丹後の地名

上山田(かみやまだ)
京都府与謝郡与謝野町上山田


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京都府与謝郡与謝野町上山田

京都府与謝郡野田川町上山田

京都府与謝郡山田村上山田

上山田の概要




《上山田の概要》

水戸谷峠口附近から西側の集落。加悦谷平野の北西部、野田川北岸に位置し、下流の下山田に対応する。古代「和名抄」、中世「丹後国田数帳」に見える山田郷の遺称名。(たち)・中縄・尾崎の小地区に区分される。
「丹後御檀家帳」に「一 かみ山田にてかわた佐渡殿御しそく 蒲田源左衛門殿」と見える。「丹後国田数帳」には「山田郷」が見え、郷内17町余を下山氏が知行している、「細川政元記」によれば、細川勢が加悦谷に侵攻した際、上山田地内の水戸谷口で下山氏が防戦したといい、塩見筑前守の城と伝える山田城址がある。
上山田村、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年山田村の大字となる。
上山田は、明治22年〜現在の大字名。はじめ山田村、昭和30年からは野田川町の大字。平成18年3月からは与謝野町の大字。大正15年加悦鉄道が敷設され、水戸谷駅が設置されていた。


《上山田の人口・世帯数》827・277

《主な社寺など》

黒田住居跡
『町報野田川』(昭和54.1.10)
町内文化史跡を訪ねて・上山田・黒田住居跡
 上山田小字黒田にあり、昭和三年山田小学校のグランド工事の際発見されたと云われています。
 住居跡には、洞窟住居、湖上住居、竪穴住民、平地住居、高床住居などがあり、竪穴住居は縄文時代早期から用いられ、古墳時代には南入口、北壁竈が一般的で、平地住居にくらべ遺跡の発見が困難と云われています。高床住居は弥生時代の穀倉から発展したもので、古墳時代に用いられていたと云われています。
 山田遺跡は弥生時代後期から古墳時代後期にわたっており、遺物としては弥生式土器、土師器、須恵器などを多く出土しています。又、近年三河内梅谷住居跡が発見されており、現在、調査をしているところです。

シボラ古墳など数基の古墳、
『野田川町誌』
山田のチコラ古墳
上山田小字チコラ谷の口にあり、丘陵端にある円墳横穴式石室で、現在は全壊している。
山田の滝谷古墳
上山田小字滝谷山にあり、山頂にある円墳横穴式石室で、現在は全壊している。
山田のシボラ古墳
上山田小字チコラ谷の口にあり、丘陵端にある円墳横穴式石室で、現在は全壊している。副葬品は、鉄刀一口、小鍛一個、須恵器十四個(高杯四、杯五、蓋杯四、提瓶一)、土師器(杯)二個が出土した。

『町報野田川』(昭和54.9.10)
町内文化史跡を訪ねて・上山田・新道古墳
 去る四日九日、上山田の水戸川沼いの砂防えん堤工事中古墳時代後期と推定される横穴式石室古墳が発見され、地名を取って”新道古墳“と名づけられました。
 出土品には、坏身、坏蓋、台付坏、高坏、・(まり)等の須恵器の他、直刀、轡(くつわ)があり、その中で馬具の出土は丹後地方では数点しかなく、貴重なものだといわれています。
 府立丹後郷土資料館の技師の調査の結果、直径十メートル前後の円墳で、六世紀後半頂の豪族の墓らしいことが判りました。
 出土品はすべて丹後郷土資料館に保管されておりますが、馬具の部分品、鉄製の・(はみ)、引手(ひって)等の轡一式は、一見の価値あるものだそうです。


式内社・弥刀(みと)神社
弥刀神社(上山田)
彌刀神社
 山田村字上山旧小字館、村社、祭神速秋津彦命、延喜式内社にして宝永四年九月再建、神祇志料に「今上山田村彌刀谷に在り彌刀明紳と云ふ」と爲し日本地理志料には「祀典所秩彌刀神社在上山田村称水戸明神」と爲す。明治六年村社に列せられ十五年焼失二十五年再建、境内末社稻荷、塩見の小祠あり氏子九十戸、祭典九月六日。
(『与謝郡誌』)

弥刀(みと)神社(延喜式内社) 上山田小字館
 祭神 速秋津日子命。
 水戸を守る、水戸で祓除けをする。妹の速秋津姫と共に速力の早い瀬の間にあって、罪けがれを祓い清める神である。湊には多くこの神を祭る。水戸明神と呼ばれた記録がある。日本地理志料に「祀典所レ秩弥刀神社在二上山田村一称二水戸明社一云々」とあり、宝永四年九月再建したことも残っているが、現在の社殿は、明治二十五年建立のものである。大祭は旧九月六日、現在は四月二十五日。行事として往昔はささばやし、神楽、担い屋台などがあったが、現在では、太刀振りがあり、振子たちは精進潔斎を行ない身を清めるため、滝水にうたれて参加をした。また、江戸時代から弥刀神社講があり、現在までつづいている。明和七年からの講帳があって、月番により講の運営を行ない、その月の当番宅では会食がある。また、子供中の組織として、大仙導(おおせんど)、宮籠り、宮掃除などの行事があったが、現在はつづいていない。境内には、若官、稲荷など、また小字城山には城山稲荷の祠がある。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・弥刀神社(上山田)
 御祭神は、速秋津日子命。
 日本地理志村に 「祀典所秩弥刀神社上山田村称水戸明社云々」と、水戸明神と呼ばれた記録があります。
 大祭は旧九月六日、現在は四月二十五日で、行事として以前はささばやし、神楽、担い屋台などがありましたが、現在では、太刀振りがあります。
 江戸時代から弥刀神社講があって、現在もまだつづいており、明和七年からの講帳があって、月番により溝の運営を行ない、その月の当番宅では会食があります。また、子供中の組織として、大仙導、宮籠り、宮掃除などの行事がありましたが、現在は続いておりません。
 現在の社殿は、明治二十五年建立のもので、境内には若宮、稲荷、また小字城山には城山稲荷の祠があります。
(『町報野田川』(昭和56.12.20))

町内文化史跡を訪ねて・加悦谷祭・上山田地区
 上山田地区の氏神は、苦無神社(祭神 少名彦命)と弥刀神社(祭神 速秋津日子命)の二社があり、祭典の奉納は毎年交互に執行されます。
 四月二十四日の宵宮は、苦無神社の尾崎地区では子供屋台、弥刀神社の館地区では太刀振りが夫々町内を練り歩き、太刀振りは道振りの芸が披露され、四月二十五日の祭礼の日は、苦無神社(弥刀神社)で太刀振りを奉納した後、神官、区役員、氏子総代、太刀振り、子供屋台の順で行列が続き、神社近くになると、太刀振りは「道振り」の芸を披露しながら巡行が続き、弥刀神社(苦無神社)に到着後は再び太刀振りを奉納して祭典の終りを告げます。太刀振りには「初振り」「花振り」「道振り」「奉納振り」等があります。
(『町報野田川』(昭和55.12.16))

「室尾山観音寺神名帳」「与謝郡六十八前」に、「従二位 水門(ミカド)明神」とあるのがこの社ではなかろうか。彌刀は水戸・水門のことだろうから、このあたりはミナトだったのかも、少し下側には宗像社があったというから、海岸からは今ではずいぶんと奥地であるが、あるいは過去は海がこのあたりまで入り込んでいて、水運の地の神なのかも。
加悦谷は一般に低く、5メートル水位が上昇すれば、このあたりまでが海になり、10メートルでほぼ全域が海になる。阿蘇海の上空から加悦谷を見る。青が5メートル線、緑が10メートル線、『カシミール3D』で作成したのだが、何かうまくできなくて、地名が表示できない。
いつの時代か過去にはこんな時代も確かにあったと思われる、浅い内海に堆積土がたまり、今のようになったと思われる。ここでも湖上住居跡が発掘されているというし、三河内には貝塚だろうと推定される遺跡があり、オオノガイという海産の内海の泥砂にいる貝殻がでるという、江戸期でも加悦の大橋までは舟運が通じていた。
ご覧のように、「霧が鼻」とか「ゆり河原」と呼ばれるところ(今は南側から張り出した山並が削られて広くなっている、高速が通るあたり)が狭く、野田川はよくこのあたりで氾濫したという。




苦無(くなし)神社
苦無神社(上山田)

苦無神社
 山田村字上山田小字尾崎、村社、祭神少毘古那命、往昔天神山に銭座ありしを寛政八年今の地に遷座せしといふ、明治六年二月村社に列せられ氏子九十戸祭九月六日境内尾崎、稲荷神社あり、又小字藥師に秋葉、東に愛宕、四郎太夫に蛭子神社あり皆無格社なり。
(『与謝郡誌』)

苦無(くなし)神社 上山田小字尾崎
祭神 少名彦命。
 神彦巣日命の子で、朝鮮の国土を治め、帰国して出雲国で大国主命を助けて国土を経営し、畜産のため療法を定め、鳥獣昆虫の災厄に対する禁厭法(マジナイ)を制した。大祭は旧九月六日、現在は四月二十五日である。
 伝説として、小字古宮(享保以前の社地)付近に沼があり、大蛇が住み、日夜民を苦しめた。少名彦命は、ただちにこれを斬って住民を救った。その蛇体より刀剣が出てこれを弥刀神社に奉斎し、蛇体は、幾地穴石神社に祀ったという。現在、享保二年十二月六日に社殿を建立した棟札がある。
 また、古くから「笹ばやし」の民俗芸能があり、四月二十五日の大祭には、芸屋台や子どもの楽屋台が出て色を添える。
 なお、境内には狂言舞台があったが、昭和二年の丹後大震災のため倒壊した。石造物には、一八二一年(文政四)の石灯籠、樹木として大銀杏がある。境内に尾崎稲荷の祠がある。なお、小字薬師に秋神葉社、小字東に愛宕神社、四郎大夫に蛭子神社がある。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・苦無神社(上山田)
 御祭神は少名彦命で、大祭は旧九日六日、現在は四月二五日です。
 神社境内には狂言舞台がありましたが、昭和二年の丹後大震災のため倒壊し、現在は無くなっています。石造物には、一八二一年(文政四)の石燈籠、樹木として大銀杏があります。
 伝説として小学古宮(享保以前の社地)付近に沼があり大蛇が住んでいて、日夜民を苦しめたので、少名彦命はただち仁これを斬って住民を救った。その蛇体より刀剣が出て、これを弥刀神社に奉斎師し、蛇体は、幾地の穴石神社に祀ったといわれています。
 社殿には、享保二年十二月六日に建立した棟札があります。
 四月二十五日の大祭には、子供の楽屋台などで、賑わいをみせます。
(『町報野田川』(昭和56.11.30))

男山にも苦無の小地名があるが、クナシとはクラナシ(倉無・闇無・倉科)、すなわちクラアナシ、クラ鉄穴師の転訛とワタシは考える。西隣に穴石(あなし)神社があり、あながちでたらめな推測とも思えないのである。
「室尾山観音寺神名帳」「与謝郡六十八前」に正四位上 久奈世(クナセ)明神が見えるが、そうとも呼んだのだろうか。
大分県中津市に闇無浜神社があるが、
吾妹子が赤裳ひづちて植えし田を 刈りて収めむ倉無しの浜。
柿本人麻呂作とも伝わる『万葉集』のこの歌はこのあたりを詠んだものという。せっかく刈った稲を納める倉が無いとか苦労が無いとかいったような意味ではないようである。
吉野祐氏がどこかで書いておられたが、この浜の山側は鉄の山という。吉野氏の教えに従えばクラとは谷だが、特に鉄の採れるような谷をいうそうである。
紅陽中学校の裏山になり、加悦谷平地の真北の花崗岩の山で穴石のあたりは谷間になるが、ここは風が吹く不思議なポイントである。大江山の方から吹いてくる。ほかでは無風の日でも風がある。ゼッタイに製鉄の地だとワタシは確信した。


薬師谷に薬師堂跡、付近にマリア観音を祀る大師堂がある。
苦無神社の隣で、境内が共有されているように感じである。右の高いところが苦無神社、左に白壁が大師堂。

町内文化史跡を訪ねて・上山田・マリア観音
 上山田小字薬師寺谷に「子安地蔵尊」と呼ばわる石仏が祀られている。全長五十pの地蔵尊像に似たものであるが本尊の姿は観音像で、この像の特徴として、台座中央付近に逆まんじに似た十字が、岩塊の裂目にまぎらすように刻まれていることである。そして像は、両腕にて胸に童子を抱いた円満慈母の温容を表わしているが、「クルス」が中央に画かれていることから、マリア子安地蔵尊と傍記さかている。これは「マリア」が童子形の「キリスト」を抱いた姿をあらわすもので、明らかにキリスト信仰に結びつく特異なものであることがわかる。この付近の人はこの石仏を「マリア観音」とも呼び、隠れキリシタンの対象物であったと伝えられている。
(『町報野田川』(昭和53.7.31))

右に苦無神社、左が大師堂

山田の薬師堂跡
上山田尾崎小字薬師谷にあり、付近にマリア観音像を祀る大師堂がある。同じ場所に妙見堂があり、下山田の菩提寺跡の石灯籠とほぼ同時代のものと見られる灯籠もある。
(『野田川町誌』)

上山田のマリア観音考
野田川町上山田小字薬師寺谷には、「子安地蔵尊」と呼ばれる石仏が祀られている。全長五〇セソチメートルの地蔵尊像に似たものであるが、その輸光と光背をもった本尊のすがたは、「観音像」である。像は岩塊上に半跏踞座し、宝冠はなく、結髪上から全身にかけて白衣をまとい、両腕にて胸に童子を抱いた真に円満慈母の温容を表わしている。ところでこの像の珍らしい特徴として、台座中央付近に逆まんじに似た「十字」が、岩塊の裂目にまぎらすように刻まれていることである。みるからに素朴でやさしさがある。また同じ場所に大師堂があって、この石仏を「絹本」に着色をした古い画像が残されている。この画像は台座の分は蓮華で形どられ、「クルス」が中央に画かれて、明確に「マリア子安地蔵尊」と傍記されている。これは「マリア」が童子形の「キリスト」を抱いた姿をあらわすものであって、あきらかに「キリスト」信仰に結びつく
特異なものであることがわかる、そして、この付近では、この石仏を「マリア観音」ともよんでいるのであるが、今これを祀る人々は、近隣の大師講に集う老婦人たちのみであり、かつてこの石仏をこの薬師谷にもたらしたその由緒と背景は、知る人もなく、伝え残すすべもなくなりつつあるのである。ところで、この石仏は、台座の「十字」が物語るように、かつては禁教になっていた「隠れキリシタソ」の対象物であったことが当然考えられ、かの一五四九年(天文十八年)以来、わが国に伝えられてきた「キリスト教」の伝道の歴史からみると、秀吉の禁教令にはじまる信者への宿命的な弾圧と迫害、そして隠れ切支丹の人々の姿が浮び上ってこなければならない。このことは、先に暁星女子高等学校の赤野伊之助氏によって「丹後の切支丹大名」として、同校の記念研究誌に明らかにされていることからもわかる。同氏によると、「昔九州から逃がれてきた藤原、小池という武士が、小池家の先祖に当り、熱心な信者として、一塊の石に刻んだ……。」と説明されており、また「島原の乱後、一六五八年(万治元年)幕府の切支丹奉行の北条安房守が残した宗門改めの記録によると、丹波福知山に七十八人、亀山に二十三人、園部に二十三人の信徒があったし、そのとき丹後には一人の切支丹もいなかったことになっているが……。」と述べられている点からして近隣各地方にも、まだ表面にあらわれない信者が深くひそんでいたことを、推断できるのである。ただ、この野田川町においては、文献資料とてなく、僅かに、小池家の人びとならびに近隣の古老による、昔からの云いつたえと、信仰の伝承から考えるほかはないのであるが、前記小池家は、現在一〇世と称せられており、またこの石仏は、小池家墓地付近の「ほら穴」に、台座の「十字」を土中に埋め隠した姿で祀られていたと云われていることに、この石仏のもつ一つの意味を解することがでぎるのではなかろうか。ここで丹後の「キリシタン」についての資料を求めると、かの細川忠興は、一五七八年(天正六年)に織田信長に任えて田辺城に居を定めたが、その弟の興元は吉原城にあって、三十二歳で洗礼を受けたといわれており、また細川家では、多くの人が洗礼を受けている事実がある。即ち、父幽斎の妻「マリア」、忠興の妻「ガラシア」、忠興の次男「ジョアソ」、娘「ダリヨ」はそれぞれ洗礼を受けた。
さらに、細川氏の後に信濃から転封した、京極高知は、当時の「キリシタン大名」であったので、これら領主のもとでは、領民たちもその教義を学び、信仰を持つなど、信者として生活をすることが、許されていたことが考えられる。この地にも、異国の神との深い宿縁を持つ人々が、この「マリア観音像」のある小字薬師谷に、ひそみ暮しつつあったことはたしかであろうし、像についても、伝承によると、谷口にある「つつみ」の中に、何かまばゆく光り輝くものがあり、近所の人びとは畏怖してこれに近づかなかったが、あるとき某氏が、これを探して引きあげたところ、これが童子を抱いた珍らしい「観音像」であったと云い、その後、人びとは「隠し子安地蔵」として、ひそかに祀ったというような発祥をくずした点、又これを祀った人びとの「人名帖」が、ひそかに、上山田の郷倉に隠されていたとも云い、これらから「マリア観音像」としての真相が判明するのではないだろうか。現在もこの「マリア観音像」は「子安地蔵尊」として丁重に祀られている。
(『野田川町誌』)

塩見筑前守の山田城址。
水戸谷口の祥雲寺の裏山一帯が城山で、その付近を(たち)という。祥雲寺からの登り口が大手になる。
山田城跡

永正初年にはこの三戸口の城には、一色下山氏が立てこもっていたが、その「内の者」に肥後左京亮父子がいた。細川政元の命で府中城の一色氏討伐に下った香西孫六に攻められ降伏落城した。
面目を逸した肥後左京亮父子は若狭武田氏家臣逸見駿河守を破りようやく本白府中城に入ることを許されたという。肥後屋敷・向肥後方などの小字名が残る。
丹後国田数帳に、「山田郷二七町三四歩内、一七町八段二一四歩、下山殿」とみえる。祥雲寺は寺伝によると、塩見筑前守隆祥が永正2年に亡父塩翁隆見大居士のために建立したという。塩見氏は天正10年一色氏と運命をともにした。

山田城跡
上山田小字館、城山にあり、遺構の大きさは、頂上部東西二一メートル、南北四八メートル、さらに第二、第三の削平地がある。これを本丸、時武ケ成、八幡ケ成といり、その他に、的場、陣ケ尾、堀越、堤ケ谷、馬場先などの地名が残っている。本丸の中央に椎の樹があり、荒神社の石碑がある。これを、俗に塩見の祠と称する。城主は、塩見筑前守という。上山田祥雲寺に位牌があり、元治元年(一八六四)、荒神社を建立する。この時より算えて三六〇年忌に当るとき、供養を打なった。戒名は「前塩見筑前守祥雲寺殿塩翁隆見大居士、永正元甲子年五月初一日、同暦二丑年当寺建立也」とある。また、田数帖に「山田郷二十七町三十四歩のうち十七町八段二百十四歩下山殿」とある。細川政元記に、「永正四年(一五〇七)、下山氏之により若狭の武田氏を苦しめたり。」と記され、下山左近将監と称し、塩見筑前守と同居していた。その後、天正六年(一五七八)筑前守は細川氏と戦う。一色氏の家臣として天正十年(一五八二)細川氏のため討死する。塩見氏は宇多源氏佐々木氏流で丹波国天田郡の出身で猪崎城に居城していた。
(『野田川町誌』)

山田城跡

曹洞宗瑞竜山祥雲寺
祥雲寺(上山田)

端龍山祥雲寺
 山田村字上山田、本尊釈迦三尊・永正二年下山氏の創立なりと伝ふ、中興開山?(門カマエに虫)嶺嶽浦和尚、寺宝祥月筆十六羅漢あり。
(『与謝郡誌』)

瑞竜山祥雲寺 上山田小字館
本尊釈迦如来。
曹洞宗永平寺派智源寺末、開基は、塩見筑前守隆祥(佐々木氏の流れ)。永正二年に建立した。永正元年、隆祥の父戦死により、「祥雲寺殿塩翁隆見大居士」と戒名をつけ、寺紋も「四ツ目結」(近江源氏の家紋)である。開山は、ミン嶺覚浦和尚(元禄九年一月二十四日寂)。年中その他、鬼子母神像(二体)、四天王像(三体のみ、毘沙門天、広目天、増長天)、大黒天像(江戸時代作)などがある。他に、釈迦如来像、七面天女像、三十番神がある。伝説としては、行学院日朝上人の眼病平癒の由来書という、長享二年の「南無妙法蓮華経」の石塔がある。現在の七面堂は、昭和二十八年建立したものである。講中は五十戸である。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・瑞竜山祥雲寺
 上山田小字館にあり、本尊は釈加如来、曹洞宗永平寺派智源寺末で、開基は、塩見筑前守隆祥、永正二年に建立。永正元年、隆祥の父戦死により、「祥雲寺殿塩翁降見夫居士」と戒名をつけ、寺紋も「囲ツ目結」(近江源氏の家紋)である。開山は、ミン嶺覚浦和尚(元録九年一月二十四日寂)と云われます。
 建造物には、本堂、庫裡、鐘楼並びに位牌堂、土蔵などがあり、また、納屋は震災で倒れ、梵錘は戦時中供出されました。寺宝には、襖絵「六羅漢画像(柴田義薫が画く)、龍の画一幅、勝海舟の書一幅があると云われます。
 年中行事としては、新年三元祈祷、涅槃会、般若会、仏誕会、彼岸会、観音溝、盂蘭盆会、道元講、達磨講、成道会などがあります。
(『町報野田川』(昭和58.2.28))


鞭政武私塾跡
『町報野田川』(昭和53.9.12)
町内文化史跡を訪ねて・上山田・鞭政武私塾跡
 明治維新後、太政官訓令しより学校設立が促されたが、それ以前は、所謂、私熟によって子弟教育がなされた。それ教育者は僧、医師、学者であって、三河内では学者安田良敬、下山田では医師須田耕斉が私塾を開いていた。
 上山田の鞭政武私塾跡は、小字四郎太夫にあり、鞭政武は石川出身とあるが、丹波国氷上郡杉谷村の代官足立平左衛門の子で、鞭正周の女婿となり、外祖父政削(翰海)の隠居地である上山田村に来住してここで医業を開き、山田村が石川村の西に、当るので西山と号し、江戸末期には医業の傍ら上山田村の子弟を教育したと伝えられている。
 因に、当地方の小学校設立は、明治六年七月から八月にかけてであった。


《交通》

《産業》




上山田の主な歴史記録


『丹後国田数帳』
一 山田郷 廿七町卅四歩内
  十七町八段二百十四歩 加長宝寺領 下山殿
  一町九段七十二歩   井上分 荻野将監
  七町二段百八歩     東方  八幡領

『丹後御檀家帳』
一 かみ山田にて   かはた佐渡殿御しそく
                浦田源左衛門殿

『丹哥府志』
◎上山田村(下山田村の南)
【彌刀神社】(式内)
【瑞龍山詳雲寺】(曹洞宗)
 【付録】(苦無大明神、薬師堂、日祭堂)

『野田川町誌』
上山田は、水戸谷より江陽中学までの間で、主に旧道や山麓に沿って、二六二戸が列状をなし、館、中縄、尾崎の小地区に区分されている。館は、山田小学校の西から城山の山麓および水戸谷の十字路にかけての八六戸、中縄は、水戸谷の西側山麓沿いの六六戸、尾崎は、中縄に続く山麓並びに旧道周辺を主とする一一○戸の集団で、いずれも、機業を主や副とする兼業農家が多く、府道沿いには、商店や機業店、自動車修理店、関西電力水戸谷変電所などが見られる。ことに、水戸谷の十字路は、国道一七八号線がここで北折して、国鉄宮津線と平行に水戸谷の峠をこえて峰山に向い、府道宮津八鹿線が、市場地区の四辻を経て出石へ、町道の石川道が、野田川を渡って石川地区の中心部へと、四方に分岐しているところで、峰山に向う国道の両側には、常夜灯の石灯籠が奉献されている。かかる交通の要地にあたっていることから、ここには、バスの峰山、加悦、出石方面行の連絡停留所があり、また、石川道を少し下ったところに加悦鉄道の水戸谷駅があり、水戸谷の四辻付近には食料品や衣料品の店も二、三あって、小規模ではあるが、交通立地の特色を示している。しかし、これら国道並びに府道沿いの家々は、下山田の場合と同じように、新しいものであって、山田小学校から弥刀神社の間で、国鉄線よりも山寄りに元屋敷があったと伝えられている。館地区の名をはじめ、城山、本丸、的場等々の地名からも、中世発生的なにおいがあるが、小学校の校庭拡張工事の際、古代住居跡が発見されており、城山の麓には古墳もあり、古図によれば、野田川低湿地には条里遺構もうかがえて、すでに、この地は非常に占くから居住地であったと思われる。



上山田の小地名

(下山田も含む)
山田
向田 向川尻 犬馬場 深田 高井根 立田 スハタリ 苗代 郷田 川尻 向池本 滝田 みとだに 芦田 千里田 横オサ 三反オサ 栗ノ下 鉾立 野崎 古宮 八反田 肥後屋敷 甲田 塚本 ツカ 堀 土クボ 上角 竹カ鼻 チサノ木 大坪 六地蔵 公ケ辻 上カリヤ 谷川 四ツ谷 薬師 薬師谷 寄合畑 西垣 四郎太夫 蛭子 コウノス ゲンス 乙海 乙海谷 山ノ口 奥山谷 池本 狐ノ穴 平田 蛭子田 流田 四反田 ユリノ口 柿ノ田 中イノ 三束田 杉本 成相分 タコ田 松本 八反田 無双 音張リ サコリ 島町 道場 土井ノ内 米田 菱池 カリヤ 大ガンジ 石田 シダリ柳 砂原 深田 ウルシバラ 若宮田 大門 長十寺 寺坂 地蔵 宗造ノ宮 角尻 高岸 竹原 寺ノ下 二ノ段 中池 少将 円蔵 流レ尾 中谷 的場 鐘鋳場 竹ノ内 坊ケ谷 アミダ 縄手 法ケ堂 竹ノ越 白イタ 丁子田 福千畑 藪ノ下 長塚 アナ谷 丘 薬師 谷川 宗像宮 小聖社 寒久 大矢木 按分 長サイミ コウヤギ 甲骨 扇町出合 盛田 万才池 六斗田 才出畔 モガリ 行司 タイト田 ユリ河原 カマ草 ドヤガ谷 千斤ノ木 辻 宮田 庭田 矢取リ 八万部 下柿中 大清水 清水 平の 宮ノ下 柿中 実谷 奥ノ谷 カリオン 寺ケ谷 小谷 北道縄手 岡 玉取リ 宮大門 右近堂 舟ソコ 西谷口 サコ谷 堂ノ谷谷 正谷 向岡 関留 ボダイ寺 砂子 エタケ 田ノ鼻 東 若田 荒神 ハシカ谷 ワリ谷 クチチシ 休場 烏谷ゴマガナル 狼ザコ 芋谷 柳谷 チコラ ホリコシ 休場 滝谷 シボラ 浦谷 助ガ谷 ヒヂリ谷 ボダイ アタゴ

関連情報






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資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

若狭・越前
市町別 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市







【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『野田川町誌』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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