京都府与謝郡伊根町野村
京都府与謝郡筒川村野村
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野村の概要
《野村の概要》
町西部の太鼓山北麓で、中央を筒川が東流する、その上流部で碇川と呼ばれる。筒川地区から碇峠を越して上山に通ずる道沿いに集落がある農山村地域で、吉谷・寺領(人口12・世帯数7)・薦池(4・3)・河来見(14・9)・朴丸(23・7)・野村(29・11)などの集落が点在する。
野村は、江戸期〜明治22年の村名。枝郷に本坂村がある。慶長6年から宮津藩領、のち寛文6〜9年・延宝8年〜天和元年と享保2年以降は幕府領。里名に朴尾初・河来見・菰池・丸岡・寺領・田壷・大段の計7か村があった。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年筒川村の大字となる。
野村は、明治22年〜現在の大字名。はじめ筒川村、昭和29年からは伊根町の大字。地内の集落の明治38年の戸数と昭和50年の世帯数を比べると、吉谷39から1、田坪16から0、寺領37から13、薦池18から7、河来見40から15、朴丸9から6、野村26から15に減少していたという。今ではさらに減少していて、上記の様子。
《野村の人口・世帯数》 29・11
《主な社寺など》
曹洞宗少欲山知足院(野村)
少能山知足院
筒川村字野村、本尊地織菩薩、開基詳ならず固さ河来見にありて真言宗なりしを後年今の地に移し曹洞宗に改めたりと、檀徒二百二十戸。
(『与謝郡誌』) |
少欲山知足院(曹洞宗) 野村 檀家九○戸(元一三一戸)
本尊 樒木地蔵尊
開基 野村与左衛門
開山 振宗寺二世竹香舜可大和尚
中興 随応説順大和尚
由緒 筒川地域には寺領に恩教寺、河来見に福生寺等の真言宗寺院があり、早くから真言宗がひろがっていた。天文元年(一五三二)曹洞宗の振宗寺二世竹香舜可和尚は、この地方にあって熱心に布教伝導し、本坂・野村の地に多数の信徒を得たので、野村の地に堂宇の建立を図り、野村与左衛門の協力を得て堂宇を建立した。野村与左衛門は自己の所有の山林と畑地を寄進して開基者とされ、野村付近一帯が曹洞宗の信徒となった。当時河来見の福生寺も真言宗より曹洞宗の寺院とされたが、延宝三年(一六七五)冬福生寺の建物が野村の地に移転されることとなり、古くからあった阿弥陀堂付近を適地と決め、土地所有者野村太田太郎右衛門の寄進をうけ延宝四年(一六七六)本堂を建立し、福生寺の本尊樒木地蔵尊を安置し、振宗寺二世竹香舜可大和尚を追号して開山と定めた。ところが寺院を建立した住職江林和尚は、何故か寺院を放棄し姿を消した。檀中は協議して本山に住職の派遣を請願し、延宝五年(一六七七)随応説順和尚が入山し寺院が整備された。しかし貞享三年(一六八六)二月二十八日夜出火し、本堂、庫裏共に全焼した。
この時太田太郎右衛門の子和幸は父の意志を次いで再建を図り、檀中一同協力の下に元禄元年(一六八八)冬着工し、翌二年に本堂を完成し、庫裏並に付属の建物は元禄六年(一六九三)に完成した。住職随応説順和尚は元禄四年(一六九一)十二月に遷化したが、和尚の功績をたたえ中興開山とされる。その後元文四年(一七三九)法令により法地となり、振宗寺三十世吉山霊宗代に正式に少欲山知足院と号名し、曹洞宗大本山永平寺の末寺とされた。
現在知足院の境内は整備され、多くの宝塔が造されている。
宝篋印塔 二基現存し、年代は不明であるが、本堂裏にある宝篋印塔は宝珠の一部を欠くが、南北朝時代のものと推定される。
三界万霊塔 元禄十年(一六九七)の記銘があり、願主太田和幸と刻されている。
阿弥陀如来石像 宝永元年(一七○四)につくられた八角形の基礎に蓮弁台座の座像で、土地の人は「いぼ取り神さん」とよんでいる。
石灯龍 宝永元年(一七○四)四月山田長兵街寄進。…
(『伊根町誌』) |
恩教寺趾(寺領)
恩教寺趾
筒川村字野村小字寺領の北野にあり往昔大伽藍の由にて寺領は其の部落は勿論竹野郡字川村の三山に多くありしといふ。何時廃たるや詳かならず今僅かに観音堂一宇あり境内に大公孫樹あり周囲二十尺余乳を病める婦女此に来り皮を削りて服用せば全癒すさて遠近争ふて奉賽し樹皮皆剥き去れり、所在地名既に寺領といふ相富大寺ありしを偲ぶべし。同村小字朴尾初に薬師堂あり古き薬師像を祭り境内巨松五抱近郷唯一の名木なり。
(『与謝郡誌』) |
雲門山恩敦寺と寺領観音堂仏像
「しら雲の門させりとも思ひ入る仏の道はなにへだつべき」(丹後西国六番恩教寺御詠歌)
恩教寺の創立年代は不明であるが、平安時代にもと真言宗の寺院として建立され、寺領は広大であり宇川の上山寺と共に栄え、領域は竹野郡三山、竹久僧の地域にまで及んでいたと伝えられる。現在境内地には至るところに石像、墓石などが埋没したり露出しているが、建造物としては観音堂一宇を残すのみてある。
「寺領」の地名は恩教寺の寺領であったことによるが、室町期にはすでに衰微し樹齢約五百年といわれる大公尊樹(一名乳垂いちょう)が栄華の夢を物語っている。
(『伊根町誌』) |
雲門山恩教寺(真言宗) 寺領
本尊 聖観世音菩薩
由緒 創建年代は不詳であるが、平安時代から宇川の上山寺とともに大いに栄え、領域は竹野郡三山、竹久僧の地域にまで及び、広大な寺領に大伽藍が建立されていたと伝えられる。「寺領」の地名はこの付近一帯の地が恩教寺の寺領であったことによるが、古老の語るところによると、かつて上山寺と領地の争いがあったとき、「寺領の観音か観音の寺領か」との問いに、「観音の寺領」と答えず「寺領の観音なり」といったことにより、敗訴になったと語りつがれている。恩教寺は室町時代には既に衰微し、僻遠の地にあって今はただ観音堂一宇を残すのみである。境内地は記録図によって見ると総面積七二五・八坪あり、そのうち観音堂の境内は一六六・五六坪と記録され、背後の広大な山林はすべて元恩教寺の所有であっ
たとされている。現在古跡を散策すると石地像、五輪、墓石などが数多く埋もれ、年代の判明する塔として、宝暦二年(一七五二)に建立された三界万霊塔がひそまり苔むしている。
寺領観音堂 正面に「しら雲の門させりとも思ひ入る仏の道はなにへだつくき」と御詠歌が掲げられ、堂内には木造聖観音立像(平安時代後期の作)、木造毘沙門天立像(平安時代末期)、木造不動明王立像(江戸時代初期)、木造僧形坐像(江戸時代中期)等のすぐれた仏像が安置され、貴重な文化財である。(仏像については上巻・古代郷土の仏教参照)
この観音堂内に現在寺領区に保存されている経机が残されているが、その経机鏡板の裏に「雲門山堂守定秀宝永六年(一七○九)巳十月吉辰 野村山田長兵衛寄進」とあり、雲門山の山号と堂守が住んでいたことが知られる。
乳垂大公孫樹 寺領観音堂の境内には樹齢数百年を経た大公孫樹が聳え、八本の大枝が寄り合った形をなして空にひろがっている。実測すると周囲八・四五メートルもある巨大な名木である。幹の根元には小洞が安置され「澄朝明神」として肥られ、神木としてこの土地の人々の信仰心がしのばれる。この大公孫樹には一つの伝承があり、それは乳の出ない婦人が、この公孫樹の皮を削りとって煎じ服用すると乳が出るようになるといわれ、遠近の人々が来山して樹皮を剥ぎ持ち帰る風習があり、乳垂公孫樹と呼ばれ親しまれている。
(『伊根町誌』) |
福生寺趾(河来見)
福生寺趾
同村字野村小字河来見にあり往古密宗にて須弥山福生寺と号す、其草創年暦を知るに由なきも左の記録によれば相当古きを察すべし。
福生寺分山之堺之事
合 壹 所
右寺堺長谷ハ川切東ハ今田白屋林尾八分ナリフクロ谷ハ穴ノイリ寺ノ奥ハヲトシカ原烏東方ハ小瀧ナリ西ハ小谷屋田地ヲ堺也クモカフチヨリせり町小谷尾ヲ堺中ハタハ立石ヲ堺宮ヶ尾ハ黒松ヲ堺大ナルハ尾
八分ハタノ尾ハヨホシカタヲ堺ナリ同コモイケ伍段畠在之
堺與證如件
永承三戊子年八月十七日
福 生 寺
長 心(花押)
土地僻遠にして足跡疎らとなり寺運次第に傾き草字僅かに地蔵尊を祭りしを延宝三年に野村に移し再興したるもの今の知足院なりと。
(『与謝郡誌』) |
須弥山(のち熊野山)福生寺跡
「水上はながれも清き来見川慈悲もあなたの苔の下つゆ」(福生寺御詠歌)
河来見の北上の山は権現山と呼ばれるが、平安時代中期に紀州熊野権現真言宗福生寺より勧請し、この山麓に小庵が設けられ、樒木に彫刻した地蔵尊を安置した。地蔵尊は「樒木地蔵」とよばれ、この地の住民の守り本尊として崇拝された。(樒はシキミで別称「しきび」ことで香気があり、仏前に供えられる。)
福生寺の創始年代は明らかでないが、永承三年(一○四八)八月十七日付の福生寺長心の筆になる「福生寺分山之堺之事」の古文書があり、永承三年といえば平安時代中期であり、関白藤原頼通の時代である。この記録は伊根町内最古の古文書であり、現在野村の知足院に保存されている。…
(『伊根町誌』) |
須弥山(のち熊野山)福生寺(元真言宗) 河来見
本尊 樒木地蔵尊 (樒はシキミで「しきび」で作られた地蔵像)
由緒 創建年代は明らかでないが、平安時代中期のころ、権現山の麓に紀州熊野権現真言宗福生寺の僧が小庵を設け、樒木に彫刻した美しい姿の地蔵尊を安置し、樒木地蔵と呼ばれ崇拝されたと伝えられる。現存する伊根町最古の古文書に「福生寺分山之堺之事」として、永承三年(一○四八)八月十七日付の記録が現在野村の知足院に保存されている。(全文は上巻・「古代の郷土の仏教」に掲載)
須弥山福生寺はその後熊野山と号し、中世には三柱神社(元三宝荒神社)の別当寺としてもあったが、河来見はへき遠の地であり、信徒の数も少なく寺院は隆盛を見ることができなかった。室町時代末期になるとこの地方の真言宗は振わず、かわって曹洞宗が進出するようになると、天文元年(一五三二)振宗寺二世竹香舜可和尚は、本坂・野村・河来見の地に熱心に布教伝導し、多数の信徒を得て野村の地に堂宇を建て、この付近一帯が曹洞宗の信徒となり、天文三年(一五三四)にはこの地の者はすべて真言宗より曹洞宗に改宗することとなった。このころ河来見の福生寺も真言宗より曹洞宗の寺院となったが、江戸時代に入り延宝三年(一六七六)冬、福生寺の建物は野村に移され、少欲山知足院にうけつがれることとなった。現在福生寺の古跡は、河来見にあったことは知られているが、明確な位置ははっきり確定されていない。この集落には古い墓地が二か所あるが、その一つは長延に通ずる集落のはずれに観音堂跡があり、数多くの五輪と石塔が乱雑に集められている。この墓地は長延に通ずる道で、旧道と町道との三又路にあって、東南に向き見晴らしのよい台地にあり、宝篋印塔や回国供養塔のほかに、天文二十年(一五五一)の年代をもつ石塔や、天和・延宝の年号が判読できる数枚の板碑が残存し、観音堂があった位置とされるから、福生寺古跡ではないかと思われる。他の一つは集落の北方真上にある高台に「みせのまえ」墓地があり、多数の五輪と板碑などが集められ、土中に埋もれているが、福生寺跡とは考え難い。
(『伊根町誌』) |
三柱神社(河来見)
三柱神社(元三宝荒神) 河来見(旧村社)
祭神 火産霊命・興津彦命・興津媛命
例祭 四月二十五日
由緒・沿革 河来見の北上の山は熊野山で一名権現山という。古く熊野三山と大和大峰山の蔵王権現を祭った。奈良時代より熊野信仰が盛んで、修験者の道場としてあり、皇室をはじめ、各地の氏人も紀の国・大和の国を一円に修業する風習を生じ、熊野山の礼拝をなした氏人は、それぞれの郷士に帰り分霊を祭った。この神社の祭神は元熊野大神(主神伊奘那美神熊野牟須美神)を祭っていたが、中世以降火災の難をさけるため、火の守護神である火軻偶突神を祭り、荒神と称していたが、明治元年(一八六八)三月二十八日、太政官よりの「神仏分離令」により三柱神社と改称した。
野村知足院の前身である福生寺は、元熊野山福生寺と称し、権現山の麓にあって神社の別当であったと考えられ、「福生寺分山之堺之事」として、永承三年(一○四八)八月十七日付、福生寺長心の筆になる古文書が現存し、永承三年は昭和五十九年より起算して九二六年前であり、伊根町内にある最古の古文書である。(上巻沿革・「古代郷士の仏教」参照)
棟札の記録としては宝暦二年(一七五二)に「奉建三宝荒神云々」として遷宮三月四日とあり、「導師当社別当知足院住呂学仙」の名と共に「浦嶋来迎寺権大僧都法印寛、阿遮梨本秀暁」と見え、ついで天保二年(一八三一)七月十日再建され、現在の社殿建立の棟札には別当識は浦嶋来迎寺となっている。
昭和四年(一九二九)四月十八日新しく社殿の装飾をなし、古来より伝えられている翁三番叟の神事をなし、後世に継承するため装束を整え、盛大な記念祭が執行された。なお式典に伴う諸準備、行事、式次第等詳細に記録にとどめられている。
祭礼 翁三番叟。(葵)太刀振り、花踊り
例祭には太刀振りと花の踊りが奉納され、一時は宇良神社にも祭礼を入れた時代もある。近年は過疎化が進み祭礼も中止されている。賑やかに奉納された当時は本祭の午前中に小宮、山の神を廻り午後三柱神社に祭礼を入れ、祭礼の順は子供の棒振り、小太刀、花の踊りで、特に花の踊りは二○曲に及び細布、お菊踊りは優美な振りをよく伝えている。また片バチに鼓が加わり踊り方も優れている。…
河来見の三柱神社(元三宝荒神社)に伝承されている翁三番叟は、その創始年代は明らかでないが、江戸時代初期から始められたと推定され、起源は浦嶋神社にその発祥を見ることができる。
浦嶋神社には室町時代に神社お抱えの猿楽師達があり、神事には能楽(始め猿楽能)が催されていたが、近世初頭に社領が半減されたことによって、能役者を抱えることが財政上困難となり、能楽師たちは若狭方面に移住してしまった。浦嶋神社の社領は天文九年(一五四○)十月二十三日付、「浦嶋大明神へ御寄進分目録」(社創注進)によると二○石六合四勺があてがわれていたが、慶長六年(一六○一)十月に一○石となり、更に翌慶長七年(一六○二)京極高広の検地により六石三斗一升二合と削減されている。この社領の減少によって、常時能役者を抱えることができなくなった浦嶋神社では、神社の造営や屋根の葺き替えなどの神事の時には臨時に能楽師をよんで上演していた。翁三番叟はその後浦嶋神社の神事のおりに、能楽者に代わって河来見の地域の人々が勤めるようになっている。河来見地区に残されている記録によると、天保二年(一八三一)、三柱神社の造営のときと、昭和四年(一九二九)四月十九日、同神社創建八百八十年祭に、装束や調度品を新調して荘厳な式典を共に上演されている。当時の記録をたどって見ると、京都室町にて能楽の装束や調度品を整え、三本木観世能楽堂をたずねて実地に見学し、研さんに努めていることから、観世能の流れを汲む翁三番叟である。この翁三番叟が催されたのは、年中行事の祭礼とはことなり、かつては干天がつづいたときの雨ごいや、重要な神事の時だけに上演されたものであり、戦後には一度雨ごいのために浦嶋神社で奉納されている。
翁三番叟の由緒について浦嶋神社前宮司宮嶋茂久の書写したものによると、
「権現山は経が岬の沖合より見通しのよろしきところへ、昔ある年の春ならむ。浦々をめぐりける千石船のありけり。はてしなき海原にかすみかゝれる晨そらに、舟の上にて人々舞楽を催しけるに、ふしぎや一時ばかりのほどに舟、水上に留まりして動かざり。人あやしみて同船の智識に其のいわれをうらないけるに、遥かに権現山にいます熊野大神のこれの興あり。音楽におん耳をそばだてられしより、自ら船は行手にさまよいけむという。みな人即ち驚き畏みて、鼓、太鼓のかずかずを大宮に献上する事を起誓し奉り、具に海上安穏を念ぜしに船忽ちにすゝみ行けりと。是ら郷の人神慮を和らげまつるよすがとして、翁三番叟を神技とし累代伝えたりとぞ」
とある。
一 翁三番叟と別火
翁三番叟はもと猿楽能から伝わって、今なお能楽に演じられる首曲であるが、一般常納の戯曲的なものと全く異って、天下泰平・国家安穏を祝う祭式的性質をもっている。
神秘観から俗界を離れた清浄境を現すために、能楽の冠頭に据えて前奏する曲礼である。
演式は翁・千歳・三番叟の三部からなっている。
猿楽が神社の所属であった時代にその芸術的信仰から常の演舞に先立って、神塊を迎えて舞台を浄化せしめるよう翁を奏したもので、古来「翁渡し」といっていることを考え合わせると、神の渡御に擬する意義を酌みとることができる。
翁三番叟はこのように神曲として尊崇されたので、この役にたずさわる者は、あらかじめ数日間別火して不浄を忌み、精進潔斎をする掟がある。河来見の場合も一週間前よりそれぞれの家の表の問に籠り、家の出入りも通常の入口は使わず、表の縁側より出入りをし、寝食も家族と別にした。特に炊事の火の取扱いは厳重にされ、便用に先立っていちいち切り火をして清めてから使用され、また炊事用鍋なども同様に切り火をした。食事も酒、肉を断って心身を清めて当日を待つのが慣わしであった。
二 装 束
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(『伊根町誌』) |
↑宇良神社の翁三番叟を伝えた集落。どんな集落と神社かと尋ねてみた、母体は荒れていた。
三柱神社(薦池)
三柱神社 薦池
祭神 火産霊命・興津彦命・興津媛命(元三宝荒神)
例祭 十月五日
祭礼はなく、餅祭り、五日祭りと称され、祭り宿は各戸が順番制にて、当番の家は前日より親類が集まり献立の準備をなし、五日本祭には地区の老若男女がすべて宿に集まり、終日宴会をなし餅を主とし、種々工夫され餅祭りとして知られている。
沿革 創建は亀山天皇文永十一年(一二七四)蒙古軍襲来当時に国家安護のため奉斎されたと伝えられる。
(『伊根町誌』) |
碇峠・碇山・日量の里
イカリ(日量・碇)の地名
↓右に曲がれば碇峠の頂上で、筒川方面に下る。まっすぐ行けば「上山寺」で、日本海に面した中浜へ下る。左側は碇高原総合牧場。碇山は峠の北側の山、南側は笠山という。
水の江。当国水の江は北に向ひし海の惣名なりと伝ふ。むかし浦日量里に浦島が子と云人仙亀に引かれて雄略天皇の朝より淳和天皇の朝まで海神の都に有て再び細野村り渚に帰る、依て水野江細野の宮とも祭神社啓蒙神社考日本紀延喜式等神祇の部に記、又水の江本庄地はむかしの城跡にて浦島の旧里なり島児此所へ至りて死すよつて此所に祭るなり。…
日量里。浦島太郎旧里今もいかり峠いかり山などといふ所あり村は村名替てなし一説城地は本庄村なりと伝ふ。
(『丹後旧事記』には、) |
日量と書いてイカリと呼び、浦島太郎伝説と関係深い地名のようである。日量は日置の誤記でなかろうかとも言われるが、奥に碇山や碇峠が、猪狩高原や碇牧場があり、上の文からはやはりイカリと読むのではなかろうか。山の奥から河口部までが、筒川の流域はイカリの里であったのかも知れない。表記の漢字はいろいろと違え、全国各地に見られるイカリである。井光・碇・猪狩・伊我理・一光・錨・伊加利・伊狩・五十里・井狩など。それにどうした歴史があるのかは、当サイトはすでに書いているので、そちらを参照しもらいたい。
しかしHPなどの説明にはとんちんかん説明が多いようなので再度ここに書いておこうかと思う。
『奈良県の地名』も、
イカリは猪養の転訛か。飯貝(現吉野町)を井光の遺称とする「古事記伝」の説もある。 |
としていてわかっていない様子である。こうした地にはイカリ姫が祀られているイカリ神社が鎮座していることがあり、何か重要な地であったように思われる。イヒカ・イカリは神武記紀に記載のある古代地名であり、現代人がジョーシキ的に手軽に考えるよりははるかに古い意外な歴史がある。
何もワタシが偉そうにいうのではなく、すでに松田寿男博士の『丹生の研究』が早く解明している。
私が吉野地方に水銀があると見破ったのは「古事記」や「日本書紀」に見えている神武天皇の吉野巡りの話をヒントとしている。この話が記紀の問で取扱い方がちがっている点はすでに前章で述べておいたが、それゆえにこそ私はこの話を単独な伝承と判断するわけである。かつ、そのとき論じておいたように、この話は、或る実際の知識が伝説の大英雄に結びつけられて、はじめて口から口に伝えられつつ保存されるという、古代記録の基本的な型によって組立てられた南大和の風土記である。こう判定した点から私の論考は発展した。もういちど「古事記」(巻中)から問題の一条を引いておこう。
其の地(阿陀)より幸行ませば、尾生る人が井より出で来たれり。其の井は光れり。汝は 誰ぞ、と問わせば、僕は国つ神、名は井氷鹿と答白しき。此の者は吉野首等が祖なり。即て其の山に入り之けば、亦た尾生る人に遇えり。此の人は巌を押分けて出で来たれり。爾て汝は誰ぞと問わせば、僕は国つ神、名は石押分の子。今ま天つ神の御子の幸行ますと聞ける故に参向えるのみ、と答白しき。此の者は吉野国巣の祖なり。其の地より踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき。云々(原漢文)
と訓まれる。この前文に見えている阿陀(いま阿太・阿田などと書く)を加えて、吉野および国巣(紀の国栖)の3首長が、すべて自ら“国つ神”と述べて地方の首長である身分を明かにし、かつ吉野と国巣の酋長は“尾の生れる人”と形容されている。
“尾の生えている人”とは何であるか。それは「古事記」の後文に神武天皇が宇陀から忍坂の大室に至ったときに“尾の生れる土雲の八十建(やそたける)”と会見したとあるのと同様に大和民族(正確にいえば天孫民族)が異族を自分たちと区別するための表現であろう。天つ神と国つ神との対比が、天孫民族系の人たちと地方人との区別であったことは、誰でも知っているが、これはそれ以上に血統の要素をさえ加味した差別である、と私は理解する。ついでながら、この一文に見える井氷鹿が尾を生やしていた話に関する私の解釈を聞かれた大和水銀鉱業所の井上純一所長が、現業者らしいリアルな着想を披露されたのを取次いでおきたい。それは、昔の採鉱者が坑内で座業をするために、腰から尻の部分に円座のような尻当てを紐で吊下げていたという事実で、氏はこれこそ“尾の生えている人”の現実ではないか、とされる。
ここに、井戸から出てきて神武天皇に見参したと伝えられている井氷鹿は「日本書紀」では“井光”と書かれているが、その光のある井戸とは何であるか。それこそは、水銀坑の形容ではないか。それは表土に露頭していた朱砂を掘りすすめたために生じた竪坑であって、あるいは自然水銀が坑の側面や底面で点々と光っていたかもしれない。では“石押分”(「日本書紀」の磐排別)つまり岩磐を押分けるとは、どういうことか。まさしくそれは、岩山に穿たれた横穴式の鉱坑で、おそらく銅坑であろう。思うに、国巣族は銅鉱の採掘に従事し、吉野首の一派は水銀鉱の採取を特技としていた。その点でかれらが大和朝廷と特別な交渉をもったことが、このように伝説化されて保存されたにちがいない。
国巣人が穴居していたという伝えは、おそらくそのような生活を伝えているが、昔の国巣(国栖)の地には、今もなお三尾銅山(奈良県吉野郡東吉野町すなわち旧の四郷村三尾)があって“岩おしわく”をさながらに見せている。それでは“井ひかり”の事実はどうであろうか。… |
吉野のイカリ族が水銀を採取していたであろう地なのである。彼らはいつの時代か、はるばるとここにまでやってきて井戸を掘り水銀を採取していた、だからこうした地名が残ったと考えられる。
伊根町の海岸には耳鼻、新井、蒲入と丹生の転訛と思われる地名が残り、この一帯はどうやら水銀朱が多かった地と思われる。
それはたぶん江戸以前のハナシであって、江戸期には何も痕跡らしきものはない。そうした歴史がすべてと思い込む現代人(近世人も含めて)のガクシャ・センセ・シカなどのジョーシキなどがいかにアテにならぬものか、偉そうにはしているが、己がわずかな歴史にすらも疎い、アレではね、うまくいくワケないわ、などと陰口をたたかれている、近代社会の人間知性の危機は超深刻である。神話を信じゴマカシの虚構に生きるのは意外にも古代人よりもわれらかも知れない。
薦池集落には節分がないそうである。オニの村なのだろうか。
「節分のない薦池」
太鼓山(683m)
寺領などの下からも見えるが太鼓山の頂上に、2001年に15億円かけて設置された6基の風車が回っている。京都府の太鼓山風力発電所。高さ75m、1枚のプロペラ25m、風車の国オランダ製で、1基750kwを発電するという。
いつもあんなゆっくりとした回転でまともな発電ができるのかと思うようなスピードで、しかも1基は回っていない。実は壊れていて撤去したいのだそうだが、その費用は1億円とか。年々かなりの額の赤字が続き、ホントは全部撤去したいようだが、ゼニも大変だし、原発再起動推進派かと言われるのも困るのか、とにかく壊れた1基だけ撤去という。温暖化防止策としてやっているそうだが、場所が悪いのか、風の道は山のテッペンより鞍部ではないのか、木だってここらは皆まっすぐに立っている、事前調査が不十分なのではなかろうか。
「風が吹けば桶屋が儲かる」、デンマークでは同じような発電用風車を個人で持っていて月50万くらいは儲かるとか、原発を建てられそうな予定地には風車が建てられたとか。:原発よりははるかに安くて安全安心だが、だいたいこんなものは府などクソ官僚どもが勝手にやっていてうまくいくわけがないではないか、の大失敗の見本。市民抜きでやってもゼーキンを捨てるようなものである。
この日は風車も回らない無風の日だった。時にドンと音が聞こえる、しばらくしてまたドンと鳴る。こんな山の上で誰か太鼓を叩いているのだろうか、山頂で祭りがあるのかな、などとも思ったが、すぐ合点できた。これだ、これだから太鼓山なんだ。
上の方から聞こえてくるように思うが、おそらく自然に鳴るタイコそっくりの風の音なのだろう。日本海からの風と若狭湾からの風がここの上空でぶつかり合い、こんな音が出るのではなかろうか。
鼓ヶ岳が少し南にあるが、これもそういた意味かも知れない、しかしワタシは確かめてはいない。
ここは高浜原発から35キロくらいだろうか、ここらへも原子雲がくるだろうな。ドンドンと太鼓が鳴る日には避難するのが正解か。
その音を録音してやろうと狙ってはいるのだけれども、今はここへは行けない。どちらから行っても道路が崩れていて車では行けない。歩いていくなり、通行止めの表示を無視していけば行けるのかも知れないが、そんなことはやめておこう。府道なので、途中にはいいかげんな案内しかない、とりあえずは今は行かれない方がよろしいかと思います。道がなおってからにして下さい。
《交通》
《産業》
野村の主な歴史記録
『丹哥府志』
◎野村(本阪の次)
【三宝荒神】(祭七月廿四日)
【小能山知足院】
【付録】(愛宕)
【朴尾初】(以下七ケ村野村の里名)
【河来見】
【三宝荒神】(祭八月朔日)
【菰池】
【丸岡】
【寺領】
【三宝荒神】(祭七月十六日)
【観音堂】
【田壷】
【大段】 |
野村の小地名
野村
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