丹後の地名

宮本(みやもと)
宮津市宮本


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京都府宮津市宮本町

京都府与謝郡宮津町宮本

宮本の概要




《宮本の概要》

市街地の西部、大手川下流左岸。柳縄手・京街道・大久保・万町に囲まれた一画で、江戸期の紺屋町・田町・横町・職人町が俗称として残っている。
宮本町は、江戸期〜明治22年の町名。宮津城下宮本町組の1町。文久2年正月職人町が改称した。明治21年の戸数132。同22年宮津町の大字となった。
宮本は、明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。


《宮本町の人口・世帯数》262・103

《主な社寺など》

和貴宮神社(宮津祭)

神輿巡行(宮津祭)
↑社前に門があってここから神輿を出すのが一苦労。和貴宮の御神輿はピカピカでまぶしく美しい(宮津祭)。

和貴宮神社。境内には水越岩があり、かつてはここまで海岸であったという。この岩を漁師が豊漁と安全祈願のために祭ったのが同社の原点とも伝えられる。
丹後一宮・籠神社の別宮で、別の宮と称していたのが分の宮となったと伝えられる。慶長7年の宮津下村御検地帳に「わきの宮」とみえ、また同社には永正2年9月、慶長17年9月再建の棟札があった、舞鶴の大工さんが作ったという。
聖ヨハネ教会前を行く浮き太鼓(宮津祭)


聖ヨハネ教会天主堂。フランス人ルイ・ルラーブ神父が明治28〜29年土地の有志の協力を得て建設した。聖ヨハネ教会天主堂(宮津市宮本)
会堂の中は畳敷きとか。
このあたりに暁星高校があったが、今は引っ越してない。舞鶴の日星高校とは姉妹校。

《交通》

《産業》

宮本の主な歴史記録

《丹後宮津志》(地図も)
宮津町=本町・魚屋・新浜・宮本・万・金屋谷・小川・白柏・河原・住吉・漁師・杉末・川向・宮町・蛭子・池ノ谷・万年・万年新地・鶴賀・波路・波路町・安智・外側・吉原・中ノ町・京口・馬場先・松原・京口町・木ノ部・京街道・大久保・柳縄手・島崎。世帯数2212。人口9190。
黒が元禄時代。赤は大正14年。
宮津市宮本


《丹後旧事記》
分の宮。有宮津市場東渚。祭神=豊受皇太神宮。記伝往昔焼失鎮座年暦不詳宮津府志に見えたり相伝ふる所與佐宮豊受皇太神宮之分宮也。

《宮津府志》水越岩(和貴宮境内)(ご神体の岩か。花崗岩)
分宮      在職人町
 祭神  国常立尊   社人 島谷 齋
 祭日  九月十一日
 末社二座 蛭子社 稲荷社
社記中古焼失ス故ニ鎮座年歴不レ詳カ。相ヒ傳ヘテ曰当社ハ者府中一ノ宮之別官而祭ル二国常立尊ヲ一古者直ニ称シ二別ノ宮ト一中古以来称ス二分ノ宮一。
 按ずるに当国一宮は往古より籠神社なりしを、中古真名井ヶ原豊受太神宮を合祭りて後は籠神社を傍に移し豊受太神を主祭とせしより今の世に至りては豊受太神を当国一ノ宮と思へり、当国一宮は籠神社にて祭神住吉同體なる事諸神書に載する所明白なり猶詳に一宮の下に載たり、当社も一宮の別祭にて豊受太神を祭るとあれば中古以来の一宮より別れたるなるべし。
 当社の後東北の隅に方二丈許の大巌あり、相傳云古昔此辺迄海中なりしを段々築出して村居となる、此巌も其時分は海水の中にありしにや四五十年前迄は蠣殻など付てありしと古老の物語也、宮津開発の前迄も此辺は村家にて鍛冶猟師の両村海端に並びあり、其時より当社は両村の氏神なりしとなり今に猟師町に分宮の氏子の家ありとなり。

《丹哥府志》
【分宮大明神】(祭九月十一日、末社三座、蛭子社、稲荷大明神、兵主大明神)。西堀川より以西を総て西町といふ、以東を東町といふ、西は山王を以て産土となす、東は分宮の氏子といふ。正徳の頃伝記焼失して鎮座の年暦を詳にせず、祭る所は国常立尊なり。相手伝へて一宮の別宮なりといふ、よって分宮と称す。宮津府志云元和年中京極侯のいまた知府を開かさる以前は今の宮津の地市場といふ、鍜冶猟師の二村海浜に相連る、其頃分宮は二村の氏神なりとそ。今猟師町は西にありといへども分宮の氏子と称することあり、蓋是が為なりといふ。

《与謝郡誌》でかい岩である。これは祀られるだろう。
分宮神社
 宮津町字宮本四百二十八番地鎮座、一名巌神社ともいふ。神饌幣帛料供進指定村社、祭紳天之水分命.相殿豊受毘売命を祀る。一説國常立命を祭るともいふ。正徳二年七月七日類焼に罹り旧記焼失の為めに由緒沿革詳かならずといふも焼除の棟札貳枚残り一は永正二乙丑九月十一日再建一は慶長十七壬子年九月廿一日再建とあれば御鎭座年暦室町以前なるを知ると社記にあり。伝説によれば鎌倉以前此地海岸にて鍛冶、猟師二村相連り近郷より人集りて市場を爲し民家次第に繁殖す。國府なる府中村の一宮籠紳肚の分霊を講ひて産士紳に崇め京極侯此に知府を開きてより面目頓に一新し累代城主の崇敬厚く文化四丁卯年三月再建の際の如きは用材を寄進されたりといふ。宮津藩寺社名前取調帳に「御城下宮本町分宮社島谷能登」明治六年二月村社に列せられ氏子七百二十五戸、社殿拝殿御輿藏、神馬舎、倉庫、表裏両門等完備し境内末社に恵美須神社、稻荷神社、兵主神社等あり明治四十年三月壹日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。その拝殿に掲げられし華山の.「五條の牛若弁慶」龍椿の「張雲」雪春の「卜部六彌太」等の絵書は京都以北三丹の神社に於て見ざる大家の名筆なりと、境内水越巌あり元海中にて潮汐の超したりとて貝殻近頃まで附着せしと。蓋し巌神社と称ふるは之れが爲めなるべし。丹後細見録に分宮は宮津市場東渚にありと載す、故ありといふべし。祭典四月二十一日。

《丹後宮津志》
分宮神社
 分宮神社は宮本町(文久二年正月旧職人町改称)に鎮座し指定村社にして宮津町東半の産土神なり、(写真参照)その勧請に就いては宮津事跡記に
 分宮大明神御勧請之儀京極丹後守高広公府中一之宮に御信仰被爲在毎月御参詣被遊候處雪中又は荒等之節御参詣難被遊に付寛永五年丑九月職人町に御勧請同十一月御遷宮其後は一之宮之神主年々祭禮之節神事相勤候處職人町住人に大兵衝と申者而至而実禮之者に而信仰致侯に付社内之掃除又は宮守に被仰付其後官職可致旨被仰出当社神主と相成御領内神主筆頭に被仰付候
また宮津旧記に
 分宮大明神は京極高広公御在城の砌府中一の宮へ御信仰雲中御参詣を御厭ひ今宮津職人町の地へ御引移寛永五辰九月十一日遷宮即ち宮守には同町太兵衛と云ふ者至って信仰故に宮守となり其後官職の儀は阿部対馬守様御取斗に依って当社の神主となり従六位島谷出雲守と改めらる。
とあれば寛永五年九月十一日藩主京極高広侯籠神社のみ霊を祀られしに濫觴すること明かなり。

分宮社記 曰
       丹後国与謝郡宮津宮本町鎮座

一 祭神  天之水分神  豊宇気毘売命
 勧請年暦之義者正徳二年辰七月七日伝来古記焼失仕候間相知し不申候得共往古当国与謝都府中庄一宮籠神社ヨリ別宮総社と定め給ふ亦中古ヨリ分宮とも申来り候亭御藩一統市町産土神

丹後宮津記 曰
  分宮本社職人町に有   神主 島谷出雲

当社はさして謂れなし今尋ルニ神代ニ諸神達を此研ニて分けたまひたるよし申伝へタルマテ也、本殿ニハ天照皇太神宮相殿ニ伊奘冊ノ三神ヲ祝ひたり、祭礼九月十一日也社ノ右ノ方ニ霊なる岩有御腰石と云ふ此所ハ昔ハ海中ナリシヲ段々築出シ今町ト成タルヨリ古考申候也

神社明細帳 曰
     京都府管下丹後国与佐謝郡宮津宮本町
          村 社  分宮神社
一、祭神 天之水分神 豊受毘賣神
一、由緒 正徳二年七月夜近傍氏家ヨリ出火シ宮殿古記傳来悉ク焼失其際不思議ニ近代ノ棟札出ル永正二年再建慶長十七年再建往昔社宇創建鎮座年暦不詳然リト雖モ往古此地海岸ニテ大巌松ノ大木生タリ浪打際ニテ漁船ノ寄リ所ト伝フ其後年代屡々変遷シ遂ニ埋地トナリ人家追々湊集シテ与謝ノ湊萬代郷宮津ト號ス時ノ国主當国府中荘式内明神大一宮籠神社崇敬アリ分社ヲ宮津ニ乞ヒ遷座シテ一宮別宮総社大明神と崇メ当所ノ産土神卜称ス彌々祭事ヲ重シ旧吉田神明帳並ニ裁許状ニ載ル所一宮別宮総社大明神ト有リ中古ニ至り別ノ字ヲ分ノ字ニ書リ或ハ巌ノ神社卜モ古老ノ口碑ナリ依テ庶民崇奉敬祀ス就中京極丹後守永井信濃守阿部対馬守奥平大膳太夫青山大膳亮松平富之助代々ノ崇敬神方今貫属市街ノ氏神ト仰ク處千百有余戸ヲ過ク明治六年二月十日旧豊岡県ヨリ村社ニ被列

《丹後の宮津》
分ケ宮神社
 時間のよゆうのある人は、なお市内散歩のついでに、宮本町の分ケ宮神社にもうでて、その境内の「水越巌(みこしいわ)」をみるもよい。これはそのむかし、この境内あたりまでが海であったことを証明する巨巌で、つい近年までは貝がらなどがくっついていたといわれるし、記録によると宮津川はかって京街道を海へそそいでおり、この分ケ宮は宮津川の東がわの川口であった。「宮津」という名称も、おそらくこの「分ケ宮」とは切りはなせぬことにちがいない。ただし、宮津が城下町となるまえのこの辺は、「宮津の市場」といわれたことが、「御檀家帳」などによって明かである。

神父ルイ・ルラーブの偉業
 戦国末期ごろのキリシタンは別として、明治維新におけるキリスト教伝道は、丹後地方もどちらかというと、全国的にみて早い方である。ここにいう「宮津カトリック教会」も、やはりその一つで、フランス人ルイ・ルラーブは明治廿一年、早くも当地方にはいり、アメリカのウイリヤムス監督と前後して、その信仰を強くひろめたのであった。以来五十年間、ルラーブ神父は一度もフランスの土をふまず、日夜ただ信仰伝道と、教育振興の事業にすべてをささげた。しかもこの間、日露戦争当時や、非常時々代は、日本官憲による不愉快な日々がつずいたが、神父はこれを少しも意にかいせず、昭和十五年二月、大阪の病院に最後の日をむかえたときも、早く宮津の墓地へつれてかえるようにとの遺言であった。だからこそ、宮本町の「宮津カトリック教会」を中心に、暁星高等女学校や暁星幼稚園が、いずれも今日の盛大をきづきえたものであろう。一人の人の力も、また大きいといわねばならない。

《宮津市史》
和貴宮神社社殿    字宮本四二八
構造形式 本殿 一間社流造、銅板葺
     表門 一間一戸向唐門、桧皮葺
 創建の時期はつまびらかでないが、『丹後旧事記』に「分の宮 有宮津市場東渚」とあり、海岸近くにまつられていたという。また境内の一画に、水越岩と呼ばれる巨岩があり、かつて海中にあったという伝承を持つ(『丹哥府志』)。
 正徳二年(一七一二)に火災に遭い、社殿・古文書などを焼失しているが、正徳三年の棟札を所蔵し、そこにそれ以前の造営に関する記述がある。これによれば、永正二年(一五○五)に田辺(舞鶴市)に住む左衛門尉、慶長十七年(一六一二)にも田辺住の清左衛門、正徳元年と正徳三年は、宮津に住む富田又左衛門藤原盛厚を大工として造営があったという。現存する本殿は、その後、文化四年(一八○七)に再建されたことが棟札よりわかる。大工棟梁は職人町に住む清水清助で、万町に住む富田弥四郎が後見にあたった。造営を担ったのは講中と町世話人からなる町人たちで、棟札に四三名の名を記す。
 本殿は銅板葺の一間社流造で、身舎組物は二手先斗桁の詰組とし、尾垂木が付く。妻は二重虹梁・大瓶束・笈形で、中央に亀に乗る翁、雲に鶴の彫物を飾る。向拝は柱上に、上下左右に大きく広がる斗桁を組み、中央に波と竜の大型の彫物を飾り、木鼻は象と獅子とする。虹梁の持ち送りには葡萄の籠彫り彫刻を使う。身舎とは海老虹梁でつなぎ、花鳥の籠彫りからなる手挟を入れる。彫物は手が込んで活気に満ちた力作ぞろいであり、籠彫りを多様することが特徴の一つである。また、虹梁絵様は様々なパターンをそろえたもので興味深い。城下町の富裕な町人に支えられ、活力に富んだにぎやかな社殿である。
 表門は一間一戸の向唐門で、屋根は桧皮葺である。正面の虹梁上の蟇股は、中央に三つ巴を配し、輪郭を渦と若葉で構成したもので面白い。神社の向唐門は宮津では珍しく、造営年代は十九世紀前期ころであろう。

《京都新聞96.8.9》
*ふるさとの社寺を歩く〈111〉*和貴宮神社(宮津市宮本)*随所に江戸の栄華*
 海の守護神「大綿津見神(おおわたつみのかみ)」をまつる神社の境内に入ると、社殿を囲む木々から盛んにセミしぐれが聞こえてくる。
 現在は、宮津湾から四百bほど離れた市街地に静かに建つが、社伝によると、数千年前には境内のすぐ裏まで海だった。画家でもある同神社の嶋谷卓之宮司は「境内の一画を占める水越岩という名の巨大な岩がその証拠」と話す。今は子供たちの格好の遊び場になっているが、海岸沿いにあったこの岩を漁師が豊漁、安全祈願のために祭ったのが神社の″原点″だとも伝えられる由緒ある岩である。
 本殿は南北朝時代の建築様式で建てられているが、近畿地方では数少ないタイプという。奥行きが普通の三倍ほど深く、回り廊下を配し、戦乱の時に祈とうをするために、本殿の下に隠し部屋が設けてある。宮津市史によると、正徳二(一七一二)年に火災のために焼失したが、文化四(一八〇七)年に再建され、現在に至っている。再建された本殿のケヤキの柱には、職人町の大工が彫ったゾウやブドウ籠(かご)の透かし彫りが施してあり、どこかシルクロード文化の息吹を感じさせる。当時の宮津がいかに繁栄していたかを、うかがわせるものだ。
 宮津の地名は、宮のある津(港)という意味を持っている。嶋谷宮司は「和責宮神社が、その宮にあたる」と説明する。宮津は、海の繁栄とともに栄え、江戸時代には、北前船の寄港地としてにぎわった。その名残が、航海安全祈願のために船主から寄進された障子二枚分ほどの大きさの本殿の絵馬と、神社を取り囲む玉垣(石のさく)に刻まれた商人の名前だ。当時の大阪、越中、遠くは四国の丸亀などの商人が寄進したことを示している。中には、江戸期の豪商「銭屋五兵衛」の名が残る玉垣も現存しており、北前船交易の栄華がしのばれる。
 比較的小さな神社ではあるが、静かな雰囲気の境内には、海の町・宮津と日本海の壮大な歴史が随所に見受けられる。

現地の案内板和貴宮の案内板
和貴官と水越岩  宮津市字宮本
 和貴官は宮津町東部の産土神とされるが、宮津の町の成り立ちを考える上に、この付近は興味深い場所である。
伊勢外宮御師の御檀家帳によると、十六紀前半には既に「宮津市場」が開け、宮津谷の支配城主小倉氏は配下千賀氏をこの地に配していた。「宮津えのしま」も開けていた。当社の創立は少くともその頃までは遡る。社殿棟札の一つに、永正二年(一五〇五)九月十二日造営の伝を記しているのがあるのも事実に近いと思われる。
 細川氏時代に「脇ノ宮」に悦山正善なる社僧がいたことを盛林寺過去帳は伝えている。その頃この付近に「わきの宮かじ」があったことは慶長七年(一六〇二)検地帳から知られる。この社の裏から海岸に通ずる通路を「勘左衛門小路」と伝えているのは猟師勘左衛門が細川氏から頂戴した道と伝えている。いわば「わきの宮」はそれらかじ町、猟師町の産土神として祀られたのであろう。
 境内にわだかまる大岩は水越岩と呼ばれて、かって海辺であった跡と伝える。「宮津え(江)の嶋」のあとかも知れない。
 現社殿のうち本殿は文化四年(一八〇四)、拝殿は文政三年(一八二〇)建立。本殿は藩主の援助もうけて、大工棟梁の職人町(宮本町)清水清助、後見万町富田称四郎らの許に多くの諸職人・講中の力を結集して建てられた。全体的に装飾に力を注ぎ、ぶどう籠彫りなど技巧を凝らし、妻飾りも美しく組みたでている。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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