丹後の地名

金屋(かなや)
京都府与謝郡与謝野町金屋


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京都府与謝郡与謝野町金屋

京都府与謝郡加悦町金屋

京都府与謝郡与謝村金屋

金屋の概要




《金屋の概要》

下から行けばSL広場などがある一帯の少し手前、昔の国道176号に沿って集落が連なる。四反田・八反田・塔ケ坪など条里制の名残の地名もある。金屋は古代の製鉄にちなむものか。
古代の「勾金駅」もこのあたりか。カリは銅(あるいは金属一般)、マカリで真銅、カネは金で重語だから、銅関連の作業場のあった所の意味かと思われ、:現行の地名からならば当地がドンピシャである。
温江の巣狩神社とかカリの名があって、大江山の麓の一帯は銅生産の地であったのかも。。

かなや村は、戦国期に見える村名。「丹後御檀家帳」に、
「一 かやのかなや村 家百斗」と見え、また別に「一 かやのうつ山寺 石川殿御子息 地蔵院 大願院」と見える。うつ山寺は外谷の浮木山三縁寺の前身という。
金屋村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年与謝村の大字となる。
金屋は、明治22年〜現在の大字名。はじめ与謝村、昭和29年からは加悦町の大字、平成18年3月からは与謝野町の大字。

《金屋の人口・世帯数》

《主な社寺など》

畿内では珍しい三角板鋲止短甲埴輪片が出土したかのこ山古墳、経筒と鉄剣が出土した鏡山古墳、玄室の内部奥行5.3m・幅2m・高さ2mの横穴式石室をもち天井石は2枚の巨石よりなる上司古墳など。
上司山古墳(このうえ)(金屋)

国守神社
国守神社(金屋)

國守神社
 與謝村字金屋小字筆谷、村社、祭神大伴金村命、敏達七年字鏡山の地に齋きて延喜三年字姉ケ枝に遷し明治二年三月現在の地に移すといふ。明治六年二月村社に列せられ境内末社稻荷神社、秋葉神社あり氏子五十戸、府志には金屋村に國守大明神を掲げて長宮を載せず。例祭同上。
(『与謝郡誌』)

国守神社  金屋小字筆谷
 大伴金村を祭る。
 大伴金村は、五世紀末から武烈、継体、安閑、宣化、欽明の五代にわたり、大連として大和朝廷の国家統一事業に貢献した大勢力者であった。五一二年に、大伴金村は、任那の四県を百済に割譲し、それがために朝鮮経営の失敗を責められて退いた。
 だが大伴氏は二六か所に及ぶ田荘(私有地)を持っていた。金屋も私有地の一つであり、地名金屋も金村からとったものともいわれている。
 金村の死後、敏達天皇七年、金屋小字鏡山に祠を建て奉祀され、のち九二四年(延長二年)小字姉ケ枝に、さらに、一八六九年(明治二年)現在地に移されている。当初の鎮座地であったという鏡山の古墳から、経筒、壷、刀などが出土している。
 一九三五年(昭和十年)に社殿が改築された。
 境内社には、稲荷神社(祭神保食神)、一八六六年(慶応二年)、伏見から勧講。秋葉神社(祭神彦火々出見命)一八六八年(明治元年)、遠州から勧請がある。
(『加悦町誌』)


加悦谷の物部郷、野田川町石川の「物部神社」等は、物部氏の田荘があったことに由来すると伝え、鏡山の麓に金村(大伴氏)を祀ったという「国守神社」もある。これらは蘇我・物部・大伴氏の勢力が丹後に及んでいたことを示している。
(『大宮町誌』)


長宮神社
長宮神社(金屋)

長宮神社
 與謝村字金屋小字宮ケ谷鎮座、村社、祭神加賀脊雄命、文永二年甲寅郷士片岡範時なるもの字長に勧請し文明三年丙寅今の地に移す明治六年二月村社に列せられ氏子五十五戸、境内末社金刀比羅社、嚴島社あり、祭典四月二十五日。
(『与謝郡誌』)

長宮神社 金屋小字水木ケ谷(通称宮の谷)
 加賀背雄命(かがせおのみこと)を祭る。
一二六五年(文永二年)郷士片岡範時が小字長宮の地に創建し、地名をもって長宮神社と称した。一四四六年(文安三年)現在地に移した。
 境内社に、金刀比羅神社(祭神金山彦命)、一八六七年(慶応三年)讃岐から勧請。厳島神社(祭神市杵島姫命)、一八三○年(天保元年)安芸宮島から勧請がある。
(『加悦町誌』)
ナガは蛇でなかろうか、蛇神を祀る金属の宮かと想われる。加賀脊雄命というのは星の神、権力から見れば「まつろわぬ神」、大江山の鬼のはしりか。


浄土宗浮木山三縁寺
城山の中腹に七堂伽藍があったと伝えられる三縁寺跡があり、荒廃ののち麓に移り、さらに現在地に移転したと伝える。国守神社を少し下ったところでわかりにくい。
三縁寺(金屋)

中世末の「丹後国御檀家帳」のいう、
  かやのうつ山寺
   石川殿御子息
    地蔵院 大願院
   うつ山寺の山ぶし衆毎月多人数御参宮候へ共、た
   んな次第に代官所めされ候間ちもんにかき不申候
とある「うつ山寺」を三縁寺にあてる説がある。
「地蔵院」は小字地蔵山にその跡が残るが、「うつ山寺」とよばれる地名は不明。地蔵院を含む大寺を三縁寺に比定するなら、金屋城は加悦城主石川氏の子息の居城であったと考えられる。

浮木山三縁寺
 与謝村字金屋にあり。本尊阿彌陀如来。圓光大師開基創立、圓光大師の創建せる寺院丹後に二ヶ寺一は熊野郡久美浜の本願寺にて一は当三縁寺なり。御檀家帳にうつさん寺とあるは当寺ならん。天正元年六月雷火の爲めに焼失し、同四年五月地頭石河義行再建延寶五年焼失天和元年三月再建、寺の後に圓光大師の蓮池ざいふあり、折々一茎二花の蓮を生ずといふ。又石灯籠一基古色蒼然たるものあり恐らく当時のものといふも惜むらくは旧記焼失して徴すべきものなし。明治初年三たび焼失し十二年五月再建す。
(『与謝郡誌』)

浮木山三緑寺 金屋小字姉ケ谷
本尊、阿弥陀三尊像
圓光大師開基創立により、もと城山の中腹にあった。
一五三八年(天文七年)の丹後国御檀家帳に、
一、かやのうつ山村
  石川殿御子息 地蔵院、大願院
 うつ山村の山ふし衆毎月大人数御参宮候へ共だんな次第に代官所のされし間ちもんにかき不申候、とあり、当時は七堂伽藍あり、多数の僧兵がいたといわれ、今もその屋敷跡を残している。一五七三年(天正元年)六月雷火のため焼失し、一五七六年(天正四年)五月地頭石川義行によって再建され「禅定寺」と改めた。その後、一六七七年(延宝五年)焼失、一六八一年(天和元年)三月再建、一八六八年(明治元年)三たび焼失したが、一八七九年(明治十二年)五月再建した。再建のつど山麓へ移し、さらに一九六三年(昭和三十八年)現在地に改築した。本尊は阿弥陀如来三尊、檀家は約二○戸
(『加悦町誌』)

金屋の三縁寺は今こそ小さな寺であるが、戦国時代は赤野城の中腹にあり、一色の重臣石河氏の菩提寺である。石河氏の本城はこの赤野城であったらしく、山上には石塁の跡がみられ、山は高くけわしく加悦谷随一の要害である。三縁寺跡に通じる道は石畳がしいてあり、いたる所に山をけずり石を積み道をけわしくして要塞化してある。一色・武田の争いの頃、多くの僧兵をおき、度々兵火にかかっている事をみてもこの寺が石河氏の重要な拠点であったことがうかがえる。施薬寺の近くには石河氏の支城滝山城がある。
(『丹後路の史跡めぐり』)

東部には延長700mに及ぶ馬蹄形中世山城の比丘尼城址。

西部の城山(283m)には赤野源三衛門(あるいは石川弥三郎・石川弥藤治貫清)の金屋城(笠野城)址があり、東部および東北方向の後野の愛宕神社裏山に向けて幾つかの郭を連ねた、加悦谷における最も高く険しい城山。加悦城主石川氏の子息の居城であったと考えられる。城山中腹の広大な三縁寺跡は、七堂伽藍の跡と伝え、鎌倉期の宝篋印塔が残る。
金屋城
与謝村字金屋、笠置城とも云ひ一色軍記に赤尾彌三右衛門の居りし所なりと云ひ丹哥府志には赤野源左衛門と為す、赤野は御檀家帳加悦の石川の一家に其名見ゆ、今後野村に其姓残れり。
(『与謝郡誌』)


《交通》

《産業など》

リフレ加悦の里。大江山の麓にいろいろ施設が建てられている。
リフレ加悦の里
リフレ加悦の里
バイキングなどよろしいかも…(季節限定のよう)

与謝野町ひまわりフェスティバルの「ひまわり畑」もここが会場↓
ひまわり畑
背景の高山は磯砂山。
同所。トマトのトンネル↓
トマト畑




金屋の主な歴史記録

『丹後国御檀家帳』
一 かやのかなや村   家百斗
かうおや
 大人孫左衛門殿    本座神治郎殿

 中 の は し 殿     しやうたう寺
大くわんいんの
 与 太 郎 殿     助 兵 衛 ど の
 次 郎 三 郎 殿     又  介  殿
 〆
一 かやのうつ山寺
 石川殿御子息
  地 蔵 院     大 願 院
うつ山寺の山ぶし衆、毎月多人数御参宮候へ共、
たんな次第ニ代官所のされし間、ちもんニかき不申候

『丹哥府志』
◎金屋村(後野村の次)
【国守大明神】
【浮木山三縁寺】(浄土宗、開山円光大師)
吾丹後に円光大師の開基と称するもの二ケ寺あり、一は三緑寺なり、一は熊野郡の本願寺なり。大師手澤の存するもの今に伝わる其品少からず、独三緑寺に於ては一も伝わるものあらず、蓋正徳の頃伽藍焼失して伝記及蔵宝皆鳥有となる。寺の後に円光大師の蓮池といふものあり、折々一茎二花の蓮を生ず、近年又其開を見る、又石灯篭一基実に是は当時の物と覚ゆ只惜らくは伝記伝わらず、一々詳ならず惜べきかな。
【岩穴】宮津府志云。岩穴の入口一丈四方、口より奥へ至る凡二間斗、元より上下四方皆大なる石なり、いかなる為に設けしや所の者の其所以をしらず。抑斯様なる岩穴は諸国に往々これあり、各其土地によってさまざまの俗説多し、富士の人穴、和州の菊の岩屋は此類極て多し。或云。山谷にある山穴は上古の氷室の跡なりといふ。さもあらんか、され共予が目のあたり見る處の摂州尊鉢の岩穴、遠州岩水寺の窟、又丹後に在では千丈ケ岳の岩窟並に岩門、穴文珠など中々人力の致す處にあらず。誠に造化自然の奇妙也、其理いかんを後世より推はからんは却て愚の至ならん。
【赤野源左衛門城墟】
 【付録】(妙見堂、薬師堂、地蔵堂)

『前方後円墳とちりめん街道』
…かやのかなや村とは現在の加悦町字金屋で、金屋地名の初出として注目される。「村」という表現からそこで賀悦の中心ではなく、周辺地域であったとみられる。金屋の地名の特質は鋳物師の集落で、中世前期には鋳物師は諸国を遍歴し、需用があればその場所に立ち寄って仕事をし、また立ち去るというような業態であったが、中世後期には定住化するという。賀悦の鋳物師を知る史料として、文明二年(一四七○)「鋳師賀悦大工家次」という銘文が「山田郷菩提寺梵鐘」に記されており、その梵鐘は現在京都市の仁和寺にある。中世の鋳物師は大工と称されることがあり、その銘文は賀悦に鋳物師家次が居住していることをしめす史料である。
 したがって、賀悦という石川氏の城下町に鋳物師集団が定住しているということは、その頃には与謝郡を中心に地域支配を強めていた石川氏の性格をしめすものとして興味深い。
 次に、宗教施設として「しやうたう寺」があるが、これは現在廃寺となっている字後野の正道寺であろう。「大くわんいん」と「かやのうつ山寺」であるが、前者は地蔵院とともに後者の子院であろう。地蔵院は字金屋に小字地蔵山がある。「かやのうつ山寺」は字金屋に存在する浄土宗浮木山三縁寺の前身寺院と言われており、字金屋の山中に大規模な寺院遺構(三縁寺廃寺跡)をのこしている。その遺構の南側の山が字地蔵山である。その廃寺の背後の丘陵頂には金屋城跡があり、そこが中世の賀悦城と推定されている。
 このように、戦国期の賀悦は加悦谷の西側で一際高い標高二九○メートルの金屋城山の頂きに石川氏を主とする賀悦城があり、その直下には石川氏の子息がいると記述されるうつ山寺、その眼下には鋳物師集団の住むかなや村、その北側一帯が中世の賀悦になるといえよう。その場所は現在の加悦町字後野を中心とする地域で、その北の端に中世墓地の福井遺跡、市庭があるという構図だ。
 その人口は村と表現される「かなや」で家が百、「かなや」は賀悦のはずれであることから、中心の賀悦にはその数倍の家があったのだろう。御檀家帳で家数が記載されている中で最大のものは網野と久美浜、久美の湊の五○○で、実質的な丹後の支配者である石川氏が本拠地とする賀悦もこれに匹敵する家数があったとみられる。推定ではあるが、その人口は一○○○〜二○○○人ほどはあったのだろう。しかし、この状況が記された二○年ほど前までは、賀悦の地は戦乱のさなかにあり、焼け落ちた建物や住まいを失った人々も多かっただろうし、永正一○年には数百人の死者も出たというのだから、戦乱に巻き込まれて命を落とした人も多かったに違いない。なのに、天文七年(一五三八)頃の御檀家帳の段階ではそのような痕跡はみられないまでに賀悦の復興が進んでいた。…

『京都新聞』(99.9.3)
*加悦・金屋上司古墳**畿内と類似構造**7世紀の横穴式石室墓**地域の有力豪族?*
 与謝郡加悦町金屋の金屋上司古墳の発掘調査を行っていた奈良女子大学文学部の国際社会文化学科古代文化地域学講座(広瀬和雄教授)は二日、調査結果を発表した。それによると、同古墳が七世紀中ごろ(飛鳥時代)の横穴式石室墓で、最大十一トンもの巨石を使った「巨石墳」であることが判明。畿内中央部と類似した石室構造を持つことから「中央豪族との間で極めて強い政治関係があったことが読みとれる」としている。
 古墳は、山の中腹部(標高五十三b)に位置し、墳丘は一辺が十一bの方墳。石室の全長は約八b、幅約二b、高さ約二bで、計二十個の石で構成。天井には、長さ約三二b、幅二・七b、厚さ約五十a、重さにして約十一トンの巨石を使用していた。これは、丹後地方の横穴式石室墓としては最大級の大きさ。
 石室内の壁は石が二段に積まれ、七世紀の飛鳥地方や河内地方など畿内中枢部で特徴的な「二段積み」の石室構造と同じ形式。また、この古墳がつくられた七世紀中ごろは、造墓できる階級がかなり上の人物に限られていた時期にあたることから、「この地域を広く支配しながら中央政権にも何らかの地位を占めていた有力豪族と考えられる」としている。
 さらに丹後地方で見られる、遺体を安置する玄室とそこに続く羨(せん)道が同じ幅の「無袖(そで)式」の形式を取り入れており、丹後地方の特徴もあわせ持った形になっている。
 広瀬教授は「古代国家を担った畿内中枢部の有力豪族の墓と同じ様式となっている。中央と強い結びつきがあったことがうかがえる」と話している。
 古墳は上司谷公園内にあり、現地説明会は、五日午後一時から。

上司古墳(金屋)
この山の上にあるという。



金屋の小地名


金屋
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山林
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『加悦町誌』
『加悦町誌資料編』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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