京都府宮津市畑・下世屋・松尾・東野・上世屋・駒倉・木子
京都府与謝郡世屋村
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世屋村の概要
世屋川および畑川流域で世屋川の中・上流、世屋谷を占める。中世から近世にかけて、与謝郡野間村の小杉・味土野・野中・中津方面に連なる要道、ガラシャも歩いた道。今も道はあるよう、私は通ったことがない−
世野村は、早くは鎌倉期に見える村名で、建久3年9月日付の丹波某願文に「野間世野者、境内勝地也、此有霊験所、号之妙徳寺」と見える(願文集・鎌遺624)。ここに記す妙徳寺および同年月日付の丹後伊津部恒光等願文(願文集)に「当州野間世野之内、有甲勝地、号西方寺」とみえる西方寺についての詳細は不明。
「民経記」貞永元年5月巻裏文書の年月日未詳丹後国在庁官人等解にも「国領野間世野村《惣名永久保》」と見え、「野間村住人家高并成利等」が私文書をもって両村を延暦寺に寄進したことから、当時山門使が両村に乱入するという事件のあったことが知られる。また、ここでは野間・世野両村が永久保と総称されているが、その後、「康正二年造内裏段銭并国役引付」や「丹後国田数帳」には永久保として見えているという。
「永久保」は野中の大宮神社所蔵の棟札に「奉造立永久保[ ]大明神御殿壱宇正慶元年壬申九月廿日」とみえ、丹後国田数帳にもある。丹後国御檀家帳に「大せや 片岡七郎左衛門」、近世の「丹後旧事記」は「上瀬屋村 上野甚太夫・片岡宗十郎」、「宮津府志」は「野間野中村 里民上野殿舘の跡と称す。按是上世屋村山上に上野氏何某の城跡と云あり是れ同族なるべし」と記す。世屋谷が野間村とともに「永久保」とよばれ、室町−戦国期には片岡氏・上野氏らに支配されていたことをうかがうことができる。田数帳にみえる片岡与五郎は室町幕府走衆という。
江戸期には上世屋村・下世屋村が成立。京極高知時代の「慶長郷村帳」には上世野村と記し、松尾・東野・駒倉・木子・下世野村を「上世野村之内」としている。京極高国時代の「元和郷村帳」には世野村と記す。村高はいずれも428石余。
世屋村は、明治22年〜昭和29年の与謝郡の自治体名。畑・下世屋・松尾・東野・上世屋・駒倉・木子の7か村が合併して成立。旧村名を継承した7大字を編成。大正9年402世帯・1、394人。昭和29年の戸数246・人口1、287(市町村合併史)。同年宮津市に合併し、村名解消。村制時の7大字は宮津市の大字に継承された。
上世屋・下世屋の集落は、世屋谷の中心として周辺の山林に入会権を広くもち、近世以来、副業として紙漉を営んできた。その余業として、天然の藤づるを原料として藤布を織り、畳の縁や沿海漁村の漁具などとした。紙濃は明治末年に廃絶したようであるが、藤布織の技術は現在もわずかであるが老人たちの間に伝承されている。
府が過疎に歯止めを掛けたいとして丹後半島縦貫林道を1969〜1980に建設した。これは観光用のドライブウエーではない、大資本が乗り出してきて大資本的観光開発をしてせっかくの自然や集落に伝わる古くからの本物の文化を全部潰してしまうことがないよう若者達がユメとキボーを持って住み続けられるよう建設されたという。
しかしこれでも歯止めはかからない。炭はダメ、牛もダメ、繭も、もちろん米も、木もダメ。大雪で孤立する、道がない、という問題よりも大きな問題がある、何苦あるのか知らないが、あなたならユメとキボーを持って住み続けるだろうか、あなたは住むかも知れないが、子は住むだろうか。この問題は何も世屋だけに限ったことではない、日本のほぼ全土がそうであろう、1000兆円の狂気の大借金を若者達に押しつけてヘッサラ政治が産み出した大問題である、若者はユメもキボーも持てない、もともと経済基盤が弱い地域にいち早く現れたもので、次はみなさんの住む所へまわってくる問題であろう…
「世屋高原地区」は丹後半島のほぼ中央に位置して、標高500m〜600mの稜線が連なる高原。近畿有数のブナ・ミズナラ等の落葉広葉樹林や希少な動植物、渓流、湿原や山頂から真下に海を見下ろす半島ならではの眺望景観があり、棚田などの文化景観を含み、さまざまな自然風景を見ることができる、として07.8.3「丹後天橋立大江山国定公園」に指定された。62番目に指定され、現在日本では最も新しい国定公園になった。
↓丹後縦貫林道を走る
《世屋村の人口・世帯数》131・66
《交通》
《産業》
セヤとは
手元の書籍をまとめると以上のようなことであるが、ワタクシ的に興味が引かれるのはセヤという地名。神社や山号や山や川の名にも残るが、成相寺の山号でもある、成相寺と関係する以上は何か深い意味があるのではなかろうか。これは何のことであろうか。学者も知らない古い言葉で、丹後にはこの古語にアタックした先人はなかったのではなかろうか、狭谷とする書もあるが、そうではなかろう。この辺りでは谷をヤとは呼ばない。
しかしこれがわからないと世屋はわからない。丹後がわからない。(以下書きかけ)
『古事記』に見える勢夜陀多良比売
大后と爲む美人を求ぎたまひし時、大久米命曰しけらく、「此間に媛女有り。是を神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、三島溝咋の女、名は勢夜陀多良比売、其の容姿麗美しかりき。故、美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便爲れる時、丹塗矢に化りて、其の大便爲れる溝より流れ下りて、其の美人の富登(此の二字は音を以よ。下は此れに効へ。)を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎。(此の五字は音を以ゐよ。)乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比賣命と謂ひ、亦の名は比賣多々良伊須気余理比売(是は其の富登と云ふ事を悪みて、後に名を改めつるぞ。)と謂ふ。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり。」とまをしき。 |
『日本古典文学大系』本の頭注は、
セヤは未詳。或いは地名か。ダタラは踏鞴(タタラ)でフイゴに因んだ名。踏鞴は鍛冶に使う道具で、鍛冶は雷神=蛇神と信仰上密接な関係があった。 |
としている。
上世屋の世屋姫神社の祭神も恐らくこの勢夜陀多良比売とは同じ性格の神と思われるのだが、世屋川の竜神、鼓ヶ岳(成相寺山・成相山・施谷山)のツツ、ヘビのいた山でなかろうかと思われる。『丹哥府志』は、
…世屋、野間の二庄は高山深谷の間にあり。凡七、八里の處四方皆山なり。西丹波、竹野二郡の境に高尾、金剛童子、小金山、市ケ尾、東の方海の境に鼓ケ嶽、千石山、太鼓ケ嶽、其中間には世屋山、比富の尾、露なしケ嶽、是其最大なるものなり、其間無名の山岳挙て数ふべからず、… |
としていて、鼓ヶ岳は世屋山(施谷山)ではないようだが、地名を拾ってみると、
神奈川県横浜市瀬谷区
奈良県生駒郡三郷町勢野
長野県松本市征矢野
常陸国久慈郡世矢郷
常陸国筑波郡佐野郷
摂津国西成郡讃揚郷
遠江国佐野郡
セヤはタタラとセットで、同じものと思われる娘の名は富登多多良伊須須岐比売。ホトとも関係があり、どうやら製鉄と関係したものの名と思われる
『鬼伝説の研究−金工史の視点から−』は、
…ヒトタタラはホトタタラと同一になる。だとすると神武紀に出て来る陰部踏鞴五十鈴姫と同一になってくる。陰部踏鞴五十鈴姫は姫踏鞴五十鈴姫と後に改称されているが、例の丹塗の矢が便所に入っている勢夜陀羅姫の陰部に突きささり、姫は狼狽(いすすぎ)でその矢を床に置くと美男子となり、その美男子と勢夜陀羅姫の間に生れたのが陰部踏鞴五十鈴姫であり、妙法山の怪物とこの姫様は同一の名になって来る。だからこの怪物の実体が捉えられると、陰部踏鞴五十鈴姫は、もちろん丹塗の矢が便所で陰部に突きささったこともどういう事態であるかということが分かって来そうで、面白くなって来る。タタラといえば、それだけで一般に古代の製鉄のことのように思いがちだが、そうでもなく綿繰の足踏器もタタラだし、馬が前足をバタバタさせるのもタタラという。だから、火所踏鞴の方が、本当の製鉄炉のことだ。
したがって妙法の怪物もまた陰部踏鞴五十鈴姫も、製鉄炉に関することだということが想像される。そのためにも奥妙法、とくに狩場刑部左衛門を祀っている樫原行きは、果して樫原が古代の鉱山採掘場所であるかどうかを決定するのに重要な地点である。 |
稗田阿礼や宮人たちは製鉄など知らなかったのか勘違いをしているようだが、ホトというのは「火処」のことで、ヒトとも呼ばれるが、福知山市大江町日藤、尾藤などはそうかも知れない、溶鉱炉のことと思われる。
従って、
『原日本考(正篇)』は、
…且つ其の御名は勢夜陀多良比賣と、こゝにも陀多良即ちタタラの御名を現はしてある。日本書紀はこれに対しては前掲の引用文の如く、玉櫛媛の御名を伝へてあるが、その婚ひの相手方たる事代主神そのものが、鉄産に関係のある蛇の傳承を多大に負ふた神であって、且つ出雲系の大神であることを考へると、古事記所傳の媛の御名も、決して偶然のものでないことが認められる。…
因みにタタラは風送り装置を従属した土製の壷で、この壷に砂鉄と木炭とを入れて点火し、風送を行って壷中の炭火の燃焼を熾んにし、高温度を起さしめ、砂鉄の熔融と鉄の分離を起させる仕掛けのものである。原初に於て此の風迭り装置は獣の皮嚢を以て行はれた。壷も手に提げられる程度のものであった。セヤダタラのセヤは鉄を意味する古代湮滅語の一つである。 |
サシスセソは鉄を意味すると思われるが、セヤのヤは何か。
『万葉集』巻二十4398。ここは読めないのかほったらかしになっているが、「於此曾箭」という言葉がある。ここを「負征矢(おひそや)」と一般に訳していて、征矢とは戦争の対人用の矢だとする。
そうかも知れないが単に「鉄矢」ということかも知れない。そんなことはわからない、ここにしか用例がない。世界に一つだけの地名のようなもので意味を決める決定打がない、通説は強烈に疑うのが正解と私はいつも思う。
ここの曾箭は鉄の矢だと誰かが書いていたように記憶するが、思い出せない。
銅矢(カグヤ)という言葉があれば、鉄の矢を意味するソヤとかセヤ、サヤという言葉があっても不思議ではない。軽矢は銅鏃の矢、穴穂矢は鉄鏃の矢だそうで、穴穂矢という言葉は見られるが、ソ矢は文献上では『万葉集』のこの一句だけがあるいはそうではなかろうか。
丹塗矢に化りて…などと、矢は今でも意外とそうだと思うが、神様そのものを意味することがある。カグヤは銅の矢ではあるが銅の神様の姿でもあり、セヤは鉄の矢ではあるが、鉄の神様の姿でもあるのではなかろうか。矢というかカジリだけかも知れないが−
↑ 神社で販売しているもので、これは魔除けかも知れないが、羽根が二枚しかない、これは実際には使えない、途中でキリキリ舞してしまうそうである。実際には三枚矢でなければならないという。
穴穂(穴太)はまた、阿保の名をもつ阿保親王およびその子の在原業平ともつながりがありそうなのであるが、業平の子の在原棟梁が住んだという田原の里が世屋のすぐ北方にある。
世屋村の主な歴史記録
『丹後御檀家帳』
一 大せや ひをきの近所
片岡七郎左衛門殿 かうおや |
『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
『丹哥府志』
世屋の庄。
世屋、野間の二庄は高山深谷の間にあり。凡七、八里の處四方皆山なり。西丹波、竹野二郡の境に高尾、金剛童子、小金山、市ケ尾、東の方海の境に鼓ケ嶽、千石山、太鼓ケ嶽、其中間には世屋山、比富の尾、露なしケ嶽、是其最大なるものなり、其間無名の山岳挙て数ふべからず、是以平田ある事なし僅に一畝半畝を集めて田とす、重に苅畝(木子村条下に出す)を以て黍、豆を作る、女は藤を織て以て業とす。七、八月の頃より少づつ雪ふり、三、四月の頃までも猶雪を見る、十二月前後六、七十日の間雪の積る二丈三丈に及ぶ、依って人家も雪に埋みて山岳の差別あることなし、其人穴居するが如く昼は松を焼いて明をとる、雪の漸く晴るるを待てテンヅキ(雪を除す道具の名)を以て櫓より穴をあけて、カンヅキ(雪を歩る履の名)といふものをはきて隣家と好みを通ず。人は甚だ正直なりといへども世間を知ざる處なれば教も届きかね五倫も慥と分らぬ事と聞しが、今は大いに開けて噺の如くにはあらで婦女は荀も紅粉を粧ふら至る、全く聖治に化せられて斯こそなりぬ、今日の勢なれば平家の落武者も此處を撰びて隠れ家とはせまじと覚ゆ。
◎下世屋村…略…
◎畑村…略…
◎松尾村…略…
◎東野村…略…
◎上世屋村…略…
◎駒倉村…略…
◎木子村…略…(各項目を参照して下さい) |
『両丹地方史』(S39.12.30)
亡びゆく村々を思うて
宮津市 岩崎英精
前略。本日これから申しますことは、他の諸先生方のようご研充発表ではありませんで、実は私どもの位に奥丹後地方に、ここ数年来ひきつづいておこりつゝある恐ろしい現象、それは幾百千年の歴史ある山村が、次ぎ次ぎと潰れていくという事実につきまして、これはやがて全国的にひろがる性質の現象でもありますので、この際ぜひとろ皆さん方に絶大なるご関心をいただくよう、お訴え申し上げたいものであります。
ご承知のとおり、かって徳川時代によくみられた「逃散−ちょうさん」ということ、すなわち村中が先祖伝来の故郷を捨てて一夜のうちに住民が離村して村が潰れてしまうという事実、その「逃散」が昭和の今日、自民党政府の政治のなかで、あちらにもこちらにもみられる現象なのであります。私はこの事実を「現代的逃散」と申しておりますが、実に白夜堂々と「逃散」が行われ、しかも徳川時代のように「強訴・徒党・逃散」といって、幕藩による圧制への抵抗としての犯罪ともみられないで、政府も地方行政体もほとんどとこれという対策もないままに、住民は村を見捨てて離村してしまうのが、まことに現代的逃散にみられる特長であります。
そこで私共の住む奥丹後地方で すでに亡びてしまった村々をあげますと、左のような実状でありまして、なんとも言葉にもあらわしえぬようなひどい有様であります。その村々こいうのは…
宮津市。旧日ヶ谷付の牧、旧世屋村の麻谷・松尾・駒倉・旧府中村の西谷・東谷。
与謝郡。伊根町旧筒川村の田坪・吉谷。
竹野郡。丹後町旧豊栄村の力石・旧宇川村の竹久僧・旧野間村の住山・小杉。
といった実状でありまして、これらはいずれも現在潰れた旧藩時代の村々であり、町村制施行後は大字部落乃至小字であります。
いま申し上げた村々は例外なく山村、丹後半島の屋根といわれる五〇〇メートルから七〇〇メートルの山々に囲まれた山村でありますが、この幾百千年の歴史に生きてきた村人が、先祖代々の墓をはじめ、苦心して築きあげた家屋敷も、先祖代々の血と汗とで育ててきた田畑、さらに個人の、あるいは共同の山林原野までも見捨てゝ、これらがいずれも経済的生産の価値を失って、まさに自然にかえってしまっても、何処からも誰からも一円の金も補償してはくれないのであります。
しかもなおこれらの人々は村を棄てゝ出てゆくのでありますが、その出てゆかねばならぬ理由がどこにあるかと申しますと、それは「もうこの村ではとても生活が成りたたないから…」という一語につきるのであります。ある週間雑誌や新聞には昨年の豪雪に将来を絶望して出るんた…などと書いていたのもありますが、この人々は断じて単なる豪雪、一年や二年の大雪でヘコタレたのでは決してありません。楽しい生活、平和な暮しができるのなら、こうして先祖伝来の村を捨てるでしょう、もっとも多少の時代的影響はありましても、断じてこれらの村々が潰れるといった現象はおこらないはずであります。
いわば、そこには豪雪よりも台風よりも、もっともっと恐ろしい現代的飢餓が彼ら村人をおそい、日夜ひしひしとその苦しみが肌にせまってくる昨今の生活、この怖ろしい現代的飢餓にたえられなくった人々が個々にまた集団で、村々を見捨てゝ出てゆき、そうして村は潰れ亡びるのであります。
ではいったいその怖ろしい現代的飢餓とはどこからきたのでしょうか、それは戦後の生活環境の激変、ことに自民党池田内閣の「所得倍増政策」の結果でありまして、独占的な資本のみにはほゝえむ所得倍増政策こそは、豪雪よりも台風よりも怖ろしい飢餓の波であり、こゝにこそ現代的「逃散」は当然におこるべくしておこりつゝあるのであります。
おそらく以上申し上げた村々だけが亡びたのではなく、きっとこれからもどしどしと亡びる村が出るでしょうし、これはやがて全国的規模において現われる前徴であることも間違いないと思うのであります。
さて私が皆さんに訴えて、お願いしたいことは、ここであります。私はここで政治を語り、社会経済を云々しているのごはなく、このようにして潰れ亡びる村々と、その村々をつつむ村や町や市の、その歴史の変化を、この際ぜひとも強い関心をもって見守り、お互に地方史を目標とするものが協力して、私たち現代人の責任においた、後世の若い人たちに誇りをもって引継ぎうるような歴史を明らかにすべきだと思うものであります、どうかこの歴史の激変期に、ぜひとも皆さん方と共に、進ませていただきたいものであります。 (完) |
『丹後路の史跡めぐり』
秘境世屋谷
日置から世屋川にそって狭い谷間をぬって入ると世屋である。丹後でも有数の積雪地帯、下世屋をすぎて上世屋へ登る道に竜溪橋(りゅうけいばし)がかかっている。下の世屋川をのぞくと驚くほど深く、石をおとすとゆっくりと落下していく。紅葉の名所でもある。
この世屋はいまはよその土地で廃れた藤布織りを伝承している唯一の村で、近頃民芸品としてその価値が見直されるようになった。
上世屋を登ると日本海の見える世屋高原につき、ここから右へたどれば木子、左へたどれば駒倉となり、丹後半島の屋根とよばれるこの高原に縦貫道路が走っている。
文治元年(一一八五)丹後国守小松忠房は源氏に捕えられて鎌倉へ護送中近江で斬られ、家臣矢野長(弾)左衛門頼重と、主馬判官盛久は忠房の公子を守って逃れようとしたが、盛久は成相山の一の辻堂で捕えられ、鎌倉へ送られて斬られた。頼重は二人の公子を死んだと見せかけて自分の子とし、兄を十郎弟を五郎と名づけて出家をさせた。のち親鸞上人に乞うて兄に教念弟に祐念の名を貰い、兄を木子に、弟を駒倉にそれぞれ一族を従わせて住ませた。これが木子の教念寺、駒倉の唯念寺である。
しかし駒倉の唯念寺は廃村によって取りこわされいまは石碑が立っている。また代々平家の赤旗が伝わっていたというが、一説にこの旗は竹野の此代(このしろ)から駒倉に売り渡したものだともいう。
木子にはもと丹波篠山の武士であった赤松伊左衛門という大地主がいたとかで、
木子の伊左衛門の刈畑見れば
七尾七谷七へらい
という歌が残っている。へらいというのは山の斜面をいう。
元久三年(一二○六)九月この村に悪疫が流行したので木子、駒倉二社の神体をなべ淵に投じたところ、流れ流れて宇川の上野についたので四社に加えて六社として祀ったという。そのなべ淵に親鸞上人真筆という「帰命尽十方無碍光如来」の十字の碑が建っていて、何か神秘ないわれを秘めていそうである。
野間の味土野、小杉、三舟、そうしてこの木子、駒倉などには昔深山幽谷に住み、みい、木わん、茶器などをつくって、一般の人とは交わらなかった木地師がいたが、後世、世屋の浅谷(いまは廃村)にうつり住んだという。木地師は小椋族(おぐら・巨椋とも)ともいい、いまもこの地方に椋のつく姓がある。一説にこの小椋族は新しく入ってきた他の部族に追われて浅谷へ逃げ、その時に祀っていた氏神を他部族に投棄されたものといい、この他部族とは切支丹ではなかったかという説もある。
木子や駒倉におりたいけれど
粟の草取りや陽に焼ける
駒倉へ越す道は天正十年(一五八二) 六月、父明智光秀の罪を負った細川忠興夫人ガラシアが稲富一夢らを従えて野間の味土野へ入った道で、宮津大久保の城から船で日置へ、日置から駕籠で世屋へ入り、そこからは徒歩で駒倉へ登り、峠を越えて味土野へ入ったといわれる。
いまはこのあたり過疎現象がはげしく、駒倉、小杉、三舟などは廃村となり、味土野、木子もまた廃村一歩手前にあるが、最近丹後縦貫道路かつくられてからは、にわかに脚光をあびてきている。 |
『宮津市史』
藤織り
宮津市の山間部・世屋地区では、藤織りと呼ばれる織物が今日まで伝えられている。この藤織りは、山に自生する藤蔓の皮を剥いで糸をつくり、これを用いて織った織物である。
大正十二年(一九二三)の『与謝郡誌』によれば、大正九年当時、世屋村(宮津市字上世屋、下世屋、木子、駒倉、東野、松尾)では、農家の副業として六三戸の八三人が藤織りに従事し、二九五反を生産し、五九○円を得たと記されている。
木綿以前の織物 世屋地区でノノと呼ばれた藤布は、北海道や沖縄を除く全国各地で織られていた。江戸時代の中ごろから木綿の普及に伴い、庶民衣料は木綿へとかわっていった。綿の栽培のできなかった高冷な山間部では、明治・大正期に入っても藤織りが行われていたが、生活様式の変化とともに、次々と姿を消していった。しかし、現在でもこの藤織りの技術は、上世屋・下世屋などをはじめとする地域において継承されている。
以下は、この地で行われる藤織り工程の概要である。… |
『京都新聞』(06.11.11)
週末おでかけナビ
世屋高原
木々色づき眺望も最高
京都縦貫自動車道宮津天橋立インターチェンジから車で約一時間。海沿いの国道からのびる蛇行した山道を上るにつれ、木々が次第に色づき、ひんやりとした風を感じる。
世屋高原は、丹後半島の屋根といわれる標高六百bを超える山に近く、府内有数の豪雪地だが、豊かな自然に恵まれている。海岸線から比較的距離が近いため、海側に向かって眺望が開けている場所が多い。
なかでも、岳山山頂(六三七b)の展望台からの眺めは圧巻。岳山の登山口から、リンドウなどの山野草のある登山道を三百五十bほど歩くと、急に視界が開け、東側に若狭湾、舞鶴方面が一望できる山頂に至る。
地元の人は「今年は例年に比べ、紅葉が遅い」と心配するが、見渡すと木々はところどころで色づいている。岳山から同高原最奥部の集落、木子に至る途中には高層湿原の大フケ湿原が広がる。辺りには貴重な動植物が見られ、地元の住民グループなどの自然観察会が行われている。
湿原は、枯れた植物が分解されずに泥炭化し、一万四千年かけて約三bの層を形成しており、教育上、研究上注目すべき場所として府のレッドデータブックにも掲載されている。…
〈エリアカイド〉岳山登山口付近には、駐車スペースが あり、ここを起点に岳山や大フケ湿原を散策できる。周辺 にはペンションなど宿泊施設があり、天候がよければ夜は空一面に星を見ることができる。冬上季は雪遊びやスキーの山歩きもできる。ただ、府道は道幅が狭く、特に12月以降の積雪時は十分な準備と注意が必要。 |
『宮津市史』
大フケ湿原
大フケ湿原は上世屋の北方、木子との境界付近の高度五四○〜五四五メートルに位置し、上位小起伏面の地すべり地形内に発達している。北(高度五四四メートル)と南(高度五四二メートル)の二つの湿原に分かれており、その面積は約二・五へクタールである。北湿原は木子川(野間川の支流)と世屋川との分水界に位置し、両側に水を排水している。また、せまい水路によって南湿原と結ばれており、水は世屋川へ流出している。水温の低い貧栄養性湧水により高層湿原が涵養されており、オオミズゴケの大群落が全面をおおって発達している。また、ヒメシダ、ミズギボウシ、カキラン、トキソウ、モウセンゴケ、ヒメシダ、オトギリソウ、コガマ、サワアザミなどの貴重な湿原性植物が群集をつくっている。さらに、コオニユリ、オカトラノオ、ホソバオグルマ、アケボノソウ、ウメバチソウ、レンゲツツジなどの稀少植物も分布している。中央の高まり(ブルテ)にはアカマツ、ツゲ、ササ、ナナカマドなどが侵入している。また、府指定天然記念物のハッチョウトンボが生息している。このように、学術的に価値の高い生物や生態系が保存されている点で貴重である。しかし、上世屋と木子を結ぶ道路に面しており、貴重な植物を持ち去る心ない人もいて、自然保護の大切さを訴える必要がある。 |
湿原というから低い所にあるのかと思っていたら、山の頂上である。自然保護の観点からあまり詳しく書きません。
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