丹後の地名

男山(おとこやま)
京都府与謝郡与謝野町男山


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京都府与謝郡与謝野町男山

京都府与謝郡岩滝町男山

京都府与謝郡岩滝村男山

男山の概要


《男山の概要》



与謝野町の最も東北端で、南は阿蘇海に面した平地、北側は山地で鼓ヶ岳まで。府立与謝海病院や養護学校のある一帯(今は養護ではなく支援というらしい)。地名の由来は平安期に当地へ小野仁海が山城男山の八幡を勧請した(板列八幡神社)ことによるといわれる。天橋立周辺ではずいぶん早く開け発展した地で、男山前面の阿蘇海に臨む平地には、丹後ではめずらしいといわれる整然とした条里制地割も残り、小字名に丁後田・国住・町田・鍵町・郡分・惣役・かわらけ田などもある。丹後国府の最有力候補地ともされている。北部に通じる府道53号は間人街道の古道。
男山村は、江戸期〜明治22年の村名。宮津藩領。ただし寛文6〜9年と延宝8年〜天和元年は幕府領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年岩滝村の大字となる。
男山は、明治22年〜現在の大字名。はじめ岩滝村、大正10年からは岩滝町の大字、平成18年3月からは与謝野町の大字。

《男山の人口・世帯数》 1366・456


《主な社寺など》

  法王寺古墳

丹後の古墳は五千基以上もあり、京都府下の全古墳横穴墓も含めて九千基ばかりの半数が集中している、古墳時代は丹後こそが中心であったことがうかがわれ「丹後王国」の存在が想定されたりしている。しかし前方後円型は日本海側最大の巨大墳があるが、数は多くはなく全部で74基ばかりだそうである。これはその1つ。
丹後といえば古墳なのだが、これから西はいよいよそうした古代丹後らしい地域になって、野田川流域はすごいのがゴロゴロと出てくる。ここは古代丹後王国の東の端か。
しかし阿蘇海周辺の大古墳はまことに残念にもどれも原型をとどめていない。わずかな写真が残されているのみである。

↓『宮津市史』より。現在は与謝の海養護学校敷地となってまったく跡をとどめない。
法王寺古墳(男山)

与謝の海養護学校(男山)
↑今の様子。右は国道178号線、まっすぐに行けば府中である、坂の上にあるのが府立与謝の海支援学校、車が上っていく頂上の所に、一番海側の建物にいくらかかかる位置で建物と平行する状態で、こちら側に前方部にして法王寺古墳があった。このあたりの巨大古墳はみな橋立を眺めるには絶好の位置にある。

男山の養護学校建設工事中の昭和四三年八月発見された法王寺古墳は、全長七四メートルの前方後円墳で、後円部の径五五メートル、長持形石棺、埴輪棺、石枕が出土している。石棺内より安良彦、安良媛と伝えられる男女二体の遺体が出ており、墳腹に二人を祀る小祠がある。全山葺石に覆われ、造られた当時は真白な葺石が阿蘇海に映えてすばらしい眺めであったろうと想像される。
(『丹後路の史跡めぐり』)

 安良彦・安良媛の墳墓という、どこからこんな気になる名が出てきたのかは不明。古い伝承なのか新しく誰かが勝手につけたテキトーな名なのか。何と読むのかもわからないが、たぶんアラと読むのではなかろうか。『福知山市史』が言うarで、同史がいうような「朝鮮語の影響」というよりも、朝鮮からの渡来者たちその地に住み残した化石のようなもので、後生の皇国史観ばかりの教育の中でテキトーに思いつくような名ではないように思われ、当時から伝わった名ではなかろうか。アリランのアリアラ、近くの板列八幡神社の末社にも祀られているが、あるいは古くはここはアラとかアリと呼ばれた地ではなかっただろうか、それからハミやハナナミとなり、平安期くらいから男山となったのではなかろうか。
arには tarkの類語がある、岩滝の滝はあるいはこれかも知れない。アラの類語のタキで光明を意味したものかも知れない。タキを日本語だと思いこんで地名を解こうとして、ここには滝がないなどというものばかりだが、こんな古くしかもアッと日本全国を驚かせた高い文化の地では渡来語、たぶん弥生から古墳時代にかけてのもの、それも当然にも想定しておくべきだろう。岩滝は神武が即位したという磐余と同じ意味であるいは王都を意味するものかも知れない。

 このあたりに法王寺という寺院があったという、養護学校の少し西側というが、それでこのあたりを小字法王寺という。
↓前方部全面の葺石(『岩滝町誌』より)
法王寺古墳(男山)

法王寺古墳昭和四十三年七月京都府立養護学校建設のため法王寺古墳裏山一帯約三万四千平方メートルの区域の樹木を伐採のうえこれを焼払い、敷地造成の準備が行われた際、山全体に多数の河原石の散乱するのが見られ、石棺(古墳)の封土北方丘陵に続く部分の堀り割り又は谷間とみられる部分にも多数の河原石が散乱していた。
京都府文化財保護課では古墳(石棺のある封土)調査を行なうに当り附近の山地一帯に広範囲にわたって、散乱する河原石のあることに不審をもち、地表調査の結果西向き前方後円墳の可能性があると判断するにいたった。(第一調査昭和四三、八、三〇ー昭和四三、九、一〇、)
京都府教育委員会において学校建設か古墳保存かで意見の対立をみ、養護学校建設を目前にして再調査が行われることとなり京都大学文学部教授有光教一氏により古墳調査が行われた。(昭和四三、一〇、一二、)
調査結果は次のようである。
立地、丘陵端(丘尾切断)
墳形、全長一三〇りメートル後円部径七〇メートル前方部四十五メートルと推定後円部中央は新田開発用の土砂採取のため大きくえぐられ、西側墳丘裾は埋められてはっきりしない。
外部施設、後円部ほほとんどが赤土で盛土され、全面葺石がめぐらされている。また、「はにわ片」の散布みもられる。前方部はすべて地山からなっており、葺石、「はにわ」はみられない。
内部構造、後円部主体部であったと思われる、長持形石棺材が後円部東側裾の藤森神社の祠の前にある。長持形石棺は古墳時代中期の大前方後円墳に用いられるのが通例である。
前方部には、地山を掘り込んで作った。一、八メートル×○、五メートルの、土壙がみられる。
以上の内容から保存説有力となったが種々検討が行なわれた結果、昭和四十三年十一月二十三日文化庁横山調査宮の現地調査があり、記録保存と確定、同古墳は調査の後は学校建設のため取りこわされることに決定した。
記録保存の調査は二回に分ち行われた、第二次昭和四三、一二、一六、ー昭和四三、一二、二八、第三次昭和四四、二、一七、ー昭和四四、三、一四、
調査の概要
古墳の外形、西南に画した全長約七〇メートルの前方、後円墳であり後円部の直径は約五〇メートル、前方部巾約三〇メートルを測るものと推定され、葺石の遺存状況の良好な前方部前面では葺石が上下二段に周らされている、上段の葺石の外側には「円筒はにわ」が三メートル〜五メートル間隔で立て並べられていたものと思われる。
古墳の内部主体、藤森におかれている、組合式長持形石棺が埋設されていたと推定される、しかし石棺埋設の状態は判明しない。後円部中心に近い部分が大きく削りとられ、内部主体は遺存している可能性は少なかったが、わずかに小高い部分が残っていたので発掘したところ、「はにわ」を利用した棺が発見される、墳丘に立てられていた「はにわ」と同じものを利用した棺で、これを「はにわ棺」と呼ぶ、位置は後円部の中心から約一〇メートル西にあたる。棺の長さは、一メートル八五センチ、周囲に挙大の河原石を置く、使用の「はにわ」は「円筒はにわ」の他に「朝顔はにわ」である。この「はにわ棺」は古墳の中心となるものでないが明らかに人体を埋葬したもので第二主体部と呼ぶ。
出土遺物、
「はにわ破片」、「石枕一個」、「はにわ棺」、はにわ破片の中には四、五個復元可能のものあり、何れも「円筒はにわ」と呼ばれるもので、径三五センチ〜四センチメートル高さ八〇センチ〜一メートルで種類は普通円筒形のものと、朝顔形のものである。
石枕は凝灰岩製縦横一八センチメートル、厚さ八センチメートルの馬蹄形、中央にわずかの凹みがある。
法王寺古墳の意義
第一次調査において地表からの観察は西向きで全長一三〇メートルと判断されたが今次の調査で全長七〇メートル西南向きの前方後円墳であり、この古墳の特徴として比較的前方部の矩い前方後円墳であり、阿蘇海に臨んで派出した低い自然の丘陵を利用して部分的には削り、また或る部分では盛土して築かれており、全山葺石におおわれた古墳は対岸からはっきりと見え、築造当時の威容が偲ばれる。
古墳の立地、外形、長持形石棺の形式、出土遺物等から判断して古墳時代中期(五世紀中頃今から一、五〇〇年前)と推定される。
阿蘇海沿岸の岩滝町および宮津市内の古墳は丸山古墳(岩滝)法王寺古墳(男山)国分寺裏山古墳(国分)倉梯山古墳、吉祥古墳(須津)いづれも古墳時代中期(五世紀)から後期(六、七世期)に、かけて築かれたものである。奈艮時代(八世紀)において、わが国律令制度の確立にともない、丹後国分寺、丹後国府がおかれて、この地が丹後国の中心的位置を確立したが、すでに古墳時代において、政治的、経済的、中心地となる要素をもっていたことを物語るものである。
大正十二年京都大学名誉教授梅原博士によって踏査された当時は樹木繁茂し正確なる外形の測定が不能のため藤森の丘陵を、古墳と推定し、石棺はここから発堀されたとし、円墳であると判断が下されていたのが、実際には裏山の丘陵が古墳であり堀り割か谷地とみられていた所は古墳後円部が、流し工法によりえぐり取らたれ箇所であって、その際に出土した主体部の石棺が藤森の小丘陵に移されたと推定されたのである。
以上が調査の概要であって雄大な規模の古墳であったのである。
阿蘇海に面した男山藤森の小高い丘に小祠が祀られ、古くから組合式長持形石棺の一部が置かれていたこの小丘を法王寺古墳と名付け、「京都府遺跡目録」にも搭載れ伝説とともにあった藤森の法王寺古墳ははじめてその全容が明かにされたのである。しかし男女二体の遺骸を安良彦、安良姫と尊称し近くに小社を建てて祀ったと伝えられ、大正十二年の調査で、小社は藤森の小祠であるとされているが、果して藤森の小丘に祀られたものであろうか、また鏡、刀剣類の出土品も詳細は全く不明のままである。
この法王寺古墳は阿蘇海の北側に発達した平野の殻倉地帯と宮津湾を利川した水運を基礎にして、宮津湾一円を掌握していた古墳時代中期(五世紀代)の豪族の墳墓であったと思われ、丹後国分寺とならべて考えるとき法王寺古墳の歴史的意義は誠に大きなものがあるとしている。
伝説にある大千賀が新田づくりに水を引いたという、水路は今も尚現存しており、古墳の裏山山腹にちようど古墳後円部頂部に流しをかけるに適合するようつくられ、流し口は巾一メートル深さ七、八十センチメートル程もあり、この水路は山裾を縫って三田川上流千二、三百メートルにわたる間続いている。永年の間に崩壊し又は埋もれ不明の箇所はあっても当時の規模が偲ばれるのである。
昭和四十四年四月二十四日岩滝町教育委員会は法王寺古墳を指定文化財から解除した。
(『岩滝町誌』)

 誠に惜しいことをしたもの、考えのないことをしてしまったものである、一度破壊すればもう二度と永遠にその姿は見ることはできない。歴史的遺物はわれらだけのものではない、子々孫々の財産でもある、丹後の歴史の永遠の抹殺、郷土の歴史や文化の永遠の抹殺、その野蛮さにはヒットラーすら蒼ざめよう、ガンダーラの世界遺産仏像を壊した連中も腰抜かして言うことであろう、どっちがテロリストじゃいやぁ、オマエらごときクソにテロテロと言われる筋合いはないわい、と。ガンダーラの古代仏像を破壊したのと同程度の犯罪ではなかろうか。われらのガンダーラ・丹後永遠の大損大恥、子々孫々の永遠に恨まれる大損。丹後はワシ一代で築いたとでも思い上がり子々孫々までもがそう考えるだろうとでも妄想した現代人的大バカのすることである、こんな超アホは二度と繰り返してはなるまい。いくらいいものを作ったとしても代わりにかけがえのないものを破壊すれば、全体とすれば決してほめられたものにはならない、養護学校をあと少し、30メートルも山側へずらせば十分なものであったろう。それなら百点満点だが、これはかえすがえす誠に残念である。
前方後円墳の前方部が小さく「帆立貝式」か。

宮津湾沿岸の前半期古墳
宮津湾沿岸における前方後円墳としては、岩滝町男山、現在の京都府立与謝の海養護学校の付近に、推定全長七四メートルの法王寺古墳がかつて所在した。後円部は、過去に大きくえぐり取られており、昭和四十四年の調査段階ではかろうじて前方部のみが旧状をとどめる状況であった。
調査の結果、前方部は二段築成で葺石・埴輪の存在が明らかになった。後円部は、その墳頂部のごく一部が残されていたと考えられ、埴輪棺一基が検出された。墳丘の規模は、全長七四メートル、後円部径五五メートル、前方部径三○メートルと復元された。なお、調査以前から墳丘上に長持形石棺の蓋石等が置かれており、調査中に偶然表土から石枕が採集されたことから長持形石棺が中心埋葬であった可能性が指摘された。
この古墳の築造時期については、長持形石棺の存在から中期中頃とされているが、埴輪棺(丹後型円筒埴輪)を積極的に評価して、野田川流域における蛭子山古墳直後の前方後円墳で、網野銚子山古墳・神明山古墳と同様海に臨む前期末を前後する時期と評価したい。なお、未調査であるが、法王寺古墳の北方二○○メートルの宮津市岩滝町境に墳丘裾の明瞭な二○メートル級の円墳・方墳が並ぶ塚ヶ谷古墳群が所在するが、これらも前期古墳である可能性がある。
(『宮津市史』)

法王寺古墳(男山)
↑前方部の葺石(『岩滝町誌』より)

男山法王寺古墳
 この男山と丹後国分寺との中間の北側の小高いところに、現在京都府立与謝海養護学校が建っている。ここにはかつて男山法王寺古墳とよばれた古墳があった。この古墳は古く、大きく破壊され、長持形石棺の蓋と身の一部が出土していた(現在は資料館に展示)。昭和44年冬におこなわれた発掘調査によって、埴輪・葺石を整然とめぐらした前方後円墳の前方部が検出され、全長およそ七四メートルの前方後円墳であろうと推定された。
岩滝丸山古墳
また男山の西北の丘陵上には岩滝丸山古墳が存在していた。この古墳は径約三○メートル以上の円墳で、内部主体は組合式箱式石棺を直葬したものであった。石棺内から舶載の神人車馬画像鏡一面、鉄製素環刀大刀一振、銅鏃一六個が出土している。
 この二基の古墳は五世紀代の当地方の有力者のために築かれたもので、これらの存在は阿蘇海北岸の地が、律令時代になって急に丹後国の中心となったのではなく、その前代にすでにその下地となる要素となるものがあったことを示しているといえよう。
(『京都考古学散歩』)

法王寺古墳(男山)
↑後円部の主体と推定されている石棺(組合式長持形。蓋石と側面部の1枚(『岩滝町誌』より))
↓今は丹後郷土資料館(何かヘンな名に変わっているがよく知らん)の建物の東側にこのようにおかれている。何の案内もない。組合式石棺の蓋石と側石。何度も言うが京都は文化と歴史の中心地、そこの府ともあろうものが、府さんしっかりしてくれよ。
石棺の一部(丹後郷土資料館)


法王寺古墳
 法王寺古墳は野田川が注ぎ込む阿蘇海の北岸にある全長七四メートルの前方後円墳で、墳丘に樹立されていた埴輪と二基の埴輪棺が確認されている。丹後型円筒埴輪はそのうち後円部から検出された埴輪棺に含まれていた。埴輪は幅の広い特徴的なタガ四本で五段区画されて、透孔は長方形で第三・四段に千鳥状配置で各段二つずつ配置している。調整は内外面ともタテハケとみられる。口縁部は円弧を描いて屈曲し、端部は薄くなって外反する。
 他の埴輪は口縁部に段をもつ特殊器台形埴輪の系譜を引くものがあり、普通の円筒埴輪は認められない。
(『丹後の弥生王墓と巨大古墳』)

法王寺古墳(男山)
↑埴輪棺

小字法王寺にあった法王寺古墳は早くから損壊を受けていたが、調査の結果、全長約八〇メートル、後円部直径五五メートル、前方部幅三〇メートルの五世紀中頃の前方後円墳であったことが判明した。表面には三段の葺石と埴輪円筒列を並べ、蓋の総長二一〇センチの組合式長持形石棺と石枕を主体部にもち、埴輪棺を納めた墓境をもっていたことも認められた。野田川下流域・阿蘇海周辺に多く散在する中期から後期にかけての古墳のうちで最も大きく、奈良時代にこの地方が丹後の政治文化の中心的位置を占める以前に、すでに繁栄を誇っていたことを示している(「法王寺・岩滝丸山両古墳発振調査概要」京都府教育委員会・一九七〇年)。
(『京都府の地名』は、)


千原(ちはら)古墳。
クアハウスのあるあたりだが、地名が気になる。
千原古墳は六世紀後半代の横穴式石室を内部主体とし、墳丘の中段部を方形にとりかこむ特異な列石が確認された。残欠とはなっていたが、金鋼装の馬具類が出土している。
(『日本の古代遺跡・京都T』)


  板列(いたなみ)八幡神社
板列八幡神社(男山)
この地が男山と呼ばれるのはこの社のためであるが、与謝郡式内社の板列神社の比定説があり、有力とされる。平安期以来石清水八幡宮領で板列荘と称していたが、康正2年の「足利義政御教書」に「板浪別宮」と見えて、荘園化したのち石清水八幡宮を勧請したと思われるている。ちょっと小高い町の背後の山のいただきにある。平安期の作で国重文の木造女神坐像2体があり、5月1日の祭礼には弓射行事が行われるという。




板列八幡神社
岩瀧町字男山小字板列、指定村社、祭神誉田別命、配祀息長足姫命、稻廼売命、奈良朝諸国に國分寺を置き平安朝又国府に八幡宮を祀る。累代國司領主の崇敬あり、殊に名僧小野仁海僧正此地に出で永承四年諸國に佛舎利を納むるに際り当社へも之れを納め阿彌陀如來を祀るといふ。当社のこと石清水文書に板浪別宮とあり総論に詳かなり、或曰延喜式板列神社もと当字西端なる加舞満久に鎭座ありしも社殿荒敗せるより当社に併合し爾來板列八幡と称ふるなりと、丹哥府志及び神社志料には式内板列神社今八幡宮と称すとあり、宮津藩寺社名前取調帳男山村八幡社毛呂石見、代々宮津藩主の尊崇篤く数々武其を寄進し献的を行ふ。天保五年社殿再建明治六年二月村社に列せられ四十三年十月十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。氏子汽四十戸祭典八月十五日の處今十月一日、社寳経筒及ぴ古鏡あり。(図版参照)境内末社稻荷、瑞若宮、高良、三田の小祠あり。
小字板列に高岡社、愛宕杜。ヅメに加舞満久社、岡に岡社、猿目盲に愛宕社皆無格社なり。
(『与謝郡誌』)

板列八幡神社
鎮座地  京都府与謝郡岩滝町字男山一七八番地
神社名  板列八幡神社
祭神   誉田別命(応神天皇)息長足姫命  稲廼売命
祭日   五月一日(古くは八月十五日) 三月十五日 十二月十五日
社 殿   本殿(神明造)、拝殿、幣殿
主要建物 社務所、輿倉、手洗舎
境内地  七七九坪
境内神社 高良神社、稲荷神社、瑞若宮神社、三田神社
文化財  重要文化財  木造女神座像二躯
文化財  狗犬一対  神鏡一面
氏子数   三三七戸(附和四十三年現在)
 古くから一の宮、国分寺、八幡宮を一国三分と称し、当社は丹後に於けるそのゆかりの宮である。
 石清水文書に「板列の庄々」という文字のあるのを見れば、当時この附近一帯は石清水八幡宮の所領の荘園であったかと思われ、その関係上八幡宮が建立されたとも推察される。また、一説(天橋記)には「真言宗の小野僧正仁海は与謝郡板列の出身とあり、その由縁でこの地に八幡宮を勧請した」とも伝えられる。
 以上のような理由から延喜式内板列神社はこの八幡宮であるといわれている。
 また、板列神社は元男山の西方「ガンマク」の森にあったのを社殿荒廃等の理由で八幡宮に合併され、それから板列八幡神社とよばれるようになったのであるともいわれている。
 成相寺の古文書に依れば「八幡宮縁起一巻、八幡宮の宝前にあり」と記されているが、遺憾ながら今日はそれがなく、創建及び沿革等を知ることはできないが、丹後国与謝郡田数帳を見れば八幡領なろもの四十町歩に及び、又、近世に至っては城主、藩主などの崇敬厚く、特に宮津藩主本庄氏は屡々参詣し、寄進等を行ったということである。
 現在の社殿は神明造、桧皮葺で天保五年(一八三四)に再建され特筆する程のものではないが、御神像は古く、極めて傑作であり、大正十四年(一九二五)国宝に、昭和二十五年八月二十九日重要文化財に指定された。
 その一躯は高さ四一センチ八ミリ、一躯は四○センチ八ミリで、高雅、端麗な刀法と剥落した胡粉色の衣紋の一面にうすく見える図の模様は明らかに藤原時代の特徴が窺われる。
 口碑によればこの御神体の外に僧形八幡の像が一躯あったが、明治三十五、六年頃(一九○二〜三)不明となった。
(註)明治初年の氏子数は男山村一四○戸、岩滝村三八○戸であったが、明治七年(一八七四)岩滝村は雛脱した。
 仁海僧上については密宗祖伝に「仁海者丹後与謝郡板列里宮道氏」とあり、元享釈書には「与謝県板浪里宮道氏」とある。この「宮道氏」は当時の姓氏になく、もし社氏の子という義であれば八幡宮は仁海以前の創立ともいえる。
 昭和四十三年軍要文化財保全のため本殿に収蔵庫が建設された。
   備考  指定村社(岩滝村誌)
    歴代神官
    毛呂友春  延享四年(一七四七)(延享以前は不明)
   毛呂好苞  安永八年(一七七九)
   毛呂清氏  嘉永五年(一八五二)
   毛呂清美  明治三十年(一八九七)
   毛呂清春  明治四十四年(一九一一)
   三田良雄  昭和七年就任

 ・永承四年−十一月仏舎利を諸国の神社に奉納す。(「模範最新世界年表」三省堂発行)と記載されている。

その他八幡神社境内には
  宇佐神社(仲哀天皇)
  仲津彦神社(足仲津彦命)
  竃神社(奥津彦命、奥津姫命)
  少彦名神社(少彦名命)
  猿田彦神社(猿田彦命)「社跡のみ」等が祠を並べている。
(『岩滝町誌』)





古そうな狛犬がいる。『丹哥府志』も絵図を挿入している。
当社の物はかなり大きなものだが、これよりずっと小さい物の同タイプのものはあちこちの神社にケッコウ見られる。
ワタシは狛蛙と勝手に呼んでいるが、「古代の物」ではない。裏山を越えた大宮町の高森神社の同タイプの物には「文和四年己未五月七日」の銘があるそうで、西暦1355年にあたり、これは銘がある狛犬としては全国最古、この狛犬も古ければだいたいその頃前後の物と推定される。
凝灰岩製で、福井市の足羽山の笏谷石、たぶんその辺りで作られ、船で持って来たと思われる。


《交通》

《産業》



男山の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎男山村(岩滝村の次、是より北蛇谷を通りて中郡五十河村へ出る)
【板列神社】(式内、祭八月十五日)。板列神社、今八幡宮と称す。天橋記云。八幡の社は小野僧正仁海の勧請なりといふ。密宗祖伝云。仁海者丹後国与佐郡板列里宮道氏人也云。又元享釈書にも仁海の伝あり、其註に與佐郡板浪里宮道氏とあり、後一条帝寛仁二年、請雨経法を行ふ事は其伝に詳なり。社の前に狛犬一対あり古代の物と覚ゆ。よって図す。
 愚按ずるに、宮道氏といふは氏か姓か審ならず、密宗祖伝に宮道氏人也といふは姓氏とも見へず、もし社司の子といふ義ならば仁海より古社なるべし。
蔵宝  一、仮面(一枚、出図)
【心月庵】(智恩寺塔頭)
【高岡出羽守城墟】
 【付録】(宇佐八幡、高良宮、石清水の社、稲荷大明神)


『丹後与謝海名勝略記』
【男山村】国分より十町余西昔板波の庄と云。八幡社高良社岩清水あり、小野僧正仁海これを勧請す也。醍醐報忍院に有所密宗祖伝に小野僧正仁海は丹後国與佐郡板波里宮道氏人也云々しかれは仁海の勧請良に故有乎。



男山の小地名


男山(おとこやま)
畔切(あぜぎり) 青屋田(あおやだ) 畔添(あぜぞい) 穴虫(あなむし) 穴の谷(あなのたに) 浅田(あさだ) あたごのをて あかひげ あみ田(あみだ) 赤ひげより尾け谷迄(あかひげよりおがだにまで) 庵の下(あんのした) 浅町(あさまち) 池田(いけだ) 一町田(いっちょうでん) 石原(いしはら) 芋け谷(いもがたに) 芋ケ谷口(いもがたにぐち) 家の下(いえのした) 板列(いたなみ) 岩倉(いわくら) 伊佐ゑ門作(いさえもんさく) 家の上(いえのうえ) 家のをて(いえのをて) 稲木場(いなきば) 家の次(いえのつぎ) 石原迫(いしはらさこ) 家の山下(いえのやました) 馬かけ場(うまかけば) 梅木ヶ谷(うめきがだに) 上ヶ谷(うえがだに) 上勝ぶ谷(うえしょうぶだに) 牛ぐそ(うしぐそ) うるしけ谷(うるしがだに) 馬場(うまば) 上ヶ石(うえがいし) 恵沸田(えふつだ) 江尻田(えじりだ) 蛭子谷(えびすだに) 大坪(おおつぼ) 於安分(おやすぶん) 大浜(おおはま) 奥休場(おくやすみば) 小谷口(おだにぐち) 小谷一の谷(おだにいちのたに) 小谷(おだに) 小谷南谷(おだにみなみだに) 小谷北谷(おだにきただに) 大べらい(おおべらい) 大峠滝の上(おおとうげたきのうえ) 大峠(おおとうげ) 大曲(おおまがり) 大曲小谷(おおまがりおだに) 奥の防(おくのぼう) 大風呂(おおぶろ) 大峠口(おおとうげぐち) 大町(おおまち) 大石(おおいし) 尾ヶ谷一の谷(おがたにいちのたに) 尾ヶ谷(おがたに) 尾け谷かわかわ(おがたにかわかわ) 大畑(おおばたけ) 狼谷(おおかみだに) 大尻(おおじり) 尾ヶ谷(おがたに) 畑谷(はたけだに) 大石谷(おおいしだに) 奥蒲谷(おくかまたに) 大栗栖(おおぐるす) 尾ヶ谷西谷(おがだににんだに) 大栗栖より小栗栖迄(おおぐるすよりここぐるすまで) 岡(おか) 小原田(おはらだ) 刈屋田(かりやでん) 金田尻(かなたじり) 鎌田(かまた) 鎌田畔(かまたあぜ) 神子田(かみこだ) 角蔵作(かくぞうさく)  鍵町(かぎまち) 鍵町東切(かぎまちひがしぎり) 川尻(かわじり) かはらけ田(かはらけだ) 亀田(かめだ) 亀ヶ谷(かめがだに) 川らけ谷(かわらけだに) 神谷(かみたに) からくわ 勘治郎迫(かんじろうさこ) かくれ谷口(かくれたにぐち) かま谷(かまたに) 川向(かわむこう) 烏着場(からすつきば) 甲田(かぶしだ) 角ノ前(かくのまえ) 北口(きたぐち) 北口ソウ(きたぐちそう) 儀助作(ぎすけさく) 北口迫(きたぐちさこ) 国住(くにずみ) 熊谷(くまたに) 栗木ケ谷(くりきがたに) 黒岩(くろいわ) くなし くなしぼうずけ迫(くなしぼうずがさこ) くなし八郎谷(くなしはちろうだに) 口かま谷(くちかまだに) くなし大隠(くなしおおがくれ) けた 監物(けんもつ) 郡分(こうりぶん) 五反田(ごたんだ) 小助田(こすけだ) 郷田(ごうだ) 五反明(ごたんみよう) 越前(こしまえ) 小峠(ことうげ) 小竹谷(こたけだに) 小土口(こづちぐち) 小土(こづち) 小口(こぐち) 小土奥(こづちおく) 五の丸(ごのまる) 小城(こしろ) 子ぎ谷(こぎたに) 小神子谷(こかみこだに) 小道谷(こみちだに) 小道(こみち) 小出口(こでぐち) こかくれ こぐるす 米かみ(こめかみ) 小松場(こまつば) 荒神(こうじん)  小栗栖(こぐるす) 古道(こみち) 古道谷(こみちだに) 琴ヶ谷(ことがだに) 三反田(さんたんだ) 西明寺(さいみょうじ) 笹谷(ささだに) さるごぜ さこ さのぼう 左の防(さのぼう) 新田(しんでん) 四反田(したんだ) じ光寺(じこうじ) 白石(しらいし) 白石口(しらいしぐち) 城谷(しろたに) 下切(したぎり) 城谷口(しろたにぐち) 城笠(しろかさ) 城山下(しろやました) 白谷口(しろたにぐち) 白谷(しろたに) 勝ぶ谷(しょうぶだに) 清水(しみず) 清水迫(しみずさこ) 新田坂(しんでんざか) 松園畑(しようえんばた) 城山(しろやま) しけ谷(しけだに) 頭高(ずだか) 末木(すえぎ) 李谷(すももだに) 砂田(すなだ) すえ川(すえがわ) ずばす ずめ 菅原(すがわら) 隅田(すみだ) 砂山(すなやま) 鋤の崎(すきのさき) ぜぜんぼ 惣役(そうやく) そわ奥(そうおく) そわ 祖父焼(そふやき) 祖谷ヶ谷(そやがだに) 戦口(たたかいぐち) 戦三の瀬(たたかいさんのせ) 戦一の瀬(たたかいいちのせ) 滝ヶ谷(たきがだに) 高畑(たかばたけ) だけ 滝の下(たきのした) 高あぜ(たかあぜ) 谷道(たにみち) 田頭(だがしら) 滝の上(たきのうえ) たふ谷(たふだに) 高津原上の切(たかつはらうえのきり) 棚田(たなだ) 滝の奥(たきのおく) 高畦(たかあぜ) 丁後田(ちょうごでん) 忠治郎林(ちゅうじろうばやし) 中治ヶ谷(ちゅうじがたに) 忠兵衛居住(ちゅうべえいずみ) 土入(つちいり) 椿谷(つばきだに) 塚の谷(つかのたに) 出合(であい) 出会迄(であいまで) 堂け崎(どうがさき) 遠け崎(とうがさき) どゆう ととろ ととろ柳谷(ととろやなぎだに) 栃木(とちのき) との畑(とのばたけ) 取付場(とりつけば) 中出(なかで) 仲出(なかで) 成相分(なりあいぶん) 長通(ながどうり) 中田(なかた) 中の谷(なかのたに) 中尾(なかお) 長町下(ながまちした) 梨木(なしのき) 中つ口(なかつぐち) 中切(なかぎり) 長尾(ながお) なわしろ切(なわしろぎり) 西の谷(にしのたに) すたヶ谷(すたがだに) 盗人畑(ぬすびとばたけ) 萩原(はぎはら) 八反田(はったんだ) 浜大町(はまおおまち) 橋詰(はしづめ) 畑仮り(はたずり) 畑け田(はたけだ) 墓の下(はかのした) 畑谷(はたけだに) 箱田(はこだ) ばんしよ田(ばんしよだ) 昼飯場(ひるめしば) 平井(ひらい) 東谷(ひがしだに) ひしろ ひやけ 深田(ふかた) 懐(ふところ) 分女(ぶんによ) 不動石(ふどういし) 茯苓(ぶれい) ふろヶ谷口(ふろがたにぐち) 別惣(べつそう) 蛇毛(へびげ) 平右ゑ門谷(へいうえもんだに) へご 鉾田(ほこた) ほうじ ほむら石 ほむら石谷奥迄(ほむらいしたにおくまで) 細尾(ほそお) 堀切(ほりきり) 堀切の下(ほへりきりのした) 堀(ほり) 本谷(ほんだに) ほうすけ迫(ほうすけさこ) ぼた石(ぼたいし) 本谷家上(ほんたにいえうえ) 菩提石(ぼだいせき) 鉾立(ほこたて) 本谷蝶蛙迄(ほんたにちょうがえるまで) 町田(まちだ) 丸山谷(まるやまだに) 薪谷(まきだに) 廻り口(まわりぐち) 宮前(みやまえ) 三田谷(みただに) 明神(みようじん) 明神ヶ谷(みょうじんがだに) 南谷(みなみだに) 三田(みた) 室ヶ谷口(むろがたにぐち) 室ヶ谷河原(むろがたにかわはら) 室ヶ谷(むろがたに) 向大石(むこうおおいし) 向ずめ(むこうずめ) 桃木谷(もものきだに) 屋敷町(やしきまち) 休場(やすみば) やな谷(やなだに) やな谷口(やなだにぐち) 弥五郎田(やごろうだ) 家敷切(やしきぎり) 屋敷(やしき) 屋敷裏(やおしきうら) 山神(やまのかみ) 柳谷(やなぎだに) 弥治林(やじばやし) 藪の谷(やぶのたに) 山の谷口(やまのたにぐち) 勇蔵作(ゆうぞうさく) 勇蔵市蔵作(ゆうぞういちぞうさく) ゆうれい谷(ゆうれいだに) 横田(よこた) 横田東切(よこたひがしぎり) 両吉利七作(りょうきちりしちさく) 利吉居住(りきちいずみ) 六反田(ろくたんだ) 和田(わだ) 和田池の谷(わだいけのたに) 割石(わりいし) 若女(わかめ) をて をて長兵ゑ作(をてちょうべえさく) 墓の谷(はかのたに) 稲荷のをて(いなりのをて) くなし長迫(くなしちようさこ) 栗木成(くりきなり) たわ 篠尾ヶ坪(ささおがつぼ) 戦(たたかい) 戦谷(たたかいだに) 桐ヶ成(きりがなり) 苦無(くなし) 隠谷口(かくれたにぐち) 大石谷口(おおいしたにぐち)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『岩滝町誌』
『岩滝村誌』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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