丹後の地名

喜多(きた)
宮津市上宮津


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府宮津市喜多

京都府与謝郡上宮津村喜多

喜多の概要




《喜多の概要》

宮津市南部で市街地の南に続く京街道筋の村、大手川(宮津川)中流域左岸に位置する。同川に沿って南北に貫通する主要地方道綾部大江宮津線沿いに古くからの形態を残す街道があったが、近年付近に造成された団地や、新しい住宅地などによって景観がすっかり変わっている。バイパスと京都縦貫道が通りKTR宮福線喜多駅がある。
普甲山を扼する要害で、中世末には一色氏の臣・小倉氏の居城があった。「丹後御檀家帳」に「宮津の御城、国の御奉行也、小倉との」として、「小倉殿御同名御内衆あまたあり」と記す所が後世の喜多(北)村である。
喜多村は、江戸期〜明治22年の村名。丹後国与謝郡のうち。京極氏時代は今福村・小田村とともに、慶長検地郷村帳にみえる上宮津庄に含まれ、宮津川上流地域の上宮津三ヵ村の一つであった。その後個別に高付され延宝三年郷村帳に「上宮津喜多村」高五九八・七七八石と記される。はじめ宮津藩領。寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年宮津藩領、享保2年幕府領、宝暦8年以降宮津藩領。
近世には街道村として夫役なども多かった。文政5年9月までの上宮津三ヵ村の人足は、小田149人、喜多135人、今福37人であった。普甲峠と宮津城下の間を送迎する荷物持人足のほかに、藩役人の往還の道直し人足、冬の雪かき人足などきびしい徴発が庄屋のもとにきたという。万治3年より辛皮山の用役権をめぐり加佐郡大股村との間に争論が起こった。
明治22年上宮津村の大字となる。
喜多は、明治22年〜現在の大字名。はじめ上宮津村、昭和26年宮津町、同29年からは宮津市の大字。


《喜多の人口・世帯数》423・154

《主な社寺など》
桑原口遺跡(東から延びる丘陵に続く台地上に営まれた集落跡であり、弥生末期から古墳時代初期にかけての遺跡である。出土遺物は多くの土師器のほかに石斧一・砥石二・石錘一・たたき石二など数は少ないが石器も含まれている。)
薬師遺跡からは弥生式土器片が出土。
生野神社
天満神社
城山(80m)は丹後守護一色氏の重臣小倉氏の居城跡。麓を南北に流れる大手川(宮津川)はその濠の役割をなす。
曹洞宗大円山盛林寺

《交通》

《産業》



喜多の主な歴史記録

《丹後御檀家帳》
一 宮津の御城
   国の御奉行也
     小倉との       小倉係介殿
     和田三郎衛門殿  おくら殿御そうしやおとな也
     小谷清左衛門殿    小倉孫八郎殿
    此外小倉殿御同名御内衆あまたあり御参宮のときはことことくは村に毎年音信申事はなく候


《丹哥府志》生野神社(宮津市喜多)
◎喜多村駅(宮津より一里其間松樹道を挟む是を松縄手といふ)
【生野大明神】(祭七月廿四日)
【大円山盛林寺】(曹洞宗)
大円山盛林寺は上宮津の城主小倉播磨守の開基なり、開山を趙宗和尚といふ、元は大久保山下にあり慶長八年今の地に移る、当時の位牌今存するものは参考の一助となるよって左に録す。盛林寺殿月嶺一洞禅定門天正六年十月十七日といふは小倉播磨守の位牌なり、前日州太守条鉄光秀大居士天正十年六月十三日といふは明智光秀の位牌なり。蓋細川忠興の妻父光秀菩提の為に安置せらる。前一色賞雲源忠大禅定門天正十年九月九日といふは一色五郎満信の位牌なり。良安梅心大禅童子天正十年八月廿三日といふは細川藤孝の幼子なりと云々。
【小倉播磨守城墟】
【付録】(若宮、天神、地蔵堂)

また同書は、「今大江山の麓に生野大明神あり、喜多村といふ處の氏神なり。喜多村の古名生野といふよし」とも記している。

《与謝郡誌》盛林寺(宮津市喜多)
生野神社
 上宮津村字喜多小字中島、村社祭神不詳、由緒不詳、氏子八十戸、例祭同前、外に城山に愛宕、秋葉の小祠あり。

大圓山盛林寺
 上宮津村字喜多にあり、本尊華厳釈迦如来文殊普賢両脇侍同村城主小倉播磨守菩提所として天正五年六月下宮津の大久保谷に創建し趙室宗柏和尚を請じて開祖とす、慶長八年四月上宮津の寺ヶ谷に遷し貞享二年五月今の地に移る、往時の位牌にして今に存するもの小倉播磨守夫妻一色五郎義俊、明智光秀等あり、光秀の牌は其女細川忠輿の妻が実父追福の爲めに安置せるものといふ。

小倉城趾
 上宮津村字喜多にあり、地要害にして普甲嶺を扼するに崛強の場所なり一色の金臣小倉播磨守之れに拠
る小倉は田数帳御檀家帳ともに其名見え殊に御檀家帳(宮津の御城国の御奉行也小倉どの小倉孫介殿小倉孫八郎殿此外小倉殿御同名御内衆あまたあり)と謂ひ栗田の上司町一城の主河島左衛門尉殿小倉殿御内の人また同村小田の城主堀江新左衛門尉殿小倉殿御内の人等の記事あり餘ほど栄えたるを察すべし、一色軍記丹後野乗等に名高き小倉播磨守は天正六年十月細川藤孝忠興父子丹後を両断せんとして先づ猪の岡に拠らんとするや小倉先づ之れを支へ栗田各所の一族阿蘇内潟の諸将 沿岸の将卒力を合せて之れを撃退せ
しも不幸播磨守父子は其月十七U討死し下宮津大久保なる菩提所嘘林寺に葬る、同寺尚ほ外に位牌数基あり主なるものは
   盛林寺殿月嶺一洞大居士 天正六寅十月十七日  小倉播磨守殿
   月光浄本大禅定門    同     十七日  同  子息
   久室妙栄大禅定尼    同     廿八日  室
   一楽常圓大禅定門    同  十二月廿三日  小倉筑後守殿)

盛林寺の三界唯心塔婆盛林寺境内
三界唯心塔婆
      宮津市 字喜多
          盛林寺境内
 大円山盛林寺(禅・曹洞)は天正五年(一五七七)宮津大久保谷に創建と伝える。開山は越前瑞洞院(現福井県武生市)四世趙室宗栢和尚である。開基は当時の宮津谷一円の支配者小倉播磨守である。細川氏らによって小倉氏滅亡のちは、細川氏の厚い保護を受けたと思われる。細川氏九州に去ってのち、慶長八年(一六〇三)上宮津寺谷に、更に員享二年(一六八五)現地に移建されて現在に至っている。趙室和尚は慶長元年(一五九六)十二月八十五歳を以て宮津で七くなった。
 この碑は開山趙室和尚によって建てられたものである。故地寺谷に古くよりたたり石として倒れ伏したままになっていたものが、調査の結果、貴重な開山の記念碑と判明、寺壇の協力により現地に再建された。
 碑面は、上部に蓮単座上の円相を刻み、その下面は中央に大きく三界唯一心と縦に書き、横に五本の界線を引いて、その最上段に十三名の僧名を刻んでいる。三界唯一心の詩は華厳経から出た語とされるが、禅宗のなかにも深くとり入れられた思想であった。世界一切のものを心のあらわれとするところから、凡夫のけがれにみちた世界と仏の浄らかな世界を一つにみる教えのようである。十三人の僧衆は、趙室和尚の学徳を慕って、宗派を問わず参学した近隣の寺僧・社僧・修験たちの名である。近せ初期地方寺院の状況をうかがい知ることの出来る貴重な塔婆である。
  宮津市教育委貴会
  宮津市文化財保護審議会
お寺の上の方に「光秀の首塚」がある。

《丹後宮津志》
喜多村より以南を上宮津といふ、以北を下宮津といふ…
喜多村駅。宮津より一里其間松樹道を挟む是れを松縄手といふ。
蓋し小倉氏は府中延永、加悦の石川、加佐郡の三方、熊野郡の氏家諸氏と共に一色被官五家の一にして恒に一色所領丹後国の奉行を勤む、田数帳にも小倉氏の所領所々に見へ、…小倉播磨守及び一族の位牌は同地盛林寺に現存す。…
上宮津村=小田・(辛皮、寺屋敷、中茶屋、岩戸、関ケ淵、小香河)・喜多・(柿ケ成)・今福。世帯数320、人口1356

《上宮津村史》(昭51・岩崎英精)
…義昭追われて足利氏二百三十余年間の幕を閉ずるに際し、この足利氏に永年養われた残徒はそれぞれ今までの関係をたどって遁走したが、その内にも丹後一色氏をたよるもの多く、義道また進んでこれらを迎えて保護を加え、ことごとく丹後各地の城砦に配置して益々その守りを固くした。ここで信長は幾度かその反省と服従を求めたが、一色氏これに応じないので、天正六寅正月(一五七八)細川藤孝を呼んで丹後の一色討滅を命じ、藤孝はその子忠興興元ら
をひきいて同年四月丹後へ下り、ここにいよいよ丹後一色氏最後の幕が開かれた。もとより一色一族をはじめ、丹後八十余城砦にたてこもる部将の用意もおこたりない。なかでも加佐郡八田の建部山城にあって全丹後の総指揮にあたる九代義道はもちろんのこと、宮津谷の奉行として布甲山の嶮嶺を南に、奥丹後を守る最重要の任務をもつ小倉氏一族は、いわゆる「宮津の御城」に拠って甚だ堅固である。当時の喜多城にあった小倉氏がいかなる状態にあったかは明かでないが、天正五丑年(一五七七)宮津市場にのぞむ大久保山支城の東麓に小倉一族の菩提所として大円山盛林寺を創建、同年六月名僧趙室宗柏和尚を招いて開祖としたことにみて、この小倉氏の勢威が単なる一時的の軍隊でなかったことを知り得られるようである。その他府中の延永氏、加悦谷の石川氏、弓木の稲富氏、丹波郡吉原山城の一色氏義清、熊野郡一分の氏家氏等々、これらはすべて一色の部将としてそれぞれの地方的中心となり、そして全丹後八十余城砦の連繋は固められている。
 かくて信長から討滅の命をうけた細川父子は、天正六寅年四月(一五七六)山城の勝竜寺城をたち、さきに与えられた領地丹波の船井桑田二郡の兵をととのえ、その進攻の通路は明かでないが、まず宮津谷へ攻め入り、「丹後旧事記」によれば喜多城主小倉播磨守をはじめ、大久保山支城の城主野村将監、栗田高妻山城主川島備前守、同小寺城主井上佐渡守、同小田城主小倉筑前守、日置城主日置弾正、同小次郎、岩滝城主千賀常陸守、大島城主千賀山城守等が一体となって迎え討ち、一気に一色討滅を策した細川勢は、このため大いに悩まされて丹波へ引きさがらざるを得なかった。「田辺旧記」に−
 藤孝男忠興興元等を率いて丹後に下り、同四月猪ノ岡山に陣取ると雖も義道の兵に囲み討たれ丹波に退き、明智光秀と姻戚を結 び九月又光秀の加勢を得て攻入りたるも戦破れて退き−

とあるから、これによると最初第一次の丹後進攻に敗けて丹波へ退き、この時信長の仲介によって藤孝の長子忠興は光秀の娘たまと結婚して姻戚関係をむすんでいるが、この光秀の娘たまこそ後年の有名なガラシャ夫人であった。そして他の諸書にあるごとく秀吉の中国征討を援けて八月に凱旋、九月には再度丹後進攻を企てて宮津谷へ殺到、あくまで丹後の一色勢力を宮津谷で東西に分断し、将来の丹後支配地として確保する策戦である。けれども依然宮津谷の一色方は頑強に防戦につとめ、なかなか細川方の勝利は得られない。ここで細川方の策戦は地待との妥協につとめ、例えば下宮津惣の城主北庄鬚九郎や日置城の松井四郎右衛門、加悦算所の安良城主石川氏等を味方とすることに成功している。従って宮津谷における戦いは困難なうちにも、その中心勢力とみられる小倉播磨守らが拠る喜多城の攻略に主力が注がれたようで、いま盛林寺に祀られる小倉家の位牌に−
  盛林寺殿月嶺一洞大居士
     小 倉 播 磨 守殿
      天正六寅十月十七日
  月光浄本大禅定門
     同      子 息
      同   十月十七日
  久宝妙栄大禅定尼
     同       室
      同   十月廿八日
    一楽常円大禅定門
     小 倉 筑 後 守殿
      同  十二月廿三日
などがあることにみて、さすがの小倉一統もこの二度目の細川方進攻に際して遂に支え切れず、一族あいついで敗死したものであろう。喜多城もまたおそらくこの時の戦いに陥ちたとみて大過ないと思われる。いま「与謝郡誌」記者によれば(下巻一○八○頁)
  九、小 倉 城 趾
   上宮津村字喜多にあり、地要害にして普甲嶺を扼するに崛強の場所なり一色の重臣小倉播磨守之れに拠る小倉は田数帳御檀家帳ともに其名見え殊に御檀家帳「宮津の御城国の御奉行也小倉どの小倉孫介殿、小倉孫八郎殿此外小倉殿御同名御内衆あまたあり」と謂ひ栗田の上司町一城の主河島左衛門尉殿小倉殿御内の人また同村小田の城主堀江新左衛門殿小倉殿御内の人等の記事あり余ほど栄えたるを察すべし、一色軍記丹後野乗等に名高き小倉播磨守は天正六年十月細川藤孝父子丹後を両断せんとして先づ猪の岡に拠らんとするや小倉先づ之れを支へ栗田各所の一族阿蘇内潟の諸将与謝沿岸の将卒力を合せて之れを撃退せしも不幸播磨守父子は其月十七日討死し下宮津大久保なる菩提所盛林寺に葬る。
とあり、当らずとも遠からぬ記事であろう。しかも細川方はこの時もまた宮津谷の戦いに勝利を得ること能わないで、再び丹波の自領に引き退き、翌天正七年五月(一五七九)まで戦備をととのえ、こんどは宮津谷を攻めることを諦め、一挙に一色の本城八田の建部山城を抜くべく、三たび光秀の援軍を得て主力をここに注ぎ、一方背後の一色氏陣営撹乱につとめた。「田辺旧記」に−
 翌七年己卯五月又光秀の援軍を得て八田に攻入る。義道防戦力むと雖も支へ切れず同九月中山(建部山城の背後山の扣城)に遁れて沼田勘解由(幸兵衛)が城に入る。沼田細川に内通し城に火を放ちて敵を導く、義道逆臣に欺かれ詰腹切りて陣没す。
まことに悲惨な最後である。このため義道の一子五郎義俊一色第十代を嗣ぎ、父の残徒およびなお各地に城砦を守る一色党をまとめて与謝郡弓木に遁れ、稲富伊賀守の居城に入って陣容をととのえ、細川勢の来たるに備えた。ここでさらに「田辺旧記」によると−
 藤孝翌八庚辰八月(天正八年八月)入国攻め寄せる事屡々なりと雖も、義俊固く守りて城陥らず。爰に於て明智光秀両間を斡旋し、藤孝の女(菊−実名・伊也)を義俊の嫁に配して戦をやめ、丹後国を東西二人にて治めんと言ひなし、九辛巳五月(天正九年五月)嫁入、習十壬午九月八日(天正十年九月八日)聟入に事よせ義俊細川家宮津の館に誘殺せらる。
 かくして一色氏の末路は刻々悲惨に悲惨をかさね、十代義俊もまた非業の死をとげた。ところが、これより前、細川と最も近く丹後平定にあらゆる力を貸して惜まなかった明智光秀は、天正十午年六月二日未明軍馬を主人信長の駐在する京都本能寺に向け、ここで信長を討って殺し、直に天下に号令の準備をすすめたが、頼みとした細川一族はくみせず、備前にあった羽柴秀吉は反転主君の仇敵として光秀を摂津の山崎に破り、同六月十三日信長を亡ぼして僅に十日の後、単騎山科から城地江州阪本へ落ちのびる光秀は、山科の小栗栖附近で無名の農民に刺殺され、翌十四日は京都粟田口に醜骸を曝すの最後となったのである。
 この当時細川一族は宮津市場におり、かつて小倉播磨守の重臣野村将監が固めた大久保山城には忠興夫妻が居城し、ここで「お玉の方」といわれたガラシャ夫人は父光秀の謀反とその死を知り、さらに同十七日には父の遺臣少年斉藤光三によってその首がとどけられ、ここに悲しくも非道のそしりをうける父の死面に接し、直ちに城下の盛林寺に葬って自らは「みとの」の僻境に閉居の身となった。いまも同寺本堂裏に光秀の首塚と称される墓碑があり、−
  前日州大守条鉄光秀大居士
       天正十年壬午六月十三日
との戒名がかすかに読みとれる。
 かくてこのような予期せぬ天下の変事の直後、義俊誘殺の計はすすめられ、その九月八日夜殺された死骸はまた盛林寺に葬られて−
  前一色賞雲源忠大禅定門
        天正十壬午年九月九日
と祀られた。これよりさき藤孝の一児もまた盛林寺に葬られて−
  即安梅心大禅童子
        天正十壬年八月廿一日
とあり、当時下宮津における盛林寺が小倉氏亡びた後においても、なお敵味方とも重用するところであったことは、その寺運の並々でなかったことを物語っている。
 一色の命数はすでに明かとなった。即ち義俊亡きあとの細川方としては、只一日も早くその残党殲滅あるのみである。いま「宮津旧記」によってみれば−
 是より再び戦始まり幽斎公与一郎様猪ノ岡山に陣を布かれ一色方は義俊の叔父吉原越前守義清(義道の弟)吉原の嶺山より弓木へ迎へ、家名相続(第十一代)被致候処を、幽斎公は玄番頭様並に米田壱岐守に攻させ弓木合戦、義清弓木より血路を開き須津峠を超え猪ノ岡なる御本陣に切込む所を宮津川堤の伏兵に邀え撃たれて従兵も多く損し其の身も手負となり、川筋伝ひに御館の裏を海岸に走り漁家の蔭に詰腹掻切って陣没し一色家滅亡致し候。
と記され、地方史最古の記録として残されたこの「宮津旧記」は、ここにありありと一色氏最後の状景を伝えている。
「田辺旧記」はこの日を「天正十年壬午九月二十八日也」(一五八二)と記し、義俊横死後僅に廿日にして丹後に二百四十余年栄えた一色氏は全く亡び去ったのである。

『京都新聞H8.8.8』
土器や銅鏃 大量出土
北陸など他地域産も
府埋文研 宮津谷地域の中心地か
弥生後期−古墳前期
 京都縦貫自動車道の建設に伴い、宮津市喜多の桑原口遺跡の発掘調査をしていた府埋蔵文化財調査研究センターは七日、弥生時代後期から古墳時代前期(三世紀ごろ)の大量の土器や銅鏃、ガラス勾玉などが出土した、と発表した。土器の中には、北陸や山陰特有のものも含まれており、同センターでは「弥生時代後期、宮津谷地域における中心地ではなかったか」とみている。
 桑原口遺跡は市南部の上宮津地区にあり、北近畿タンゴ鉄道(KTR)宮村駅の南五百b付近。昨年の調査では、竪穴式住居四棟などの住居跡などが見つかっている。
 今回調査したのは線路の西側約四百五十平方b。四月二十五日から作業を進めた結果、調査地の東端で土器だまりを、西側で数多くの土器が埋まった溝跡を検出した。出土した土器の多くは丹後産だが、丹後地方では二例目の月影式と呼ばれる北陸南部独特のものなど、他地域産の土器が数多く見つかった。また、調査地点は湿地帯で、水田などが広がっていたと推定され、線路東側に集落の中心地があったことが分かった。
 調査結果について同センターは「勾玉などが集落遺跡から出土するのは珍しい。弥生時代後期の宮津谷における、日常生活レベルでの人的、物的交流を知る上で貴重な資料」としている。

《宮津市史》上宮津城跡
(地図も)
上宮津城跡
喜多集落の西の標高九○メートル、比高八○メートルの独立丘陵上に位置する。城山の地名が残る。『御檀家帳』に「宮津の御城 国の奉行也 小倉との」とあり、この「宮津御城」を当城に比定する考え方がある。また『細川家記』は「奥宮津城主小倉玄蕃允」と記している。山麓の喜多には小倉氏の菩提寺盛林寺がある。山麓には、「上屋敷」、「札場」、「堀ノ下」などの地名が残る。
 南北二○○メートルの尾根上全域に曲輪が占地する。楕円形の主郭Iを中心に、北に長細い曲輪Uが続いている。このI、Uの周囲には明確な帯曲輪が囲繞している。また、東の喜多集落側に続く二つの小尾根にも細かい曲輪が築かれている。背後の西側の鞍部にも堀切が設けられている。




喜多の小字


喜多
天神ウラ ヤシキ 北谷 竹薮 小松口 タハ 宮ノ前 成 障子垣 鳥ケ尾 堂ノ下 堂ノ段 孫右エ門屋敷 寺ノ橋詰 堀ノ下 家ノ奥 中嶋 ホアン 五兵衛屋敷 辛皮 家裏 長薮 礼場 一里塚 前田 丸山 薬師下 薬師 谷田 中岡 福地 上ノ山 回り 曲り 家ノ上 横町 堀ノ上 城ノ上 城山 中ノ下 家ノ後 河原 家ノ横 家ノ下 上屋敷 虚空蔵 裏組 八幡下 男山 宮村下 宮村 山番 三輌 鮎川 高添 森 深田 皆田 流田 小深田 高田 山崎 桑原口 桑原 砂河原 善光 荒木ノ 荒木野 カヤ原 今福出合 一本木 松ケ鼻 六反田 今福下 今福村 オヨギ谷口 大成 川添 大尻 ジブ田 杉本 宮ノ下 若狭 屋敷前 宮ノ上 柳戸 西谷口 西谷 東谷 生野谷 ヌタノ坂 三ツ頭 天神 寺谷 城山谷 岡 古心 大谷 荒堀垣 木揚場 ゾブ 押谷ヒヘ 福田 福田谷 石ノ下 炭竃 岡ノ下 岡ノ鼻 天神ノ上 天神ノ岡 野中 檜ケ谷 百合ケ谷 花之木 福地下 大橋 横縄手 村ノ谷 城ノ下 堀ノ奥 渋谷 茂原 引回 引地 捧垣 香野 穴室 井根子 綿町 小谷 姫ケ谷 釜ケ谷 入道ケ谷 成ル 大畑 池町 ツノミ 堤 荒堀 成坂 増都ケ谷 川奥 猫田橋 畑ケ田 コクゾウ 紙園の越 今福村 四万度 ヤクロ 木庵 宮田 岡ノ裏 上ヤシキ 村ノ谷 島ノ上 一里塚上 井根子下 隠谷 柳原 田和 北谷口 猪々ケ尾 猪ケ尾 フクロ 外波ケ谷 城山東側 喜多 ?谷 生ノ谷 ユリノ下 狐谷 林ノ谷 林之谷 香野河原 狼谷 中ノ又キ 中ノ滝 屋敷 細谷 ヤナギ谷 峠ケ谷 五万騎 武志ケ谷 元屋敷 小滝 山嶽 ?谷 ナメラ 嶽南側 ノゾキ嶽ケ 嶽通ノ下 古ヤシキ 綿町横 落し 木別 生蒲谷 桜岳 イネゴ 天神ノ下 口ナシ谷 地蔵ケ谷 城ノタハ 城山南側 伊之助 井根口 林ノ谷 ハンジヨ谷 小橋谷 黒岩 水無谷 ハンシヨ谷家ノ上 城山谷 寺谷ノ奥 寺ノ上 柳戸口 地主 山ノ神 三ツ頭谷 権左エ門分 三ツ頭出口 倉山谷 倉山谷ノ口 倉山口 東谷奥 弥九郎谷 カジヤ 杉ケ鼻 桑原真奥 森ノ北 五反田 ?山 堅田

関連項目






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

若狭・越前
市町別 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市





 
【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん




Link Free
Copyright © 2009 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved