丹後の地名

下山田(しもやまだ)
京都府与謝郡与謝野町下山田


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京都府与謝郡与謝野町下山田

京都府与謝郡野田川町下山田

京都府与謝郡山田村

下山田の概要




《下山田の概要》

:KTRの丹後山田駅のあるところで、東は弓木、西は水戸谷口までの野田川下流域北側の集落。古代「和名抄」や中世「丹後国田数帳」に見える山田郷の遺称地。
下山田村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。加悦谷機業地帯にあって早くより縮緬機がおこり、織機数は明和3年13機(上山田村分を含む)、享和3年の「御領分縮緬屋御鑑札御改帳」に39機、ほかに3機。文化年間20機・嘉永年間37機・文久年間39機(上山田村分を含む)とある。
明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年山田村の大字となる。
下山田は、明治22年〜現在の大字名。はじめ山田村、昭和30年からは野田川町の大字。平成18年3月からは与謝野町の大字。
大正14年宮津〜峰山間に鉄道が開通し、丹後山田駅が設置され、翌15年に加悦鉄道も敷設され貨物などの集散地となった。

《下山田の人口・世帯数》 1266・459

《主な社寺など》

平野地古墳など数基の古墳、
山田の平野地(へのぢ)古墳
下山田上地小字平野にあり、丘陵端にある円墳横穴式石室で、明治二十六年に発掘して、現状全壊、副葬品の鉄刀、勾玉、菅玉、棗玉、金環、須恵器が出土した。
山田の鎌トリ古墳
下山田下地小字鎌トリにあり、氏陵端にある円墳横穴式石室で、現在全壊。
山田のサイガキ古墳
下山田下地小字サイガキにあり、丘陵端にある円墳横穴式石室で、昭和四年十月二十日に発掘して、現在なし。当時の調査で、玄室の幅二・〇四メートル、奥行の長さ五・六四メートル、高さ一・二メートル、羨道の幅一・一四メートル。副葬品は、坏、高坏、横瓮、平瓶、鉄刀、刀子、鉄鏃、馬具、勾玉、切子玉、金環などが出ヒした。
山田の家の下古墳
下山田下地小家ノ下にあり、丘陵端にある円墳横穴式石室で、昭和四年十月十七日に発掘して現在なし。玄室の幅、二・三四メートル、奥行の長さ六・七ニメートル、羨道の幅一・一四メートル、高さ一・五メートル、翻葬品は鉄刀一口、高坏、平瓶、臼玉、切子玉、管玉、勾玉、金環などがが出土。
(『野田川町誌』)


真言宗菩提寺跡など
山田の宗像ノ宮跡
下山田上地小字宗像宮、山田保育所の裏に、丸柱縦の長さ一・八メートル、横の長さ○・六メートルのものと、宝玉(御神体)が出土した。ここが古代の海上交通の要衝に当っていたので、古くから尊崇されていた。

山田の菩提寺跡
下山田下地小字菩提寺にあり、寺跡には、大門、本堂跡、塔の段などの地名があり、大門の自然礎石や本堂に通ずる石段も存する。現在は、愛染堂一棟が残され、その前に石灯籠一基があり、「応永三十四年七月五日」の銘がある。宝篋印塔二基と板五輪塔が室町期の様相を呈している。なお、梵鐘が仁和寺(京都市右京区)にあり、その銘に「丹後国与謝郡山田郷菩堤寺(願主中太夫)、文明二年庚寅十一月十五日、鋳師賀悦大工家次」とある。また、梵字が刻まれており、これによると、聖観世音菩薩像を本尊とした真言宗寺院であった。

山田の薬師堂跡
上山田尾崎小字薬師谷にあり、付近にマリア観音像を祀る大師堂がある。同じ場所に妙見堂があり、下山田の菩提寺跡の石灯籠とほぽ同時代のものと見られる灯籠もある。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・菩提寺跡の石灯籠
 下山田小字菩提寺にあり、寺跡には、大門、本堂跡、塔の段などの地名が残っており大門の自然礎石や本堂に通ずる石段も現存しております。
 現在は、愛染堂一棟のみが残されており、その前に石燈籠一基があり、「応永三十三年七月五日」の銘があり、その也、宝篋印塔二基と板五輪塔が室町期の様相を呈しております。
 本年四月、文化財美術工芸品の府総合調査が実施され、石灯籠について意見を伺いましたが、火袋の四方には仏像が刻まれ、宝珠受花、火袋、竿、基礎共に凝灰岩製の立派なものだとのこと、しかし竿部だけが花崗岩になっており、惜しい石燈籠だとのことでした。でも一見の価値あるもので一度ご覧頂きたいと思います。
(『町報野田川』(昭和54.5.15))

菩提寺趾
 山田村字下山田にあり今に菩提寺の字名を存す。寺趾には大門、本堂蹴塔之段等の名も残り門の礎石賽路の石壇など多少土を被れるも慥かに存在せり。附近に大願寺の字名ある田疇もあり、当時の本堂其他主要部へ山崩れの流れたる形蹟あれば廃寺の因由を察すべきも年暦を知るに由なし。今片隅に愛染堂あり附近に応永三十二二年七月五日在銘の橘形仏燈一基、宝篋印塔二基室町末葉に行はれたる板五輪などあれば鎌倉末より室町末に亙りて存在せしは椎想するを得べく、三重郷土志に今御室門跡に保存さる、当寺の焚鐘銘を掲げ金胎五仏真言、青頚観音真言、及び光明真言を梵字にて記入し文明二年庚寅十一月十五日鋳造となす。之れに由て考ふれば足利時代には青頚観音を本尊とせる真言宗の寺院なりしは明かなるも何時頽れたるや今遽かに知りかたし。
(『与謝郡誌』)


明境(あけさい)神社
明境神社(下山田)
明境神社
 山田村字下山田小字玉取、村社、祭神伊奘那美命、由緒不詳、正徳五年三月再建、明治六年村社に列せられ氏子七十戸、祭典九月十五日境内稻荷、蛭子の祠あり又小字西谷に愛宕神社あり無格社たり。
(『与謝郡誌』)

明境(あけさい)神社 下山田小字宮ノ下
 祭神 伊奘冊命
 国土経営の神、伊奘諾命と婚し、共に相計って国土を修理固成した。安産を祈るため、婦女の参詣が多い。
 大祭は、旧九月十五日(現在四月二十五日)。特殊な祭典は、終戦後より農民祭と風祈祷で、余興として神楽、昭和初期より太刀振りがある。伝説に、この神が天橋立の松苗全部を一夜のうちに植え終り、帰宅したとき夜が明けたという。境内に菩提樹の古木がある。
 神像は、男女神二体で、室町時代のものである。祭礼は、笠鉾、幟、つづいて大御幣の神主を先頭に、明境社から小聖社まで行列をする。明治中期までは、能の三番叟と狂言(豊作のときに行なう)があり、占いを行なうものは、社前の鉄筒にある「おみくじ」を振って吉凶を知った。また、「お千度」と称して、自宅に病気、災難があると村人に依頼し代参をさす風習が残り、社前で経文を唱え、榊の葉を一枚づつ供え、これが千枚になるまで社域を回るのであった。境内に稲荷、蛭子の祠がある。小字西谷に愛宕神社が祀られている。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・明境神社(下山田)
 御祭神は、伊奘冊命。小聖神社の御祭神伊奘諾命と婚し共に相計って国を治め、安産を祈るため、婦女の参詣が多くあるといわれます。
 大祭は、旧九月十五日(現在四月二十五日)で、神楽と太刀振りがあります。
 伝説に、この神が天橋立の松苗全部を一夜のうちに植え終り、帰宅したとき夜が明けだといわれています。
 御神像は、男女二体で、室町時代のものです。
 祭礼は、明境社から小聖社まで行列をしますが、この巡行は毎年両社を交互に交替して行われます。
 この神社には、「お千度」と称して、自宅に病気、災難があると、村人に依頼し代参をさす風習があり、社前で経文を唱え、榊の葉を一枚づつ供え、これが千枚になるまで社域を回るのだそうてす。
(『町報野田川』(昭和57.2.10))


小聖(こひじり)神社
小聖神社(下山田)
小聖神社
 山田村字下山田小字聖谷、村社、祭神伊奘那岐命、由緒不詳、そのむかし高野聖の齋く所なりといふも定かならず。土俗蓑笠持の紳と云ひ九月二十八日日本全國六十餘州八百萬の紳々が出雲の國へ神幸あらせらるゝや丹後一國大小三百八十社の神々は雨天なれば銘々雨具御着用あるも、若し晴天ならば当社の神が蓑笠捧持の御役目を奉仕せらるゝ由の事にて村民は當日天候不良ならんことを希ふの迷信ありといふ。天保六年再興明治六年二月村社に列せられ氏子八十戸、祭典九月十四日。
 境内末社曾富騰神社は元小字竹内に鎭座ありて総社田明神と云ひ、丹後田数帳五町一反百八十歩内四町六反二百八十歩不知行の旨記載あり。以て鎌倉時代より室町に亙り相當大社なりしを知るべく、丹哥府志には惣々田大明神と載せ享保検地帳、文化名寄帳などには惣社と録し又俚人は宗像社とも左右頭社ともいふ。文政八年今の小聖境内に遷す。
(『与謝郡誌』)

小聖(こひじり)神社 下山田小字平野
 祭神 伊奘諾命。
 女神伊奘冊命と共に国土の経営を行ない、天照大神、月夜見命、素盞嗚命を生んでより、淡路国に居を構え隠れる。一説に近江の多賀の宮へ隠退したともいう。大祭は旧九月十五日(現在は四月二十五日)。特殊な祭典としては、節分の風祈祷がある。
 終戦後農民祭の余興として、神楽、昭和初期より太刀振りがある。伝説としては、神無月(旧十月)の初め(旧九月二十八日)の出雲行きに、丹後一円の神が出雲の国へ集合、このとき蓑笠持ちの役に当り、里人はこの日雨天であることを望んだという。
 明治末期まで楽屋台が、下地、上地、尾崎、館にそれぞれ一台づつあった。これは、一・五メートル四方のもので、祭礼時子供中と若連中がこれらをかつぎ歩いた。明境社と同じく、明治中期まで、能の三番叟を舞い、豊作時には狂言を行ない、社前の鉄筒の「おみくじ」を自己の思う数を祈願して振り出すなど同じである。末社に稲荷の祠があり、初午には米の粉でまゆの形をつくり、これを神に供え養蚕業の発展を祈った。
 また、境内に宗像天王社があり、疫病除けの神として、宗像宮址から文政八年(一八二五)、移転された。この祭礼は、九月十八日で、神楽、相撲が行なわれる。流行病を防ぐため、木版刷りの「お札」を戸口に貼り、当社の砂を持ち帰って、家の軒下にまいておくなどの風習がある。なお境内の山頂に秋葉神社の祠がある。
(『野田川町誌』)

町内文化史跡を訪ねて・小聖神社(下山田)
 御祭神は、伊奘諾命。明境神社の御祭神伊奘冊命と共に国土を治め、天照大神、月夜見命、素盞嗚命を生み、淡路国に隠退したと云われています。
 大祭は旧九日十五日(現在は四月二十五日)で、余興として昭和初期より太刀振り、終戦後は神楽も行わわています。
 伝説として、神無月(旧十月)の初め(旧九月二十八日)の出雲行きに、丹後一円の神が出雲の国へ集合、このとき笠持ちの役に当り、里人はこの日雨天であることを望んだ。と云われております。
 境内には宗像天王社があり、疫病けの神と云われ九月十八日の祭日には相撲がありましたが、今は行われていません。また境内の山頂に秋葉神社の祠があります。
(『町報野田川』(昭和57.1.12))

町内文化史跡を訪ねて・加悦谷祭・下山田地区
 下山田地区の氏神は、明境神社と小聖神社の二社があり祭典の奉納は毎年交互に執行されます。
 四月二十四日の宵宮は、神楽は戸毎に「かまど清め」を行ない、太刀振りは各役職の家々に「役振り」を行ないます。二十五日の祭礼の日は、明境神社(小聖神社)で神楽の「奉納舞い」、太刀振りの「宮振り」を奉納し、神官、区役目、宮総代、奉賛会、隣組長、神楽、太刀振りの順で行列が続き、太刀振りは「道中振り」の芸を披露しながら巡行が続き、小聖神社(明境神社)に到着後神楽、太刀振り夫々奉納して祭典の終りを告げます。
 その他九月十八日の宗像天王堂の祭りには、古くから「奉納相撲」があり、今も続けられています。
(『町報野田川』(昭和56.1.13))


日蓮宗菩提山七面庵。 
町内文化史跡を訪ねて・菩提山七面庵
下山田小字小谷にあり、本尊は日蓮聖人。日蓮宗本圀寺派実相寺末で、もと妙伝寺といい、開山は山崎嘉兵衛(守信院日成法師)、開基は嘉兵衛の父(顕是院法蓮日成信士)。
 仏像には、妙見菩薩像があり、室町初期玉眼で、水晶入り、高さ三十一センチメートル、桧造りです。その他、鬼子母神像、四天王像(三体のみ)、大黒天像、釈迦如来像七面天女像、三十番神があります。
 年中行事としては、施餅思八月八日、七面大明神祭典九月十八日、お日待つ一月十七日、彼岸会(春・秋)などがあります。
 伝説として、行学陸日朝上人の眼病平癒の由来書をいう、長享二年の「南妙法蓮華経」の石塔かあります。
 なお、現在の七面堂は、昭和二十八年建立したものです。
(『町報野田川』(昭和58.3.31))

町内文化史跡を訪ねて・下山田・大清水逆修塔
 下山田小字大清水にあり、阿彌陀三尊(阿弥陀、観世音菩薩、勢至観音)の梵字が刻んであります。
 この「逆修」というのは、逆め冥福を修める意、即ち、生前に、あらかじめ自分のために仏事を修して冥福を祈ること、また、老いた者が生き残って、若い者の冥福を修すること、とあります。
 こうしたことを基に、平安時代には盛んに「逆修」の仏事、供養が営まれておりますが平安中期正暦五年(九九四年)時の関白藤和道隆によって務められたのが初めとされています。
 この仏事は、来世の冥福にとどまらず、現世の延命長寿の冥福ともなるもので生前に建てる逆修墓は、「寿陵」とも、呼ばれているそうです。
(『町報野田川』(昭和56.4.30))


《交通》

《産業》



下山田の主な歴史記録


『丹後国田数帳』
一 山田郷 廿七町卅四歩内
  十七町八段二百十四歩 加長宝寺領 下山殿
  一町九段七十二歩   井上分 荻野将監
  七町二段百八歩     東方  八幡領

『丹哥府志』
◎下山田村(石川村の西加悦谷海道)
【明境大明神】
【薬師堂】
 【付録】(下薬師堂、観音堂、小聖大明神、惣々田大明神、愛宕二ケ所、七面堂)

『野田川町誌』
下山田はまた上地と下地の集落に分かれ、下地は、菩提ケ岳南西の愛宕山の麓から国道沿いまで、現在一一九戸からなり、機業を営む兼業農家が主体をなしている。上地は、丹後山田駅前の国道沿いから北の山麓にかけての一四六戸で、元来は国道の北側の旧道より山麓にかけて群がっていたが、宮津線が開通し、道路が新設拡張されて以来、国道沿いの集落が発達した。現在、駐在所をはじめ、旅館、タクシー会社、自転車屋、医院、商店などが、国道の両側にならび、機業も混って、駅前集落の機能をもかねた二〇〇メートルばかりの街村をなしているものの、震災以前はほんの数軒であったようで、震災後の移住が殆んどといえよう。




下山田の小地名

(上山田も含む)
山田
向田 向川尻 犬馬場 深田 高井根 立田 スハタリ 苗代 郷田 川尻 向池本 滝田 みとだに 芦田 千里田 横オサ 三反オサ 栗ノ下 鉾立 野崎 古宮 八反田 肥後屋敷 甲田 塚本 ツカ 堀 土クボ 上角 竹カ鼻 チサノ木 大坪 六地蔵 公ケ辻 上カリヤ 谷川 四ツ谷 薬師 薬師谷 寄合畑 西垣 四郎太夫 蛭子 コウノス ゲンス 乙海 乙海谷 山ノ口 奥山谷 池本 狐ノ穴 平田 蛭子田 流田 四反田 ユリノ口 柿ノ田 中イノ 三束田 杉本 成相分 タコ田 松本 八反田 無双 音張リ サコリ 島町 道場 土井ノ内 米田 菱池 カリヤ 大ガンジ 石田 シダリ柳 砂原 深田 ウルシバラ 若宮田 大門 長十寺 寺坂 地蔵 宗造ノ宮 角尻 高岸 竹原 寺ノ下 二ノ段 中池 少将 円蔵 流レ尾 中谷 的場 鐘鋳場 竹ノ内 坊ケ谷 アミダ 縄手 法ケ堂 竹ノ越 白イタ 丁子田 福千畑 藪ノ下 長塚 アナ谷 丘 薬師 谷川 宗像宮 小聖社 寒久 大矢木 按分 長サイミ コウヤギ 甲骨 扇町出合 盛田 万才池 六斗田 才出畔 モガリ 行司 タイト田 ユリ河原 カマ草 ドヤガ谷 千斤ノ木 辻 宮田 庭田 矢取リ 八万部 下柿中 大清水 清水 平の 宮ノ下 柿中 実谷 奥ノ谷 カリオン 寺ケ谷 小谷 北道縄手 岡 玉取リ 宮大門 右近堂 舟ソコ 西谷口 サコ谷 堂ノ谷谷 正谷 向岡 関留 ボダイ寺 砂子 エタケ 田ノ鼻 東 若田 荒神 ハシカ谷 ワリ谷 クチチシ 休場 烏谷ゴマガナル 狼ザコ 芋谷 柳谷 チコラ ホリコシ 休場 滝谷 シボラ 浦谷 助ガ谷 ヒヂリ谷 ボダイ アタゴ

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『野田川町誌』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん



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