京都府宮津市日置
京都府与謝郡日置村
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金剛心院の概要
《金剛心院の概要》
宮津湾を東に望む山ぎわの日置上、府道「浜丹後線」の道脇、畑川を越えた所にある。真言系単立寺院で、秘密山と号し、本尊は愛染明王。
寺伝によれば平安時代の創建で、宝光寿院と号する勅願所であったという。後宇多天皇が出家して大覚寺に入った際、天皇に仕えていた千手姫も出家して願蓮と号し、当院で後宇多法皇の安穏を祈願した。
千手姫は日ヶ谷の城主・松田頼盛の娘で、応長元年(1311)法皇から、金剛心院の院号と本尊愛染明王坐像を賜ったという。
「宮津府志」は、天橋記に曰くとして「開山忍性律師也、はじめ宝光寿院と云、後二条院勅ありて金剛心院と改む」と記す。
忍性は西大寺の叡尊に師事して弘長元年(1261)鎌倉に入り、極楽寺を修営して開山となった。
次いで永仁二年(1294)摂津四天王寺を管し、嘉元元年(1303)没した。
当寺には忍性との関係を伝承したものが多い、忍性墓の五輪塔、忍性が刻んだと称する高石地蔵、忍性使用の麻布袈裟、鉄鉢などがある。
→高石地蔵はもと小字高石の高石寺にあったもので、刻銘に嘉暦四年(1329)六月二四日とある。
本尊の愛染明王坐像は重要文化財。寄木造、彩色、鎌倉時代の作。像高42センチ、光背高52センチ、台座高47センチ、厨子高171センチ。像の台座・蓮弁はきわめて装飾性に富み、肉身部と光背に赤色が彩色される。これを納める春日厨子は漆塗。
木造如来立像(一躯)も重要文化財。一木造、檀像、像高95センチ。寺伝で宝生如来という。金剛心院の前身宝光寿院の時代からあったものであろう。平安時代の前期の面影を残し、丹後地方で最も古い仏像である。
現地の案内に、
金剛心院 宮津市字日置
高野山真言宗、秘密山と号す。平安時代創建で、はじめ宝光寿院とよんだと伝える。鎌倉期末には、忍性開創と伝える鎌倉の極楽寺の末寺であった。本寺もまた忍法を中興の開山と伝える。忍法は奈良西大寺叡尊の弟子真言律宗の教線の拡張に大いに貢献した僧であった。
本尊愛染明王坐像(木造・重文)は千手姫が、かつて卸匣として仕えた後宇多上皇から賜ったものと伝え、この時寺号を金剛心院と改めたという。千手姫はこの寺に入って薙髪して願蓮と称した。その出自については諸説があるが『尊卑分脈』に、三条嫡流藤原公親(十三世紀後半の人、内大臣)の娘に「中宮御匣」とあるのが注目される。後世日ヶ谷(宮津市字日ケ谷)松田氏はその系図を公親流とし、その九代の孫頼盛を松田氏としている。『丹後国田数帳』に「金剛心寺」として中郡に荘園があがつている。
寺宝に、本尊のほかに、木造如来形立像(平安前期、重文)、制札六枚、金銅懸仏三面、忍性伝承遺品等がある。制札には六波羅探題・足利尊氏禁制があって貴重である。境内には、石像地蔵尊薩像(高石地蔵)、本堂裏墓地には忍性の墓と伝える五輪塔があり、収蔵庫傍らには中世板碑群がある。
宮津市教育会員会
宮津市文化財保護審議会 |
《交通》
金剛心院の主な歴史記録
『丹哥府志』
【秘密山金剛心院】(真言宗)
秘密山金剛心院は御匣殿藤原氏の開基なり、開山を忍性律師といふ(電出于元亨釈書巻の十三)。本尊愛染明王は弘法大師の作なり。蓋後宇多帝紫宸殿に於て祀る所なりと伝ふ。成相寺の古記云。金剛心院は後宇多帝の妃千手姫の開基なり、千手姫は内大臣公親の女なり始め長楽院に仕へて遂に幸を得たり、後に出家して尼となり丹後に来り伽藍を建立し、忍性律師を請して之を開山とす、この内大臣公親廿一世の孫に松田山城守といふものあり日ケ谷の城主なり、天正十年細川氏の為に亡ぶ、其子福寿丸民家に下る今其子孫とて日ケ谷村にありといふ。松田氏系譜云。千手姫は内大臣公親の女なり、始め長楽門院に仕へて遂に幸を得後宇多院の妃となる、後に出家して尼となり名を願蓮と改む、今金剛心院に延命地蔵を祀る即其木像あり、公親九世の孫に頼盛といふあり松田八郎左衛門と称す、頼盛十三世の孫に頼通といふあり是即松田山城守なり、其子福寿丸民家に下る、又公親の末族に平内左衛門秀頼といふあり和歌に長ず、次を具秀といふ次を兼秀といふ次を満秀といふ次を秀藤といふ次を秀興といふ次を秀長といふ、皆丹後に封ぜらるといふ。天橋記云。金剛心院始め宝光寿院といふ、後二条帝勅して金剛心院と號すといふ。日本史云。後宇多帝の妃御匣殿藤原氏内大臣公親の女也(一代要記皇胤紹運鑰諸門係譜)侍長楽門院(紹運録諸門係譜)得幸生尊澄法親王(要記紹雲録諸門係譜)。
愚按ずるに、寺記及成相寺の古記松田氏系譜などに所云千手姫といふは蓋日本史にいふ御匣殿藤原氏ならん。今山門の右に勅使門とて当時の門尚存す。
蔵宝
一、忍性律師袈裟。一、仝 鉄鉢。一、両六波羅制札(元享四年八月十三日右近将監陸奥守朝臣在判)。一、足利尊氏制札(元弘三年五月十八日并建武三年八月廿九日)。一、延永修理進制札(文亀四年正月 日)。一、越後守制札(天正十年七月 日末考)。一、内藤宗勝制札(永禄三年九月 日)。一、羽柴氏制札(慶長六年十一月羽柴修理太夫といふは京極修理太夫高知是なり)
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『宮津府志』
秘密山 金剛心院 在同郡日置上村
真言宗古義派 成相寺未
本尊 愛染明王 弘法大師作
開山忍性菩薩
勅使門 鐘楼門
鎮守 熊野権現
寺記曰。後宇多帝之妃千手姫建立云々。
天橋記に曰く、當寺古跡なり、愛染堂古風なる作り形なり、元亨二年建立、鎮守社門甚だ古し、相傳ふ後宇多院紫宸殿にて修法の本尊弘法大師の作と云。開山は忍性律師也、始め寳光壽院と云、後二條院勅ありて金剛心院と改む。
按忍性律師ノ傳載ス二元亨釈書ニ一。曰ク嘉元(後二條院年号)元年七月十二日逝壽八十七云々。然ラバ則チ天橋記二曰ヒ二元亨二
年建立ト一且ツ曰フ二忍性ノ開基ト一者似タリ二相ヒ齟齬スルニ一矣。元亨者後醍醐帝之年號ニシテ去ル二忍性ノ卒年ヲ二十年之後也。
當 寺 什 物
忍性律師袈裟 麻布木蘭色 二十五丈
同 鐵鉢
両六波羅制札
元亨四年八月十三日 左近将監平朝臣 陸奥守平朝臣
裏に奉行人宗像三郎兵衛入道真性 清書同四郎重基
足利尊氏公制札
元弘三年五月十八日 源朝臣判
同
建武三年八月廿九日 判
延永氏 當国府中城主 制札
文亀四年正月 日 修理進判
越後守制札 奉書紙に書す越後守未詳
天正十年七月 日 越後守判
内藤氏制札 内藤宗勝未詳
永禄三年九月 日 宗勝判
羽柴氏制札 京極高知公也
慶長六年十一月 日 修理太夫判
以 上 |
『丹後与謝海名勝略記』
【金剛心院】 上村にあり。其古跡也。愛染堂古風なる作治なり。元亨二年建立鎮守社門甚古し。本尊は弘法大師の作と云。相伝後宇多院紫宸殿にて修法の本尊也と、開山は忍性ニンジャウ律師也。始宝光寿院と云。後二条院勅して、金剛心院と改む。忍性律師の袈裟鉄鉢等?宝数多あり、両六波羅の制札其外昔の制札数多あり、真言宗にて成相寺に属す。 |
『与謝郡誌』
秘密山金剛心院
日置村上ゲ小字寺腰にあり。本尊愛染明王、御匣殿藤原氏の開基にて本尊はもと後宇多天皇紫宸殿に祀り給ひしを寵妃御匣殿に賜はりし所といふ。蓋し御匣殿は後宇多天皇の妃千手姫にて内大臣公親の女(実は与謝郡日ヶ谷松田八郎右衛門尉頼盛の女にて甥の弾正左衛門尉貞盛の猶子となり爲人端厳美秀宮中に奉仕して後宇多院の寵を得たるより藤原公親に養はれたるものなり)後宇多天皇仙院にありしも落飾して大覚寺に入らせ給ふや、姫また祝髪し四天王寺の管理忍性律師に就て得度し願蓮法尼と號す。法皇紫宸殿に祀り給ひし愛染明王を法尼に授け浄地を選んで鎮護国家の祈願所を創建せんことを托し給ふ。法尼即ち丹後に下り地を秘密山に卜して伽藍を建立し律師を鎌倉極楽寺より請じて開山に仰ぐ、事聞し、応長元年大覚寺法皇勅願道場の綸旨を賜ひ、後伏見天皇、俊二條天皇また勅使を差遣あらせられ、平野山高石寺は勅使奉迎送の場所なりと云ひ今高石地蔵は忍性律師が天王寺の大鳥居を造立せし礎石にて造りしと云傳ふ。寺に元享四年両六波羅、元弘三年足利尊氏建武以下累代国司領主の制札を蔵し尚ほ寳蔵内に懸仏数面あり(図版参照) |
『丹後の宮津』
この日置は、さきに歩いた府中地域につずき、古くは日置郷の中心であり、中世もまた日置氏一族一党が支配し、近世は旧宮津領であった。だからここには二三の古墳とおぼしきもの、あるいは古城址などもあって、これから足をむけようとする金剛心院と禅海寺も、ともにこの土地のほこりである。
さてここをたづねるには、汽船またはバス便があって、汽船は一日四回、バスも二回の往復は確実で、そのあとを歩くとしても十分ほどのことである。汽船からあがって桟橋のまっすぐ山がわ、バスでは日置停留場へおりたところで、上を見ると石段と二王門がみえる寺、これは日蓮宗の顕立山妙円寺である。この寺は、近世以前は真言宗としてかなり盛んであったらしく、塔頭も六ヶ寺あったが、天正十三年(一五八五)に日蓮宗となり、寺運もおとろえて今日となった。しかしこの寺もやはり細川忠興の真言倒しにあったのではなかろうか、そのむかしの寺堂その他は何一つ残されず、明かでない。そこでこの寺の前を日置小学校の方へさらに上へあがったところに、いまたづねる秘密山金剛心院がある。
金剛心院
この寺は伝えによると、もと宝光寿院という寺であったが、丹後与佐郡日ヶ谷の地頭松田八郎右衛門尉頼盛の娘千手姫が、天皇後宇多の愛人として、天皇の側妃となった。ところが、後宇多はのちに髪を剃って僧となり、大覚寺にはいったので、千手姫もまた尼となって願蓮といい、延慶元年(一三○八)丹後へかえり、ここ宝光寺院によって順慶上人の徳に感じ、ふかく帰依したのであった。かくて後宇多は使をもって、かねて自らが尊信した厨子入り愛染明王一体(重文)を願蓮にあたえ、かっこの宝光寺院を金剛心院とあらためさせて、その開基とした。これが今日の金剛心院のはじめであるが、以来この寺は一層天皇家の信仰をうけたので、足利尊氏はじめ、地方領主もまた寺の保護につとめた。こうした歴史をもつこの寺は、だからその歴史的資料も多く、ことに愛染明王はその厨子とともに、去る大正十五年四月国宝に指定されたのである。 |
『丹後路の史跡めぐり』
日置の里
このあたりは昔花浪の里とよばれた所で、弘安元年(一二七八)大江九郎季行が、蒙古が来襲した文永の役に功労があったとして、北条時宗から地頭を命ぜられて本拠とした処、のち日置氏と姓を改め浜の妙見山に城を築いた。一色氏が丹後国の守護となってからはその輩下となった。丹州三家物語には大島城主千賀兵太夫と日置向山城主日置弾正の二人が細川藤孝の出迎えを命ぜられて普甲峠へ向う途中、美男子の日置はみすぼらしいいでたちの千賀をあざけったので口論となり、双方死者七、八人が出たとのせてある。一説にこの城は宇川の城主倉内将監が築いたともいい、将監が在城していたこともある。
日置氏の文書については、福知山市印内の田辺氏方に多く保存されている。
戦国末期には松井佐渡守康之の居城となり、康之は一色をはなれて細川方につき、藤孝の妹娘をめとって一色滅亡後久美浜の松倉城主となり、細川の陣代をつとめた。
この日置の里には名刹秘密山金剛心院がある。寺伝によれば、日ヶ谷の地頭松田八郎右衛門頼盛の娘千手姫は後宇多天皇の後妃となって仕えていたが、徳治二年(一三○七)天皇が大覚寺へ出家されたので翌延慶元二八才で髪をおろして順慶上人の弟子となって願蓮尼と称し、のち郷里へ帰ってこの寺へ入ったが、天皇より宝光寿院の寺号を賜ったという。松田氏の系図が今も残っている。応長元年(一三一一)天皇より願蓮尼へ厨子入りの愛染明王を賜わったのがいまの本尊で重文である。本寺には勅使門が残っており、寺宝も多いので収納庫がつくられて保存されている。
明治四○年八月の洪水のあと、日置上ゲより青銅製の剣が出土している。精巧なつくりで山陰地方では唯一の発見といわれる。 |
『宮津市史』
忍性と金剛心院
宮津市と西大寺との関係を考えるうえで重要な美術作品に、日置の金剛心院の本尊愛染明王坐像がある。金剛心院は寺伝によると、古い時代に創建され、はじめは宝光寿院と号する勅願寺(勅賜の寺)であったという。元亨三年(一三二三)八月に至って、六波羅探題は金剛心院内において、武士等の乱妨を停めるために制札を掲げたが、現存するその制札に、金剛心院は「国家御祈祷の霊場、関東極楽寺の末寺」である、と記している。極楽寺は北条長時、業時兄弟が忍性(一二一七−一三○三)に帰依し、文永四年(一二六七)八月に西大寺にいた忍性を開山に招じて創立した寺である。忍性は叡尊(一二○一〜九○)の高弟で、聖徳太子を思慕すること篤く、極楽寺に移ってからも、南都の戒律を鎌倉に移し、布施利他行に挺身し、多面的な慈善事業をおこなっていた重源・叡尊に続く当代の仏教慈善事業家である。文永十一年第一回の元冠以後、再度の元冠に備えて、敵国退散の祈祷をおこなっている。
永仁二年(一二九四)のころに四天王寺の木造鳥居を石造に改めたが、金剛心院境内の小堂に安置されている石造地蔵菩薩坐像は、その余材で彫刻したものと伝えている。光背の背面に、嘉暦四年(一三二九)の刻銘があり、このときはすでに忍性没して二○余年を経ているが、金剛心院と忍性との関係を物語る遺品として重要な作品である。近年まで高石の小高い丘の上にあったので、高石地蔵と呼ばれている。
金剛心院愛染明王像の造立
愛染明王坐像は像高四二・四センチの小像だか、三目六臂赤身の忿怒像で、彩色・台座・光背はもとより、高一七一・一センチもある厨子まで一具の鎌倉時代の作品である。その伝来については二つの説がある、一つの説は、忍性が永仁二年に金剛心院を再興し、応長元年(一三一一)に本尊としてこの愛染明王が安置された、と伝える説である。忍性の属した西大寺派は、愛染明王を深く信仰し、忍性の師叡尊は元冠に際し、愛染明王を本尊として、敵国調伏の祈祷をおこなっている。この愛染明王像も西大寺派の信仰を伝えるものと考えるのである。
他の説は、後宇多天皇の宮廷に仕えていた日ヶ谷城の城主松田頼盛の女が、天皇の出家に際して帰郷し、延慶二年(一三○九)金剛心院の順慶上人に従って出家し、願蓮と称して、法皇の無事息災を祈っていたことが伝えられ、法皇から紫宸殿に祀ってあったこの像をたまわった、と考える説である。
願蓮が金剛心院に入院した事情として考えられるのは、のちに丹後国分寺の再興にまで至る西大寺派の勢力の拡大の過程で、金剛心院が西大寺派によって再建され、願蓮が勅願寺の伝統にふさわしい人として迎えられた、ということになるであろう。
愛染明王像の様式と保存状態
金剛心院の愛染明王像の様式からみると、西大寺派の仏像は、善円・善慶(善円と同一人か)・善春等、叡尊の造仏事業に従事した善派仏師制作の愛染明王像、例えば、善円が宝治元年(一二四七)に制作した西大寺の像高三二センチの愛染明王坐像や、永仁五年に大工左近入道浄胤とその子藤右衛門尉藤原秀吉によって鋳造された神奈川・称名寺の像高六・四センチの厨子入金銅造愛染明王坐像が、野性的な激しい忿怒相をあらわすのに比べると、金剛心院像の忿怒相は穏健で、京都の守旧派仏師の作と考えられる。したがって、金剛心院像は、西大寺派の信仰にかなった仏像として、願蓮が後宇多法皇からたまわった像と考えるのが妥当のように思われる。
それにしても、本像の保存状態の良好な点には驚嘆させられる。金剛心院のある日置は、中世を通じて、日置氏が土着の武将として、幾多の戦乱を切り抜けてきたところでもあることは、史料編第一巻に収める『日置氏関係文書』に明らかである。仏像自体、丹波・丹後にはほとんど残っていない純密の多臂像で、構造は脆弱な寄木造であるのに、少しも損傷の跡がないうえ、後補部分もなく、当初の彩色まで残っている。もともと、仏像が災害にあったとき、本体だけでも避難し、それでもかなわなければ、頭部だけでも切断して避難するのが普通であるのに、この像は本体が完全に残っているほか、愛染明王独特の光背・台座を完全に残し、そのうえ、高さ一・七メートルもある厨子まで、当初のまま残っているのである。
この保存状態は奇跡に近いが、このような結果をもたらした原因の第一は、後宇多法皇下賜の霊像であったこと、第二に、本山西大寺でとくに信仰の厚かった仏像であったことが、歴代の住職や外護とした松田氏(第四節)に徹底して信じられ、つねに保全態勢が整えられてきたことが考えられる。このことは日置氏支配下の寺院にも及び、同じ日置にある禅海寺の阿弥陀三尊像と千手観音立像においても、当初の台座・光背を失っているとはいえ、本体の場合は、保存状態がきわめて良好であるのが注目される。 |
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