)の地を請ひて、田を墾り蒔かむと来る時、廝人(つかひびと)(あふこ)を以ちて、食の具等の物を荷ひき。ここに、朸折れて荷落ちき。この所以に、奈閇(なべ)落ちし處は、即ち魚戸津と(なづ)け、前の筥落ちし處は、即ち上筥岡と名づけ、後の筥落ちし處は、即ち下筥岡といひ、荷の朸落ちし處は、即ち朸田といふ。

この太加奈志(たかなし)で、吉野裕氏はタカナシとはタカ穴師のこととしている。タカはアルの変化と思われるがタカタキタクタケタコ系でたぶん天日槍の系統の人々が自称した氏族名ではなかろうか。
与富等は今の兵庫県姫路市勝原区(よろ)であるが、ここの高梨の南は旧養老村である。
宇治という所とも関係がありそうで、この辺りなら本庄宇治が気になる、そこには浦島太郎さんの宇良神社があり、真言宗の来迎寺がある。舞Iで言えば大内郷と関係が深そうに記録に見えるが、そうなら内は宇治かも。対岸の立石はそんな自然の立石があるが、あるいはタカ穴師の転訛かも知れない。舞Iの藤津峠は建地峠ともいうが、タテシ、タカシは何か鉄と関係する地名であるよう。

古い真言宗のお寺もたくさんあったようで興味深い、こうした所は水銀を注意したいが、古代の神社では立石のアシカ社。『丹哥府志』の記録。

【あしかの社】(あしかは地の名なり、あしかまの潟にある社なり)
あしかの社は何を祭るや村人もしらず、されど珍ら敷社の名なれば村長に頼みて扉を開き拝み奉れば古代の装束にて古き尊像あり、是より前五十建速石別命を祭りてより村を建石といふと古老にきくしかも何れの社なる事をしらず、今此尊像を拝みて初て此社なる事をしる、五十建速石別命は丹後道主命の孫なり、丹後道主命に五女あり皆召されて后妃となる、五十建速石別命は第四妃薊瓊入姫の子なり、兄を速石別命といふ、与謝板並速石里より貢を奉る、弟を五十日足彦尊といふ与謝五十日の里より貢を奉る、五十建速石別尊には与謝稲浦より貢を奉る、よって五十建速石別命を祭るなり。

『丹後旧事記』は、
五十建速石別尊。與佐郡伊根の浦領地なり依て雄島の磯の建神岩を以て名とす母同上。

『丹後路の史跡めぐり』は、
…昔は垂仁天皇の皇子五十建速石別命の御料地であり、住民が貢を献上していたということで、…
…用明天皇の皇子麿古親王は、竹野浜から船で伊根浦へ渡ったという話が伝わっており、…
垂仁(すいにん)活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)というが、活目とは片目のことという。名のとおりに鉄の天皇で、たぶん実在ではないだろうが、天日槍が「帰化」したのもこの時代ということになっているし、いろいろと渡来人や鍛冶屋がこの天皇の時代に登場している。丹後・大和連合王権の鉄の時代、薊瓊入姫(あざみにいりひめ)の薊瓊は砂鉄のことではなかろうか(記は阿耶美能伊理毘売命)、イネとかイヌ・イノとかいった地名と意味は同じで砂鉄姫の名ではなかろうか、イリは渡来語であろう。どこかこのあたりあるいは阿蘇海あたりにいて与謝(加佐も含むか)周辺の鍛冶屋の女大将ではなかろうか。鉄の五世紀の、鉄の丹後の浦入遺跡の時代のハナシかも−
『丹哥府志』はえらい事を記録してくれているのたが、この姫の一族関係者は誰も深く金属とかかわるように思われるが、拠点がもともとはどうやらこの辺りにあったということがわかる。垂仁との間に生まれた子は息速別命(池速別命)といい、web上の「Wikipedia」には、
記紀には特に記されていないが、『新撰姓氏録』によれば幼少の時に父天皇により伊賀国阿保村(あほのむら)に命のための宮室が築かれ、同村を封邑として授けられたといい、『三国地志』はその宮が営まれた地を阿保南部の字福森から字西ノ森にかけての緩らかな丘陵地帯に比定している。
また、下野国日光山の開基である勝道上人の業績を記した『補陀洛山草創建立記』に垂仁天皇の第9皇子で勅命を受けて鈴鹿川の上流で伊勢神宮を奉斎し、その後縁があって東国に下向したが罹病により一眼を損失したために帰洛出来ず、下毛野国室八島に止住して同地の若田氏の祖となったという伝えがある(勝道上人は若田氏の出という)。栃木県真岡市にある鹿島神社の社伝にも同様の伝承があるが、谷川健一はこの伝承と、古代日本においては鍛冶神が多く隻眼とされている事、異母兄弟である誉津別命や五十瓊敷入彦命等も鍛冶に深く関係すると見られる事、父天皇(垂仁天皇)自身にも鍛冶に関する伝承が多々見られる事、日光山の祭祀にはこれも鍛冶と深く関わると思われる小野氏が関与していたらしい事等を摘出し、命(もしくはその後裔氏族)と鍛冶職との親密性を指摘している。
背筋がゾクゾクしてくる話だが、それも置くとしてさて、五十建はイタテと読む、伊達とかイタチとかになっているが元々は渡来の鉄や鍜冶の神様であった。射楯兵主(いたてひょうず)神社とか韓国伊太K(からくにいたて)神社などあることからも知られる。その速石別(はやしわけ)命という領主がいて、彼を祀るのが阿字野神社だという。ハヤシはどこかでも書いているが与謝郡拝師(速石)郷のハヤシで磐穴師の転訛。そんなことで五十建速石別命はどこからどこまでも鉄鉄の領主、それならここは鉄の地だったと思われる。
兄は板列にいて(法王寺古墳か)、弟は五十河にいた(五十日真黒人か)、与謝郡のこの範囲は広くハヤシと呼ばれて、磐穴師の地だったと思われる、古代与謝鉄王国であろうか、その筋を引くものであろうか真ん中には丹後一宮・元伊勢籠神社が鎮座する、この社は古代の記録らしきものには何も痕跡がないのだが…。また28番札所の成相寺がある。大風呂南墳丘墓の時代から開けた地と思われ、各地のハナナミ地名は意外にも丹後のここから移動したものかも知れない。
五十建速石別命を五十建連石別命ともするようだが、速石別だと思われる。

垂仁紀に、
治世の15年春2月10日、丹波の五女を召して後宮に入れた。第一をは日葉酢媛、第二を渟葉田瓊入媛、第三を真砥野媛、第四を薊瓊入媛)、第五を竹野媛という。
秋8月1日、日葉酢媛を立てて皇后とし、妹の3人を妃とした。ただ竹野媛は不器量であったため本土に帰した。竹野媛はそれを恥じて葛野で自ら輿から飛び降りて死んだ。それでその地を名付けて堕国という。いま弟国(乙訓)というのはなまったものである。
皇后の日葉酢媛は3男2女を生んだ。第一を五十瓊敷入彦命)、第二をを大足彦尊(景行天皇)、第三の子を大中姫命、第四を四番目の子を倭姫命、第五を稚城瓊入彦命という。
妃の渟葉田瓊入媛は鐸石別命と胆香足姫命を生んだ。次の妃の薊瓊入媛は池速別命と稚麻津媛命を生んだ。

紀が偉そうに書いているがずいぶんと根本的に割り引きながら読むことが必要と思われる。
丹波王国の領土がこれらの姫達によって知ることができる。5つくらいの支国に分かれていたのではなかろうか。どこを地盤にした姫かがわかればいいのだが、私もわからない。竹野姫は竹野神社の姫と思われるが、乙訓も領知ではなかったのか。そうした彼女たちの上にいで全体を束ねていたのが丹波道主命。別に大和から派遣されたわけではなく、抵抗もなくすんなりと治まっている所から見れば、もともとからの丹波の天皇さんであったと思われる。
天皇さん同士で両国の強固な同盟のため物々交換的に5人の姫達がバーター取引されたと思われる。女性を物と考えるのかと文句いわれそうだが、現在だってたぶんあることではなかろうか。大和からも5人の姫君が丹波に嫁いできたのであろうが、もともとは対等の関係であったなどとは大和には都合が悪い、大昔から大和の天皇だけは格別に偉かったのだ、丹波丹後ははじめより従属国だったと捏造したいわけで、そんなことは記録に残されない。丹波側の文献があっても「そんなハズはない」と焚書であっただろう。何時の世でもそうで、残っている文献だけでは歴史は復元できまい。これにオケヲケがからんでくる。薊瓊入姫がだいたいわかった所で、あとはおいおい考えてみよう。手元の資料が少ないが、もう少しひろうと−

『熊野郡誌』は、
稲別命
 (順国志) 吉佐吉原に在て道主命の副将を勤めたりし王なり。伊根浦より貢を奉る。
吉原は宮津市内の地名、駅の裏側。
『丹後旧事記』
稲別尊 一本に伊根和気尊とあり
 同書(順国志)に伊根の浦より貢を奉る。



今のような漁村としては時代がずいぶんと下って、魚の大消費地が近くに出来てからの話で、青島の蛭子神社の側から開けていったのではなかろうか。その時代は江戸期初期、若狭湾の対岸の越前丹生郡の「四ヶ浦」の移住者たちであったかも知れない。もともと両地はニフ、ニヒの水銀の地であり、古代より関係深かったかも知れない。漁業が専門となったのは中世以降のことではなかろうか。




亀島の主な歴史記録

『丹哥府志』
◎亀嶋村(高梨、立石、耳鼻、亀山以上四ケ村の惣名なり)
【万代の浜】
村の地面亀の形に似たりよって村を亀嶋といふ。東の方に耳鼻村といふあり、亀の耳鼻にあたる處なり。抑亀嶋といふより万代の浜といふ名ありと云。
藻塩草 浜の名に君か齢の顕れて  長閑き波も万代のこゑ  (無名)
【島津藤兵衛、同伊織城墟】

『丹後与謝海名勝略記』
【亀島村】 前に蒼島あり。周廻十四五町はかり常磐木生茂りて実に青螺を浮へたるかことし。名にかなへり。島の形亀の如し。故に又亀島といふ也、又亀岩あり。形奇也。一説に万代の浜といへるもこれなりといへり、船番所あり、又正法寺といふあり、頗古跡也。天橋山に属す。其他村々に寺院有とも記するにいとまあらず。

『与謝郡誌』
伊根浦、萬代浜
 伊根村を中心として波見崎より新井迄を丹野府志に伊根浦の庄といふ
   和布かる与謝の入海かすみぬてあきにそつけよ伊根の浦風  鴨 長明
   引く潮の遠さかり行く波の昔をはるにもすめる伊根の浦雲  玄旨法師
 伊根港の東端に亀に似たる岩あり、亀岩と云ひ亀島とも亀山ともいふ、青島蛭子神社享保年中の札に「宮城之北五里許有一漁村謂亥子浦蓋当府城之亥子也風景頗多最奇者亀島也亀島歳古不蔵六矯首江口恰如幻出萬代亀之曳尾也故亦謂萬代浦云々」とあり、これによれば宮津城の亥子の方に當り、亀に似たる島あるゆゑ伊根と云ひ鶴は千年亀は萬年といへることより寓代の磯と云ひ萬代の濱とも称す。
  寓代の名をとゝめたり濱千鳥     如水

  藻塩草濱の名に君がよはひの顕れて長閑き波も萬代の声  無名

昆沙門岩、弁天岩、根(クサ冠に専)浦
 伊根湾内日出、平田間に奇岩凸起せり直立数十尺中間突抜けて門の形を為す最も奇観なり、西方若干にして又奇岩あり凹形を為し満潮の際は伊勢の二見浦の観ありその高き方の岩に弁財天の小祠あり弁天岩となす、天然の形状一は凸形を為し一は凹形を為せるより人之れを昆沙門と弁財天に配せるなるべし、之れより日出の入江を根(クサ冠に専)(ネヌハナ)の浦といふ。
 来る人もなき禰ぬなはの浦なれば心とりすは見ゆるなるべし (名寄)                             少将内侍
 ねぬなはのくるしきほとの絶間かとたゆるも知らで思ひける哉 (後拾遺)                             伊賀少将
 忘るゝも苦しくもあらずねぬなはのねたくもと思ふこともなければ (同)

青島、姪子社、鯨墓
 伊根湾口に占拠せる青螺これを青島と為す、島上恵比壽の社あり。
 蓋世所謂夷子宮者蛭子神也丹州与謝郡伊根庄亀島村辺之青島有一小社俗謂夷子之宮里民以漁為業祷而求福感応如谷響也地枕海岸而狭溢也祭之不便人以爲愁相議而欲換地奏巫楽而訟諸於神忽得託宣移社今處?石搬土不憚厥労伏希神徳益明邑民惟豊于時正徳改元龍集辛卯仲冬之吉記焉
                   願主 和久田彦左衛門
  献
   千代の釣神示も廣しさくら鯛     奥 吉右衛門 
           高梨次郎右衛門
           和久田氏 遠山
 蛭子祠の北方鯨墓あり牝鯨を捕獲し胎児あるとき之れを葬り法養するの例なり。
   鯢胎亡追薦 常自寂滅相  在胎鯨子塔 文化五辰正月廿三日
         諸法従本来
 母鯨を捕へんとするとき元是なき児鯨母鯨に取すがりて取除かんとするも離れず遂に共に獲りたるも比の情を見て肉を食ふ能はず依て比に葬りたりとて丹哥府志に詳しく書けども茲には略す。
蜂ヶ崎七面堂、海豹社
 平田鳥屋間の出鼻を蜂ヶ崎といふ、七面堂あり龕前に霊応殿の額をかけたり、延嶽日鑑の筆といふ。前に忠魂碑卓然たり、立石にアジカの社あり丹哥府志に垂仁天皇の皇子五十建連石別命を祀る建石の地名之れより起るとあるも如何にや。





亀島の小地名


亀島
後山 亀井 コシマイ は志田 たにがえ 尾崎 山の鼻 とね田 ほり田 下坂川ばた かねつき かは田 寺田 三右ヱ門田 たて田 おく田 ながはま田 板や田 よこまくら そぶ谷 忠右ヱ門谷 金ヤ いね口 金や谷 かなやわだ 大鳥坂 汐汲バ いまじ 和田 山ノ鼻 千代谷 小岩尾 横枕 滝坪 滝田の上 滝の下 滝の上 いなば 大鳥 とりご志 だけ 愛宕山 鳥越 タケ やすみば 高梨峠 高梨 宮下 宮ノ横 向梨 奥ノ谷 馬の背 宮ノお みなみ峠 千代谷 四国ケ谷 四国 ウラ谷 金石原 浦谷 地蔵山 千丸 鳥屋 向山 ハカノツメ ソブ谷 別所 七ツ町 細ミチ 奥田 横浜 松川田 サクラガヱ 寺田 ヒイオ 中田 林ノ下 陽ノツメ イガ口 ミチノ下 ヤナギガモト 伊根口 甲毛 タキガサカ 鳥尾ノ上 柿ケ谷 蟹切 大浦 大成 カラスガ嶽 サカジリ フカ田 トノ坂 ナカ尾 イケアガリ 浜中田 カイヤ田 藤ノ木 大浦道ノ下 割栗 寄掛 ナカオ ウキグサ カメグリ 奥ケ谷 ハナノキ イケ田 大下 蛇ノ池 姥ケフトコロ 平林 ラテ山 伊根ケ首 向クロチ ヒデガ谷 ウメノキ谷 浜中田 中田 アカ田 上中田 七マガリ 寺ノ上 アジヤ上 石の谷 やすみ石 かるび なかざき 向かるび かうご くろべら うちわしの 外わしの 石の谷 あおしま カバタ 干代谷口滝田附 小岩尾ノ下 滝田道両方 タキ田上ヨリ 和田上ノ分 和田下ヨリ ソブ谷トビチ 上山サキ上 山サキ上 下山サキ上 山サキ下ノ切 角田上 角田下 谷カヘ上切下 谷カヘ川バタ ホリタ南フチ ホリタフチ 下坂川バタ 下三右ヱ門田 ナガハマタ 下力子ツキ

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↓伊根湾の地図(道の駅「舟屋の里公園」の案内板)


【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『伊根町誌』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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