丹後の地名

算所(さんじょ)
京都府与謝郡与謝野町算所


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。



京都府与謝郡与謝野町算所

京都府与謝郡加悦町算所

京都府与謝郡算所村

算所の概要




《算所の概要》

旧加悦町役場のあたりから北側の集落で、西は安良山。野田川西岸にあり、加悦街道がとおる。
算所村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年加悦町の大字となる。
算所は、明治22年〜平成18年の加悦町の大字名。平成18年3月からは与謝野町の大字名。

算所という地名は、ここだけでなく全国にみられる、山所・産所・散所・三所、あるいは三条などとも書かれるが、山椒太夫の山椒も同じである、ずいぶんと長い歴史的変遷のある地名で、江戸期からなどといったものではなく、ずっと古い地名である。
一般の辞書などによれば、奈良時代の747年(天平19)の文書にすでに見られ、当時より平安時代初期のころまでは、直接的な支配・管理の系統には属さない場・人を意味する語として用いられていたようだという。平安時代中期ごろから室町時代にかけては、荘園領主の領地の一部、そこに定住することを認められて年貢の代りに雑役を務めた人をさす語として用いられるようになり、それ以降身分制度厳しい江戸時代にかけて、賤視された人々の一部ならびにその集住地をさす語として流布・定着し、近代に及んだものとみられるという。その時代の基本的生産様式の枠外にいた民というか、基本的収奪体制の外側にいた「自由」の民というのか、体制側からはよくはわかってはいなかったが、丹後由良の山椒太夫の研究などから解明が進められ、土地に縛られた農民でない民々で比較的自由に移動ができ、のちの商人・職人の源流をなし、「座」を中心としる商工業形成の前提条件をなしたともいわれる。
丹後の山椒太夫の場合は製塩がその主な産物であったようであり、土地柄によって蓑笠であったり、鉄製品であったりする場合もあり、河内の豪族・楠木正成は、散所太夫として河内の交通路を押さえ、赤坂、千早の山地で採れた水銀を集めて京都へ運んでいた、という。宗教や芸能民としてその面での役割も大きかった、算所と書くのはそうしたウラナイ、当たるも八卦当たらぬも八卦や易で使う棒を算木というが、その算をする場所ということで、こう書くのかも知れない、本来は散所と書くようである。歴史の脇役だが、ウンと実力次第では主役にも躍り出る、武将などの出身は意外とこうしたところに多いようであって、実際「かやのいちば」の成立も「ちりめん街道」も、阿良山城もあるいは当算所の集落なくしてあり得なかったかも知れないのであるがそうした郷土研究は私はまだみたことがない、今後のハイレベルの研究家の解明をまつより仕方がない。

《算所の人口・世帯数》

《主な社寺など》

安良山城址。
安良山(加悦小学校の裏山)
標高100〜220メートルほどの安良(やすら)山上に↑、馬場・本丸・出丸などの跡が南東から北西に続いている。賀屋城とも記し、安良山城ともいう。
建武4年(1337)7月但馬・丹波・丹後の南朝方が押し寄せて足利方の吉川経久らとの間に合戦が起こった。経久らは加悦荘「市庭北縄手」で防戦、首1つを取ったという。
その後、永正4年(1507)丹後一色義有を討とうとする若狭武田元信を応援する細川政元方部将香西元長・元秋兄弟軍と加悦城を守る石川直経の間に起こった戦い。この時石川・香西両将は協議して加悦城落城ということにして矛を収めたという。
その後の「丹後国御檀家帳」には、
  かやの御城 石川殿国の御奉行也
とあり、石川氏が領主として勢力をもっていることがうかがわれる。

細川藤孝・忠興が丹後に入国した天正8年(1580)以来はその重臣有吉立言・立行の居城となった。細川氏が織田信長により丹後のうち6万石を領した時、有吉将監立言は3500石を宛行われ、安良山城を預けられたという。
一念寺の逆修石塔
城跡の南東山麓に「長享三年九月逆修十二人」と記した高さ1・8メ−トルの名号塔がある。

『丹後国御檀家帳』
一 かやの御城   石川殿国の御奉行也
御そうしや
  赤野殿   リョウ山殿

『与謝郡誌』
安郎山城趾
加悦町算所にあり地域三河内に跨る。一色の重臣石川直経之れに拠り永正四年武田の援軍細川勢内堀荻野等之を囲ひしも能く防ぎ後も葛西の爲めに略せられのも子孫幾地及び瀧に移り有吉将監比に居住し細川款を通じて味方に招く有吉細川の爲のに大に努め野田川沿岸の城は概ね攻落せしむ細川家丹後一掃後有吉氏は加悦谷の陣代となれりと。

有吉城跡

この山名、安良・安羅はヤスラと呼ばれているが、本来はアラ、すなわち安羅国のことではないかと、隣が加悦なのでよく言われる。
伽耶諸国の中には安羅国もあったので、そういうことかもわからないが、出石町にも、安良と書いてヤスラと読むところがあるが、ヤスラはないと思う、やはり本来はアラではなかろうか、国名とまでは考えなくとも、単にAR地名かも知れない。


浄土真宗本願寺派無量山一念寺
一念寺(与謝野町算所)

『与謝郡誌』
無量山一念寺
 加悦町字算所、本尊同上、由緒不詳。

『加悦町誌』
無量山一念寺 算所小字大谷
西本願寺派に所属し、一六四九年(慶安二年)三月開基。当初は小松山照仙寺といって真言宗であったが、のち摂津国三島郡富田庄本照寺塔頭、もと正念寺の末寺となり、真宗に改め、一七二○年(享保五年)一念寺と称するようになった。
本尊は阿弥陀如来、寺宝は蓮如上人直筆、本山の山門は安良城の城門と伝えられている。
なお、梵鐘は有吉将監より拝領したもの、石造物として室町時代の逆修塔がある。檀家は約一〇〇戸で、内岩滝に三〇戸ある。


臨済宗妙心寺派松蔭山浄見寺
浄見寺(与謝野町算所)

松蔭山浄見寺  算所小字佐々木
 願主は安良城主有吉将監と伝え、この地の豪家戸田平右衛門によって一七一九年(享保四年)建立されたという。
本尊は聖観世音菩薩。
有吉氏の菩提寺といい、その位牌がある。
  直指院殿前親衛寛玄宗裕大居士
          天正十一癸未(一五八三年)四月十日
            安良山城主有吉将監源立言
                       浄見寺
寺宝は木像不動明王涅槃像
(『加悦町誌』)


《交通》

《産業》




算所の主な歴史記録


『丹哥府志』
◎算處村(三河内村の次)
【稲荷大明神】
【有吉将監城墟】(城墟安良山といふ處にあり、五台山智恩禅寺に其位牌あり)
 【付録】(愛宕社、三宝荒神)

算所の小地名


算所
寺田・縄手・成田・塩干・池田・四ケ一・平井・畑亀・錦木・桑飼・中田・宮田・平田・中町・上町・佐々木町・佐々木・大石・西谷・安良
山林  安良
.

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

若狭・越前
市町別 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市







【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『加悦町誌』
『加悦町誌資料編』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2012 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved