丹後の地名

加悦(かや)
京都府与謝郡与謝野町加悦


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京都府与謝郡与謝野町加悦

京都府与謝郡加悦町加悦

加悦の概要




《加悦の概要》

「ちりめん街道」周辺の地、加悦谷の西部に位置する中心部で、加悦谷においては、中世より町場として開けた所、小字名に中市が残っている。加悦小学校や中学校などがあり、昔の国道176号、加悦奥から但馬に通じる府道・中藤加悦線が交差し、加悦奥川が野田川に合流する。丹後縮緬で興隆した。地名の由来は、古代に茅原であったためとも、地内の吾野神社の祭神我野迺姫(かやのひめ)のからとも、朝鮮半島南部の古代国家・伽耶国の国名からともいう。
加悦荘は、南北朝期〜戦国期から見える荘園名で、賀悦荘とも書く。関白渡領で、建武4年の吉川経久軍忠状によれば、同26年、但馬・丹波・丹後の南軍が「加悦庄」に攻め寄せて、経久らは同荘「市庭北縄手」で防戦、首1つを取った、という。
康暦元年、二条師嗣が「賀悦庄地頭代」に宛て、守護方給人を退け領家職所務を全うすべきことを命じているが、地頭・領家両職は実相院が有していたという。
「丹後国田数帳」には「一 加悦庄 百六十三町八段二百四十八歩 実相院殿」と見え、「丹後御檀家帳」には「かやのいちばにて」と見える。
手米屋小右衛門は加悦の人で、京都西陣で織法を習い、享保7年(1722)丹後に帰って縮緬を広めたという。それ以前にも丹後精好とよぶ紬が丹後に広く行われていた。「親元日記」寛正6年(1465)条によれば、実相院(左京区)岸御坊が「大口」誂を依頼されており、「於丹後国大口織候在所御門跡領事候急御大口御用御事候」の文言がみえる。当時の丹後国実相院領は加悦庄をさすと思われ、大口袴を織るだけの高度な技術がすでに当地にあったことが知られる。享保15年の西陣焼けによって、西陣が大きな打撃を受けた時、当地の機業は急激に発展した。宮津藩では株仲間は宝暦3年(1753)に創設され、機屋仲間に対する統制を行うとともに、藩からの運上金の割当と徴収もまた機株仲間を通して行われた。機屋は貧窮百姓にとって作間稼の余業として最も魅力があったし、また農耕よりも機屋のほうに生業の重点をおく者も生れてきた、反面、機業の浮沈は激しく畿世代にわたって長く家業として継続することは至難のことであったという。
加悦町は、江戸期〜明治22年の町名。宮津藩領。「慶長郷村帳」「享保郷村帳」「天保郷帳」には加悦庄と見える。特産の丹後ちりめんは、享保7年当町の手米屋小右衛門が京都西陣より技法を導入したもので、縮緬生産の中心地であった。野田川舟運は、天保10年10月からは当町まで遡行し宮津藩へ貢納する米穀等を運ぶなど大いに繁栄したという。舟着場は大橋詰であった。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年加悦町の大字となる。
加悦町は、明治22年〜平成18年の自治体名。加悦町と算所・加悦奥・後野の3か村が合併して成立し、旧町村名を継承した4大字を編成した。昭和29年桑飼・与謝の2か村を合併し、大字は合併各村の6大字を継承し計10大字を編成した。
加悦は、明治22年〜平成18年の加悦町の大字名。平成18年3月からは与謝野町の大字名。

《加悦の人口・世帯数》

《主な社寺など》

式内社・吾野神社
吾野は普通はアガノと読まれているが、それが本来の読方かは不明、むしろガヤとかアガヤと読むのではと思う。アガノなら赤野でなかろうか。
式内社・吾野神社(加悦)
後にこの神社の敷地を取ったかっこうの天満神社の方がはるかに有名で、この社はその後に隠れているが、天満神社より一段と高い天神山の頂上にある。周辺は弥生期から古墳期の墳墓群がある。私は、これが式内社と推定する。カヤという地名はこの社と深い関係があると見ている。
この山の麓には古代から小集落があり、そこは遠い故郷の名をつけてカヤと呼んでいた、ここの女首長がカヤの媛で、彼女を葬った(何代かを)のが天神山の古墳などであり、祠に祀ったのがアガヤ神社でなかっただろうか。この山の麓にその古代カヤ集落の遺跡が眠っているかなのだが「ちりめん街道」の地だし、周囲には大古墳はなく、もともとは小集落だったと思われ今の所は見付かってはいないよう。

「室尾山観音寺神名帳」の「与謝郡六十八前」に、
従二位 吾野(アガヤ)明神
(誰がいつつけたものかアガヤと訓がふられている。)

吾野神社。我野村。祭神=我野大明神 我野姫命。延喜式竝小社。相神天満宮別に記す。
(『丹後旧事記』)
式内社吾野神社の比定については、丹哥府志は菅野の上山神社とし、地名辞書などは須津神社としている、与謝郡誌も疑っている。

吾野神社
【明細】須津村称須津彦明神祭日九月朔日又後野村
【道】今須津村ヨリ文殊村ヘ出ル道ヲ和野塙ト云フ是吾野ノ訛ニテ北浦ノ古名ナルベシ村ニ古社アリ鈴彦鈴姫ト云是乾【式考】加悦村或人ノ説ニ須津村エアル由云ルハアハズサレド須津村ニ吾野ト字セル田面ハ今モアリモシヤ此地ニ吾野神社アリシニヤ【豊】所在同上字吾野山祭神我野姫命九月廿八日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)
(「丹後国式内神社取調書」)

吾野(あがの)神社 加悦小字天神山
我野媛(かやひめ)またの名『我野廼媛(かやの)』を祭る。吾野神社として、延喜式神名帳に記され、名実ともに式内社である。付近に円墳があり、吾野山古墳と称す。
 この祭神の呼び名が、「加悦」の語源と伝えられている。野の神で、大山祇命の妃となった。
(『加悦町誌』)

中世から近世へ
−賀悦から加悦へ 佐藤晃一

1・中世の賀悦
[1−1] 史料に出てくるカヤ
 加悦町は昭和二九年の旧加悦町、与謝村、桑飼村による一町二村の合併以来、一〇の大字より構成されている。それ以前は、江戸時代初期の慶長七年(一六〇二)には検地帳に「加悦庄町方」と表記され、それ以後明治二二年までは現在の字加悦が加悦町、明治二二年から昭和二九年までは字算所、加悦奥、加悦、後野が旧加悦町となっていた。
 それでは、いつ頃から「かや」とよばれる場所ができたのだろうか。
 それを考えるには、加悦天満神社の背後にある吾野神社が問題となってくる。この社は平安時代の延長五年(九二七)に制定された延喜式に神社名が記載された延喜式内社という古い神社で、そこには吾野神社として「ワカヤノ、ワカノノ」神社とカナをふっている。この四文字の最初の「ワ」は古語文法では相手を親しんでよぶ言葉であり、最後の「ノ」は所有や所属をしめす格助詞で、それ自体には特に意味はない。そうなると、間の「カヤ、カノ」が意味をもってくることになり、平安中期にはすでに「カヤ」の文字が史料に出ていることになる。つまり、神社の名称の中に出てくる「カヤ」は、少なくとも平安時代中期の延長五年(九二七)以前に出現していたのだ。
次に、カヤが出てくるのは、鎌倉時代のことになる。宮津市の成相寺に伝わり、正応元年(一二八八)に成立した「丹後国惣田数帳」には「与佐郡加悦庄」として出てくる。
以後、南北朝時代の建武四年(一三三七)には「彼庄市庭北縄手」、翌五年(一三三八) には「賀悦庄」、室町時代の応永三年(一三九六)には「丹後国與佐郡賀悦庄」、永享三年(一四三一)「賀悦庄内近重三名」、文明二年(一四七○)「鋳師賀悦大工家次」、永正三年(一五○六)「賀悦城、加屋ノ城」などがある。それらの表記に共通していることは「賀悦」の表記が際立って多いことだ。現在の加悦はむしろ少なく、加屋などの表現もみられる。
(『前方後円墳とちりめん街道』)


天満神社
天満神社(加悦天神山)

加悦の天神山にある、菅原道真を祀る。のち大己貴命・少彦名命を合わせ祀る。四辻の天神が丘から加悦の小字宮野に、さらに現在地へ移したと伝える。立派な本殿と御輿。
奥丹後大震災でヤバイ状態となったので、現在地に移され北向きとなったそうで、それ以前は正面石段に面して建てられ、東向きであったという。
石灯籠(府文化財)
神前左の石灯籠は、鎌倉後期の作、花崗岩、八角形、高さ2.56メートル。
↑この御輿は子供用、加悦と算所なのか2基ある、立派なもの。
私の町内の大人用御輿とまったく同じサイズだが、作りはだいぶに立派、わが町では「こんな重たいモンは子供にはムリ」がおおかたで、よそはどうしているかなどは初めから調べもしない、そんな大人が大勢して担ぐ。舞鶴サイズは一般に子供用はもう一回りか二回りか三回り小さいようである。

『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
与謝郡
一 天満宮 九段二百四十歩  御免

ここの天満宮かは不明。

天満宮。與佐郡加悦邑。祭神=菅像。神記不詳当社は往昔宮野と謂所天正年中算所安良山城主有吉将監細川家と和睦之悦宝殿を今の地へ移し祭る有社地。
(『丹後旧事記』)

郷社天満神社
 加悦町字加悦小字天神山鎭座、郷社(圖版参照)祭紳菅原道真公大巳貴命少彦名命、元四辻村天神ケ鼻にありしを嘉暦三年當町宮野森ノ木に遷し天正十四年安良山城主有吉省宥、毛利和泉守、細田安芸守三上宗三等力を合せ今の地に奉遷し大巳貴少彦名両尊を此時より相殿に祀る明治六年二月十目村社に列せられ大正六年三月三十日神饌幣帛料供進神社に指定せられ同十年三月二日郷社に列せらる。氏子三百一戸、拝殿舞殿籠舎、輿藏、社務所等完備し境内神社に吾野神社、を始め梅宮、稲荷、竃、太神、金刀比羅、恵美須、秋葉の小祠あり、就中吾野神社は延喜式神名帳所載の吾野神社なりとの説あるも如何に哉明治六年村社に列せられたり。当社祭神一説に丹後の人久しく菅家に事へ公左遷の際別れに臨み所詠一首を授く、而して公の配所に薨ずるや其の神詠を納めて菅公の爲めに祠を建てゝ祭りしもの今の天満神社なりと真偽遽かに定め難し。
(『与謝郡誌』)

天満神社(加悦小字天神山)
 菅原道真を祭る。のち大己貴命、少彦名命を合祀、丹波道主の子孫という細目道春の子、倉彦が菅原道真に仕え、道真が九州大宰府に配流の後、倉彦は丹後に帰って、中郡二箇に天神社を設けて道真の霊を祭り、のち野田川町四辻小字天神ケ丘に移したと伝えている。さらに一三二八年(嘉暦三年)四辻から当町宮野の森に一五八六年(天正十四年)、安良山城主有吉将監、毛利和泉守、福田安芸守、三上宗三の各氏が現在の天神山に三度奉遷した。
 一六五四年(承応三年)になって大己貴命、少彦名命を相殿に祭り、やがて一八七三年(明治六年)二月村社となり、一九一七年(大正六年〉三月神饌幣帛料供進神社、一九二一年(大正十年)三月郷社に昇格した。古くから住民の崇敬はもとより、歴代宮津藩主の崇敬も深かった。
 境内に秋葉神社(祭神迦具土命)、恵美須神社(祭神事代主命)、金刀比羅神社(祭神金山彦命)、太神社(祭神伊勢大神)、竈神社(祭神奥津彦命)、稲荷神社(祭神保食神)、梅宮神社(祭神木花咲夜姫)の七社がある。ここの石灯籠は鎌倉後期の作で、花崗岩製の八角形、高さ二、六六メートル(旧重要美術品)
 字算所に御旅所、神輿堂がある。なお、天満神社の棟札に『加悦庄、市場村天神宮本願施主福田安芸守、毛利甲斐守、有吉省宥、三上宗三、天正十四丙戌年(一五八六年)冬十一月十日』とあり。
 算所区所蔵の『永代雑誌』には『天正十四年(一五八六年)十一月十日天神宮、加悦庄市場村福田安芸守、有吉宗宥、三上宗三、毛利和泉守』と記されている。
(『加悦町誌』)

天満宮の梅形砂 丹波道主から四一代の孫といわれる細目道春の三男倉彦が、菅原是善に仕え、是善が八八一年(元慶五年)に亡くなったので、子の道真に仕えた。道真が筑紫に流された時、一緒にかの地へ行き、九十才のとき加悦に帰って天満宮を祭ったと伝えられている。ここに、「ナメクジ石」と「梅形砂」とがあり、梅形砂はその名のとおり梅の花の形をしているが、信仰の厚い者でないと見ることができないといわれている。
(『加悦町誌』)

加悦天満宮由来
丹後国大江山の麓、加悦町天満宮の由来ハ当社大宮司の遠祖谿羽道主四十一代の孫細目道春の三男倉彦といふ者菅原是善卿に仕へ奉りし時、菅丞相道真公御誕生是善卿薨去 元慶五年五月卅日 の後、猶御家に仕へ奉り築紫に御左遷の時供奉して彼地に至る三とせの春仰られけるハ倉彦齢九十を過ぬれハ、故郷に帰り老の行末を楽むへし、我は是より天拝山にこもるへし、と宣ひて御眼を閉させ給ひけり、倉彦返す辞もなく涙にくれて、思ふ様我此君をおき参らせ何楽しミの有べきぞ、さりなから、仰を背くも恐れありと漸御請申せしに御眼を開かせ給ひ一軸を取出し、是ハ我治部大輔にて渤海客を饗せし時、 元慶七年 大使??吾予か像を写し国に持帰らんとせしに、其画最も妙手なれハ、我にも一枚画せ置し也、是を形見に取らすへしとて頓て其上に真筆にて和歌を書せ給ひ又何をか思召れけん、前栽の砂を一握添て賜りけり、倉彦故郷へ帰り取出し見るに、かの砂ハことことく梅桜の花形となれり、即地中に埋め某所に社を建立し彼御真筆の御像を安鎮し奉る、今も折折は華形の砂出る事あり、其後北野の神像を作り奉られしかハ其同木を以て御尊像を造り奉る(後略)
    (「大虫大社 小虫大社 天満宮御戸開 並太々神楽式」)
(『加悦町誌資料編』)


天満神社の祭礼(加悦谷祭)


天満神社の例祭に加悦谷全ての神社・地域の祭礼日を合わせていて(三河内曳山祭だけは5月3・4日)、それを加悦谷祭と呼んでいる、加悦谷祭は4月末の土日である。
ここでは170段(150段とか137段とかも言われるが、私は数えたことがなく、何段あるのか不明)の超急な長い石段を神輿が昇り降りする勇壮な神事が行われる。これはみもの。
頂上の神社前の広場、後には車が上れる道がつくられていて、こんな急な石段だと今時の普通の神社なら、下までは車に乗せておろす、昔はこの石段を担いで下りたんですが、今はもうムリです、とか言っている。
天神さんの御輿
↑ 本御輿は途方もない超重量級、ハンパではない、百貫御輿(あるいはそれ以上か)ではなかろうか。あ〜あ、そんなヘッピリ腰で大丈夫なん?
この石段を担いで下りる
↑ この急石段、足を滑らせると命がなかろう。
天神さんの子供御輿
↑ 子供用などは軽いラクラクの調子で4人で下ろしてしまった。もしどこかの町内なら最低大人12人がかかるだろう、それでもこの石段は下ろせないのでは?
天神さんの石段
↑ この石段。こんな急石段を重い御輿が巡幸できるものだという概念がワタシなどらにはない。
このシーンだけを写しにくるカメラマンたちばかりが待ち構えている。逆光になる。(宵宮なら2時くらいです)




お帰りは5時くらいである。





芸屋台は回転できる
↑所望があれば、このように舞台だけを回転させて、車輪はそのままで、家々に正面を向ける。ニ階から見るのだそう。この芸屋台は後野愛宕神社のものでなかろうか、すぐ隣でこのあたりでは場所柄ダブルのか?

休憩所

天神山の麓を取り囲むようにある寺々。どれも頑丈そうな立派な作りである。
臨済宗妙心寺派天徳山吉祥寺
吉祥寺(加悦)

天徳山吉祥寺
加悦町字加悦天神下にあり本尊聖観世音菩薩元中元甲子年元哉和尚開基天正年中安良山城主有吉将監有信再興檀徒百五十八戸寺寶兆殿司の涅槃像、同筆釈迦、牧渓の観音、高麗将来の観音、伝空海の弁天像、伝金麿王子の四仏體等あり。
(『与謝郡誌』)

天徳山吉祥寺  加悦小字花組
 一三八四年(元中元年)天田の天寧寺の元哉禅師によって開山、元天寧寺の末寺であった。有吉将監の帰依があったといい、以前は安良城の城門があったというが、今は倒れてない。寺は一七〇二年(元禄十五年)再建された。
本尊は聖観世音菩薩、宝物に兆殿司筆と伝えられる釈迦涅槃像、絹本著色釈迦如来像、室町期の作といわれる白山妙理権現本地仏十一面観音懸仏(鍋蓋観音)がある。
また有吉将監使用と伝えられる、丸彫の膳、櫃などの食器三点があるが破損している。
梵鐘は一七〇九年(宝永六年)の鋳造で、戦時の供出をまぬがれ工芸品として残されている。有吉将監の戒名「直指院殿前親衛寛玄宗裕大居士」(天正十一年四月十日)と過去帖にある。境内に一九〇七年(明治四十年)南画会によって蕪村の在住記念碑が建てられているし、丹後縮緬の創始者、手米屋小右衛門の墓が福井の墓地から移されている。
境外仏堂として、今は廃寺となったが、後野の正道寺に無常庵が一七八九〜一八〇一年(寛政年中)建てられたが、のち宝勝寺の境外仏堂となった。また、加悦奥の鳥垣の白華庵は、一八〇四〜一八一八年(文化年中)聖観音を祭り、観音堂ともいった。檀家は約二〇〇戸。
(『加悦町誌』)

日蓮宗功徳山実相院
実相院(加悦)

『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
一 加悦庄 百六十三町八段二百四十八歩  実相院殿

功徳山実相寺
加悦町字加悦にあり本尊同上、永禄三年正月創立に係り開山は隆実院日?上人なり。爾後守玄院日長上人より大光山末となり永く聖跡に列す。寺寶佐渡百幅の一たる宗祖の本尊を蔵す。境外仏堂明石の倉ヶ崎及び瀧の大和田に妙見堂あり。
(『与謝郡誌』)

功徳山実相寺  加悦小字中市
 竹野郡宇川の城主井上石見守正利が落城後この地へ来て、その三男隆実院日祐上人が一五六〇年(永禄三年)正月六日、加悦奥法光寺に当山の基を開き、のちこれを現在地に移し、功徳庵と称したが、その後実相寺と改めたという。正利は一色氏の重臣、小倉豊前守の家臣で、一五七〇年(元亀元年)十月六日没したという。また尾上の城主であった新井氏代々の菩提寺でもある。
 日蓮宗で、元京都本圀寺の末寺であり、本尊は妙法蓮華経宝塔、多宝如来、釈迦牟尼仏の三尊。寺宝としては、日蓮上人筆一軸、加藤清正が使っていたといわれる軍配と軍扇、兜の中に入れる軍鈴、有吉将監の水盤(何れも銘が入っている)がある。境内に妙見堂、金色堂、恵比須祠がある。本堂は一七六四年(宝暦十四年)に再建し、一七九二年(寛政四年)に改修したものである。
境外仏堂として、後野に不染庵、イナナキに祖師堂(通称七面堂)、加悦奥の清水谷に鬼子母天女堂、丸山に妙見堂、中屋に七面庵、駒田に鬼子母神堂、滝の大田和と中岡に妙見堂、金屋の桜内に妙見堂と鬼子母神堂、筆谷に毘沙門堂、明石に妙元庵、三河内に妙見庵、下山田に妙伝庵、四辻に妙見堂などがある。
(註)金色堂…今から一三〇余年前、実相寺一八世の宣示院日要上人の弟子英智院日宣上人が、全国津々浦々を巡錫され、常陸の国へ回られた時、養蚕織機の祖神である金色大明神が祭られていることを知り、上人の生国丹後もまた、養蚕と織物を生業としているところから実相寺へ勧請されたものである。
檀家は約四〇〇戸
勅賜大教正獅音院日健上人
 北風日健は一七九一年(寛政三年)加悦奥、北風吉左ヱ門の二男として生まれ、幼名盛衛門、七才にして加悦実相寺の仏門に入り、熊野郡妙音寺にて得度、長じて光運と号す。その後、江戸四谷宗延寺、飯高檀林に学び福知山常照寺の法嗣となり、興津妙覚寺の住職を経て一八七一年(明治四年)十月、日蓮宗総本山身延山久遠寺第七十二世法主となる。一八七二年(明治五年)三月上人号の宣旨を賜わり、同年六月御前法話し、大教正号(大僧正)獅音院号を賜わる。一八七四年(明治七年)四月西谷本種坊に隠退閑居、同年同所において寂す。八十四才
(『加悦町誌』)

浄土宗西荘山宝厳寺
宝厳寺(加悦)

西荘山寶巌寺
加悦町字加悦にあり本尊弥陀仏、慶長六年称譽上人開基、寺寶伝恵心筆雲中弥陀一幅その他山雪、長谷川等舟の書幅もあり。
(『与謝郡誌』)

西荘山宝巌寺  加悦小字上組
 京都智恩院の末寺。一五九九年(慶長四年)四月十七日、稱誉上人により開基。
本尊は阿弥陀如来。寺宝は恵心僧都筆「雲中阿弥陀像」一幅。富岡鉄斎筆と伝えられる文人画。涅槃像一幅、鉄眼禅師版木額。山門は一八一八年(文政元年)に建てられたもので、「西荘山」の額は智恩院の貞厳大僧正の筆によるもの。過去帖によれば、本堂再建は一八三一年(天保二年)五月にでき、再建経費はおよそ金高二五貫目ほど、人足手間三千人ほど、瓦屋根は田辺城下宇兵衛銀弐貫八百目で相渡すと載せている。丹後縮緬の創始者、木綿屋六兵衛の菩提寺でもあり、また、笠野城主赤野家代々の菩提寺でもある。
 境外仏堂として、後野の上市にある地蔵堂、加悦の福井庵、本尊は阿弥陀如来、一七六八年(明和五年)七月五日に角屋彦四郎(現下村家)の寄進によるものである。加悦の安良庵は元禄年中尾藤家によって建てられ、観世音菩薩を祭り、浄迎庵ともいう。檀家は約二三○戸。
(『加悦町誌』)

浄土真宗本願寺派紫雲山浄福寺
浄福寺
↑このお寺くらい、石垣がないのは、その代わりにワン君がいる。犬は石垣、犬は堀。掘もあるんだ。人なつっこいワン君で怪しい者が近づいても尾っぽを振ってくれる。ここは西門、北門より立派である。
紫雲山浄福寺
加悦町字加悦、本尊向上。
(『与謝郡誌』)

紫雲山浄福寺  加悦小字下組
西本願寺派で、もと宮津の仏性寺の末寺であり、一六一二年(慶長十七年)十月二日、釈正智上人によつて開山、一七六五年(明和二年)火災にあい、一七六八年(明和五年)再建した。本尊は阿弥陀如来。寺宝は聖徳太子像、親鸞上人御影、蓮如上人御影などがある。
檀家は約一二〇戸。与謝野礼厳が出家したゆかりの寺である。境内仏像として太子堂があり、七月二十一日の聖徳太子祭は盛大である。北門は安良城の城門と伝える。
(『加悦町誌』)

ちりめん街道

「ちりめん街道」(重要伝統的建造物群保存地区)

ちりめん街道地図
町が全力あげて観光呼び込みに宣伝されているので、何もここに書くこともなかろうけれども、外すわけにもいかない。仕方ないので宣伝しないことなど書いて、悪いクセで、恨まれてみようか…

加悦谷といえば、丹後といえば、地場産業として丹後縮緬を語らずには済まされない、当地では享保7(1722)年に木綿屋六右衛門、手米屋小右衛門、山本屋佐兵衛らが京都西陣より伝えた技術をもとに発達した、峰山藩や宮津藩の保護を受け地場産業として根付き、大正から昭和30年代頃までは特に興隆を誇った、その当時の「モダンな華やぐ文化」を伝える街道として残され、今は観光資源となっている。

与謝野町加悦 伝統的建造物群保存地区の概要
地区名称 与謝野町加悦 伝統的建造物群保存地区
(平成17年12月27日 重要伝統的建造物群保存地区選定)
所在地 京都府与謝郡与謝野町字加悦・後野の一部

 加悦伝統的建造物群保存地区は、通称「ちりめん街道」と呼ばれる約830mの街道沿いに、江戸時代後期から昭和初期に建てられたちりめん商家やちりめん工場、銀行などが大変良く保存され、明治の文人たちも訪れた、丹後ちりめんの発展とともに栄えた町並みです。
↑ 案内板

ちりめん街道
↑ちりめん街道。天神山の南東の実相寺下より、北向きに写す。祭だというのに誰もいない。お昼休み中。
街道はここで「し」の字型に曲がる、正面が中市の通り、尾藤家住宅などがある、ここが最も古い御檀家帳(1538)のいう「かやのいちば」ではなかろうか。旧加悦町役場からやってくると、向こう側から来ることになる、そのまままっすぐに進めば天神山にぶちあたり、石灯籠のある参道から天神さんへ登っていける、これが古い参道ではなかろうか、中市通りは天神、古くは吾野神社の参道だったと思われ、参道に市が立ったのだろう。左からの通りは出石街道で、ここでちりめん街道(加悦街道・丹波街道・京街道)と出会った。加悦奥川は中市通りの写真でいえば写っている一番先に流れていて、ここまで川舟が遡行していたと思われる。現存する最も古い慶長7年の絵図と大きくは変わらない町筋である。中世の町並みはヨーロッパなどにはそのまま残された都市がけっこうあるが、日本は木造だから残らないのかも知れない、せいぜい江戸期くらいのものしか残っていない、ここもそうである。
こうした古くからの加悦市場の町屋街に縮緬先駆者たちがいた。
手米屋小右衛門碑

木綿屋六右衛門碑
山本屋佐兵衛は三河内の人で、この街道には碑はない。
西山工場
かりめん街道の一番南のはずれの「西山工場」、今は使われていそうにないが、こうしたところでも縮緬が生産され、富を稼ぎ、モダンの町並みがつくられた。

しかしその華やかでモダーンな近代の薄っぺらなメダルの裏側は…
北隣の加悦奥駒田の縮緬織工・細井和喜蔵は官憲に追われながら名著『女工哀史』を残している。彼も何度かこの街道を歩いたことであろう、われらもよく彼を読んで歴史を見る目を狂わせないようにしたいもの。
若く二十歳になる前にこの町を出たためか、町としてはなじみがないのだろう、町誌などにも彼の記載はない。
別に西山工場の悪口をいっているのではない、『前方後円墳とちりめん街道』は、
…加悦の縮緬業者たちは、必要以上にみずからが雇用する労働者の福祉に敏感だったのである。西山工場の経営者であった杉本治助などは、職工の労働時間を一四時間から一一時間に短縮し、その余った時間を裁縫講習など職工の教育にあてるなど、当時としては相当に進んだ経営方式を早くから取り入れていた。
何も安全でもない若狭原発の再稼働をせまるどこかの経済団体とやらとは根本的に違っていた。クソどもには日本を亡ぼすことがあっても、おのが銭儲けしか頭にない、雇用のための原発再稼働をだそうである、情けなくて笑えてくるではないか。電気が足りなければ、その時間は機械を止めろ、空いた時間は従業員に勉強や研究でもさせればよかろうが、それでも足りなければ自分で発電しろ、丹後の機業などはみなそうして発電してきた、家庭の半額以下料金におおまけしてもらう関西経済界はひどく原発の恩恵ボケしているようだ、こうしたドクソどもでは日本経済の未来はない、家庭と同じ料金を払うまでは止めたままがいいだろう。実際に停電になるのかどうかも確かにはわからないだろうが、もし足りなければ実際に停電にしてみればいいだろう、国や電気屋まかせにしてきたのが悪い、電気はどうあるべきかを皆でまじめに考えて良くしていくよい体験と機会となろう。
クソどもの言い分など聞いていればこちらまでクソになりそうだ、あまりに馬鹿くさくて子供の教育にはわるすぎる、こんな連中の言い分などはテレビなどでは流すな。
『女工哀史』の自序を読んでみよう、
婿養子に来ていた父が私の生れぬ先に帰ってしまい、母は七歳のおり水死を遂げ、たった一人の祖母がまた十三歳のとき亡くなったので私は尋常五年限り小学校を止さなければならなかった。そして十三の春、機家の小僧になって自活生活に入ったのを振り出しに、大正十二年まで約十五年間、紡績工場の下級な職工をしていた自分を中心として、虐げられ蔑しまれながらも日々「愛の衣」を織りなして人類をあたたかく育くんでいる日本三百万の女工の生活記録である。地味な書き物だが、およそ衣服を纏っているものなれば何びともこれを一読する義務がある。…
そうなんだな、大事なとこやけどな、すぐええかげんにしてしまう、もしなかったらどうなるんだ、そこが日本人の悪い点だな、といわれるが、…

《交通》



《産業》




加悦の主な歴史記録



『丹後国御檀家帳』
一 かやのいちはにて 石川殿おとな衆
  和田縫殿助殿    伊藤新太郎殿
  蘆田左京進殿    池辺長左衛門殿
 いちば
  小助どの  (国ニ而よろつこうの取あつめめされし人(御座候カ)
 いちば
  和田新右衛門殿   同佐藤左衛門殿
  志万新兵衛尉殿   志万八郎左衛門殿
  西  光  寺     い ぬ い 殿
  〆

「かやのいちば」というのは、重要伝統的建造物群保存地区の観光で宣伝中の「ちりめん街道」一帯のことである。

『丹哥府志』
◎加悦駅(算處村の次宮津より三里)
【天神社】(祭七月廿五日)…略…
【西荘山宝巌寺】(浄土宗)
【天徳山吉祥寺】(臨済宗)
【功徳山実相寺】(日蓮宗)
【紫雲山浄福寺】(一向宗)
 【付録】(観音堂、無縁堂)

『加悦町誌』
「加悦」という地名の語源は明らかでないが、言い伝えられるものをあげてみよう。
イ、地勢からきた伝説
 加悦谷盆地はその昔、阿蘇海に通じた浅海で、その周囲は深い「茅」原であった。また沼地が多く、茅、萱類の繁茂したところであったから、「かや」の地名となったという。
口、神社の祭神からきた伝説
 加悦の吾野神社の祭神は「野の神」といわれる「我野廼姫(ルビ・かやのひめ)命」であり、これが、地名になったという。
ハ、郷名からきた伝説
 倭名類聚抄には現加悦町一円を「神戸郷」と称している。「カンベ」が転音訛伝して「かや」になったという。その他、名和長年の家臣嘉悦氏がこの地に来て、土豪となり、その姓を地名に用い、 「かや」としたともいうが、これは考えられない。
 「かや」を「加悦」と書くようになったのは、江戸時代以後のようで、一一四三年(康治二年)平安時代の兵範記背文書には、「賀舎」と書き、一二八八年(正応元年)の丹後国諸荘園郷保惣田数帳目録には「賀悦」と、一三三八年(建武五年)の日置季久の手紙にも、一四五六年(康正二年)の禁裏造営段銭引付きにも、一四七〇年(文明二年)山田郷菩堤寺の梵鐘にも、「賀悦」と同じ字を使っているが、一五〇〇年頃(永正年間)に書かれた細川政元記には、「賀屋」が使われている。また、算所の小巻家文書には、「薩屋」(私注→薩ではなく産が段の造りである)とあるが、何れもあて字であろう。

カヤという地名は全国に多い古代地名である、それらを丁寧に調べた上でないと確かなことは言えないかも知れないが、

『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸)
加悦の町(かや)
 加悦は間人と同じく、日本でもよみにくい町名の一つといわれているが、大伴金村が支配した五三○年頃、朝鮮の任那(みまな)の中に加那(かや)という国があった。また加悦の安良(やすら)は昔安羅と書かれたが、これも任那の都市に安羅(あら)という町があった。いまの威安(かんあん)である。
 もう一つは野の神のことを「萱野媛」(かやのひめ)というところから、広々としたこの加悦谷盆地にその名がつけられたとも考えられる。加悦の式内社吾野神社には萱野媛が祀ってあることもつけ加えておこう。
 古い文書には「賀悦」「加屋」「賀屋」などの文字が使われているが、南朝の忠臣といわれた名和長年の臣嘉悦氏が一色氏の支配になる前に領主となっていたのでこの字が使われるようになったという。嘉悦氏は熊本と東京に現存する。…

『日本の中の朝鮮文化6』(金達寿・講談社文庫)
「いま言ったように、この加悦谷は古墳の多いところですから、いまでもあちこちの畑などからいろいろな土器が発見されます。するとここの人たちはそれをみて、朝鮮土器が出た、と言っているのですよ」
「そうですか。なるほどね。なにしろ、ここはほかならぬ加悦ですからな」と、前の席でクルマを運転していた鄭詔文がそう言って笑った。
 つられて私たちも笑ったが、しかし鄭はただ笑うためにだけそう言ったのではなかった。その加悦谷、あるいは加悦町の加悦というのが、どういうことであるかという前提があってそう言ったのだった。
 そのことは梅本さんの 『丹後路の史跡めぐり』にも書かれているが、加悦というのは、これも安羅同様、のち新羅に併合された古代南部朝鮮の小国家加耶・加羅・加那からきたものであった。『丹後路の史跡めぐり』によると、加悦はもと「加屋」「賀屋」とも書かれたもので、それが現在の加悦となったのは、「南朝の忠臣といわれた名和長年の臣、嘉悦氏」がここの「領主となって」からだったという。
 それだけではなかった。加悦町には、これももと「加耶の媛」ということだったかもしれない萱野媛を祭る『延書式』内の古い吾野神社があり、また、安羅・安那・安耶からきた安良というところや、安良山というのもあって、これは古文書にはっきり、安羅山と書かれていたものだったという。
 加耶(加悦)、安羅(安良)どちらものちには新羅に併合された小国家であったから、したがってこの加悦に白米山、すなわち新羅山古墳があるのもふしぎではなかったのである。しかもそれが四世紀の前期古墳であるということは、いっそうその意義を大きくしている。
 要するに、これから逐次みて行くように、古代の丹後や北陸の国々は日本海をへだてて向き合っていた、朝鮮の新羅文化圏のなかにあったといっても決して過言ではない。われわれがいま加悦谷でみているのほほんのその一部にすぎないが、イナナキという斜面台地の山となっている白米山古墳は、まわりの一部を竹林で囲まれた美しい古墳だった。

この書によれば、当HPもお世話になっている梅本さんは当時は栗田中学の校長さんだったとある、白米山は新羅山とは私は考えないが、加悦や安羅山は気になるし、合楽という小字、何と読むのか知らないが後野だが面白そうだ、アラかも知れない、安羅国かどうか単にAR地名かも知れない、さらに奥には与謝と滝、全体が謁叡郷、掘れば「朝鮮土器」(須恵器のこと)がゴロゴロ、地名などからは古代は新羅文化圏・伽耶文化圏と見てもムリはない、そう考えないと解けない地名もある。




加悦の小地名


加悦
大下・笹壁・上ケ石・ナル・宮野・小井根・福井・上組・花組・中市・後小路・下組・大橋
山林
福井・安羅・作リ山・天神山
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『加悦町誌』
『加悦町誌資料編』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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