京都府与謝郡与謝野町三河内
京都府与謝郡野田川町三河内
京都府与謝郡三河内村
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三河内の概要
《三河内の概要》
加悦谷平野の真ん中あたりの西側、野田川左岸に位置する。地名の由来は、野田川・岩屋川・加悦奥川の3川に三方を囲まれていることによるという。また当地の式内社・倭文神社の祭典には野田川畔から対岸明石村の須代神社にむけて神招きを三度呼ぶ行事があり、この招きにより須代社の祭神須瀬理妃が、弟の天太玉命・天明玉命とともに当地へ来て祭礼を行うという。ここから「御神地(みごち)」と称したとも伝えている。平坦な耕地が広がり、国道176号が南北に貫通。国道に沿って街村形態を成している。
三河内村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。
近代の三河内村は、明治22年〜昭和30年の自治体。大字は編成せず。大正15年加悦鉄道敷設、丹後三河内駅と三河内口駅ができ、のち高校前駅ができた。昭和30年野田川町の大字となる。
三河内は、昭和30年〜現在の野田川町の大字。平成18年3月からは与謝野町の大字。
《三河内の人口・世帯数》 2428・831
《主な社寺など》
梅林寺銅鐸(比丘尼城跡銅鐸)
京都府下からの銅鐸の出土は、記録のあるもの、全部で13個、丹後は7個だけれども、そのなかではずば抜けて立派なものである。山腹から入れ子状態で二個が出土したが、うち一個は失われている。
『野田川町誌』(写真・図も)
三河内青銅器埋存遺跡 三河内小字比丘尼城。標高一七六・四メートルの山腹から、享保十七年(一七三二)四月、梅谷の治郎が袈裟襷文銅鐸(弥生後期)を二個発掘した。大きさは高さ一・一六メートルであったが、一個は破損していて文化年間梅林寺の梵鐘鋳造の際漬された。この地域は、巨岩が麓まで連なり、この山を囲んで集落の跡も見受けられる。かかる場所で、青銅器が神聖な器物として供えられ埋められた。この付近は、式内社(古社)が鎮座しており、また、池沼などもあるところから、弥生式時代よりの「祭祀の地」と考えられる。銅鐸は重要文化財(昭和三十三年三月指定)で、現在、京都国立博物館に保存されている。 |
七三二年(享保十七)、三河内区梅谷(うめがい)の次郎というものが、発見した。一七六一年(宝暦十一)「丹哥府志」に、
「文化年中、寺の後山より古銅器を掘出せり。其状釣鎌の如くにして釣鐘にあらず、まず宝鐸の類なり。大小二ツ相重り高さ三尺五寸径一尺三寸其厚僅に二分、上に竜頭あり、其左右に穴各ニツ其半腹の下にも左右に穴各ニツあり。金の性は所謂唐金なり、其廻り今緑青を塗るに似たり、地紋は日本の模様と見えず(以下略す)。」
また、一八二六年(文政九)十一月の「宮津日記」には、
「享保十七子四月九日三河内村端郷(はご)梅カヘト申所ノ岩屋ノ城山ニテ、釣鐘ノ様ナル物二ッ掘出シ御城へ上ル。長サ四尺斗リ廻リ三尺五寸斗リ、カラカネ鋳物ニテ模様殊ノ外美敷物也。当時鋳物師等仲々可致事難成旨申上ル、其形何トモ名ヲ付候者アラス。」
と記されている。かかる史料から見て、銅鐸の発見地は聚落から離れた小高い斜画で、銅鐸は単独に地下に埋められていたものが多く、これは人為的に埋められたと想像してよい。
三河内の比丘尼城が、祭祀の場として、当時の農民が、朝夕に崇めたことから、原初のころの「霊山」であったことがわかる。
弥生式時代の遺跡が、三河内の小字的場にあり、竪穴住居址と言われ、弥生式土器が出土し、また、付近には貝塚があったと考えられる。「オオノガイ」の白色貝殻が、地下三メートルの地点に黒粘土層にまじり発見された。山田のムカイ山、黒田山の付近には、弥生式土器が発見され、上山田の舘小字ナカイノの水田よりも、土器が、また、石川の奥山タベカネにも、弥生式土器が発見されている。 |
梅林寺蔵銅鐸
三河内村の梅ヶ枝の背後幾地、岩屋両村地界なる通称比丘尼城より発見せしものにて大さに於ては本邦有数の鐸なり。丹哥府志に古代の宝鐸と題し次の如く云へり。
文化年中寺の後山より古銅器を掘出せり其状釣鐘の如くにして釣鐘にあらずまづ宝鐸の類なり。大小二つ相重り高サ三尺五寸径一尺五寸其厚僅に一分上に龍頭あり其左右に穴各二つ其半服の下にも左右に穴各々二つあり金の性は所謂唐金なり其廻今緑青を塗るに似たり地紋は日本の模様と見えす「下略」
此の鐸に就ては本府の調査報告左の如く載せたり。
三河内村梅林寺ノ銅鐸
梅林寺ノ銅鐸ハ同村ノ中比丘尼城ト云へル地ヨリ出土シタリト伝へ形状図版ニ示ス如ク銅部底長径一尺三寸二分同高二尺四寸鈕高一尺一寸二分アリ大形銅鐸中ノ代表的ノ形ヲ取リ文様ハ袈裟襷ノ系統ニシテ主ナル分子ハ格子目紋ト複合鋸歯紋ノ二者ナリ而シテ両側ノ鰭ニ又三個ノ小耳アリ鈕ニハ同シク大形ノ渦紋状ノ耳ヲ附ス鋳造頗ル精巧ニシテ形式整ヒ全体ノ形状ニ於イテ紀伊国日高郡雨請山近江野洲都大岩谷伊賀国名賀郡湯舟等ニ出土セル鐸ト酷似セリ。
此ノ鐸寺伝ニ依るルニ古ク徳川時代ノ中頃三河内村ト岩屋村ノ堺ノ山腹ニシテ寺ノ乾ニ当ル上記比丘尼城ト云フ地ヨリ出土セル二個ノ一ナリ埋没ノ状態ニ就イテハ一日村童四五ソノ地ニ遊ビ山腹ノ傾斜面ヲ下レル際偶然鐸ノ一部ヲ見出シ土人梅谷治助ナルモノ掘リ獲テ寺ニ納メタルガ内一ハ破損アリ文化年間同寺楚鐘鋳造ノ時鋳漬シナ今存スルモノ他ノ一ナリト云フコレニ就イテ同寺所蔵ノ文化五年辰三月ノ「鐘鋳記録帳」ヲ験スルニ内ニ此ノ銅鐸ニ関シ次ノ二記事アリ。
(一) 比のかね当山の乾にあって比丘尼城といへる城跡有嶮岨峨々として松柏枝を交へずそのかみ延享年中大雨降続所々山崩多し此物彼山之辺りに漸嶺貳三寸斗兀山に顕れり樵父業のひまに彼地に至りあやしみ是を掘出せば異形変物也早速御地頭青山公に御入覧に入れ所一家中受に号る者那し其後江戸表に遣し諸家に見せしむれ共一つ以て実号なし斯ろ稀代之物掘出せしは其村はんねひなる端ならん速に梅林寺納宝物と致すべしと御下知を蒙り夫より六十余年の間永く宝蔵に納置今鐘鋳参詣の衆生へ開扉致所是に名付る人あらば竊に聞かまほししと。
(二)(前略)然る所四十八年以前宝暦十辰之九月廿七日之昼八ッ時壹寺焼失仕候其節右之鐘茂焼落申候就夫焼鐘を用候ば村方不繁昌之由申伝侯得共共鳴昔格別不劣候義に御座候此儀如何事哉先年比丘尼城與(銅鐸ノ図アリ略)如此之カネ二ッ掘出シ壹ツハ当寺什物ニ罷在候壹ツハ掘出シ申候節余程損シ致出来候ニ付打割鋳鐘ハ入申侯義ニ御座候其故歟響能候様言伝由候(下略)
前峰ノ記事ニ依レバ鐸ノ発見年次延享中ニシテ発掘ノ状態ハ稍寺伝ト異リ本寺ノ所蔵ニ帰セル経過ヲ明記セリ耐シテコレニハ同時二二口ノ発見ヲ云ハズ後者ハ之ニ対シテ寺伝ノ如ク発掘ノ二口ナルヲ記シ内一口ハ破損ノ爲鋳鐘ニ際シ加へタリトアリ云々(梅原末治氏)
之れが駿見の年月に就いては宮津日記下の春に矢ノ記の記事を引きて左の如く云へり。
同十七年子四月九日三河内村端郷梅カヘト申所ノ岩屋ノ城山ニテ釣鐘ノ様ナル物二ツ掘出シ御城へ上ル長サ四尺斗リ廻リ三尺五寸斗カラカネ鋳物ニテ模様珠ノ外美敷物也当時鋳物師等中々可致事難成旨申上ル其形何トモ名ヲ付候者アラズ。
同十七年とは享保十七年のことなり梅ヶ枝と岩屋村と幾地村とに跨がる山を比丘尼城と云ひつゝあれば斯ら関係上岩屋の城山など云へるなるべし。鐸の内部に梅枝、治郎と墨書す恐らく発見当時の筆記ならん。
(『与謝郡誌』) |
三河内の銅鐸
加悦谷は三河内を境として加悦町と野田川町にわかれる。
享保十七年(一七三二)の四月九日、三河内梅ケ谷(うめがえ)の治助という者が、比丘尼山の大木の根元から高さ一○七センチと七○センチの大小二個の銅鐸を発見して持ち帰り、梅林寺に納めた。
人々が寄り集まっていろいろ考えたが、どうしても何物かわからない。そこで藩主青山候にさし出したが、ついにわからないままに再び梅林寺へ返された。小さい方は破損していたので寺の釣鐘を鋳る時に鋳つぶしたと伝えられている。この銅鐸は袈裟襷文様で、人物禽獣の絵のあるまれに見る立派な物であるが、須代銅鐸よりも新しいといわれている。昭和三三年三月重文に指定され、須代銅鐸とともに京都博物館に陳列されている。
この梅林寺の近くの倭文神社の社伝に、昔神の木の下に人々が集まって宝物を祀り、供物を飾り宝器をならして植付けを占ったという。この宝器が銅鐸ではなかったかと思われる。銅鐸の出た桑飼明石の須代神社はこの社のちょうど野田川をへだてて真向いにあり、その中間に一本木がある。昔はここに神の木が植えてあったという。榊の木のことであろう。
倭文神社の祭りの時、祭礼の行列は橋の上からこの一本木を見とおし、須代神社に向っていっせいに「おーい」と呼びかけるならわしがある。昔両社の神は夫婦であったという。倭文神社の祭神は天羽槌雄命で、織物の神様である。しずり布を織った倭文部の氏神である。しずリ布とは椿布、麻布、苧布(からむし)のたて糸を青糸などに染め、横縞に織った布である。舞鶴にも倭文神社があり、やはり天羽槌雄命を祀っている。
境内に古墳があるが、出雲に関係のある布を織り銅鐸をもったこの二社の部族は同族で、部落こそちがえ力をあわせて生活したのであろうか。そしてある時突然他の部族から征服を受けた時に、それぞれその宝器を大急ぎでかくしたのではなかろうか。
(『丹後路の史跡めぐり』) |
加悦谷の銅鐸
また丘麓の台地から平地にかけては、弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡も点々と散布している。さらに、この谷からは、弥生時代に農耕の祭祀に用いられた宝器と推定されている銅鐸が、三口も出土しているのは特筆される。すなわち、野田川町三河内比丘尼城から出土の二口の銅鐸(現存一口、突線鈕式袈裟襷文銅鐸、梅林寺蔵、京都国立博物館寄託)
と、加悦町明石須代神社境内出土の流水文銅鐸(京都国立博物館蔵)がそれである。
(『京都考古学散歩』) |
古墳(『岩滝町誌』より)
三河内の荒神山古墳 三河内小字梅谷、荒神山にあり、山頂にある円墳が四基群存する。一号古墳は、高さ五メートル、長径一四メートル。
二号古墳は、高さ三メートル、長径一六メートル。
三号古墳は、高さニメートル、長径一四メートル。
四号古墳は、高さ五メートル、長径一〇メートルで、いずれも、完全に現存する。
三河内の金毘羅山古墳 三河内小字中坪、金毘羅山にあり、山頂に円墳が三基ある。一号古墳、二号古墳は、ともに完全に現存するが、三号古墳は、横穴式石室で、昭和四年十月二十五日発掘して現在全壊、玄室の幅一・六メートル、長さ三メートル、出土品は直刀一口、金環一、切子玉三、須恵器三個である。
三河内の石崎古墳 三河内小字中坪、倭文神社境内にあり、円墳三基、前方後円墳一基、計四基で、円墳一号は、高さ四メートル、長径一五メートル。
円墳二号は、高さ二・五メートル、長径一〇メートル。
円墳三号は、高さニメートル、長径七メートル。
前方後円墳は、全長六〇メートル。いずれも、完全に現存している。
町内文化史跡を訪ねて・三河内・石崎古墳
三河内小字中坪、倭文神社境内(鎮座地は石崎といわれ明治維新までは石崎大明神と呼ばれていた)にあり、円墳三基、前方後円墳一基の計四基で、参道手前から一号、二号とし、円墳一号は、高さ四米、長径十五米、円墳二号は高さ二・五米、長径十米、円墳三号は、高さ二、長径七米、前方後円墳は、全長六十米、いずれも完全に現存しています。
ところで、円墳は、平面形が円形の高塚墳墓で、盛土の形が最も自然であり、古墳時代各時期を通じて普遍的に築かれております。
また、前方後円墳は、古墳を上から見たとき、円形の墳丘の一方に、方形の墳丘を付けた形のもので、わが国独特の形式だそうです。
(『町報野田川』(昭和54.11.30)) |
三河内の吉崎稲荷古墳 三河内小字森谷にあり、丘陵端に円墳横穴式石室を有し、高さ六メートル、長径二〇メートルで、半壊状態である。
三河内の砂原古墳 三河内小字砂原にあり、山腹に横穴式石室の円墳が二基ある。一基は全壊し一基は完全に現存する。
三河内の西ヶ谷古墳 三河内小字西ヶ谷にあり、山頂に円墳が二基、いずれも、完全に現存する。
三河内の小森山古墳 三河内小字小森山にあり、山腹にある円墳で、長径三メートル、短径一・ニメートルで、完全に現存する。
小森山一号墳と現地の案内板↓
小森山1号墳
この古墳は、平成2年5月から7月にかけて当教育委員会が発掘調妻をしました。
墳丘は、東西で約9m、南北で約10mの規模をもっています。
この古墳の特徴として、墳丘に沿って並んでいる3列の列石があります。この列石は、墳丘の土が崩れないように置かれたものですが、墳丘の装飾も兼ねたものと考えられます。
埋蔵施設は、石を積み上げて死者を葬る部屋(玄室)とそこに入るための通路(羨道)でできている横穴式石室((無袖式)と呼ばれるものです。石室の全長は約7.3mで、奥壁の幅は約1.3m、高さが約1.5mあります。
出土遺物には、石室内で須恵器の坏身と鉄刀、石室外で須恵器の坏身・横瓶などがあり、この古墳は6世紀末に造られ7世紀初め頃に再び埋葬(追葬)が行なわれたものと考えられます。
羨道入口には何がを焼いた跡があり、土師器の小皿・黒色土器が出土していることから、12世紀末(平安時代末)から13世紀頃(鎌倉時代前半)にかけて何らかの儀式があったものと推測されます。
平成4年 3月
野田川町教育委員会 |
三河内の古堤古墳 三河内小字奥地にあり、丘陵端に円墳が三基あるが、いずれも全壊している。横穴式のもので、土器類が出土している。
比丘尼城址
三河内山城趾
三河内村比丘尼城にあり有吉玄蕃頭の居住せし所なり、玄蕃頭は有吉将監の子にして将監一族は元と足利の党なるも応仁の戦に落ちて一色に救はれ安郎山に居る天正六年日置の松井に諌められて細川の家士となり爾来一色に叛して與謝郡内の城を攻め殊に加悦谷村々の城は之れが爲めに多く落城す玄蕃頭の子與吉郎は功によりて細川より姓を賜はり長岡内膳と称すと。
(『与謝郡誌』) |
三河内山城跡 俗に比丘尼城といい、自然の地形を利用した天険の要塞である。城主は、有吉将監の子玄蕃頭で、もと一色氏の家臣であった。しかるに、天正六年(一五七八)、与謝郡日置の松井四郎右衛門に攻められ、細川氏に降って一族家臣となった。先祖は、宇多源氏、佐々木氏流で、父将監と加悦安良山城に同居していたが、天正年間、当城に拠り一色氏に反抗した。地名として馬場、城ヶ谷、古堤(沼地)が残っている。父将監の位牌は、加悦町算所の浄見庵にあり、「直指院殿前親衛寛玄大居士、天正十一癸未年四月十日、安良山城主有吉将監源立言」とある。
(『野田川町誌』) |
倭文神社
↑与謝郡式内社とされる倭文神社の例祭は、「三河内曳山祭」と呼ばれ、各町内から豪華な屋台が繰り出すことでたいへん有名。この日はその祭日で境内はすごい人並み。
「丹哥府志」には「石崎大明神」とあり、祭神は天羽槌雄命。旧村社。式内社倭文神社については、この社のほかに、「丹後旧事記」「丹後一覧集」「丹後細見録」などに筒川村(伊根町)とする説が載るが、それらしい社は彼の地には今は見当たらない。明治2年に現社名に改号した。改号については同社所蔵文書に、
一 産土神改号御上へ書上シ写
倭文神社石崎大明神祭神天羽槌雄命、鎮座年月不分
明、産土神ト奉称候処、当所之儀往昔筬村ト云伝へ
機織ノ祖神トシテ毎年至今其御徳不尠祭日ニハ近郷
ヨリ麻苧ヲ持チ群参仕来リ候(中略)
奉伺口上覚
石崎大明神 祭神羽槌堆命
倭文神社ト奉改号度候
明治二巳年三月 三河内村 神主細見長門[
寺祠御役所 |
とあるという。
倭文神社
【覈】水江日量里本庄村ニマス【明細】三河内村祭神羽槌雄命祭日八月朔【道】三川内村石崎大明神ト云【式考】同上此社モト筬村ト云處ニ鎮座ト云傳フ今社ノ近クニ筬村アリ【豊】三河内村字石崎山祭神羽槌雌命九月十一日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志
(「丹後国式内神社取調書」) |
倭文神社
三河内村字中坪鎭座、指定村社、祭紳羽槌雄之命、当社明細帳によれば天平勝寳の頃筬村の森に鎭座ありて織物を始め玉ひ延喜の頃醍醐帝御信仰あらせられ後貞応対二年今の地に奉遷せしとあるも如何に哉。丹哥府志には石崎大明神と載せて倭文神社と云はず。延喜式に列する倭文神社は丹後旧事記、丹後一覧集、丹哥府志、丹後細見録皆筒川村にありとなす。明治六年二月村社に列せられ明治四十年三月一日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。氏子三百六戸、境内末社金刀比羅、穴之奥、七社の小祠あり拝殿、幣殿、神庫籠舎、社務所等整備せり。祭典五月壹日。
当村小字梅谷に梅谷神社あり無格社にて荒神を祭り他に奥山に愛宕、大道に恵美須、小谷に嚴島、森谷に稻荷、岡山に島峯等の祠あるも何れも無格社にて殆んど荒神を祀る。
(『与謝郡誌』) |
倭文(しどり)神社(延喜式内社) 三河内小字中坪
天羽槌雄命を祀る。
「羽は布帛の義。槌は借字にて、ツはノに通う助辞。チは例の尊称なり。天照大神の天岩屋に隠れ給いし時、高皇産霊神の命によって文布(アヤヌノ)を織り作れる神なり。倭文氏は其の後胤とす」(大日本神名辞書)。
大祭は、旧来、「八朔祭」といい、旧八月一日であったが、現在は、四月二十五日に行なう。
また、特殊な祭典もある。各町の屋台が小字上地に集合し、行列が繰り出される。小字中坪の奥山川にかかる橋畔で、その行列が停止し、小字梅谷の大幟組が持っている金色の幣を高く捧げて、東に向い神招きを三度呼ぶ。口碑伝説によると、向いの加悦町明石に鎮座されている須代神社の祭神須勢理妃(歌手)命、その弟倉稲魂命、並びに天太玉命(祭祀)と天明玉命(玉造り)の兄弟が、この招きに応じて三河内に来られ、共同して祭礼を行なうといい伝えられている。境内には、金刀比羅、穴の奥、七社の小祠がある。また、倭文神社には、四基の古墳があり、昭和五年秋に、史蹟保存会が結成された。鎮座地は、「石崎」といわれ、明治維新(神仏分離令公布)までは、石崎大明神と呼ばれていた。
なお、小字岡田山に高峯、小字梅谷に尾崎荒神、小字奥山に愛宕、小字大道に恵美須、小字森谷に厳島、小字中坪に志布那志、小字奥地に筬岡の各社がある。他に福森に稲荷社がある。
(『野田川町誌』) |
町内文化史跡を訪ねて・倭文神社(三河内)
倭文神社は、和銅四年(七一一)当地方において初めて綾錦を織ることとなり、当時の国造海部直愛志が朝命を奉じて倭文大神をこの三河内の里筬村(おさむら)に奉斉されたのが創りだと伝えられています。
倭文大神の“倭文“とは、之頭(しず)、欺図梨(しずり)、之頭於利(しずおり)ともよみ、その意は上古の織物のことであると、日本書紀、万葉集等々で明らかにされています。
倭文大神なる御祭神は天羽槌雄大神、別の御名建葉槌大神です。
貞応二年(一二二二)に至って筬村から今の石崎の森に奉遷され、じ来明治維新までは石崎大明神と尊称されていました。
なお、境内には五基の古墳があり今も保存されています。
(『町報野田川』(昭和56.6.15)) |
舞鶴今田にも加佐郡式内社の倭文神社がある。地元ではイブン神社と呼ばれている。「あれは本当はシドリと読むんですよ、知ってますか」などと教えてもらったりするが、「へぇそうですか、シドリって何のことですか」と聞き直すと「よう知りまへん、織物の神様やといいますけどな」ということであった。
学者でも難しい問題である、織物だから現物が残らない、倭文とはどんなものかは実は謎。天武13年紀に倭文連の賜姓の記事があって、倭文、此云之頭於利の訓注がある、シズオリが本当でシトリとかシドリはその転訛のようであるという。
しかし伯耆一宮の倭文神社(祭神・下照姫)には、織物に関する伝承は一切ないという。祭神の天羽槌雄命は、紀の、倭文神建葉槌命のことだろう、猛々しい刃の霊という意味か、経津主命でも手に負えなかったゴッツイ強い星神香香背男を服させた、刃物を作った鍜冶神の意味かも。。
『郷土と美術79』「暖流と湖の文化」(井上正一)に、
新撰姓氏録鳥取部の項によると鳥取部の祖神としてユガワタナをあげており、この神は角凝魂(つのこりむすび)゙命十三世または三世の子孫とされています。これらの神はいずれも倭文部の祖神となっていますので、ユガワタナの神も倭文部の祖神の一人であると考えられます。このシドリのいうのはシズオリの約でこの部民たちは山野にひろく自生しておりとくに川や湖の周辺に多い野生のカラムシ、カジの木などの幹の皮から繊維を採取して、これを原始的な織機にかけて粗い布をつくっていたものであるといいます。このユガワタナが倭文部から鳥取部への移行については「歴史研究」第238号の東京の芦野泉氏が註記されているし、氏はわざわざ当地へも調査に見え直接いろいろ伺う機会を得ました。とにかく当地にユガワタナの神の際祀が集中していることに興味をもち、今この地が丹後織物の主産地として発展していることは古代人たちの願望が強く残されているものと理解しております。 |
とあって、倭文氏は鳥取氏とは同類か前身のようである。捕鳥部万が物部氏が亡ぼされる際に第一線で防戦に当たったように、もともとは物部氏の一族であろうと思われる。
丹後の場合は倭文氏がいる位置が、三河内は銅鐸の位置、今田は舞鶴鉱山の位置なので、単に織物専門氏ではなかろうとは察せられるが、新撰姓氏録など見てみれば、それが裏付けられる。
全国には機織姫が片目だという伝承を持つ地方もあるとか、スーパー・テクノロジー同士であって、機織と鉄は意外と近いもののようだし、沼河比売は巻機を織ったとも伝わり、玉作りとも関係がある、当地でも鉄の磯砂山に七夕伝説があるようなことである(丹後は玉作り遺跡は多いが、伝説はいまだに見いだせないのだが…)。
普通は、倭文織は日本古来の織物であるので、外来のアヤ(文)に対し(しつ→いづ〔賎〕となるので)卑下して倭文の文字を当てたともいわれ、拷・麻・苧などの糸を染めて交織したもの。一般には麻織物をいう。シツは麻である。麻布は白いがのちにいろいろに染めた。といわれた。
京都新聞96.7.12に、鮮やかな絹袋に鏡収納*天理・下池山古墳から出土*青、緑の縦じま文様*卑弥呼献上と同種か?邪馬台国論争に波紋*の記事があって、
絹は、織り方などから、ナゾの織物とされる日本特有の「倭文(しどり)」に当たり、卑弥呼の献上品として魏志倭人伝が伝える「班布(はんぷ)」にも当たる、との見方が有力。
古代の絹のほとんどは九州北部の出土だったが、倭人伝記載の絹とみられるものが、その時代に近い大和で出土したことで、邪馬台国論争にも波及しそうだ。
また、この鏡は竪穴石室の外側に別の施設を設けて埋納されており、儀式の際のシンボルなど、特別のものだった可能性も一層強まった。
鏡は二月に出土。布片が鏡面に張り付いていたため、電子顕微鏡などで科学的調査が行われていた。その結果、ウサギの毛で織った毛織物と真綿、茶色の絹織物、縦じまの絹織物の四種類が確認された。表に毛織物、裏地に縦じまの絹織物を使い、内側に真綿などを挟んだ布を、巾着(きんちゃく)のような袋にして鏡を入れていたとみられる。
倭文とみられるのは、裏地の絹織物で、青や緑色の縦じまの文様が鮮やかに残っていた。横糸が一a当たり二十五本なのに、縦糸は七十四本とち密で、縦糸のしま模様の部分には大麻が使われていた可能性もある。織り方から、日本製で、染料は藍(あい)などとみられる。
倭文は、倭(日本)特有の文様・織物の意味で、日本書紀などに記され、青色の織物と推定されているが、実態はよく分かっていなかった。
班布は、卑弥呼が二三九年に魏に使いを出した際に、奴隷とともに献上された。「班」には「列」とか「まだら」の意味があるため、今回のような、しま文様の織物ではないかと推定されている。 |
これがのちの丹後縮緬に結びついていくのかはよくわからないが、倭文氏は金属も織物もこなせるのだから殖産技術者の渡来氏(倭人といってもいいような)である、たぶん天日槍系、しかしより古い渡来氏である。のちの新来の新しい技術を持った渡来氏と比べて古く日本古来のなどというのであって、この古来はせいぜい数百年の差ではなかろうか。この時代でも技術は日進月歩であった、島に閉じこもって何百年も外に目が向いてないと完全に取り残される。丹後はこうした物部系の古い渡来技術、それよりもさらに古いと思われる渡来技術が直接伝わっていて、これらが古代丹後を日本の先進地としてきたのではなかろうか。時代が下ってさらに新しい今来の漢氏や秦氏などの渡来技術には取り残されたようで、それが丹後を衰退に導いたのかも…
安全だ安いと信じてエネルギーを進化させないとレベル7となった日本原発と運命を共にすることになるようなものである。鎖国でアメリカにだけ門戸を開いている状態ではなく、広く全世界からエネルギー技術を学ばないと21世紀は世界から取り残されよう。
三河内曳山祭(5月3日・4日)
(動画は下の方にあります)
倭文神社の例祭、この祭礼は立派、お祭りとはこうだ、の見本か。
オーイ・オーイ・オーイと三回叫ぶ有名なシーン。神様の来臨がある。
奥山川と旧国道176号線が交わる所に小橋があり、ここの橋からオーイと叫ぶ。川はずっと暗渠できて、ここで顔を出すが、川というよりもミゾという感じになっている。塩をまき、お酒をまいてから叫ぶ伝統の行事。
呼ぶ方向は地図で確認すれば須代神社の方向ではあるが、今は家が建て込んで見渡すことができない。
加悦谷祭のすぐあとになるが、5月の3日(宵山)4日(本祭)の連休日である。丹後縮緬の活況を背景に江戸期の中頃から始まったものとされる。舞鶴朝代神社の芸屋台などもその時代であるが、すでに死んだ過去の遺物化していて、屋台は保存されているが、ここのように生きて巡行されることはない。
大幟を先頭に神楽屋台、そのあとに4台の山屋台や芸屋台・太鼓屋台が続く。
三河内小学校のあたりにある元の鎮座地(御旅所)あたりから今の鎮座地へとパレードする。宵宮はもう少し広く巡行するという。
さすが縮緬の本場、みごとな見送り幕や胴巻きだが、このようにあでやかになってきたのは昭和になってからという。縮緬で得た富が当てられたものと思う。
子供たちもたいへん、囃しの練習は二ヶ月も前からはじまるとか。人が少なく彼らも祭礼には欠かせない戦力になり、後継者として育っていく。
旧国道から倭文神社参道へ左へ90度まわす、かどまわし。屋台には車輪が5つ付いている。
参道は屋台で埋められて歩く道もなくなる。
神楽が奉納される。
町内文化史跡を訪ねて・加悦谷まつり・三河内地区
宵宮の祭礼は、若連中太鼓台・子供太鼓台十台が参加して神社前に奉納するが、祭典の日は、南村境の御旅所から梅谷の大幟、神楽、幟、笠鋒神官、供奉の人達、山屋台四台の順で進行し、山屋台は、各々伝統の囃子を一斉に秦で後続の子供太鼓台五台は、大太鼓を打ち鳴らし、宮大門では、各山屋台同一の天神囃子を秦で、神社前に奉納する。
この山屋台は、屋台上に各町内に奉祀しているだしを奉安し、屋台は、美しい織物、置絵刺繍を施した幕、緋に町内山名を縫取したみわくり等で飾られるが、その絢爛豪華なことは、ミニ祇園まつりの呼び声がある。
祭典行列の途中、筋交橋より対岸の須代神社に向って、「オーイ、オーイオーイ」と三度唱えるが、明石の須代神社の須勢理媛と、倭文神社の天羽槌雄命が御夫婦であり、祭礼には倭文大神が須代のご祭神をお呼びになると、伝えられています。
(『町報野田川』(昭和55.9.12)) |
臨済宗臨泉山梅林寺
臨泉山梅林寺
三河内材にあり本尊達磨尊者永享年間丹波国天田郡大呂村天寧寺開山大通禅師の法嗣覚隠真知禅師の開基なり当寺は字梅谷にめり明暦年間岩松和尚中興す其間殆んど二百余年延宝年間二世乾嶺和尚現在地に堂宇を移転せしも忽にして火災に罹り建物宝物記録等悉皆烏有に帰せしかば同師再建す、元禄年間京都花園妙心寺末天寧寺派と称す宝暦十年再度悉皆焼失す本堂の唐戸二本牡丹に獅子の彫刻あるもの幸ひに持出したれば現存す、宝物として銅鐸一個と薬師仏座像一躯あり、但銅鐸の記事は史蹟編に詳記すべし。
(『与謝郡誌』) |
臨泉山梅林寺 三河内小字奥地
本尊 釈迦如来。
臨済宗妙心寺派で、天寧寺開山の愚中周及和尚(大通禅師)の法孫、すなわち三代目覚隠真如和尚の開山である。元亀元年の建立といわれ、その後、岩松乾嶺和尚のとき火災にかかり、伽藍、記録類は焼失したが、本尊、開山画像、同じく伝法衣並びに位牌は残ったので、同和尚は伽藍を再建したが、明和のころふたたび焼失した。
年中行事には、歳旦、涅槃会、降誕会、達磨忌、成道会、開山忌、盆施餓鬼などある。
建造物には、本堂、庫裡、経蔵、山門、観音堂、東司、隠寮、鐘楼などがある。
仏像としては、釈迦如来像、達磨大師像、三十三体観世音菩薩像、阿弥陀仏像、十六羅漢像、地蔵菩薩像、文珠菩薩像などがあり、いずれも、江戸時代の作である。檀家は、約二百七十戸である。
境内池中に、弁財天の祠があり、境外字大道に薬師堂があり、平安末期造仏の薬師如来坐像を祀る。
(『野田川町誌』) |
町内文化史跡を訪ねて・臨泉山梅林寺
本尊は釈迦如来、臨済宗妙心寺派で、天寧寺開山の愚中周及和尚(大通禅師)の法孫三代目覚隠真如和尚の開山名と言われ、元亀元年に建立、その後、岩松乾嶺和尚の時火災にかかり、伽藍を再び再建したが、明和のころ又々焼失したと記録にあります。
仏像としては、釈迦如来像、達磨大師像、三十三体観世音菩薩像、阿弥陀仏像、十六羅漢像、地蔵菩薩像、文珠珠菩薩像など江戸時代のものがあります。
「与謝郡西国三十三札所」としては、当寺は二十八番札所と紹介されております。
建造物には、本堂(昭四八年九月義昭和尚により約二五〇〇 万円で改築)、庫裡、経蔵、山門、観音堂、東司、隠寮、鐘などがあります。
(『町報野田川』(昭和57.8.27)) |
ここもそうだけれども、このあたりの寺社はどこもまるで要塞のようにがんじょうそんな石垣が作られている。
震災供養碑もあり、そこに、こんな石が置かれている。硬い花崗岩がヒビだられになり、砕かれている。丹後大震災で砕かれたものだろうか。自然には勝てないな。
もし原子炉がこうなったら…
日蓮宗瑞光山妙見寺
妙見庵 三河内小字大道
本尊 妙見菩薩。
日蓮宗本圀寺派実相寺末に属し、妙見堂石段の南側にある。妙法石塔の年号が延享五年(一七四八)七月十三日と刻まれてあることから、開基はこの時代で、開山は、妙見堂建立の「永代帳」に庵主恵寿と記されている。
なお、妙見堂建立についての講会が開かれ(真田講という)、三河内、加悦奥、算所の各住民で、講員七十人となっている。
(『野田川町誌』) |
町内文化史跡を訪ねて・瑞光山妙見寺
本尊は妙見菩薩であったが現在は、本尊には日蓮大菩薩を祀り、脇仏として、妙見菩薩、愛染明王、鬼子母尊神が祀られております。
古くは、住職は尼僧の寺で「妙見庵」と呼ばれておりましたが、昭和五十年十二月十八日、宗教法人妙見寺として認証され、端光山妙見寺となりました。
この寺は、壇家はなくて壇信徒の寺で、講(真田講)員は三河内のみで、五十戸余りです。
開基は延享五年(一七四八)七月十三日で、開山庵主は恵寿で、慶応二年没。その後無住も含めて今の庵主恵静は四代目です。
本寺は日蓮宗本圀寺訓実相守末に属し、庵内は妙法石塔、最上位経王大菩薩を祀る祠があります。
(『町報野田川』(昭和57.9.30)) |
正吾に丹後縮緬始祖碑、
丹後縮緬創始者の一人山本屋佐兵衛は三河内村の人で、享保六年(一七二一)京都西陣で技法を学び翌七年帰郷して広めたとされる。
出雲大社巌分祠
出雲大社(おおやしろ)教
大国主命を主神とする六柱の神を祭る出雲大社を背景に、大宮司職であった千家尊福が、一八七三年(明治六年)一月講社を組織、「出雲大社敬神講」を起した。一八八二年(明治十五年)神道大社教として独立した。
一九四六年(昭和二十一年)宗教法人出雲大社(たいしゃ)教と改称し、一九五一年(昭和二十六年)宗教法人出雲大社(おおやしろ)教となった。
この地方へは神道大社教此花(大阪)教会の古山真正が、一九四三年〈昭和十八年)八月に当町へ弘布、一九五一年(昭和二十六年)八月その死去までおよそ八か年、教線の拡張に奔走した。その神霊を奉斉するため野田川町三河内の奥山の土地を開き、一九五五年(昭和三十年)完工して遷宮祭を執行、一九六○年(昭和三十五年)出雲大社教巌教会を設立した。
(『加悦町誌』) |
《交通》
《産業》
三河内の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎三河内村 (四辻村の次)
【石崎大明神】
【臨泉山梅林寺】(臨済宗)
【古代の宝鐸】(梅林寺蔵)
文化年中寺の後山より古銅器を堀出せり、其状釣鐘の如くにして釣鐘にあらず、まづ宝鐸の類なり、大小ニッ相重り高サ三尺五寸径一尺三寸其厚僅に二分、上に龍頭あり、其左右に穴各ニッ共半腹の下にも左右に穴各ニッあり、金の性は所謂唐金なり。其廻今緑青を塗るに似たり、地紋は日本の模様と見へず。先年加佐郡由良村よりも此物を掘出す、其形状此と異る事なし稍小なる耳、是も大小相重り一は官に納る一は今の家蔵となる。或云。天智帝の御字に三井寺より古銅器を掘り出す、當時尚何物や詳ならず、神代の物と定りたるよし今誓願寺に納まる、此物と異る事なしといふ。
(校者曰) 底本にはこの銅鐸の拓本の模写を牧めたるも茲には宝物の写真銅版を掲ぐ。但しこの鐸の出土に就ては他に異説あり梅林寺所蔵文化五年辰三月の「鐘鋳記録帳」に「此のかね当山の乾にあって比丘尼城といへる城趾有、嶮岨峨々として松柏枝を変へず、そのかみ延享年中大雨降続所々山崩多し、此物彼山の辺りに漸嶺二三寸斗兀山に顕れり樵夫業のひまに彼地に至りあやしみ是を堀出せば異形変物也。早速御地頭青山侯に御覧に入れし處一家中是に号る者なし、其後江戸表に遣し諸家に見せしむれ共一つ以て実号なし、其る稀代の堀出物せしは其村はんねひなる瑞ならん速に椋林寺納宝物と致すべしと御下知を蒙り、夫より犬十餘年の間永く宝藏に納置、今?鋳参詣の衆生へ開扉致所是に名付る人あらば竊に聞かまほしと(中酪)然る處、四十八年以前宝暦十辰之九月廿七日之昼八ツ時當寺焼失仕候、其節右の鐘も焼落申侯就夫焼鐘を用候へバ村方不繁昌の由申傳候将共、鳴音格別不劣候儀に御座侯此儀如何事哉、先年比丘尼城 如此之カネニッ堀出し壹ツは當寺什物に罷在候、壹ツは掘出し申候節餘程損し致出来候に付打割鋳鐘へ入申候儀に御座侯、其故歟響能候様言傳ヘ申候」と記載されたるより見れば該銅鐸は文化年中にあらずして文化を遡る六七十年の延享前後青山侯の領知の頃なりしを知り得べく、尚ほ「演津日記」下巻には「同十七年子四月九日三河内村端郷梅カヘト申所ノ城山ニテ釣鐘ノ様ナル物二ツ堀出シ御城へ上ル、長サ四尺斗リ廻り三尺五寸斗カラカネ鋳物ニテ模嫌殊ノ外美敷物也、當時鋳物師等中々可致率難成旨申上ル、其形何トモ名ヲ付候モノアラズ」と載せてゐるが此の同十七年子とは享保十七年壬子のことで延享より十年古いけれども矢張り青山幸侶封知の時である。子四月九日恐らく此の記事信ずべき歟。鐸の内部に「梅枝治郎」と墨書あり惟ふに発見者の其の當時の筆ならむ。
【有吉氏城墟】
【付録】(土社大明神、愛宕権現、若宮荒神、高峯荒神、助年荒神、薬師堂)》 |
『宮津日記』
同(享保)十七子四月九日三河内村端郷梅カヘト申所ノ岩屋ノ城山ニテ、釣鐘ノ様ナル物二ツ掘出シ御城ヘ上ル。長サ四尺斗リ廻リ三尺五寸斗リ、カラカネ鋳物ニテ模様殊ノ外美敷物也。当時鋳物師等仲々可致事難成旨申上ル其形何トモ名ヲ付侯者アラス。 |
『野田川町誌』
三河内地区 現在上地(一三〇戸)、大道(七八戸)、奥地(九二戸)、中坪(一六五戸)、下地(六七戸)、梅ケ谷(六二戸)、の六小区五九四戸から構成されているが、梅ケ谷を除く五区は、岩屋地区と同じように一大集落をなしている。この中心は中坪で、奥地とともに奥山川の微扇状地に位置しており、現地割は条理遺構とまではいえないかも知れないが、西の山麓丘陵地帯に古墳が多く奥山川の堆積物の下からは土器などの出土があり、奥山川および野田川の低湿地には、古図から条里制の存在がうかがえ、早くから居住地域であったと考えられる。さらに、式内社倭文(しどり)神社を有し、戦国期比丘尼山城の小城下村となって、ほぼ現形態の基をととのえたのではなかろうか。
現在では、四辻よりの府道福知山宮津線に沿って、下地から上地を経て加悦町まで切目がなく続く街村が表通りを形成しているが、大正初期までは、隣接の加悦町算所との間には民家なく、また下地区から市場地区(幾地)までの間も八丁縄手と呼んでごく最近まで全く民家もなかった。そこに高等学校が出来、電々公社が建ち、民家も建てられて、遠からず四辻と完全に連結
されて、野田川町といわず、「加悦谷」としての中心地域となるであろう。梅ケ谷は、この一大集団の北西隅山麓の旧梅林寺屋敷をひかえた集落で、古い道路もこの地を通り、前面は、旧岩屋川の南流による「深田」(湿田)地域で、縄手道によって山寄りにとりのこされた古い自然の形態を残している集落といえよう。
機能的には、三河内地区は、前記岩屋地区と同じく、さらに、倭文神社を擁して古くから機業に関連し、府道沿いの諸種商店(もちろん機業関係も含めて)も、やはり、機業と何らかの結びつきをもっている集落である。 |
三河内の小地名
三河内
土井根 舞田 一本木 五反田 平床 深田 大ヤフ 三十五 八反田 板橋 正吾 下地大 中坪 会所 大道 岸下 高垣 上地 縄手 下畑 寺屋敷 下ノ谷 田ベソ 下矢倉 的場 上矢倉 大畑 奥地 森谷 村 梅谷 奥山 金鋳場 砥石ガ谷 作山 平林 石堤 休場 真奥 のう峠 高ドンド 茂村
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