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大久保(おおくぼ)
宮津市
付:大久保山城跡
大久保稲荷
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京都府宮津市大久保
京都府与謝郡宮津町大久保
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大久保の概要
《大久保の概要》
市街地の西南部の丘陵状に突出する大久保山(大窪山35m)東麓に南北に300mほど連なる裏通り。
大久保は、江戸期〜明治22年の地名で、町家地と武家地からなる。町家地は宮津城下職人町組の1町。町筋は京街道に西接して南北に長く延びていた。慶長7年「宮津下村検地帳」に「大くぼ」。元禄16年の御城下絵図に町筋は45間、宝暦年間は南北51間、道幅1間。家数は寛文6年40軒、宝暦年間4軒、明治維新前47軒、明治19年42軒、同21年37戸。明治22年宮津町の大字となる。
大久保は、明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。
《大久保の人口・世帯数》138・62
《主な社寺など》
大久保稲荷社は、大字宮本にそのもとの稲荷社と称する祠がある。元々は伊根町菅野の風車のある太鼓山にあったものを細川忠興が勧請したという。
大久保山は丹後守護一色氏家臣野村氏の居城と伝える、本丸は上水道揚水設備のために、そのほかは近世以来の海岸埋め立てなどによって削りとられ、ほとんど中世山城の遺構をとどめていない。
その後は細川忠興がこの城にいたという。ガラシャ夫人もここにいたことであろう。一色義有が細川父子に謀殺されたのもこの城であろうか(説はいろいろある)。
大久保山頂上は削平されて桜山公園になり、本荘神社がある。
天理教会
《交通》
《産業》
大久保の主な歴史記録
《丹哥府志》
【大久保稲荷大明神】(祭初午九月廿八日、古稲荷の次)
【野村将監城墟】野村将監は小倉播磨守の臣なり、一色氏に属す、天正年中一色氏殲て後土民となり細川氏に従ひ墾田を開き大久保山に居る。慶長五年小野木縫殿助田辺を襲ふ時糧米廿石田辺に運送す、幽斎大に感賞せらる。寛文年中大久保山より田中村に移る、其子孫なりとて田中村にあり。
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《丹後宮津志》
稲荷社 在大久保
鎮座年歴未詳 社人 坂根石見
社記曰、勧請の始知れず、慶長四年細川忠興公祈願の事ありて神殿再興あり、夫より例月午の日長久の祝詞怠らず。寛永二年京極公当城造築の時迄は大久保山の北の端にあり、大久保山続きは田中村にて則其村の氏神たりし所、此田中村を此時有田村の前船山の下へ移さる、当社は其侭残れり。其後社の上宮津川の流傳ひ東の山端岩根を北へ一筋に流れ落ち此社地後ろは山前は清流を帯て誠に清浄の神地なりし所に、同じ頃此川筋を東へ移さる、今の追手川筋是なり。又大久保山東へ出張の分残らず海面へ突き流し平地として町屋続の地となる、之れに依って当社も此時北の山端より今の地へ移し祭る。此神座の跡今に残りて大久保山北の端に小社あり、今京海道新長屋の裏山麓の小社是也。
祭日 二月初午日 九月二十八日
末社二座 粟嶋明神 祭日 三月三日
翁社 号疱瘡神、勧進神秘
同社 在惣村口南
同社 在白柏町後
宮津事跡記→慶長四己亥十一月細川忠興公神之御告に仍而菅野村孫太郎山稲荷明神を下宮津の市場に御引移し相成候。然ル處一色家幕下竹野郡島村元城主坂根修理進が弟を下宮津に分家させ右孫太郎稲荷の宮守とす。
宮津町=本町・魚屋・新浜・宮本・万・金屋谷・小川・白柏・河原・住吉・漁師・杉末・川向・宮町・蛭子・池ノ谷・万年・万年新地・鶴賀・波路・波路町・安智・外側・吉原・中ノ町・京口・馬場先・松原・京口町・木ノ部・京街道・大久保・柳縄手・島崎。世帯数2212。人口9190。 |
《丹後旧事記》
稲荷大明神社。宮津大久保。命婦 野狐孫太郎。慶長四年霜月朔日兵部大輔藤孝一郡一社之正八幡宮を祭り玉ふ之一社也。 |
《与謝郡誌》
稻荷神社
宮津町字京街道、村社、稻倉魂命、保食命、配祀武甕槌命、経津主命、大山祇命、慶長四年細川忠興霊夢を感じ筒川庄菅野村の太鼓岳より当地北大久保に勧請し、其の後寛永ニ年京極侯今の地に遷し文化十年本庄宗発公社殿再建すといふ。表門、拝殿、社務所等あり宮津藩寺社名前御調帳京海道稻荷社坂根肥前境内末社、保食神社、倉稻魂神社、翁神社、梅宮神社、稻荷神社、粟島神社等あり今尚ほ大久保稻荷と称す。祭典十月二十八日。
大久保山城墟
宮津町大久保山にあり、野村将監の居住せし所なり将監は小倉播磨守の臣なり一色氏に属す天正年中一色氏殲んで後土民となり細川氏に従ひ墾田を開き大久保山に居る。慶長五年小野木縫殿助田辺を襲ふ時粮米二十石を田辺に運送す幽斎大に感賞せらる。寛文年中大久保山より田中村へ移る其子孫なりとて田中村にあり云々「丹哥府志」野村五兵衛当時の旧家なりとて今存す。 |
《丹後の宮津》
…さて問題は、この寺をかこむ山、これが目的の大窪城址で、この寺の墓地からでも、山へは楽にのぼれる。山頂はいずれも五・六○メートルたらずの小丘台地で、この台地が北の方へつずき、宮津の町を西と東にわける地勢をしている。山上は散歩によく、公園化されれば理想的であろうが、ただ荒れるにまかせ、この台地の西がわ麓は、寺・寺の連続である。その北端に立つと、目前に静かな宮津湾がひらけ、本荘神社という旧藩主を祀る小社があり、この辺を桜山といっている。さてどこが城址であるのか、すでに山の姿は変り、たしかな地取りはできない。だがここは、一色氏時代は小倉播磨守の支城として、当時野村将監なるものが居城、小倉氏が亡びると、この野村氏は土着して大窪で百姓となり、のちさらに現在の高等学校の南がわの地域にうつり、いまにその子孫が野村氏を称している。
それはともかく、さきにみたとおり、天正十年六月(一五八二)の本能寺事件当時、この大窪城には忠興夫妻がいた。お珠の方が父の首をたしかめたというのもここで、城下の盛林寺へその首を葬り、「前日州大守条鉄光秀大居士・天正十年六月十三日」の墓碑をたてた。いまも盛林寺本堂裏の墓域に、寂しくたつ墓碑−小さい宝篋印塔がそれであるが、この寺は慶長八年(一六○三)、大窪城下から上宮津へ移転したことも明かであるから、この墓碑もともに移されたのにちがいない。
吉川英治氏が、週間朝日の別冊で。「あづち・わらんべ」を書いたなかに、宮津城とあるのは大窪城のことであった。そこでお珠の方が父のむほんを知ったときのようすが書かれているし、そのあとで味土野に閉居したこと、解放されて夫忠興の迎いをうけたときの喜びなど、まことに美しい。おしいことにこの城は慶長五年七月十六日(一六○○)、留守居役篠原五右衛門が大阪方の攻撃をおそれて自ら焼き落してしまった。こんなことを思いつゝ、古城址をさまよいあるくうち、山の東方にたつカトリック教会の家根が目につき、同時に野間の味土野に建てられた「ガラシャ夫人遺蹟」の石標が、くっきりと目の前にうかぶまぼろしをおぼえた。 |
《丹後路の史跡めぐり》
大久保の城(大窪)
桜山にある小丘は大久保の砦址で、一色の輩下野村将監の居城であった。
天正七年(一五七九)九月、一色義俊が弓木城へ退いたのち藤孝は猪岡山の城に入り忠興は妻の玉と共に大久保城へうつった。天正九年三月には藤孝はこの城から義俊に嫁す娘菊を弓木城へ送り出している。そうして同年四月には玉の父明智光秀が天橋立へ来ているのでこの城に立ち寄ったことが想像される。
しかしそうした平和な生活もつかの間で、翌十年の六月二日父光秀は主君織田信長を本能寺で殺し、十三日には自分もまた秀吉に誅されてしまった。
玉は父反逆の罪を負って二子と僅かな家臣をつれ、城の麓からひそかに舟に乗って日置浜に上陸し世屋谷を経て野間の味土野に入った。玉が味土野の奥でひっそりと暮している間に弓木城の義俊は田辺城(一説にこの大久保城とも)で殺され、丹後の一色輩下の各城は細川勢の総攻撃を受けて全滅し、弓木城もまた九月二八日陥り一色氏が滅亡するという大乱となってしまった。玉は義俊に嫁して弓木城へ入った菊の死を味土野でどのような気持で聞いたであろうか。忠興は席あたたまる暇もなく秀吉に従軍して各地に転戦したが、その功によって再婚という形で玉が許されて味土野より帰ってきたのは天正十二年の秋であった。忠興は秀吉の命によって天正十三年玉を伴って大阪玉造の細川屋敷へ入ったが、翌十四年玉は宮津へ帰って三男忠利を生んでいる。その後しばらく田辺へ入って藤孝の許で滞在していたらしい。
慶長五年(一六○○)小野木縫殿介の乱の際藤孝は家臣に命じてこの城を焼き払わせている。
小野木の乱が平定したこの年の十二月、玉を大阪で失った忠興は九州中津三九万九千石の太守となって宮津に心を残しながら加悦谷から大江山を越して出発する。その後は廃城となったが、現在城址には本庄氏を祀る本庄神社があり、麓に本庄宗秀、宗武父子の墓がある。 |
《宮津市史》(地図も)
大久保稲荷
慶長四年1599に細川忠興が勧請し、寛永二年1625に京極高広が現在地に移したという。宮津旧記は、文化十年1813五月七日より九日にかけて、町中の人々が練り物を繰り出して「地築」「礎築」を行ったと記す
大久保山城跡
宮津市街の西側にある大久保山の尾根上に位置する。『丹後旧事記』は「野村将監」を、『細川家記』は「小倉播磨守」を城主とするが、詳細は不明。『御檀家帳』に記される「宮津の御城」が当城だった可能性もある。当時宮津湾岸に「宮津いち場」があったと推定できるため、当城は戦国期宮津を考える重要な城跡になる。
標高五一二メートルの頂から複雑に曲折する尾根線に占地する。幅の狭い尾根上に平坦地が連続するが、後世の畑地開墾などの改変や、削平状況の不充分さから、曲輪の判読が困難である。今後、発掘による地表下の調査に期待したい。 |
現地の案内板
大久保山城跡
大久保山城は天神社裏山から智源寺裏心にかけての尾根筋にあったと思われるが、幕末には島崎砲台築造の土取り場となり、明治期には本荘神社の境内が開かれ、近年はさらに本丸跡と思われるところに市の水道施設が造られるなどして大いに山容を変じた。
比高三十メートル走らずの低い丘陸に、南を主郭に北にのびた戦国末期の山城であった。山腹山下は水脈に恵まれ、南東の八幡山塊と並んで、宮津川下流の沖積平野のまだのびていない時代に、海城として重要な役割をもっていたものと思われる。
城主は近世地誌類に小倉播磨守といい、或はその配下野村将監という。恐らくその何れもが真実であろう。小倉氏は丹後守護職一色氏の在地の上級の被官である「奉行」の一人であった。かつて京都の守護屋形はいた小倉氏がここにいう小倉氏と同じ家系であるのか、又いつ丹後に下ったのか詳らかでない。
この城の終末の時期は、恐らく天正六年(一五七八)織田信長が細川藤孝・惟任光季らを派遣して、丹後攻略をほぼ終えたころであろう。かつて大久保山下には小倉氏菩提寺盛林寺があった。近世初めに上宮津谷に移されて現存するが、寺蔵過去帳・位牌の中に、天正六年十月十七日小倉播磨守一洞居士、及び同月二十八日同人妻妙栄禅尼のものがあるのが、その終末時代を示すものであろう。
宮津市教育委員会
宮津市文化財保護審議会 |
関連項目
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丹後の地名へ
資料編の索引
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん
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