京都府宮津市松尾
京都府与謝郡世屋村松尾
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松尾の概要
《松尾の概要》
市の北部で、世屋川中流域左岸に位置し、北方に夕霧山(624m)を望む。標高およそ200〜250mの農山村地域。東は下世屋に通じる。過疎化は著しい。
松尾村は、江戸期〜明治22年の村名。「慶長郷村帳」の世野村のうち。はじめ宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同21年の戸数39。同22年世屋村の大字となる。
松尾は、明治22年〜現在の大字名。はじめ世屋村、昭和29年からは宮津市の大字。
《松尾の人口・世帯数》11・4
《主な社寺など》
地主荒神
板野四郎左衛門城跡
松尾上世屋城趾 下世屋城趾
世屋村にあり松尾は坂野四郎左衛門上世屋は上野甚太夫の城墟なり足利義昭に仕へし上野中務太輔の子息にして足利氏滅亡後一色松丸に壮へて丹後にあり、又同村字下世屋前野宇助の居りしといふ。
(『与謝郡誌』) |
《交通》
《産業》
松尾の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎松尾村(下世屋村の奥)
【地主荒神】
【坂野四郎左衛門城墟】 |
『京都の昔話』
舌切り雀
昔にお爺さんが雀飼っておいでて、かわいがって、かわいがって。ほいたら、お爺さんが山に行きなっただし、お婆さんがのりを煮といて、雀に、
「この番をしとってくれえ」言うて、川へ行きなったいうて。帰ってみたら、その雀がみなのりをねぶってしもうとったいうて。
「どうで(どうして)のりをなめてしもうた」
「ちょっとねぶってみたら、でえれえうまかったで、もういっぺんねぶったら、またおいしかって、またわぶって、みななめてしもうた」。ほしたら、怒ったお婆さんが、
「そんことするもんは、障子の穴から舌を出えとれえ」。雀が舌を出えとったら、はさみでチョキンと切ってしもうて、雀はたって逃げてしもうた。
お爺さんがもどってくると雀がおらん。
「雀はどうした」
「わしが川へ行って、洗濯してもどって来たら、のりをみなねぶってしもうて、はらがたったで、障子の穴から舌出させて、舌切っちゃったら、たって逃げてしもうた」。お爺さんは悲しゅうて悲しゅうて、
「ほなら、弁当つくってくれえな。捜しにいってくる」言うて、弁当つくってもらって、
「したきりすーずめ、どーこどこ、したきりす−ずめ、どーこどこ」言い言い捜しにいった。
薮のあたりまで行ったら、
「ああ、お爺さん、来とくれたあ」言うて、雀がたったと下りて来て、
「よう来とくれた。まあ、お爺さん、こっちへ来とくれえ」言うて、薮の中へ連れていって、へえで、泊めてもらうと、なやのすみから、あわひとつ、おもてのすみから、米ひとつ、にわのすみから、あずぎひとつ取ってきて、どえらえごっつぉうさんしてくれて。ほして、そのごっつぉうよばれて、晩にはみんなしておもしれえ踊りして見せてくれた。よく朝になると、
「みやげにこりょをあげる」言うて、つづらを出えてきて、
「お爺さん、重てえほうがええか、軽いほうがええか」言うから、
「お爺さんは年がいっとるから、軽いんがほしい」
「ほんなら軽いんをあげるから、家へいんでからやなけりゃ あけんとってくれ」。
ほいでお爺さんは軽いのをもらって、もどってあけてみたら、もうたくさんな小判がぴかーりぴかーり光つとって。ほしたらお婆さんが、
「まあー」、障子の穴からだか見とんなって、お爺さんあんなええもんもらってきたんだったら、わしも行ってこういうんで、あくる日弁当つくって、
「したきりすーずめ、どーこどこ、したきりすーずめ、どーこどこ」言うて、薮のあたりまで行ったら、
「お婆さんが来とくれたあ」言うて、まあ、迎えに出てきただし。へえから、
「まあ、こっちへ入っとくれえ」言うて、雀があずぎやら麦やらあわやら取ってきておいしゅうねえごはん食べさして、
「お婆さんは、つづらは大けえのがええか、小さえのがええか」言うたら、
「わしは丈夫なさけえで、大けえのがええ」
「ほんなら大けえのをあげるから、座敷へもってあがらんと、土間でな、どっこも戸しめといてあけな」。
ほれでお婆さんは、負うてもどろう思うたら、重とうて重とうて、休み休みやっとのこと帰って、どっこも戸をたててじきに土間であけてみたら、いっかなこと、くそ蛙やら、蛇やらが出てきてお婆さんを噛み殺えただって。
語り手・水口よし
猫の思返し
むかし、猫をたいそうかわいがっとったお婆さんがおったと。晩げ、お婆さんが寝ると、猫はお婆さんの寝床へぽそんとはいっちゃあ寝るもんだと。
「猫や、 もうわしは年寄ったで、おまえを養えそうにねえわ。なんとかしてくれなあ」いうてしたら、
「ニャオン」いうて言いましたげな。
「さあ、はあ寝ようで」いうたら、猫は、
「ニャオン」いうて、お婆さんは寝床にはいって寝ただし、猫はいつもはいる寝床にはいらんと、猫の穴からコトトンいうて出たと。
「あら、猫は今日はわが床へ入らんと、出るわ」思うて、ほいでまあ朝までおった。朝ま起きていろりの灰をかこうとしたら、お金が二銭、テンコロンとしたて。
「あらまあ、こんなとこにお金ども置きゃあへなんだのに、どうだ(どうして)こんなとこにあるんだろう」て、ふしぎに思って、その日を暮らいとった。また晩になって、
「猫や、寝ようで」いうたら、また、
「ニャオン」いうとりました。ほいたらまた、お婆さんは寝るし、猫はコトトンいうて音さして出ますのやし。おかしいなあ思うて、また明くる日も灰をかこうとしたら、お金があったて。それから三日目、また晩になって、
「さあさあ、また寝ようで、猫や」いうとったら、
「ニャオン」いうて、また出ましたで、「今日は見とどけちゃろう」思って、お婆さんは猫が出たあとからずーっとあとすだって、見え隠れについていったそうな。この村越えて、もうひとつ先の村へ行ったと思たら、猫は笛吹いて、あんまさんに化けましたよ。ほして、ある家へ行って、あんまをいっしょうけんめいにやっとりました。
「はあ、あんなことをしてもうけてきてくれるんだなあ。わしはあんなことを言うたでのう、連れて帰って食わしてやらねば」と思て帰ってきた。けど、猫はお婆さんに見られたもんやさかいに、それっきり帰ってこんかったと。ほいで、おしまい。
語り手・水口よし
鼠の餅搗き
むかし、お爺さんが弁当持って畑を打ちい行った。桑の木に弁当かけといて、さあ、ご飯食べようと思ったら、弁当がころころ、ころころ、穴の中へころげていって、それで、それを追いかけて下りたら、広いところへ入った。ほいたら、ようけの鼠が小判の餅搗きしとった。
「これのうちには、猫さえおらにゃ、わしらが世の中、ジャクリン」言うちゃあ搗いとって。へだもんですけえに、お爺さんが、
「ニャオーン」言うて猫のまねをしたらダーツと鼠が逃げただし。小判を全部さらえて帰ったら、そしたら、お婆さんが、
「どうで(どうして)、こねん(こんなに)よけえをなあ」言うたら、
「ころげた弁当を追いかけていったら、ころころどこまでもころげて、穴へ入ってしもた。ついて穴へ下りたら、鼠が小判を搗いとって、猫の鳴きまねしたら鼠がみな逃げたで、取ってきただわや」言うたら、お婆さんが、
「よし、爺さんがええことやったんなら、うら(私)もそりゃあしよう」いうて、またおんなじように弁当持っていって木にかけといて、ほいで昼になった。ほしたらまた、おんなじように弁当が落ちた。ついて行ったら、こんだぁまた、おんなじように鼠が小判搗いとった。ほいで、猫の鳴きまねしとったら、こんだぁ反対こにようけ鼠が出てきて、お婆さんを噛み殺したわな。
それこそ、いちごぶらり。 語り手・水口茂子 |
『両丹地方史』(S39.12.30)
亡びゆく村々を思うて
宮津市 岩崎英精
前略。本日これから申しますことは、他の諸先生方のようご研充発表ではありませんで、実は私どもの位に奥丹後地方に、ここ数年来ひきつづいておこりつゝある恐ろしい現象、それは幾百千年の歴史ある山村が、次ぎ次ぎと潰れていくという事実につきまして、これはやがて全国的にひろがる性質の現象でもありますので、この際ぜひとろ皆さん方に絶大なるご関心をいただくよう、お訴え申し上げたいものであります。
ご承知のとおり、かって徳川時代によくみられた「逃散−ちょうさん」ということ、すなわち村中が先祖伝来の故郷を捨てて一夜のうちに住民が離村して村が潰れてしまうという事実、その「逃散」が昭和の今日、自民党政府の政治のなかで、あちらにもこちらにもみられる現象なのであります。私はこの事実を「現代的逃散」と申しておりますが、実に白夜堂々と「逃散」が行われ、しかも徳川時代のように「強訴・徒党・逃散」といって、幕藩による圧制への抵抗としての犯罪ともみられないで、政府も地方行政体もほとんどとこれという対策もないままに、住民は村を見捨てて離村してしまうのが、まことに現代的逃散にみられる特長であります。
そこで私共の住む奥丹後地方で すでに亡びてしまった村々をあげますと、左のような実状でありまして、なんとも言葉にもあらわしえぬようなひどい有様であります。その村々こいうのは…
宮津市。旧日ヶ谷付の牧、旧世屋村の麻谷・松尾・駒倉・旧府中村の西谷・東谷。
与謝郡。伊根町旧筒川村の田坪・吉谷。
竹野郡。丹後町旧豊栄村の力石・旧宇川村の竹久僧・旧野間村の住山・小杉。
といった実状でありまして、これらはいずれも現在潰れた旧藩時代の村々であり、町村制施行後は大字部落乃至小字であります。
いま申し上げた村々は例外なく山村、丹後半島の屋根といわれる五〇〇メートルから七〇〇メートルの山々に囲まれた山村でありますが、この幾百千年の歴史に生きてきた村人が、先祖代々の墓をはじめ、苦心して築きあげた家屋敷も、先祖代々の血と汗とで育ててきた田畑、さらに個人の、あるいは共同の山林原野までも見捨てゝ、これらがいずれも経済的生産の価値を失って、まさに自然にかえってしまっても、何処からも誰からも一円の金も補償してはくれないのであります。
しかもなおこれらの人々は村を棄てゝ出てゆくのでありますが、その出てゆかねばならぬ理由がどこにあるかと申しますと、それは「もうこの村ではとても生活が成りたたないから…」という一語につきるのであります。ある週間雑誌や新聞には昨年の豪雪に将来を絶望して出るんた…などと書いていたのもありますが、この人々は断じて単なる豪雪、一年や二年の大雪でヘコタレたのでは決してありません。楽しい生活、平和な暮しができるのなら、こうして先祖伝来の村を捨てるでしょう、もっとも多少の時代的影響はありましても、断じてこれらの村々が潰れるといった現象はおこらないはずであります。
いわば、そこには豪雪よりも台風よりも、もっともっと恐ろしい現代的飢餓が彼ら村人をおそい、日夜ひしひしとその苦しみが肌にせまってくる昨今の生活、この怖ろしい現代的飢餓にたえられなくった人々が個々にまた集団で、村々を見捨てゝ出てゆき、そうして村は潰れ亡びるのであります。
ではいったいその怖ろしい現代的飢餓とはどこからきたのでしょうか、それは戦後の生活環境の激変、ことに自民党池田内閣の「所得倍増政策」の結果でありまして、独占的な資本のみにはほゝえむ所得倍増政策こそは、豪雪よりも台風よりも怖ろしい飢餓の波であり、こゝにこそ現代的「逃散」は当然におこるべくしておこりつゝあるのであります。
おそらく以上申し上げた村々だけが亡びたのではなく、きっとこれからもどしどしと亡びる村が出るでしょうし、これはやがて全国的規模において現われる前徴であることも間違いないと思うのであります。
さて私が皆さんに訴えて、お願いしたいことは、ここであります。私はここで政治を語り、社会経済を云々しているのごはなく、このようにして潰れ亡びる村々と、その村々をつつむ村や町や市の、その歴史の変化を、この際ぜひとも強い関心をもって見守り、お互に地方史を目標とするものが協力して、私たち現代人の責任においた、後世の若い人たちに誇りをもって引継ぎうるような歴史を明らかにすべきだと思うものであります、どうかこの歴史の激変期に、ぜひとも皆さん方と共に、進ませていただきたいものであります。 (完) |
松尾の小地名
松尾
上垣 向ヒ 中ノ尾 クラカケ 大マガリ ヱノキ坂 清水田 清水 田畑 伊根口 ミノビ垣 茨谷 ハザコ 宮ケ谷 森ケ坪 岡田 森ノ上 ヤケ 木戸口 クロブク 半五郎 ノマゴ タダ池 八尾デ 池田 池田谷 メグリ町 クラ町 ヒル町 野道 中ノシ ヨコマチ ゲンニヨ 中ノシ谷 渡リゼ 向中ノシ 大清水 大工原 大清水谷 柳原 山ギセ 横ケ谷 峠 フケ ソシバシ 奥ケト コヱクビ 船ケ谷 家ノ上 大田 アキ畑 坂畑 滝ワキ 向畑オテ 伊根内 向畑 向畑川ラ 通り町 スゲ畑 下田 オテ谷 ホツサコ オク バンヤケナル イノタチ イノクチ谷 杉ケ谷 スギガタニ ウリウ町 谷畑ケ イバラ谷 向イ山 中ノ尾 オイ ハザコ 大ナル 下タ川 前垣 下タ道 芋谷 土垣 イガミ 丸岡 上垣 丸岡垣 タカノス ツキノキ イラカケ 芋ノ谷 東ケ谷 内畑ケ シノビ垣 ハザコ原 クラノ町 ツミバシ ホリ道 ジヤバミ 六田 シヲギリ スケ畑 向畑坂 ケヤキ川 滝ツキ 向ヒ畑 向ヒ畑ヲテ 向ヒ畑坂 伊根町 向畑上 向畑川原 ヲテ谷 ヲリ 谷畑 ヲク 芦谷 中尾 上クラカラ 本ケ谷 ヱノ木坂 向ヒ山 向山 ケヤキ川 イガミ クラマチ スゲ畑 下ハザコ 清水田 アヲギ畑 丸岡谷 出合
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