丹後の地名

栗田(くんだ)
宮津市


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京都府宮津市栗田地区

京都府与謝郡栗田村

栗田の概要




《栗田の概要》
宮津市の東部、栗田半島に位置し、西は宮津湾、南東は栗田湾と呼ぶ。北・東は若狭湾に面する。栗田湾に面する地域を表栗田、宮津湾・天橋立に面する地域を裏栗田と呼ぶ。
天橋立の背景となる栗田半島
↑坂根正喜氏の空撮。
天橋立の東に栗田半島

栗田湾

海に面した景観のよい村々で、島陰や小田宿野、中津は漁師の村である、古くは海賊の村などと考えられたりもしているが、本来は、というのかそのほかの栗田の村々は海よりも山の村ではなかろうかと思ったりする。
中世の栗田荘は、南北朝期〜戦国期に見える荘園名。明徳4年7月30日付で等持院長老に「丹後国宮津・粟(栗)田両庄領家職」を宛行う旨の足利義満御判御教書が出されている(等持院常住記録)という。以後、等持院領として宮津荘に一括されたものか「丹後国田数帳」では宮津荘155町余のうち、107町余が等持院領、13町4反余が「栗田村 御料所」とされている。「丹後御檀家帳」には「一 くんたしやうし町」「一 くんたの小田」が見える。
近世の栗田村は、江戸初期の村名。与謝郡のうち。村高は、「慶長郷村帳」に2、076石余。「延宝郷村帳」以降、上司村・田井村・島陰村・矢原村・獅子村・小田宿野村・中津村・脇村・新宮村・小寺村・中村の各村に村切り。地内を北国街道(巡礼街道)が貫通し、「丹哥府志」は成相坂・大内峠・栗田峠を、天橋立を眺望する「登臨三絶」と記す。
近代の栗田村は、明治22年〜昭和29年の与謝郡の自治体名。田井・島陰・矢原・獅子・小田宿野・中津・脇・新宮・中・小寺の10か村と上司町が合併して成立し、旧町村名を継承した11大字を編成した。昭和29年宮津市の一部となり村名は解消。村制時の11大字は宮津市の大字に継承された。

《栗田の人口・世帯数》2398・841

《交通》


栗田の主な歴史記録


《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
一 宮津庄 百五十五町三百十二歩内
  百七町九百八十歩   等持院
  十三町四段二百四十一歩  栗田村御料所
    此内一町一反三百六歩永不
  十五町九段三百十五歩   壇林寺
  七町五段二百八十九歩   同領公文分
  七町五段二百八十九歩  公文分 延永左京亮
    此内一町八段二百八十三歩  本不作
  二町五段七十四歩    漆原名  同人

《丹哥府志》
栗田の庄。獅子崎村(宮津の庄)の南より嶺にかゝる栗田嶺といふ。嶺を越て宮津より一里塚あり、一里塚より一町許に岐路あり、右は上司町へ出る北国街道なり、巡礼街道ともいふ。左は中津村村の道なり。凡天橋内外の地に登臨三絶と称するものあり、一は成相阪なり、一は大内嶺なり、栗田嶺其一に居る。嶺の東を表栗田といふ西を裏栗田といふ。前段の次なれば表栗田を首とせず裏栗田より記す。
◎獅子村(獅子崎村の北)
【獅子姫大明神】
【永松山徳寿庵】(曹洞宗)
【長 浜】
獅子崎村より獅子村に至る凡廿町共間白砂の浜なり、是を長浜といふ、天橋と相封す。
 【附録】(蛭子社)
◎矢原村 (獅子村の次)
【三宝荒神】
【薬師堂】
【女 嶋】(出図)
【歯抜砂】
 砂の状歯の如く其色雪の如し、歯抜砂といふ。好事者庭に敷く殊に佳なり。
◎田井村(矢原村の次)
【多由神社】(式内)
 多由神社今代永大明神と称す祭九月十三日。
【景雲山養福寺】(臨済宗)
【棍 島】(一名片島出図)
 棍島は田井村の出島なり、天橋記名所の部に之を出す。橋立案内志に與謝八景の詩哥を載す、片島夕照は其一なり。又宇都宮由的の詩に梶島帰帆といふあり。
  続古今集 暁の夢に見えつゝ梶島の
         磯こす波のくだけてぞ思ふ
【田井社若】
 女島の側より田井村え趣る嶺の下に二町四方の池あり、在昔京極侯八ツ橋より杜若を移し植ゆ。近頃迄年々盛に開き、感慨の心など興りしが追々田地となり、今は杜若の名のみ盛なり。
【黒 崎】(出図)
 南栗田嶺より北黒崎に至る凡三里北は伊根浦と封す、是より内を與謝の海といふ。清少納言枕の草紙に所謂水は水海與謝の海とある是なり。是より以外は渺々たる大洋なり、是以黒崎より東鷲崎に至る凡一里餘、其間山水の奇嶮稲捕以西と異る事なし。
【桜 山】(黒崎出図)
 黒崎の少し南に水走といふ處あり水走より南十町の處一山皆桜の木なり。山水奇嶮の間に桜花盛に開く其色雪の如し、天地の間には奇なる處もあるものなり。
【石斛山】(田井村の東出図)
 田井村より嶺を越て煤か浜といふ處あり、其傍に数十丈の巌山あり、石斛山といふ。山の上に他の草木を雑へず、石斛斗生ず中には奇品もあるよし、只嶮岨にて攀易からず。煤ケ浜より東に向ひて坂二ツ三ツ斗越て嶋陰村に至る凡十町餘、其間の山水得て説くべからす。
◎島蔭村
【蛭子社】(祭九月十三日)
【鈴振嶋】(出図)
 鈴振嶋は嶋陰村の出嶋なり嶋の上に白山権現を安置す。
【越 浜】(嶋陰村の東出図)
 吾丹後に於て浜の名あるもの凡五ヶ處、五色浜なり、水晶浜なり、太鼓浜なり、琴弾浜なり、越浜なり。外に由良浜、網野浜、橘浜の如きは唯大なる耳、遊覧の地にあらず。越浜といふは此浜より直に越前の山見ゆるを以て名とすといふ。東西七八丁南北一丁餘玉砂の間に種持の貝殻を交ゆ、或は赤或は紫或は五色を兼ぬるものあり、亦是産物の一なり。
【厳 門】(越浜の東出図)
 断岸数十丈相封して状門の如し巌門といふ。泊村にある處と異れり。
【和 布】
【海そうめん】
【海 苔】
【もつく】
 右の四品は海村より往々之を出す、独巌門前後のみならず。されども越浜来遊のもの手づから探るところなり、蓋遊中の一興なりよって録す。
◎宿野村(越浜の南是より表栗田といふ)
【日比宮大明神】(祭九月十三日)
【医王山成願寺】(曹洞宗)
醤王山成願寺は麿子皇子の開基なり。本尊法界勝恵遊戯神通如来は則皇子の彫刻する處なり。縁記曰推古帝卅三年麿子皇子勅を奉じて三上山の夷賊を征伐す。始皇子丹波の国篠村に来る頃人の馬を埋むを見る、皇子心に誓わく此行若し利あらば此馬必ず蘇るべしといふ、忽ち其馬土中に嘶けりよって皇子之を堀らしむれば果して駿馬なり、此處を今馬堀といふ。皇子此馬に乗て生野の里に来る。是時八旬の老翁皇子を迎て白色の犬を献ず。此犬の頭に明鏡を戴く、後に是を犬鏡大明神と祀る。皇子此犬を嚮導として丹後雲原村に至る、於是皇子自から薬師の像七躰を彫刻す。此處は今佛谷といふ。皇子心に誓ていふ能く夷賊を誅伐する事を得ば丹後の国に於て七寺を建立し、今彫刻せし七躰の尊像各共寺に安置せんといふ。既にして三上山に向ふ、三上山の夷賊妖術ありといへども犬の頭に戴きたる明鏡に照されて其術を行ふ事を得ず。遂に悉く殺戮せらる。後祈誓の如く七寺を建立す、成願寺は其一なりといふ。
【夢窓の鼻】(出図)
 越浜より宿野村に至る凡四五町其間は平地なり、是より東に山あり、夢窓山といふ。東の方海え出る凡一里餘其鼻を夢窓ケ鼻といふ。東金崎と相対す是より内を栗田の入海とす。
【夢窓国師の庵跡】(夢窓の鼻)
宮津府志云。夢窓国師の庵跡といふもの口碑に傳ふれどもいまだ実否を知らず。夢窓国師の弟子に妙葩春屋といふものあり、曾て都に在て憤る事ありよって丹後に来り、しばらく山居せしぬ。後圓融院康暦元年閏四月十四日丹後より京に帰り南禅寺に住す。遂に相国寺の開山とぞなりねと舊記に見へたり。是等を誤り傳ふるならんといふ。其庵跡といふ處より今に茶碗など出るよし。
【八百比丘尼の塔】(庵跡の南塔の鼻といふ處にあり)
 若州神明山八百姫宮の録記云。八百姫といふは若狭の国祖荒礪命の苗裔なり。父を高橋長者といふ。容姿美麗なれども曾て婚を肯せず。自から髪を剃て諸国を巡遊して塔を建つ、若し破壊の堂社あれば是を修造し通路の絶へたる處には橋を架す。又人気のあしき處は順和の道を示し或は十年或は廿年爰彼に留り諸国に跡を残し給ふ。後に若狭に帰る。後瀬の山中に天照皇大神宮、豊受皇の宮あり、其側に庵を結び両宮に仕へ玉ふ。遂に其麓にある岩穴の内に入定す。毎に椿の花を好ませ玉ふとて山に多く椿を植ゆ、よって八百姫の社を玉椿の宮と称す。抑八百姫は容姿毎に十七八歳の如く曾てかわらず、よって当時の人目して白比丘尼童の尼又は長良の尼などといふ。人皇四拾二代文武天皇の御宇に生れて寿を保つ凡八百歳是以又八百比丘尼と称す。
【小倉筑前守城墟】(宿野村の後山)
 小倉筑前守は小倉播磨守の一族なり、其城墟より左の方谷道少し行て堀江伊豫守の城墟あり、郭のかたち今に残る。又同じ山の続に保昌の館跡といふものあり、いかなる事を誤り傳て此處にいふや詳ならず。
◎小田村(宿野の本村)
【栗田大明神】(住吉条下に弁す)
【宇徳大明神】(祭九月十三日)
【東旭山永福寺】(曹洞宗)
  【附録】
◎中津村 (小田村の次)
【浦宮大明神】(祭九月十三日)
【中津山神宮寺】(曹洞宗)
【子安地織堂】(村の西)
◎上司町 (中津村の次、所謂北国海道宮津より一里餘)
【久理陀神社】(式内)
 久理陀神社今住吉大明神と称す。祭九月十三日、或云延喜式に載せたる久理陀神社は今小田村にある栗田大明神是也といふ其読眞に近きに似たり。されども九月十三日の祭に栗田一郷の人各其村の神輿を舁出て皆住吉の社に集る斯の如きは一朝一夕の故にあらす、之を以て考る時は古より称する久理陀神社は蓋此社
の事ならんか。
【鶴林山永久庵】(曹洞宗)
【嶺松山龍源寺】(同宗)
 明応年中前備州大守安叟常供大居士の開基也開山を快岸和尚といふ。安叟常供大居士といふは即是高妻山の城主河嶋備前守宜久の法名也、寺に宜久の肖像あり剃髪して禅衣を着す。其上に僧景趙の賛辞あり、其文云鶴然和気凜乎威儀入則遊心于山河嶋嶼出則披懐于忠恕仁慈独脱無依清風一柄便面?光不味明月百八摩尼常頭坐断他是阿維?将謂在家菩薩子由来了殊大丈夫児永正十年癸酉仲春初六日景趙叟宗誌とあり。蓋是時居士の十三回忌日に富るよつて其女松岩妙秀といふもの景趙和尚に乞ふて賛辞を求めしよし、今寺の宝物とて圓鏡一面并豹の皮にて張りたる太鼓二つあり、皆河嶋氏所持の品なり。
河島備前守城墟(高妻山といふ所にあり)
 【附録】(嶺松蓑面山権現、稲荷社、愛宕社、薬師堂、十王堂)
◎小寺村(上司町の次)
【石神社】(祭九月十三日)
【石宝山寳寿庵】(曹洞宗)
 石宝山寳寿庵は前佐州大守普明院殿清月宗泉大居士の開基なり。宗泉大居士といふは井上佐渡守の法名なり、文亀年中小寺村の城に拠る今其跡あり。
【井上佐渡守城墟】(村の後山)
  【附録】(荒神社、地蔵堂)
◎中 村 (小寺村の次、是より宮津の庄山中村へ道あり)
【三賛荒神】(祭九月十三日)
【中村山梅林寺】(曹洞宗)
  【附録】(阿弥陀堂)
◎脇 村 (中村の次、是より加佐郡由良の庄へ出る其間に七曲八嶺といふ嶺あり)
【稲荷大明神】(祭九月十三日)
【玉田山休耕庵】(曹洞宗)
◎新宮村(脇村より南へ入る、是より加佐郡漆原村へ出る)
 【白髪大明神】(祭九月十三日)
 【不動堂】
  【附録】(辻堂)

《大日本地名辞書》
【栗田】今栗田゙村と云ふ、宮津の東北なる半島地なり、東南は由良岳に至る、東面して一湾を抱有す、上司は本村の首里にして、小市街を成す。
府志云、栗田は足利将軍の世に、河島氏の拠れる所也、上司の高妻山に城址あり、又龍源寺あり、是河島氏の菩提所にて、寄付の汁物并に河島宣文の画幅あり、其賛曰…略…
延喜式久理陀神社は上司の北大字小田ヲダの宿野山に在り、宿野山の背なる海浜を島蔭゙と名づく、丹後海湾の湾首に当り、東北は冠島沓島より遥に越前の岬角を望むべし、島蔭の北に黒岬あり、(即宮津湾の門戸)東に無双鼻あり、此鼻博奕岬に相対す、島蔭の西大字田井は宮津湾の東側に居る、延喜式多由神社此に鎮座し、代長゙明神と云ふ、永路志云、栗田湾は無双が鼻の西南にして、東に面し彎入一海里九鏈闊さ一海里六鏈、湾首は宮津湾の東岸と山脈に由て分隔す、南北両側は岩岸にして高きも、西側は低沙浜なり、湾首に上司町あり、湾内水深は十五尋より漸次五尋に減じ、泥底にして錨掻き最良なり、若し此湾中に錨泊せんと欲せば、湾の北西隅を可とす、比処各方の風を避け得べし。
暁の夢に見えつつ梶島のいそこす浪のしきてしおもほゆ、(万葉集)  宇合卿
按に梶島は八雲御抄に丹後と注し、契冲は宇合卿の丹後路に赴かれし事をきかず、筑紫路ならんと論ず、府志には田井の片島と名づくる磯鼻を以て梶島に擬す。
補【栗田】○宮津府志、高妻山は栗田上司町の後の山なり。天正年中河島備前守と云ふ物是に拠り、上司町に嶺松山龍源寺と云ふ寺あり、是河島代々の菩提所なりしとなり、汁物に河島家所持の鏡、豹の皮にて張たる太鼓、河島宣文が画像あり、其画に賛あり。
補【島蔭】○宮津府志、栗田の郷の内島蔭村の海浜を少し離れて島あり、岩山にして険阻なり、松生ひ茂りて、其中に白山権現の社あり、海湾遥に東南越前の岬に対し奇景の地あり、○黒崎は其西北に突出す、宮津より三里半、北の方田井村の北の出崎なり、此出崎とは亀島の鷲崎より内を与謝の入海といふなり、○夢想ケ鼻は島蔭の東南角なり、即由良門及び舞鶴湾の海角なり、○宿野山は栗田郷小田村乾の方宿野村の山に塁地あり、又同じ山続きに平井保昌が館の跡と云ふ所あり。

《丹後宮津志》
邨岡良弼の日本地理志料理に宮津郷の区域を次の如く云へり。…宮津志云与佐宮阯在文珠村、郷名取此、…丹後旧事記如願寺在宮津市場一条帝時剏之本洲七大寺之一也、…今宮津町領二三十四坊一亘宮村、惣村、文珠、皆原、山中、脇村、中村、小寺、上司、波路、獅子崎、中津、矢原、田井、今福、小田村富久地、旧阯在普甲山云、久理陀ノ神社在上司、多由ノ神社在田井村ノ田井谷、杉末ノ神社在宮津杉末町、伊侶波字類抄、普甲寺延喜中建、在丹後ノ普甲山、普甲山一名与謝ノ大山又呼千丈ケ嶽以界二丹一。

栗田村=新宮(奥山)・脇(脇嶽)・中村・小寺・上司・中津・小田宿野・島蔭・田井・獅子崎・矢原。世帯数571、人口2856

《丹後路の史跡めぐり》
七曲り八峠
 由良の戸から国鉄宮津線のガードの下を通って登っていくと栗田へ通じる旧道がある。巾一・五メートルほどの道に石だたみがしいてあるが、峠を登るにつれて起伏がはげしくなり、道巾も一メートル足らずになる。これが昔の北国街道である。
 美しい由良の港を後に、道は山の中を曲りくねり、いくつもの峠を越して栗田へ出て、宮津の山中へと通じる。これを七曲り八峠(ななまがりやとうげ)という。
 少し登った所に「首挽松」「柴勧進」がある。
 厨子王が佐渡に流された母を助け、丹後守となって下丹した際、姉安寿をねんごろにとむらい、三荘太夫を捕えてこの街道の土中に埋め、通行人に竹のこ切りで首をひかせたという。いま碑が立っている。またこのあたり、一日三荷の柴刈りを命ぜられた厨子王をあわれんだ村人たちが薪を副え与えたところといわれている。
 安寿厨子王の話のちょうど五○年ほど前の長元元年(一○二八)秋、藤原保昌は国司の任を解かれて都へ帰る時、なにゆえか妻の泉式部を丹後へ残している。
 それでも式部はあきらめかねて
   わが袖は涙の浦にあさりせし
     海女のたもとに劣りはやする
とよんでこの七曲八峠を通り、由良湊まで保昌を追っている。
 この頃上東門院(彰子・一条天皇の中宮で藤原道長の娘)より、仏にかける数珠にする貝を取ってくるよう命ぜられて丹後へ来ていた赤染衛門が
   なげきたる身は山ながらすごせかし
     浮世の中になに帰るらん
といさめている。その後式部は山中村へとって返し庵を結んで永住したという。赤染衛門は保昌の弟大江匡衡の妻で、平安歌人として名高い。
   物思う事なくてやみまし与謝の海の
     天橋立都なりせば
                      赤染衛門

 この眺めのよい台地には茶店や人家が数軒あったが、文化十一年(一八一四)七月の大洪水で押し流されて以来無人になったといい、屋敷跡が残っている。


 栗田浜(くんだはま)
 由良から奇勝名具(なぐ)海岸を右に眺めて走ると栗田湾に入る。
 この栗田湾は、天正十年(一五八二)九月十一日、弓木城に退いた一色氏を攻めるために細川忠興の大軍が田辺から軍船をつらねて上陸したところ。ために一色方の河嶋備前守宣久、小倉筑前守、井上佐渡守等の諸将は枕を並べて討死をした。
 江戸時代には湾内での捕鯨が盛んで、藩主が度々見物に来ている。この捕鯨は大正四年まで行われた記録がある。
 戦時中は海軍航空隊、海軍航空廠が置かれたつわものどもが夢のあとも、いまは平和な学都と変っており、府下唯一の水産高校がおかれている。
 中津部落の神宮寺には康永三年(一三四四)春、春屋妙葩と銘の入った宝塔入りの地蔵菩薩があり、妙葩は足利尊
氏の師である夢窓国師の高弟で普明国師といい、当初南禅寺の住職となっていたが、わけあって丹後へ下り舞鶴の余部に神竜山雲門寺を建て、のちに夢窓国師のあとを継いで京都相国寺の二代目住職となった人であり、この人が庵を結んだのが無双岬だといい、その突端に座禅岩がある。また無双岬の南方塔ヶ鼻の海中に突出ている岩の上に八百比丘尼の塔がある。八百比丘尼というのは、若狭神明山に残る伝説で、八百才までも若く美しい姿のまま生きていて、八百年間のできごとを覚えていたという八百姫のことで、立派な宝篋印塔である。
 裏栗田の田井は文政五年(一八二二)十二月十五日朝、栗田、由良、加佐の百姓が大挙して舟で対岸の日置へ押し渡ったところである。さらに由良嶽に近い新宮の狩場は宮津藩の御狩場であったところである。
栗田隧道「溌雲洞」
 栗田から宮津へ通じる栗田峠の旧街道は、新しいバイパスができてから通る人も少なくなったが、その昔は主幹線としてにぎわった。
 峠にあるトンネルを溌雲洞といい、宮津惣村の売間九兵衛(うるま)翁が、明治十七年から三年有余の年月を費して完成させたもので、その徳をたたえて明治四二年九月顕彰碑が建てられた。トンネルの入口に当時の知事北垣国道道の筆で「溌雲洞」「農商通利」と書かれている。

  丹後宮津にすぎたるも のは
  波路じゃトンネル眼鏡橋

という歌があり、眼鏡橋とは宮津城大手門にかけられた大手橋のことである。この溌雲洞の頂は明治以前の旧道で戦時中には高射砲がすえつけられていたが、宮津湾を見おろす眺望はすばらしく、文亀元年頃(一五○一)宮津へ来た雪舟は有名な「天橋立図」をこの頂に登って画いている。

山中の里

 溌雲洞のちょうど裏道、由良の七曲八峠から宮津へ通じる途中に山中がある。
 情熱の平安歌人和泉式部は夫保昌を由良湊へ見送ったあと、京への帰国を断念してここに庵を結んで生涯を終えたという。
 一説に峰山の和泉谷からここへ移り住んだともいう。


  山中にいねられさするや夜もすがら
      松吹く風におどろかされて

 その館には式部桜という大きな桜の木が植えてあったというが、いまは楓の木が植えてあり、その下に式部の墓という宝篋印塔や五輪がたくさん並んでいる。式部が文珠街道の一杯水で出産の女を助けたところから、この塔を安産の神として祀っている。
 長元二年(一○二九)保昌の次の国司として着任した藤原兼房は度々山中の里の式部の館を訪ねて歌物語りなどしたと伝えるが、やはり保昌を失った淋しさはかくし切れなかったらしく暗い歌を残している。

   春来るや花や咲くとも知らざりき
     谷の底なる埋れ木の身は




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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