木積神社
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木積神社の概要木積神社は与謝郡内にいくつかある。一宮の籠神社でも、カゴと読んでもこれほどにはない、与謝郡の古代と深い関わりありそうな何か特殊な大きな勢力あった神社かと思われる。古代を考える場合は外せない神社のように思われる。 延喜式神名帳に、木積神社。 「室尾山観音寺神名帳」の「与謝郡六十八前」に、従二位 木積明神。 この式内社がどこにあって、どうした歴史を持つものかは、諸説がある。しかし木積神社がどうした歴史をもつものかの検討はされておらず、木を積んだ樹木の神様だろうとくらいにしか知られていない、性格の検証を欠いた比定論議は不毛であろう。 『与謝郡誌』は、「丹後国式社証実考には「明石村、岩ヶ鼻村、中郡皇住村同郡主基村ナドノ説区々ナレドモ何レノ村モ何ノ由緒モ見当ラズ」とあり、是非未だ断ずべからす、」としている。 私は木積とは物部一族の穂積氏と考えているのだが、一応はこれらの神社を見ていこう。
宮津市日ヶ谷から岩ヶ鼻へ流れる犀川は、かつては木積川と呼ばれていたという(養老村誌)。 この川の河口、岩ヶ鼻にはかつて伊根荘一宮と呼ばれた山王神社(日吉神社)があるが、その日吉神社は江州坂本日吉神社から勧誘したと伝え、もとは日ヶ谷にあったが、天文18年に隣村の外垣にあった木積神社と合祀して現在地に移したという。岩ヶ鼻・日ヶ谷・外垣・大島、日出・高梨・平田・大原の伊禰庄八ヵ村の産土神であった。 かつて日ヶ谷には山王社別当の真言宗威光寺があったが退転し、その後威光寺の後身といわれる臨済宗天長寺が社前で大般若経を転読した。天長寺所蔵の大般若経はもと山王社に伝来したもので、康和2年(1100)のものを最古としている。この社は一説に与謝郡式内社・木積神社とされる。
与謝郡の北側のずいぶんと広い範囲を氏子圏、勢力下におく神社であったようである。
岩滝町弓木の少し小高い板列山の山裾に鎮座している。木積大神と三輪大神が合祀されている。 現地の案内板
三輪神社は、『室尾山観音寺神名帳』「与謝郡六十八前」に、「従二位 三和明神」とあって、ほかには知られていないのでこの社と思われる。 『丹後風土記残欠』に、舞鶴市瀬崎に「石崎坐三輪社」が見えるが、『元初の最高神と大和朝廷の元初』によれば、この社は与謝郡へ遷座したという。瀬崎には八幡神社に合祀されたかたちだが、しかし今もその祠が残されているという。堂奥の山口神社境内にも三輪神社があり、舞鶴には瀬崎のほかにもあったと思われる。 『神社旧辞録』は、「八幡神社 祭神 誉田別尊・大物主命・菅原道真 同市字瀬崎。祭神大物主命は大和三輪神社の主神・物部氏の斎く大神という。この社は風土記の石崎里三輪社であって、後に他社と合祀なる事は左記によっても判る。旧語集に、正八幡社氏神、又別に三輪明神社有りと」としている。 すべて正しい記録なら、ここの三輪神社は舞鶴市瀬崎から遷座したものかも知れない。神社だけが遷座したのではなく、この神を祀る人々が移ったのであろう。何を求めて移住したのであろうか。 『岩滝町誌』は、
三輪神社の本社は大和の三輪山の麓にある大和一宮、三輪神話でおなじみの「大蛇」を祀り、似たような神話は丹後も各地にあるし、また元伊勢とも関係してくる物語がある。 崇神は天照大神と倭大国玉神の2神を祀っていたが、国内疫病災害が多く国が治まらないうえ外国も背く、大国玉神を大事にしなかったからの原因で大和を追い出されたのが皇祖神・天照大神で、のちに各地をさまよって元伊勢の伝承を残すことになった。 穂積臣の遠祖などが夢見たように、太田田根子を祭主として大物主神を祀らせ物部連の祖・伊香色雄を班物者して祀ると治まったという。三輪神社はイカガ、物部、穂積などが斎祀る在地の神であった、穂積郷はこのあたりにある、この神域から追い出されたのが侵入者であった皇祖神の天照大神であった。 山王宮と呼ばれる神社が各地にあるが、一般には山王宮は近江の日枝(日吉)神社とされ、後に日吉神社などと改称されたりしている。しかしその日枝神社は、日枝山(比叡山)の神である「大山咋神」を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年に大津京鎮護のため大和国三輪山の大物主神を勧請し共に祀られ2神を同体としている。より古くは大物主神も山王神と呼ばれていたという。 山王宮あるいは日吉神社と今は呼ばれているものも、あるいは本当はより古い三輪神社かも知れないことになる。物部、穂積が関係していたかも知れない歴史を考えてみる必要がありそうに思われる。 HとKはよく入れ替わることが知られている。穂積が木積になることはあり得る。穂積は稲穂を積んで祀った風習を言うとも言われるが、それは漢字から推測したものであろう、漢字で判断できればそんな楽な史学はなかろうが、たいていはそうしたものとは限らない。 ワタツミ、ヤマツミと言うように、ホ(火)ツ(の)ミ(神)ではなかろうか、その火は金属を溶かす火ではなかっただろうか。金属を精錬する火の神を祀る集団であったのかも知れない。 『白鳥伝説』に、
何もかもを一度に言ってくれているような文章だが、ついでに書いておけば、石切剣箭神社の北、1qくらいの場所がクサカで、日下神社がある。この一帯は物部氏の聖地で本貫地であった。 蓼津に上陸した神武が胆駒山(別名・クサカ山)を越えて大和に入ろうとし、孔舎衛(くさえ)坂で長髄彦と戦った話があるが、当時はこの麓まで海であった、日下には貝塚も発見されている。 石切剣箭神社は式内社(河内国高安郡二座・小)で、天つ神から十種の瑞宝を授けられ、天磐船に乗って河内国河上の哮峰に天降った饒速日命と、その御子・可美真手命の2柱を祀る、神武よりも先にこの地に天降ったわけで、その哮峰(いがるがのみね・たけるがのみね。生駒山か)に元々は鎮座していたという。 同社の世襲の祠官は、物部氏の一族、というか超重鎮氏族で、あるいは物部本宗家かも知れないが、穂積氏であって、のちに訛って功積氏、さらに木積氏となったという。 穂積→木積の実例が、本貫地でも見られる、こうしたことから、木積神社とはのちの転訛で、本当は穂積神社でなかったかと私は推測するわけである。物部神社と似たものと見ていいと思われる。 ここの木積神社は、裏山の大内峠一帯はもとより板列山系の広い範囲を勢力下においた神社だったかも知れない、成相寺山はツヅミヶ嶽というが、コヅミヶ嶽だったかも知れない。舞鶴が元の地の三輪神社ものちに合祀したかも知れないが、同族だったと思われる。
桑飼小学校の正門の向かいに鎮座する。先端に蛭子山古墳のある大江山からの支脈上にあって、裏山を木積山といい、ここには木積神社もある。 周辺は全国的に有名なすごい遺跡や古墳と名神大社などが目白押しの地の扇の要の位置に鎮座している。
大江山の西麓一帯を勢力下に置いたものか。
木積神社が鎮座する久住は以前は五十河村の大字であった。その五十河は伊香賀色雄命のイカガである。穂積氏の祖、物部氏の祖である。木積神社は遠祖の伊迦賀色許男命を祀るものであったのかも知れない。 穂積氏は一般には、『先代旧事本紀』に、「大水口宿禰命。穂積臣。采女臣等祖」、『日本書紀』に、「穂積臣遠祖大水口宿禰」とあり、伊香賀色雄命の子・大水口宿禰を祖とすると伝える。 『新撰姓氏録』左京神別に「穂積朝臣。石上同祖。神饒速日命五世孫。伊香色雄命之後也」、「穂積臣。伊香賀色雄男。大水口宿禰之後也」とある。 そうした氏族と関係のある地名と見られる。久住は早くから丹波郡に属した地であったが、より古くはこのあたりも与謝郡であったといわれている。 元々からこの地に鎮座していたわけではない。南西に木積山があるので、ここにあったのではないかと思われる。
これら木積神社にはなぜか、オケ・ヲケ二皇子の伝説が伝わる。 紀によれば、 安康天皇3年に父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、億計王(後の仁賢天皇)と弟の弘計王(後の顕宗天皇)は共に逃亡して身を隠した。日下部連使主とその子吾田彦は、二人をまず丹波国余佐郡に隠した。後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子と称した。縮見屯倉首(忍海部造細目)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。 同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位を譲り合い、その間飯豊青皇女が執政した。 記では丹波へ逃れたの記録はなく、直接播磨へ逃れている。
若狭高浜の式内社・青海神社は飯豊青皇女を祀り、同皇女が社殿の裏にある池で禊をして青葉山を遥拝したという伝説があり、禊池が現在も残る。 案内板に
舞鶴和江は加佐郡凡海郷であったと考えられるが、凡海と忍海や青海は同じではなかろうか、漢字こそ違うがみなオウミと読めて、本来は同じ氏族名で、同皇女がそう名乗るように同皇女系、すなわちオケ・ヲケ系の氏族名と思われる。 日下部連はどの系統なのか不明だが、與謝日置の日下部首などと同族かも知れない、記によればイカリとも近そうなことで、クサカは物部の聖地名で、その名を冠するのであれば物部系氏族。 広く言えば二皇子はやはり山深い物部系の金属採鉱精錬や雑工氏族を頼って雄略から逃れたのではなかろうか。伝説のことなので、詳しくはわからないとしても、このように彼らが隠れた所にこれらの木積神社がある。特に目立ってあって、何かそうした大和の大氏族で、反雄略系の出先であったとみていいと思う。 雄略21年には豊受大神を丹波から迎えたとか、雄略22年紀には、浦嶼子のハナシがある、雄略も丹後へ探りを入れたのかも知れない、こんなハナシでお互いにとぼけながら、手が伸びてきた、これはヤバイとさらに播磨へ逃したのかも…
青海神社のある所は『和名抄』の若狭国大飯郡阿遠郷だが、その東隣は木津(キヅ)郷、丹後にも木津郷があり、近江国高島郡木津(こづ)郷、このほかにも、木津という地名は各地に見られる。これは穂積の転訛かも知れない、と考えているのだが、いまだ確証はない。いずれまたそのうちに考えてみたい。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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