丹後の地名

舞鶴海軍航空隊
(まいづるかいぐんこうくうたい)
栗田航空隊
(くんだこうくうたい)
海軍航空廠
(かいぐんこうくうしょう)
宮津市上司・小田宿野


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京都府宮津市小田宿野・上司

京都府与謝郡栗田村小田宿野・上司

舞鶴海軍航空隊の概要




《舞鶴海軍航空隊の概要》

景観美を誇る栗田も海軍の村で、今の「府立海洋高校」(上司)や「府立海洋センター」、「宮津エネルギー研究所」(小田宿野)などの周辺が「舞鶴海軍航空隊」の跡地である。
あまり確かな資料がないのだが、伝えられるところによれば、次のようなことという。
飛行場跡といわれる(上司)
↑「航空隊の滑走路跡」と言われている。現在は栗田漁港になっていて、近くの防波堤は魚釣り場などもあり、駐車場として使われている様子。航空隊の門(海洋高校の通用門)

→「海洋高校の通用門」として使われているが、元の航空隊の門だという。




伊根の新井崎に砲台がつくられたのと同じ一九三四(昭和九)年十月、当時の舞鶴要港部に所属する海軍航空隊の設置が決まり、与謝郡栗田村(当時)に水上機の基地がつくられました。栗田湾の北海岸にある現在の京都府立海洋センターは、その飛行場跡につくられた施設で、ここには水上機の発着した桟橋跡が残っています。また、湾をへだてた対岸に建つ京都府立海洋高校の敷地は、航空隊の兵舎跡にあたります。
(『京都の戦争遺跡をめぐる』)

栗田航空隊の跡地(上司)

栗田航空隊誘致運動
 第一次世界大戦は、国内にあるすべての力を戦争に集約させていくという意味でいわゆる総力戦という新しい戦争形式を生み出したが、飛行機という新たな戦闘兵器が登場したのも特徴的なことであった。舞鶴鎮守府は、一九二一年のワシントン会議後の軍縮のムードの中で舞鶴要港部と名称が改められたが、海軍に付属する航空隊設備が必要とされるようになった。しかし舞鶴湾内の場合、山に包囲され悪気流もあることから近接地域での設置が考えられた。昭和三年には昭和六年頃から舞鶴要港部に航空隊の設備が新設されるということが内定した(四−一二九)。そして、その前年、昭和二年頃から栗田村では、政友会の代議士吉村伊助が京都府に交渉し、航空隊誘致運動を開始したらしい(四−一二三、「事務引継書類」栗田村役場文書、以下この項目は新聞史料以外は栗田村役場文書)。
 運動が具体化するのは昭和五年十二月である。この月、栗田村会は全会一致で飛行場に認められることを熱望し、極力運動するという決議をした。栗田村では、隣接の宮津町の応援と京都府知事の賛成を得て、海軍省その他関係筋を歴訪して陳情する手筈を決めている(『三丹新日報」昭和5.12.11)。宮津町も運動を展開する。十二月二十四日、宮津町は栗田村と歩調を一つにして航空隊誘致運動を展開するため、町会の決議を経て三上勘兵衛町長の名で「海軍飛行場設置に付請願」を海軍大臣に提出する。この請願書では、@栗田湾が「裏日本」の中央舞鶴湾と宮津湾の中間に位置し、対岸の朝鮮半島北部やシベリアにも最短距離にあり、湾内は広く風波はいつも少なく背面の山獄は高くなく、海軍飛行場として好適地である、A大正十年、昭和四年の二度の海軍大演習の際の航空隊の根拠地であること、B陸上の交通は至便で、省線栗田駅は舞鶴駅、宮津駅に近い、C近くに天橋立という兵卒を慰藉する場所がある、D舞鶴鎮守府がワシントン会議後要港部と改められて以降、舞鶴のみならず付近地方は漸々衰微している、とその理由を述べ、栗田湾指定を要望した(何、昭和6.1.9)。しかし、この段階では、海軍はまだ栗田湾について、予定地に決めていたわけではなかった。新聞報道によれば、舞鶴を中心とする範囲に航空隊を設置するとしても、予定地は福井県大飯郡の高浜付近、または同じ舞鶴湾内にある加佐郡大浦湾の平方面が有力とされていた(同、昭和6.1・17)。
 この後、どのような運動が展開されたか、史料上不明であるが、昭和九年七月頃には航空隊の場所は栗田村の栗田尋常高等小学校付近(大字上司と中津の中間)の一万八○○○坪の土地に決定し、土地買収についても海軍当局と村当局との協議を終え、七月十一日には測量に着手した(四−一三四)。九月十五日にはこの地で起工式をおこない、その後埋立工事が加佐郡倉梯村の業者によって開始された。この現場監督は呉海軍建築部舞鶴出張所の技師がなり、朝鮮人労働者(人夫)を中心として毎日二○○人以上が就役した、といわれている(四−一三五)。そして、十年十一月九日には舞鶴海軍航空隊開隊式ならびに祝賀式がおこなわれた。時の村長古旗吉太郎は、「日本海方面における空の守りたる海軍航空隊を本村に設けたるは帝国の国防上慶賀に堪えざるとともに本村産業上に至大の好影響をもたらすは実に欣幸とするところである」、と述べている (「事務引継書類」)。
 栗田村では、その後航空隊設置にともなう村の条件整備として、村営住宅建設(大蔵省預金部から二千円借入)、道路改修などがおこなわれていく。また、栗田村は舞鶴要港部司令官代理にたいし、昭和十年七月三十日、非常用水のための消火栓設置、小学校上水道のための海軍水道からの余水分与などを請願し(「昭和十一年 学校水道・消火栓一件」)、航空隊設置による村益追求を図っていく。
 栗田村は、航空隊設置にともなう建設ラッシュを迎え賑わった。しかし、利益だけではなかった。航空隊設置の結果、土地および人夫賃は一挙に騰貴した。そのため、昭和十年三月、村道小寺・山中線改修を計画していた小寺区では、経費の上昇と設計変更により区民総会で土木工事辞退を栗田村役場に届け出ている (「自昭和十年至昭和十一年 会議」)。
 昭和十八年には、日本海側における海軍作戦基地ならびに軍需生産地として第三十一海軍航空廠が小田宿野に建設され、航空廠の建物・宿舎・倉庫・製塩所などが建設された(「事務引継書類」)。それらが、敗戦によりまったく無用の物になり、村に払い下げられていくのはそれから三年後である。
(『宮津市史』は、)

栗田航空隊の跡地←現在の航空隊跡地。
一番手前右側が栗田中学校。その向かいが栗田小学校で。その先が府立海洋高校。ここが舞鶴海軍航空隊の跡地である。
防波堤が二つ見えるが、奥側が栗田漁港で、その海岸にコンクリートの滑走路が残る。
滑走路にしては何か短いような気もする。もっと長かったのが手前側が、グランドにするため撤去されているのかも知れない。

どれくらい役にたったのか、10年のちには敗戦を迎える。
村民らが我に帰ったときは基地や航空廠や火薬庫、寄宿舎などの建物ばかりが藻抜けの殻で立っている状態であった、という。
小田宿野は、航空廠が置かれる以前は食糧を自給していたが、用地買収で4割の耕地を失い、食糧難をきたしていた。払い下げを受け、畑として耕作し、食糧の一部を補給し、官舎および工員宿舎については、同地区の疎開者を収容して、住宅難の解決を図りたいと、昭和20年10月、小田宿野区長は、栗田村長にたいして、旧海軍航空廠の建物敷地および付近の海軍用地計約4万坪と、官舎19棟および工員住宅25棟の建物を同地区が払い下げを一受けられるよう尽力してほしいと願い出た。
一度取り上げたら最後、二度とは返してはくれない。栗田中学校の敷地の一部くらいで、払い下げは数千坪にも及ばなかったといわれる。

海軍航空廠跡地(小田宿野)

小田宿野の航空廠跡地に作られていったのが、府の海洋センターや関西電力のエネルギー研究所である。↑煙突が「エネ研」、その左側が「海洋センター」。

「府立海洋センター」は、昭和51年に20億円をかけて建設された海の総合開発センター。@大型調査船・観測所を備えた学術的な調査研究機関、A従来水産試験場がおこなってきた海の産業育成の試験、指導、B海洋博物館、水族館など海洋、漁業知識を普及する機関、の三部門からなる。という。
府立海洋センター(小田宿野)
「エネルギー研究所」というのも本来は京都府の構想だったようだが、自民党府政に転換したこともあり、性格を変えたようである。現在は発電をしていない様子である。誰も人がいない。3年ばかりチョコチョコと稼働してすぐ停止しているようである。こんなのばかりに振り回されている。見通しの悪さと資源無駄遣いの好見本。
昭和56年9月、関西電力は宮津市の栗田湾に石油火力発電所(75万キロワット)を含む「宮津エネルギー研究所」を建設するため、事前環境現況調査を京都府に申し入れた。
昭和63年10月、宮津市、京都府、関西電力の三者の間で石油火力発電所2基を含む宮津エネルギー研究所について公害防止協定の締結交渉がまとまり締結した。協定は、@府や市の立ち入り調査権、A事故または違反時の操業短縮・停止権、B公害発生時の無過失捕償などを明文化、C大阪通産局を立会人とすることで協定遵守のための国の責任も明確化、D協定に盛り込まれた数値は、硫黄酸化物の場合、国の大気汚染防止法の値の29分の1、窒素酸化物は国、府の規制値の4.6分の1、などを内容とするものであった、という。
平成元年8月、宮津エネルギー研究所の火力発電一号機が通産省の検査に合格、営業運転を開始した。丹後魚っ知館

またこの時関西電力宮津エネルギー研究所PR館「丹後魚っ知館」も開館した。





綾部市民センター(京都府綾部市並松町)も、元栗田航空隊の建物であるという。綾部市民センター(綾部市並松町)
財政難だった綾部市は、栗田航空隊の格納庫の鉄骨払い下げを受けて、1959年に建設を始めた。第1期工事で建物の外郭を築造。資金面から内部の工事にはすぐ取りかかれず、1963年にようやくオープンを迎えたという。高さは約25メートルと当時の公共施設では群を抜く大きさであった、使い勝手の悪そうな、寒そうな暗そうな建物であるが、そうしたリサイクルの来歴をもつ。



栗田航空隊の歴史資料


《宮津市史・資料編》
昭和九年(一九三四)七月、栗田村に舞鶴海軍航空隊を置くことが決定される
一三四[日出新聞]昭和九年七月十三日

舞鶴海軍航空隊敷地決定さる
           府下与謝郡栗田村
【舞鶴電話】新設に決した舞鶴海軍航空隊の敷地はかねてより適当の地を物色してゐたが、愈々宮津港に隣接す
る府下与謝郡栗田村同村小学校附近(即ち大字上司及び中津の中間)に決定し、土地買収に関しても既に海軍当局と村当局との協議を終へ、十一日から測量に着手したが、総面積約一万八千坪に及び広大なもので、近く着工
される筈である



昭和九年(一九三四)九月、栗田航空隊埋立工事が開始される
一三五[日出新聞]昭和九年九月二十二日

栗田航空隊埋立工事開始
    来る廿四、五日頃
【宮津】十五日盛大に起工式を挙げた舞鶴海軍要港部所属栗田航空隊は、過般埋工事の入札の結果、加佐郡倉梯村倉□組に落札し、中津船山から土砂運搬埋立工事を施行する事になって二十日着工する予定であったが、農作物の取入其他の関係上四五日遅れ、二十四五日から開始され、一万八千坪の埋立工事は本年中に工事終了の見込、建築工事は明年早々開始される事なった、現場監督は呉海軍建築部舞鶴出張所から窪田技師が来任就任した、使用人夫は主として鮮人人夫で毎日二百人以上を使用就役せしめる筈で目下夫々準備中である
 ○「鮮人」は当時しばしば使われた不適当な差別的言辞である。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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