丹後の地名

京街道(きょうかいどう)
宮津市


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京都府宮津市京街道

京都府与謝郡宮津町京街道

京街道の概要




《京街道の概要》

江戸期の京街道沿いで市街地の中央部になる。市街地の中央を南北に通じる旧京街道(府道9号線・宮津街道・主要地方道綾部大江宮津線・高速を降りた下の改修された広い道路が京街道で、当地は市街地の入り口になる)をはさんで位置する両側町。北は宮本、東は柳縄手、南は京口町、西は大久保に囲まれた南北300m余の細長い区画だが、智源寺の敷地だけ西へドーンと突出している。以前の京街道は城下町らしくずいぶんと狭く曲がった街道で、どっちへ行けばいいのかもわからなくなるようにしていて、よそ者には迷路であったが、インター以後の改修で広く真っ直ぐ、超立派なものとなっている。
京街道は、江戸期〜明治22年の地名。町家地と武家地からなる。町家地は職人町組に所属する。元禄16年の御城下絵図によると町筋は万町から上ノ夜番所に至る78間余で道幅4間、宝暦年間にも京街道町として町並み南北78間、道幅4間。家数は宝暦年間27軒、明治19年38軒、同21年38戸。同22年宮津町の大字となる。
京街道は、明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。

《京街道の人口・世帯数》139・57

《主な社寺など》智源寺(宮津市京街道)
曹洞宗松渓山智源寺

市内ではもっとも整った伽藍。本尊は釈迦三尊。寛永2年宮津藩主京極高広が慶長17年に没した母惣持院殿松渓智源禅尼の菩提を弔うために、心庵を招じて朱光庵を改めて智源寺としたと伝える。
朱光庵は慶長5年細川藤孝の田辺籠城の時細川氏と行動をともにしなかったため、関ヶ原合戦後寺領は没収され、寺もろとも田辺の桂林寺の支配とされていた。
本堂格天井の草花図は円山応挙門下20人の画家の筆。智源禅尼の墓は当山内墓地にあり、高さ3メートルの五輪石塔が立つ。



《交通》
府道9号線(京街道)

《産業》


京街道の主な歴史記録

《丹哥府志》
曹洞宗惣録司末寺六十七ケ寺、大久保稲荷の次。松渓山智源寺は、京極高広の開基なり、開山を心庵禅師といふ。元朱光庵いふ庵なり、寛永二乙丑年京極高広妣総持院殿の為に伽藍を建立す、今の智源寺なり。総持院殿は京極高知の室高広の母なり、慶長七年四月五日卒して総持院殿松渓智源大禅尼といふよって松渓山智源寺と號す。其終る所はその何れの地や詳ならず、今寺内に其墓なりとて五輪あり、高サ一丈許三面に梵字を刻す、其台石に法名并年月を記す。其傍に京極高治及京極氏の臣落合伊木二氏の墓あり、京極高治き高広の二男京極下総守といふ、故あって寺に来り自殺せしぬ。伊木氏の墓に前大客袍物夫伊木有菊常紀と記す。

《丹後宮津志》
智源寺
末寺六十三ケ寺を有する中本寺なり。京極高広公先妣惣持院殿松渓智源膳尼菩提の為めに心庵禅師を招じて寛永二年に朱光庵を改めて創立する所なりとて京極家は勿論歴代藩主の優遇あり

宮津町=本町・魚屋・新浜・宮本・万・金屋谷・小川・白柏・河原・住吉・漁師・杉末・川向・宮町・蛭子・池ノ谷・万年・万年新地・鶴賀・波路・波路町・安智・外側・吉原・中ノ町・京口・馬場先・松原・京口町・木ノ部・京街道・大久保・柳縄手・島崎。世帯数2212。人口9190。

《与謝郡誌》
松溪山智源寺
 宮津町字京街道にあり、本尊釈迦三尊、京極高広の創建にて開山を心庵禅師となす、曹洞宗中本寺格にして末寺六十三ヶ寺を有す、故と朱光庵といふ草庵なりしを寛永二年乙丑京極高広の妣総持院殿松溪智源大禅尼の爲めに伽藍を建立し草庵を改めて寺院とす、蓋し総持院殿は京極高知の室にて慶長十七年四月に率して法名を松溪智源といふ寺号山號之れより出づ、本堂天井圓山応挙十哲の花鳥書あり(写真参照)今山内に墓あり高一丈餘の五輪塔の臺石に法名年月を刻す、傍に京極高治の墓あり高治は高広の二男下総守といふ故ありて寺に来りて自殺す、尚ほ家臣落合、伊木二氏の墓も當寺にあり、寺宝黄金聖観音像一躯(安永元年辰四月二十五日大須賀権之助裏の畑より掘出し領主本荘公へ差上げ後に杲り当寺へ下賜)

案内板智源寺案内板
智源寺   宮津市字京街道
 禅曹洞宗松渓山智源寺は、寛永二年(一六二五)宮津藩主京極高広が、その母(総持院殿松渓智源大禅定尼)の為に建立し、心菴盛悦和尚を迎えて開山とした寺である。この地にはもと珠光庵があったが関ケ原戦ののち細川忠興によってとりつぶされた。智源寺は専ら京極氏の庇護によって寺運隆盛に赴いたが、京極高国時代に至って京極家の内紛がおこり、遂に寛文六年(一六六六)高国は改易となり、寺は一時困難な時代を迎えた。
 それより前寛文元年九月、永平寺は智源寺に僧録状を与えた。文面は、一国曹洞宗の寺院・僧侶の守るべき掟を示して智源寺がきびしくとりしきることを命じたものである。僧録状はその後幕末に至るまでに度々発せられた。いまもその多くは寺蔵されている。寛文七年配下末寺は九十一ケ寺を数えた。
 裏の墓地には寺の歴史を語る貴重な墓碑がある。
総持院殿の墓−墓地奥最上段五輪塔
伊木常紀の墓−庫裡裏 無縫塔 伊木は大坂夏の陣で眞田幸村の将、敗れて宮津に来り京極家臣となる。
京極高治の墓−庫裡裏 五輪塔 高治は高国の弟、故あって当寺で自殺
沢辺家の墓−経蔵裏 六基 天橋義塾や民権運動に大きな足跡を残した沢辺正修家の墓地、但し正修の墓碑はない。
その他、境内入口にある子安地蔵石彫像は安政四年(一八五七)中郡鱒留の石工二代松助の作、本堂天井貼付紙本花卉図は江戸時代京都円山四条派・土佐派の競作である。高治自殺の時に使ったと伝える血染柳橋図屏風(桃山時代)もある。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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