京都府与謝郡与謝野町後野白米山
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白米山古墳の概要
白米山古墳は、蛭子山古墳の川上側、1.5キロばかりの、同じ国道176号線バイパス沿いのちょっとした岡の上に築かれている。国道はその直下を通るが、この岡は民有地のようで、イノシシ除けか高い柵が巡らされていて、それを越えて勝手に入れそうにはない。岡は樹木に覆われていて、古墳を見ることができない。

大江山の支脈が加悦谷に張り出しているその先端部、写真の中央あたりの山の竹藪のなかに白米山古墳がある。
白米山古墳はほぼ国道に並行して南北方向を主軸にして北が前方部になる前方後円墳である。作られた時代は4世紀の中葉で、丹後では一番早い前方後円墳として知られている。
そうしたこともあるが、私はシラゲとはシラギ(新羅)だという説があって、それに興味があって、一度は見てみたいと願っているのだが、今だかなわないでいる。
私としては地名の意味の解釈については、できるだけ歴史的に正しいものに迫りたいと、これが当サイトは本職だから、努力はしているつもりである。少なくとも原発屋さんが己が本職のメシの種の原発のその安全性についてのたまうヨタ話よりはずっとずっと科学的総合的によくよく考えて皆が十分に納得でき信頼できるレベル以上でありたいと真剣に努力はしたいとは思っている。そうでなければこうしたサイトを立て上げている意味も資格もなくしてしまうからである。
もう黙れ、オマエらの話をきけば、オマエらには稼働させる資格がないことがよくわかった、あれほどの過去からも何も学ぶ知能がないこともよくわかった、安全でないこともよくわかった、事業者としての当然なすべき真摯な努力もせず、想定外で逃げようとしていることもよくわかった、エネルギー独占体のバカ殿様の哀れな脳ミソは原発は早く止めてくれと自ら言っているのと同じだ、原子力利用を進めたいのなら、その最後までのプロセスを示してからにしてくれ、人間の手には負えない放射性物質の最終処分をどうするのか、10万年、これはそれほど長い年月しか解決できない物理的性格である、とてもではないが、そんな先まで見通せる知能はどんな優秀な人であっても、あろうはずもない、予測不可能である、6万年後には氷河期が来るとか、それは経済団体も同じのようで、世界経済をリードできたりする理念は昔も今もがなく、テメエの儲けしか頭にない、老朽原発と同じだ、儲けだけを独り占めしたいようだが、放射性廃棄物をオマエらの企業にまず持って帰り社長室にでも飾っておけよ別に何も発生はしないぞ、何年か後にはガンになろうが、まあ儲けのためだ、社長の代わりはいくらでもいるから心配はなかろう、その覚悟もなしに言っても嗤われるだけ、いよいよ日本経済の落日が迫ったな、などと全世界のすべてに理解了解されよう。
そうしたことだけはしたくないとは願い、そう努力は続けてきたとは思っている。
そこの写真の山をシラゲ山と呼んでいるが、私はシラゲはその漢字通りに白米(ハクマイ)の意味であろうと考えている。白米山古墳は全墳丘に花崗岩の葺石が施されている。これを遠くから見れば、ハクマイをテンコ盛りにしたようなご飯粒の山の姿に見えることから、白米山と呼ばれたのではなかろうか。今ふうに言えばご飯粒山古墳である。古墳にはじめて葺石が葺かれてそのように見えた最初の古墳がこの古墳で、極めて印象が強かったのではなかろうかと思われる。先行したともされる温江丸山古墳には葺石があったともされるが、はっきりしないし、この古墳との前後関係も明確ではなく、白米山の葺石の方が立派だったのかも知れない。
ゲというのは豊受大神のケであって、大宜津姫、保食神とかケが付いているのはそうした食物神を言っているが、朝餉夕餉(あさげゆうげ)と今もいい、ケツネはケの根源の意味という、その使い獣が狐だそうである。米などはそのケの代表のようなもので、米や稲をケと呼ぶことは最近でも伝わっていた。コメのコはケの変化かも−
ヨサ、カヤ、アラ、アチエとかそうした地名が近くにあれば、シラゲとはシラギではなかろうかの推察も生まれるのも無理はないが、遠い先祖がそこを出自していたであろうかもわからないが、ここの古墳群には河内や北陸産の壺は見つかっているが、何も特に新羅との関係を示していそうな物はないようである。弥生期からの在地伝統の墓域に在地墳墓と並べて作られているし、前方後円墳は大和勢力のニッポンの象徴のようなものとされていて、新羅からきた集団の墳形とはまったくみられてはいない。
『熊野郡伝説史』に、久美浜下佐濃のの矢田八幡神社で太鼓を打ちながら歌われる歌詞が集録されている。
雪ふりゑ竹にゑんよと引けば
しらげのお米がふりかゝる。
いざや踊ろ踊ろや、さゝら踊が一おどり
うちわ踊が一おどり
「しらげのお米」という言葉がある。古語辞典などによるとシラゲとは精米すること、またその米。精げ、とある。精米するというのか白くすることだろうと思うが、古代までさかのぼれる解釈はわからないな。
白米山古墳は全長が90メートル、後円部は径が51.5メートル、高さ7.9メートル、墳頂の径は22メートルを計る。前方部は長さ38メートル、くびれ部で幅が21.6メートル、一番広い場所で30.6メートル、高さが4.4メートルある。ともに2段築造で連続している、そのテラスの幅は1.6〜2.5メートル。
葺石が斜面の全体に施されている。墳丘に差し込むように、近くを流れる野田川で採取された花崗岩のご飯粒がびっしりと葺かれていた。埴輪はない。↓(「加悦町誌資料編」)

後円部には、中心埋葬施設となる竪穴式石槨1基と、土坑墓2基、木棺直葬墓1基の埋葬施設と溝状の土坑一基がある。
竪穴式石榔はほぼ東西方向に主軸として、墓壙は推定長軸11.4メートル、短軸7メートルの長大な二段墓壙で、石槨自体は内法長3メートル強、幅0.7メートル程度のものである。花崗岩製の天井石は6枚で構成されている。↓(郷土資料館のパンフ)

墳頂で行われた祭祀の遺跡が見つかっている。
主体部の西半分は円礫で覆われ土師器片が撒かれ、さらに、木柱を伴う墓境内土壇を形成していた。
後円部頂では、中心埋葬の墓壙を長方形に取り囲む二重の杭列があり、北側中央付近で屈曲し、前方部へ通路状に伸びる構造をしている。
外側の杭列は直径10センチ前後の杭を、0.45〜1メートルの間隔で打ち込み、長辺13メートル、短辺9メートルの方形に配置。内側の杭列は約0.4メートル内側に設定されたもので、やや太めの杭を0.7〜1.8メートル間隔で打ち込む。
中心主体部の埋葬が執り行われ、墓壙が埋め戻される間に機能したもので、墳頂部方形埴輪列の代用遺構ではないという。
同様の施設として、墳頂平坦面を取り囲むように円形に配置された柱列があった。0.4メートル程度の不整方形の堀方に、10センチ程度の円柱を建てたもので、1.5メートル等間隔に設営される。これについても方形杭列と同時期に機能していたようである。
これらは円筒埴輪列の配置の意味にも通じる、埋葬儀礼時における結界的存在と考えられている。
その他、後円部頂では、溝状遺構や総数200基を越すであろうピット群、土坑などが土器類の廃棄行為を伴いつつ確認されている。
墳丘の形成から中心埋葬の実施、茸石等墳丘の完成と言う時間経過の中で、多岐にわたる埋葬や儀礼行為が繰り返し行われていたようで白米山古墳の大きな特徴とされる。
出土した土師器類から、4世紀中頃を前後する頃にこれらの儀礼が行われたものと考えられている。

↑「前方後円墳とちりめん街道」復元すればこうした姿になるという。似たものは蛭子山古墳や作山2号墳↓でも見られる。

白米山古墳は古墳全体が方円形であり、さらにこの内円外方である。何かの宗教イデオロギーに基づくものだろうが、古代中国の「天円地方の観念」で、天は円形で、そこにはカミが住まいしていた。地は方形を呈し、そこは人間の活動する場であった。死した首長は方形区画のなかでの儀式をつうじてあらたな生命を賦与され、不死の存在であるカミとなって蘇らされた、という死と再生のストーリーが描きうるように思う、という。前方後円墳で執行された祭祁は、「亡き首長がカミと化して共同体を守護するという共同幻想」に基づくものであったのではという。
後円部の段築テラス面では竪穴式小石榔を2基、前方部前面テラスでは、箱式石棺墓1基がなと゜も確認されているが、すべて調査されたわけではなく、本来はさらに多くの埋葬施設があるものと考えられている。
これらとは別に白米山古墳の周囲には方形周溝墓が3基と、白米山北古墳群、西古墳群、東古墳群が取り巻いている。
白米山古墳の主な歴史記録
『京都新聞』(96.11.1)
*加悦の白米山古墳*築造後に大改造*町教委発表*前方部に突出部*
京都府与謝郡加悦町後野の白米山古墳を発掘調査していた同町教育委員会は三十一日、「丹後地方で最古(四世紀中ごろ)の前方後円墳で、前方部に突出部を設けるなど築造後に大改造していた」と発表した。古墳の大規模改造がみつかったのは国内で初めて。専門家の中には、「弥生時代後半に日本海沿岸に多く造られた、方墳の角の突き出た四隅突出墓の流れを組む改造とみられる」と指摘する声もあり、改造が何を意味するか、今後の研究テーマになる。(31面に関連記事)
同古墳は、野田川東岸の丘陵にある二段築造の前方後円墳。全長九十二bで丹後では六番目の大きさ。
調査は七月から前方部で行われ、東側で垂直に一b積み上げた葺石を見つけ、さらに内側を掘ったところ、斜面の角度三十度ほどの葺石が出土した。
町教委によると、当初は通常通りに、ゆるやかな斜面に葺石を張った台形型の墳丘を築造。その後、葺石の一部を壊し、外側に石垣状に積んで、すき間に土を詰めたと見ている。
改造で、前方部は東西幅で一−三b拡大され、北側の東側に長さ十b、幅約二bの突出部が見つかった。
西部分は一部を残すだけだった。平野部から見える西側の改造は東側に比べ大がかりで、南北十b、東西二bのステージ状の平坦面など、段違いに三面のテラスが出土した。
前方部北側中段には東西向きの箱式石棺(長さ一・七b、幅〇・七b)が埋まっていた。大和が南北に埋葬するのに対し、丹後では東西が主流になっており、その伝統を受け継いだとみられる。
町教委では、墳形の類似から天理市の渋谷向山古墳(伝景行陵古墳)が築造時のモデルとみている。埴輪が出土していないことや、後円部の葺石が初期の古墳にみられる張り石状であることなどから、古墳時代前期中ごろの築造としている。
改造について、町教委では「古墳時代以後の開墾説や山城跡説の可能性は薄い。築造後すぐに改造したのでは」とみている。
現地説明会は、二日午後二時から行われる。
*加悦・白米山古墳大改造*丹後豪族の自己主張か*定説見直す材料に*目的・背景さまざまな解釈*
京都府与謝郡加悦町の前方後円墳・白米山古墳が三十一日、後に大規模に改造されていたことが分かった。これまで、古墳は大和王権との政治的同盟関係の象徴とされ、築造後は手を加えない、とみるのが定説だっただけに、研究者らに大きな反響を呼んでいる。「大和王権に対する丹後豪族の政治的自己主張」など、改造の目的や背景についてさまざまな解釈が出ている。
前方後円墳は、三世紀後半の箸墓古墳(奈良県)が最古とされ、それ以後全国に広がる。研究者によると、同じ形の前方後円墳を造るのは大和の首長と各地の首長が同じ祖先を持つ同族であると示すためで、大和王権の政治的なネットワークが整ったことの象徴とされてきた。
ところが、改造後の白米山古墳は前方部の角に特異な突出部が加えられていた。古墳に詳しい都出比呂志・大阪大数授はこの点について「弥生時代後期から日本海岸で造られた四隅が突出した墳墓の伝統を受け継ぐもの」とみる。今回確認された石棺が東西に向いているのも、後の丹後の古墳に共通する方式で、同教授は「当初は大和王権の指導で標準的な前方後円墳を造ったが、地域に伝わる独自の葬送儀礼を復活させたのではないか」と話す。改造した時期についても「当初のものを造った直後ではないか」と推測する。
では改造は、何を物語るのか。現地を見た大阪府教委の広瀬和雄・文化財保護課係長は「大和王権に対する政治的な自己アピールではないか」とみる。「大和の権力が十分に浸透していない古墳時代前期には、大和と一線を画す地方があっても不思議でない。大和と地方の政治的力関係を見直す出発点になるのではないか」と話す。都出教授も「改造は地元豪族の意地の表れともいえ、大和王権がこれを黙認したのではないか」という。
改造の意図とは別に、「築造後の古墳に手を加えない、とするこれまでの定説を見直す材料となる」(小笠原好彦・滋賀大教授)とみる研究者も多い。
一方、時代を特定する出土物がないため、慎重な見方もある。和田晴吾・立命館大数授(考古学)は「三つあるテラスなど改造後の形状は他に例がなく、用途も不明だ。後世の農地の開墾などで造り変えられた可能性もある」と話す。来年以降進められる後円部の調査に、研究者の期待は大きい。
*京都・白米山古墳*二重構造を確認*前方部、王の後継者が改造?*
京都府与謝那加悦町の古墳時代前期(4世紀中ごろ)の前方後円墳、白米山古墳が築造後に前方部を大きく改造していたことがわかった。発掘調査をしている同町教委が31日発表した。前方後円墳の改造跡が確認されたのは初めて。2日午後2時、現地訳明会を開く。
白米山古墳は全長92b、前方部の幅30b、後円部直径53b、高さ7・5b。前方部(長さ約39b)の側面に幅3bの試掘溝を6カ所掘った結果、こぶし大から人頭大の葺石がほぼ垂直に積み上げられているのが見つかった。しかし、古墳の表面を覆う葺石は斜めに張られるのが一般的なことからさらに掘り進んだところ、1〜3b下に緩やかな角度の葺石が出土、二重構造になっていることが分かった。また埴輪が全くなく、丹後地方でも最古級の古墳とみられる。
同町教委によると、この下部の第1次古墳の形状は、奈良県天理市の前期古墳「景行天皇陵(渋谷向山古墳、全長300b)とよく似ている。しかし、改造された第2次古墳の前方部は最前部の両角が突出するなど複雑な形。土質から直後ないし数十年後の改造の可能性が高いという。
石野博信・徳島文理大教授(考古学)は、「日本書紀に見える仁徳天皇が生前に陵地を定めて古墳を造ったとする″寿陵″の具体例ではないか。さほど年数がたっていないので、王を葬る際、後継者が改造したのでは」と話している。
小笠原好彦・滋賀大数授(考古学)の話
前方後円墳は1度造ったら大幅に手を加えることはないとされていたが、白米山古墳は前方部の両側とも改造されている。古墳時代になされたのならば、葺石が垂直の例は少ないだけに興味深い。
*町をアピールする絶好のチャンス*白米山古墳の発掘成果に期待・加悦町*保存整備も検討*丹後王国の夢ふくらむ*
丹後地方最古の前方後円墳で、全国で初めて改造の可能性が確認された白米山古墳の地元・加悦町では、「古墳とシルクの町をアピールする絶好のチャンス」と発掘の成果に期待する。
発掘を担当した同町教委の佐藤晃一専門員は「信じらないほどで、ゾクゾクした」と葺石の内側にもう一つの葺石を確認した時の感動を振り返る。
垂直に積み上げられた石を見つけたとき「通常はなだらかなのに、おかしい」と思った。学者のアドバイスを受け、葺石から先は掘らないと言う常識を破って掘り進めた結果だった。「今回の発掘も丹後だからこそ」と学生時代を含め、二十二年間の発掘の中で、蛭子山古墳と並ぶ印象的な仕事に、燃える。
丹後王国の玄関口を自負する同町では「貴重な発見」と今回の発掘を評価する。作山古墳、蛭子山古墳は、保存し観光名所「町古墳公園」として整備したが、白米山古墳をどうするかは未定。土器などの出土品が少なく年代の特定などの決定打はないが、西原重一町長は、保存も視野に入れ、来年度の円墳部の本格調査成果を待ちたいと、期待を寄せている。
同町郷土史研究会の杉本利一会長は「改造は大和に命じられたのかもしれないし、独自性を示したのかもしれない。私は学者ではないから、いろいろな想像ができる。古墳をみていると楽しいです」と、なんらかの形での保存を望んでいる。 |

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