丹後の地名

宮町(みやちょう)
宮津市宮町


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京都府宮津市宮町

京都府与謝郡宮津町宮町

宮町の概要




《宮町の概要》
こんなガードの向こうに山王社や如願寺がある
↑神輿が通り抜ける難所。ここをくぐり遠く波路の御旅所へ向かう。この向こうが日吉神社(山王宮)(宮津祭)。その隣に如願寺がある。
市街地の西部、滝上山の南東麓、如願寺川(日吉川)に沿う一画で、日吉神社参道まで住宅地。日吉川上流に上水道の水源池・浄水場があり、地蔵峠を越えて与謝野町野田川町に通じる。
宮町は、江戸期〜明治22年の町名。宮津城下白柏町組の1町。文久2年如願寺下・山王下が合併して成立した。家数は明治維新以前36軒、明治19年34軒、同21年40戸。同22年宮津町の大字となった。
宮町は、明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。

《宮町の人口・世帯数》

《主な社寺など》
如願寺本堂(宮津市宮町)
高野山真言宗巌松山如願寺

堂宇は如願寺川を挟んで両岸にあったが、今は北側のみが残る。本尊の薬師如来像は藤原末期の作と伝え、耳薬師とよばれる。開山は皇慶と伝える。創建の時期は不詳。中世は戦場となって荒廃したこともあった。永正3年若狭武田氏と一色氏との合戦には細川氏一党が武田氏に援軍を差し向けた。一色方はまず要衝如願寺谷で防戦し、細川方は多くの損害を受けた。中世末の丹後国御檀家帳に、
宮津の内によくわんにて
  桜本坊  小倉殿御代参めされし人
  きゆうそう坊  おぐらどの御代参めされし人
「桜本坊・きゆうそう坊」が宮津谷支配の一色氏被官小倉の代参するものとして記される。
近世には京極高国時代の城下絵図に桜本坊・宝性院・橋本坊・松井坊・成就院・北坊・仁王院などがみえる。元禄16年の城下絵図には宝寿院・吉祥院・宝性院・竜性院・成智院・感性院の6院があった。
近世以来幾度か水火の厄に遭って衰退。現在は本堂・薬師堂・庫裏(宝寺院跡)・鐘楼・歓喜天堂が残る。
寺宝として涅槃図(室町時代)、地蔵菩薩像(室町時代)、聖観音立像(藤原時代)、山越阿弥陀三尊像などがある。

日吉神社(山王宮)
↓浮き太鼓が宮司家前で打たれる(宮津祭)。
宮津祭に奉納される浮き太鼓(日吉神社)



滝上山山麓松ケ岡にあって神仏分離令以前は山王社と称した。祭神は大山咋命・大己貴命。古く近江坂本より勧請したと伝える。歴代宮津藩主の崇敬を受け、宮津郷の惣産土神であったという。旧郷社。
永井尚長がその地に嗽玉亭を営んだ。いまその庭園の一部滝口石組などが残るが、残された庭園古絵図とともに近世前期の地方における庭園を知る好資料である。
例祭は江戸時代より4月中申日に藩祭を執行した。現在は5月15日に定めている。宮津祭・国祭と称し近郷より人出があった。波路の御旅所へ御輿渡御の際は、宮津城はとくに大手・波路両門を開いて通過を許したというので、「宮津祭りは将棋の駒よ、大手々々と詰めかける」とはやされた。
山王宮を出発する子供神輿(宮津祭)

山王宮を出発する神輿(宮津祭)



山王社の御旅所(波路公民館)
↑山王宮と波路の御旅所は離れていて直線距離でも2キロばかりはある。こんな遠くまで本当にやってくるのかと不安で聞いてみれば、神輿の舁手もどんどん年取ってきて、時間には遅れるかもなどという話であったが、予定通りの到着であった。約2時間ばかりかけてここに到着したのである。遠いためか子供神輿はこない。
正面の建物が波路公民館で、戒岩寺や鍵守神社の前の道をまっすぐに浜側へ降りた海岸ぶちにある。

御旅所とはその神社の元の鎮座地だ、という柳田国男の説に従えば、ここ波路が元の鎮座地ということになる。文献には何もないかも知れないがこうして民俗学的に歴史を記憶してきたことになる。山王宮がそうなのか、あるいは杉末神社もそうなのか。ここで神霊を迎えて今の鎮座地へとお連れするわけだろうか(今はもうそうした歴史は忘れられて、ここへ来る意味はわかってはいないような感じであるが、鮭がふるさとへ帰るような話になる)。神社だけでなく氏子集団がそう移動したということで、近世以前の下宮津開発史が偲ばれる。公民館の向かいに石碑があって文珠堂奥の院とか書かれているが、有名な文珠堂(智恩寺)も元はこのあたりにあったというから、波路が宮津ではたした役割は大きかったと思われる。箸墓古墳の箸と波路は同じ意味と思われるが、古墳初期ないし弥生まで遡る聚落と思われる。

杉末神社杉末神社(日吉神社の摂社)
日吉神社境内。「延喜式」神名帳の与謝郡「杉末(スギスエ)神社」に比定される。旧村社。祭神は大物主命。
杉末神社

滝上山
滝上公園からは市街地、宮津湾などが一望できる。

日吉神社からの眺望(宮津市宮町)
桜の季節には是非きてください、などと誘われてはいるのだけれども、未だに行けそうにもない。
桜は全国一斉にあっちにもこっちにも咲き、天気のよい日はわずかしかない、時間の都合が難しい。とりあえずわずかに赤くなりかけている「含紅桜」ごしに宮津湾を見ておいた。写真の左隅に土俵があるが、そこが「赤ちゃん土俵」である。

《交通》

《産業》


宮町の主な歴史記録

《丹後宮津志》(地図も)
宮津町=本町・魚屋・新浜・宮本・万・金屋谷・小川・白柏・河原・住吉・漁師・杉末・川向・宮町・蛭子・池ノ谷・万年・万年新地・鶴賀・波路・波路町・安智・外側・吉原・中ノ町・京口・馬場先・松原・京口町・木ノ部・京街道・大久保・柳縄手・島崎。世帯数2212。人口9190。
黒が元禄時代。赤は大正14年。

宮町(宮津市)


《大日本地名辞書》
日枝神社 府志云、日枝山王は往古よりの社なり、京極高広公の時、此山の眺望よきを愛し、別荘を作られしが、後空地とす、永井尚長公の時此処より少し山上に祠堂を建て、永井家四公の霊を祭らる、後に至て祠堂別荘ともに廃絶す、正保年中京極公別荘増築の時、社地土中より奇しき銅器を掘出す、経筒なりしとぞ。
○杉末神社は延喜式に列す宮津杉末山の愛宕山に在り、府志又云、如願寺は岩松山と号し、往時は大伽藍にして、一色氏の祈願所なりしとぞ、開基を皇慶上人と伝ふ、…

《丹後の宮津》
滝上遊園とその附近
 見性寺をでて、亀ヶ丘から姪子町を西へ七八百メートル、宮津での名刺如願寺門前となる。鉄道線路をよこぎり、上へあがると、やがて丹塗りの如願寺二王門である。もとはこの二王門、鉄道ふみ切りの山がわにあったのを、最近いまのところに移したもので、昔は山内の塔頭六ヶ寺、これが足利時代の戦乱と、そのごのたいはいで、いま残っているのはその内の僅かに宝蔵院一ヶ寺、本堂には地方最古の仏像といわれる薬師如来を本尊とし、縁起によれば藤原期の万寿元年(一○二四)、比叡山の名僧皇慶上人の開山としている。ここの本堂の裏へまわると、椎の古木にかこまれたなかに、かっては宮津城下町の総氏神とされた日吉神社があり、如願寺は明治以前、この日吉神社の別当寺であった。日吉神社は「人皇四十五代聖武天皇天平九年江州阪本より爰に勧請す」とあるが、さてどうであろうか。実はこの日吉神社境内に杉ノ末神社というのがあって、これが延喜式内社でありながら、後から祀られた日吉神社が境内のまん中に社殿がある。どうも神さんの世界も優勝劣敗らしく、時の権力を背景にもった日吉さんが、先輩の杉ノ末神社を追いだしたらしい。そしていまも、宮津の氏神は日吉さんで、杉ノ末神社はわずかに川向町・杉ノ末町に関係があるだけである。
 さてこの日吉神社と如願寺の奥へは如願寺谷、北西は滝上山であるが、谷は京極高広以来の市民の水源、山も高広以来の別荘地であり、景勝地である。水源地には桜とツツジ、山は松とツツジ、それぞれの季節には連日の花見客でにぎわい、山頂の展望台に立てば、「はしだて」はまたちがった角度からの美しい姿を見せてくれ、高広や永井尚長でなくとも、こうした山中に別荘をもち、時に一日をのびのびと絶景に見とれているのも結構ではあろう。尚長はこの滝上山中に十六勝をえらび、そのそれぞれに七絶を題したことは有名である。最近、この如願寺谷に市営グランドをつくり、また近く市の平和塔を建て、多くの戦争犠牲者の霊を慰めることゝなっている。おそらくこの辺一帯は、宮津におけるもっとも清潔な公園地となり、市民や観光客に美しいよろこびをあたえる地帯となるのも、そう遠いことではあるまい。
 なお、時間と気分によゆうのある人は、この水源地の谷をずっとのぼりきると、いっそうすばらしい宮津湾を見ることができよう。このせまい谷の線でカットされた宮津の海は、額ブチにおさめた水彩画のような感じをあたえてくれる。そして奥の水源涵養林地帯、杉と桧がみごとに成長したひろい植林地は、いかにもそのはじめに植林を発起した人の意志を発揮しているようにみえる。そういえば、この町の上水道は明治四十五年というと全国でも六大都市をのぞけば、宮津のような地方小都市ではほとんど実現されていなかった時代に、宮津はその上水道を実現したのであった。それから将来永く水源が涸れないようにといって、この美しい植林もつくられたもので、明治三十九年から十二ヶ年の町長をつとめた山本浅太郎さんという人の、その清い人格、強い意志が、約五十年後の今日、こんなに実ったことを、それを一番よく証明しているのがこの杉や桧だといえるのではなかろうか。それからこの谷をのぼりきると、地蔵峠の頂上で、金引の滝へおりるか、加悦谷石川の奥山へでるか、そのどちらへでもお気にめしたほうへ案内してくれる地蔵さんが道々にまつられる吉い道なのである。市民の散歩道としてもけっこうたのしいコースであることをいゝそえて、如願寺のほうへ大急ぎでおりて、次ぎの目的へ足をむけよう。

《丹哥府志》如願寺山門(宮津市宮町)
【巌松山如願寺】(真言宗、山王の南、境内より相通ず)巌松山如願寺は皇慶上人の開基なり、本尊薬師如来は行基菩薩の作なりといふ。本堂の右に宝寿院といふ塔頭あり、宝寿院の前に鐘楼あり、鐘楼の下より橋を渡りて観音堂あり、観音堂の安置する正観音は伝教大師の作なり、堂の傍に経蔵あり、経蔵より東川を挟みて塔頭相連り山門に至る、山門の左右に二王を安置す運慶の作なり。元亨釈書云釈皇慶者橘氏黄門侍郎広相の曽孫性空上人之甥也、永承四年滅寿七十三云々今を距る八百余歳当時の伽藍相続して天正の頃に至る。其頃一色氏尚存して兵革いまた治らす、是以伽藍を修補するに暇あらす、遂に荒敗せしぬ。今僅に十の一を存する耳然共古仏の今に存する左の如し。
宝寿院(境内に観喜天の一廟あり)
本尊十一面観音(聖徳太子)
吉祥院
本尊聖観音(慈覚大師)
宝性院
本尊不動明王(弘法大師)
龍性院
本尊大日如来(慈覚大師)
成智院
本尊不動明王(伝教大師)
感性院
本尊地蔵菩薩(恵心僧都)

《丹後与謝海名勝略記》
【如願寺】 岩松山と云薬師霊仏なり。皇慶の開基と云。真言宗、実寿、宝性、吉祥、威性、成智、龍性の六院あり。

《与謝郡誌》如願寺庫裡(宮津市宮町)
巌松山如願寺
 宮津町如顧寺谷にあり.本尊薬師如來、行墓菩薩の開基にて皇慶上人の中興なりと、皇慶上人は橘氏黄門侍郎広相の曾孫性空上人の甥にして永正四年示寂す寿七十三歳、往時は堂塔伽藍完備し、山門の内左に威性院、成智院、龍性院相竝ぴ右に寳性院、吉祥院.寳珠院甍を列ねて塔頭六ケ院、本堂は吉祥院の上寳珠院の前にあり東に鎭守山王権現(今の郷社日吉神社)及鐘楼あり。西に愛宕権現及ぴ鐘楼 今亀ヶ岡の時の鐘 あり瀧上山より狼煙山を経て愛宕山に至りし一山地にて京極家入津以來更に塔頭に密嚴寺を設け成就院と號し天満天神を祭りしも維新の交に廃絶せり。山門の二王像は加佐郡河邊村観音寺より飛ぴ來りし像なりとて有名なり。寺寳釈迦涅槃像(呉道子筆)一幅、阿彌陀三尊像(恵心僧都筆)三幅、及ぴ智海の不動尊その他数点り。
薬師如来立像(如願寺)
《宮津市史》(写真も)
薬師如来立像    一躯 字宮町 如願寺

 木造   一四○.○センチ  宮津市指定文化財
 平安時代(十一世紀)

 如願寺は、天台の高僧皇慶上人が万寿元年(一○二四)に開創したと伝えている。縁起によると、皇慶上人が行基の作った薬師如来像を担って安置すべき所を探し、ここに一宇を建立したという。これは伝説としても、像の制作年代は皇慶上人の時代とみてまちがいない。
 ヒノキ材の寄木造で、前面は正中で左右二材を矧ぎ、後面は一材で、計三材で躯幹部を構成し、これに両肩先を矧ぎ付ける。表面は白土の下地の上に彩色を施したもので、当初のものとみられるものがわずかに残り、衣の表に朱、裏に白緑がみられ、当初は天台系の薬師如来にままみられる朱衣金胎像であったかと思われる。現状はほとんど剥落し、また胡粉地の上に施された後補の彩色も剥落が著しい。作風からみると、平安時代前期にみられた一木彫の重厚なものから、後期の優美なものへの過渡的な特色がみられる。すなわち、枠にはまったような窮屈な姿態や、腿の太さを強調する手段である股間を流れるY字形の衣文の形制には、前期の余風が感じられるものの、その彫りは形式化して浅いものとなり、また抑揚の少ない肉身表現は、むしろ後期の特色を示している。相好を中心に後世の彫り直しの手が入っていて、やや尊容を損ねているが、寺の創立に近い時期の作として貴重なものであり、また同じ皇慶上人の創立と伝える舞鶴市円隆寺の薬師如来坐像とともに、天台系の薬師信仰の伝播をうかがう資料である。

現地の案内板如願寺案内板
如願寺 宮津市字宮町
 厳松山と号す、高野山真言宗。寺伝によれば万寿元年(一〇二四)比叡山の僧皇慶上人が、行基菩薩作の薬師如来像を負うてここに来り、一宇を建てて安置したに始まるという。皇慶上人は諸国を巡ってのち丹波池上房(船井都八木町)に住したと伝え、また田辺(舞鶴市)円隆寺も中興の祖としている。
 中世丹後守護一色氏は丹波細川・若狭武田氏とたえず争ったが、一色方の山城宮津城はこの寺の向い側にあった。永正三年(一五〇六)の如願寺跡会戦はわけても激しいものであった。如願寺荒廃の時代である。伊勢外宮の御師の「舟後国御檀家帳」(十六世紀前半期)によると、「一色氏の奉行、宮津谷の支配者小倉氏の帰依を得て寺運回復に赴いたと思われる。古くから多くの子院を擁していたが、十八世紀初頭には六院に定まり、いまは本堂(薬師堂)・庫裡(旧安寿院跡)等が残るのみ。すぐれた自然環境の中に多くの文化財を持っている。
 本堂は寛文十二年(一六七二)宮津富田大工の最初期の造作、古い阿弥陀堂形式を残している。仁王門は元禄三年(一六九〇)の再建、ここにも三棟造の古式の模造をみせている。
 本尊薬師如来立像は桧材一木造で古様を残す藤原期の作。ほかに同時代の聖観音・十一面観音立像もある。庫裡前庭には正和元年(一三一二)刻銘五輪塔、南北朝・室町期の宝篋印塔・逆修石灯籠等石造物がある。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会


《丹哥府志》
↓山王宮(宮津祭)
山王宮(日吉神社:宮津祭)
【山王宮】(川向町)社記云人皇四十五代聖武天皇天平九年江州阪本より爰に勧請するといふ。宮津歳時記曰山王の祭は四月中の申日なり、申の日二つの時は後の申を用ゆ。所謂宮津祭り是なり。市街より芸屋台といふものに舞子を乗せて輪にて出す凡十三、又山屋台といふものあり、其山の神体を屋台の上に安置す、各芸屋台の後に従ふ、合せて数廿六、抑も祭の次第始め幟一本次に突?、次に神楽、次に鷹匠并餌刺各二人、次に修験、次に母衣武者二人、次に葛篭馬二疋、次に羽簾二本、次に纏二本、次に幟十本、次に鈴鹿山(所謂芸屋台是なり以下十三屋台山屋台を従ふ)次に三輪山、次に春日山、次に高砂山、次に稲荷山次に天神山、次に万歳鉾次に岩戸山、次に日吉山、次に紅葉山、次に蛭子山、次に住吉山、次に神明山、次に幟一本次に長柄二十本、馬二疋、蓋し官より之を出す。次に徒士廿人、次に幟一本、次に榊、次に楯六枚楯榊の類を持もの皆白張を着す、次に御膳箱、次に錺弓四張、次に長刀四本、次に四紙鉾、次に飾鉾四本、次に傘鉾二本、次に太刀、次に金幣二本、次に銀幣二本、次に紙幣二本、次に神輿、次に賽銭箱二荷、次に鞍掛、次に神主次に祭官五人、次に神子一人、神主の従者若党二人、草履取一人、刀番一人、長刀持一人、狭箱持一人長柄持一人、床机持一人、六尺四人、口取二人、是日神主騎馬或は乗輿、次に浮太鼓。以上
社司牧氏の記録に云、山王の社は古より今の處に在りしが京極高広侯の時、山王の社を山の麓に移し其跡に別業を営む、其普請の時あやしき瓶を堀り出す、幾星霜を経たるものにやさだかに文字も読めかたし、吉田殿え遣し見まゐらせけるに唯深く秘しておくへしとのも中来りぬとそ。今牧氏の家にあり恐らくは経筒ならんと覚ゆ。永井侯の時に永井家四公の祠堂を其地面に上に建立す、又其側に別荘を造り漱玉亭といふ甚贅美なりしより奥平侯の時に至て山王の社を元の地に移し祭る今の山王是なり。土人の説に始め京極侯山王の社を山の麓に移せしは正保四年四月申の日、永井侯の別業を営みしは延宝三年四月申の日、抑京極侯の断絶せしは寛文六年六月申の日、永井侯の断絶せしは延宝八年六月申の日、又奥平侯山王の社を元の地に移し祭るは元禄十五年十一月申の日、不思議なりといふ。

《与謝郡誌》
日吉神社拝殿(宮津市宮町)
郷社日吉神社
 宮津町字宮町鎭座、社格は郷社、祭神大巳貴命大山咋命、聖武帝の朝天平九年江州阪本より勧請すと或は云平城帝の朝なりと。例祭五月十五日旧幕時代は藩主より藩祭を執行せしより國祭り又は宮津祭りと称へ近郷近在より人出櫛の歯を引くが如く御旅所は廣小路を超えて波路にあり宮津城は特に大手波路の両門を開放して通過を許したるより「宮津祭りは将棋の駒よ大手々々と詰めかける」の俗謡すらあり.神楽御輿浮太鼓.屋台の練り込む様拝殿の額面に名残を留む。正面神氏の二字は有栖川熾仁親王の御筆と聞く。当社沿革に就ては他に異説あり。蓋しもと此に延喜式所載杉末神社ありしを、御一條院萬壽の頃比叡山の名僧皇慶上人留錫して如願寺を創建するや其鎮守として比叡山の阪本に於けるを倣ひ近州阪本なる日吉山王二十一社権現を勧請すと。爾來寺運隆盛一山塔中六ケ院、鎮守山王随て榮え京極公入國以來累代領主の尊信あり、始め分宮島谷家をして祀らしめしも後には如願寺に在りし牧氏を権禰宜に任じて祭祀に預らしめ殊に寛保以來領主も山王を氏紳と仰ぐに至りて社頭頓に面目を改め遂に如願寺を分離し後には山王本社となり杉末神社は却て末肚の感を呈するに至る。明治維新神佛剖判により二年山王廿一社権現の称を廃して日吉神社と改め五年氏神は一社に定むべき豊岡縣の示達に基き杉末神社を宮津西部(京街道本町東堀川以西)の氏神と定め日吉神社は旧例により無氏子同六年二月十日豊岡縣十三大区内郷社と定められ、同四十年三月一日京都府告示第八十四號を以て神饌幣帛料供進神社に指定せらる。当社経筒を蔵す、宮津府志に正保四年四月申の日普請の際社地より発掘せしものゝ由を記す。
 境内摂社に杉末紳社あり社格は村社にて祭紳大物主命相殿大已貴命少彦名命、敏達元年大和三諸山より奉遷翌癸巳四月六日官幣を奉ると傳へ延喜の制竝小社に列す和漢三才図会丹後の條に宮律明神在與謝郡宮津祭神二座大巳貴尊少彦名命後冷泉院永承五年九月依詫宣建之とあるは蓋し当社のことなる歟日吉神社との関係は前記の如く明治六年二月十日豊岡縣より村社に列せられ祭日九月九日氏子千四百有余戸。
 境内末社 恵美須、船魂、金刀比羅.年徳稻荷、山神の小祠及ぴ招魂肚あり致命牡烈社と號し慶応四年六月創立に係る。

現地の案内板日吉神社案内板
山王宮日吉神社
 古来より、山王社と呼ばれる、宮津郷の総産土の神とされ、例祭は五月十五日に執り行われる、山王社の起源説はいろいろとあり、其のいずれもが平安期までさかのぼり、江州坂本より勧請されたものとある。大己貴命、大山咋命の二柱をお祀りし、国造りの神であるところから宮津藩守護神として歴代藩主の厚い尊敬を受け、従って家中、町方とも深いかかわりを持ちつつ、祭礼が続けられてきた。宮津開府以来、山王祭は藩祭、国祭りとして盛大な祭り絵巻を繰り広げ、城主自ら音頭をとり神輿を造り、漁師町、白柏町、葛屋町、河原町、川向町、魚屋町、万町、本町などの城下の芸屋台はもちろん、藩内の岩滝、加悦、上宮津、府中、男山、内宮、外宮より、計七十七人の世話人を選び練りものを出したと記録にある、宮津祭と呼ばれる所以である、波路御旅所への神輿渡御の際は、宮津城はとくに大手、波路両門を開いて通過を許し、そこへ神輿、屋台同士が城内巡行の順路をめぐって争いながら押しかけたため、「宮津祭は将棋の駒よ、大手々々と詰めかれる」との俗謡も生まれた。特殊神事として、六十一年毎に甲子大祭が執り行われている。
 境内には七社の神社があり、摂社杉末神社は延喜式内社として、千有余年の歴史を持ち、旧城下においては最古の神社である。大物主命、少彦名命をお祀りし、宮津西町の氏神とされている。十月十日の例祭には、「赤ちゃんの初土俵入り」の神事があり、化粧まわしを付けた幼児が、神と相撲をとることによって健康を授かるという、極めて珍しい神事として名高い。

現地の案内板日吉神社の案内板
日吉神社 宮津市字宮町
 古来山王社と号した。明治維新の神仏分離政策以後、公称を日吉神社と改められたが、その間山王社の称号はこんにちに至るまで絶えることはなかった。祭神は大山咋神・大己貴神とし、創建は近江坂本(滋賀県大津市)日吉大社より勧請したと伝えるが、これを如願寺がその鎮守として勧請したとする説は必ずしも正確ではない。例祭は近世より四月中の申の日としたが、今は五月十五日に定めている。藩祭・国祭・宮津祭といわれ、近郷よりの人出で湧き立った。その時くり出した芸屋台の一部は今も保有され、祭りを賑わした浮太鼓は今尚続いている。
 境内杉末神社はこの地に数少ない式内社のひとつである。船魂・恵比寿神社は町の漁師・船乗りたちによって祀られているが、創建の事情は明らかでない。
 現存社殿は日吉神社本殿が貞享五年(一六八八)、拝殿は天保五年(一八三四)、杉末神社は寛政六年(一七九四)、船魂神社もほぼ同時代、恵比寿神社は明和九年(一七七二)の建造である。
大工棟梁は、本殿・拝殿・杉末神社は何れもこの町の當田大工が担当した。本殿の入母屋造に縋破風の向拝部を付した屋根に対して、南側に流達の屋根を持つ社殿が並び、蟇股・組物・虹梁等にも意匠の変化がみられ、美しい建築群である。
 裏の滝上山とともに宮津の景勝地であって、京都府は隣の如願寺と地続きの一郭を「文化財環境保全地区」としている。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会

《宮津府志》
瀧上山
府城の西金引山と狼姻嶺の間に、如願寺杉末社山王社の後の山也。今の山王社古へ此山腹にあり正保四年四月京極安知公此山の景色与謝江の眺望他に異なるを愛して、社を山麓におろし其跡に山荘を設く。其造築の時奇異なる箱を堀出せり、(此事神社部山王社の下にくわしくのせたり)彼別荘成就して安知公唯一度来遊して心に応ぜずとて其後は来り遊ばず、息高国の代に彼亭を取払て空地と成しぬ。後永井尚長の代に又別荘を再造す、此山上に少しさ瀧あるによって此時より瀧上山と名付しとかや。永井氏又此山に祠堂を建て先祖四公の霊を祭る、造営美を尽せり、尚長公江戸にて横死後社禝共に頽敗せり、其舊跡今猶山間に残れり、永井氏山中の勝景十六を序し、各絶句を附して自これを書し、彼山亭に掛置きぬ、其額今城下富商の家にあり。此後数年を経て奥平公の代元禄十五壬午年杉末松ヶ岡(即滝上山)を再び山王社へ寄進し絵ふ、同十七年本社を再び山下へ移しぬ(京極公題り此時まで本社は今牧氏の宅地の所に在しとぞ)しかれども瀧上山残らずは附せず、本山は代々城主の建山なり。此山の東の牛腹に一丈餘の岩に不動の像を彫刻す、此像霊験ありて諸病を祈るに効ありとぞ。此山の絶頂をたぬきケ獄といふよし。

《宮津旧記》
鉄砲鋳立場 壹ヶ所 滝上山

《丹哥府志》
【滝上山】(山王の後山)滝上山の麓に瀑布あり、よって滝上山といふ。其頂を狸ケ嶽といふ多く松茸を生す、其半腹の處につゝじ多し年々盛に開く、蓋し永井侯の栽ゆる所なりと伝ふ。其間に漱玉亭の跡あり、辛丑の春適つゝじの盛開の日此山に遊ぶ漱玉亭の跡など見まゐらせて岑参の庭樹不知人去就春来還発旧時花といふ句ほ記得せり。又其西に当て自然石に刻たる不動明王あり、何の頃より爰に安置せしや其始をしらず、元より雨露を厭はす寒暑を知らす、独り荊棘の間に立て巍然として動せす、いかなる懦夫も是を見て志を立てる事あり、世の人霊験ありとて絶へず参詣の人あり、其傍に劒或は幟などを見る蓋し願済の人の致す所なりといふ。

《与謝郡誌》
瀧上山、淑玉十六境
 黙止庵の上より如願寺谷の上に亙る一円の峯巒なり、もと如願寺の山なりしも寛永二年京極高広宮津城に移りて此を燕息の地となし、山王の祠を横に遷して別業を営み山を穿も水を通じて瀧を作り瀧上山と命ず、のち延宝貳年永井侯書院を此に設け暇あれば来りて書を繙き筆硯を弄し、又山中に一亭を建てゝ漱玉亭と題す亭煎亭後躑躅を栽植し紅緑大に賞すべし、侯山中の勝景十六を集めて漱玉十六境と云ひ谷々七絶を賦して詩情を舒ふ之れを十六絶といふ、次の如し…
之れを十六絶と云ひ延宝四年十一月永井尚長の賦する所原書を黒田宇兵衛氏に蔵す、爾来阿部、奥平、青山、本姓等累代城主みな此地を遊園に定めて郡民の入山を禁じ廃藩後官林となり明治晩年払下を受けて宮津町遊園地となせり、如願寺より登るを本阪とし山王社其他に通路少からず、山麓稲荷の社あり漱玉亭趾の左方巌角を攀ぢて匍上れば岩壁に尺餘の不動明王像を彫刻し前に小祠を構へ鰐口を吊す、賽者多く奉納の剣うづだかし、其横に役行者の石像を安置し階梯を架して昇降す、宮津上水道水源地は此の直下にあり。




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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