新浜(しんはま)
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京都府宮津市新浜 京都府与謝郡宮津町新浜 宮津節 (歌詞はいろいろと伝わるよう、隣町の私らでも知っている有名な歌詞は次のようなもの) 二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空となる 丹後の宮津でピンとだした 月が出ました 黒崎沖に 金波銀波の与謝の海 丹後の宮津でピンと出した 丹後縮緬 加賀の絹 仙台平には 南部縞 陸奥の米沢江戸小倉 丹後の宮津でピンとだした |
新浜の概要《新浜の概要》 ♪二度と行こまい 丹後の宮津 縞の財布が空となる 丹後の宮津でピンとだした … と『宮津節』に歌われた「二度と行こまい」の、その場所である。近くに↓モニュメントが建てられている。↑出船祭で録音した宮津節です。 市街地の中央部で、もとは宮津湾に面して、汽船の発着場があり、橋立もよく見えた景観のよい場所であったが、現在は開発されすぎたのか、せっかくの海面を埋め立てて大型ショッピングなども出来て、海を塞いでいる。『宮津節』時代の面影はすでになく、「良いと思てしたんだろがな−、これではな−」と残念がられてもいる。 現在の国道178号線と宮津街道が交わるあたりの岡側である。もとの遊郭街で、かつてはたいへんに繁昌したといわれ、宮津節のようにも歌われたわけである。今でいう風俗営業店街というよりも、ここはずっと格が高くて、祇園芸者に次ぐと自負して、それなりのポリシーと芸をもった宮津芸者のお座敷芸者文化の場所であったという。どこかの町とはチト格が違うような雰囲気がある。縞の財布の持ち主でないとチト厳しい話となり、私のような貧乏人で芸の心得もないものは二度と、どころか一度も行けぬ、かも。 みんなみんなビンボーにされてしまったのか、「新浜わくわく通り」とプレートが埋め込まれているが、猫の子一匹も見あたらぬよう。暗くなればごった返すのか… もとは東新浜とよばれて江戸期〜明治22年の地名。宮津城下魚屋町組の1町。魚屋町新地・魚屋町新道ともいい絵図などでは新浜。文化14年魚屋町北の海岸に突き出た浜を埋立造成した新地。文化8年宮津町に遊女屋が許可されて歓楽街として栄えた。 天保13年に藩から遊廓に指定された。この遊廓は慶応2年に万年新地に移転を命じられたが約20年後に当町に復帰している。 家数は明治維新前88軒、明治19年86軒、同21年91戸。同22年宮津町の大字新浜となった。 新浜は明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。 《新浜の人口・世帯数》152・68 《主な社寺など》 宮津節 宮津節の歌詞は誰がいつ頃作ったものか、特に「ピン」とは何か、そうした疑問が昔からある。 一人が作ったものではなかろう。元々の原詞は 二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空となる 丹後の宮津でピンとだした 丹後縮緬 加賀の絹 仙台平には 南部縞 陸奥の米沢江戸小倉 丹後の宮津でピンとだした たぶんこれだけで、それに後から後から凡庸な歌詞が追加されて今のような歌詞になっていったものと思われる。 「丹後の宮津」と言うから、地元丹後の人ではない、丹後人はわざわざ「丹後の宮津」などとは言わない、単に「宮津」であるし、また「二度と行こまい」、というワケにも行かない、まして宮津に住んでいる人なら決して言えない歌詞である、そこにズッと住み続けているのだから、従って最初の作詞家は丹後以外の人であろう。 作詞家としての腕前は超絶ワザの超一流であろう。 「二度と行こまい」と始まる、いきなりとんぼ返りを打って登壇してくる。フツーなら「スンバラシイ宮津」とか「ビフチフル丹後」とかドヘタクソな宣伝文句を言って客を逃がすところだが、頭からその逆で「宮津なんか、もう二度と行かん」である。 「もう行かん」。 ! 何事かいな、と聞いていれば、「財布がカラになった」「ピンと出した」と言う。 わからんハナシである。 わからん、のは現代人に、のハナシで、当時の人には、ハハハハンと、オヌシのコードーとココロのアホぶりが見えたぞ、ワシにも身に覚えアルワイ、とかすぐにわかったのである。何も難しいハナシではなかった。 常識破りの格段に上の、ものすごい腕前のプロ中のプロの作詞家である。こうした作詞家が言う「ピン」は、その意味は現代人には簡単には定まらない。 天橋立は聖地であるが、また一方ではセクシュアルな地で、今はほとんど言われることもないが、この曲が作られた当時は、そうした民俗がもっともっとオオピラで、そうした感覚も豊かであったのかも知れない。 ピンと出ている天橋立の姿そのものと、おのが一物をダブらせてうたいこんだのかも知れない。 丹後縮緬 加賀の絹 仙台平には 南部縞 陸奥の米沢江戸小倉 全国を歩いた人で、高級織物を商う業界関係者で、豊かな富と眼力を持ったどの方面にも通じたツーの文化人。江戸小倉と言うのだから東京時代の人ではない。それくらいしか判らない。 たいしたウデでもないくせに、そんなモンに限ってワシがワシがで目立ちたがる昨今のクソのおおかたとは根本的な違いで、彼は出しゃばらず正体が不明、ここはまた超イキである。 『丹後宮津志』(永浜宇平・、大正15) 尚ほ俚謡俗曲の有名なるは例の「二度と往くまい丹後の宮津」にて何人も謡ふ所なるが、何時頃より始まりしやまた其の意味は如何にやは頗る了解に苦むものにて歌は、 二度と往くまい丹後の宮津 縞の財布が空になる 丹後の宮津でピソと出した。 丹後の縮緬 加賀の絹 仙台平やら南部縞 陸奥の米沢江戸小倉 丹後の宮津でピンと出した。 なるが解釈に就ては丹後考に、丹後国時代概要に、仁孝天皇天保十三年壬寅稿財布空虚遊郭濫觴と載せまた 問答欄の「再度勿レ往丹後宮津縞財布爲二空虚一」の意義如何の答に、 文化八年辛未年以来宮津職人町岡田屋彌吉、萬町細間泉屋與市、魚屋町綿屋栄治その他處々に遊女屋の類ありて行政上取締方に差支あればとて天保十三壬寅年に同業者は残らず魚屋町新地(今の新浜)へ引越致すべくとの藩命に随ひ同地へ引越して新地と称し花柳の一廓を構成なしたるもの也其当時(中略)作者は宮津の医師小林江山翁なり翁は此謳も作り或る貴顕に合議の末に廓の繁栄の一策略として自ら登楼して自らも謳ひ采女にも謡はしめたりといふ。 また天橋立遊覧集内 曰 王政維新の際長州の志士備後之介なるもの捕はれて宮津の獄に繋がる、時の藩主松平侯之を憫み深夜密かに備後之介を放てり此の事喘なくも町民の知る所となりたれど相手が藩主なれば公に云ふを憚り俗謡に事寄せ之を諷刺したるなりと、即ち縞の財布は牢獄の格子も意味し空となるは放てる事にしてピンは錠前の音とも云ひ又武士を町人共サンピンと異名したればピンと略せしものなりと。 此の宍戸備後之介を繹放したる爲めにビンゴ出したとの説あるも?は芸州出陣中のことにて宮津にあらず。尚また宮津郷土誌 曰 (前略)此地に遊べる客一夕妓楼に上りてあまりに美人多く而も待遇余りに厚かりしかば天橋の美と傾世の美とに心魂を溶かし流連十数日終に嚢中文なしとなり帰るに旅費なかりしと云ふ。ピソは三味線をピンシヤンつかせたる略語なりと、今も猶此轍をふむ放客ありやなしや云々。(後略) また与謝郡誌に曰 聞説く往昔宮津船舶輻輳し舟頚の常習として賄博をなし其の妓楼に登るもの流連数日何れも嚢中無一文となりしより起れりと、蓋しピンは博徒の用語にて一(ピン)から十(キリ)までなど唱ふる所なるが要するに一文も残さず全然吐き出したりとの意なりといふ、此他宮津祭り葵祭り等に興業師香具師等が儲けし金も青楼に投じたりとも或は雲助が賭博に棄てたりとも言ひて一定せず、蓋し夫れ等の混淆せる合成的のものなるべし。 最近丹波八木町東雲菴なる山本龍之助氏より左の照会を受けたるが之れに対する典拠は未だ採取するに至らず。 (前略)縞の財布が空になるの一句は、慶応年間、宮津藩にて勤王の志士を縛せしとき、江戸護送を除けて山の手萬年町の某青楼に伴ひ、志士の所持せる金を遊費せしめて後、放逐せし由それを諷して国学者小室信夫氏、例の一句を俗謡中に挿入せられしとか云々。 斯は前記長藩重臣宍戸備後介に関する説に似たるも如何にや。 以上要すなに「二度と往くまい」と謂へるより察すれば本来宮津にて謡ひ始めたるにあらずして、一度登楼流連したる遊客が必ず他国にありて再度句往を唱へしより伝播せしものなるべく、此俗謡の濫觴は丹後国内にあらずして丹後以外にこありと認むるを至当といふべし、只遺憾なるは何地より起りて弘まかしや今遽かに断じ難きこと是なり。 《交通》 《産業》 新浜の主な歴史記録《丹後宮津志》(地図も)
《丹後の宮津》
《両丹地方史》(1990.3)
関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『宮津市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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