丹後の地名

杉末(すぎのすえ)
宮津市杉末


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京都府宮津市杉末

京都府与謝郡宮津町杉末

杉末の概要




《杉末の概要》

宮津市街地の西部、西の端である。東は宮津湾に面して、沿岸をKTR宮津線や国道176号が走っている。宮津トンネルの入り口のあたりの国道がもっとも海寄りを走る所あたりになる。
杉ノ末は、江戸期〜明治22年の地名。町家地と武家地からなる。町家地は宮津城下川向町組の1町。川向町の北に続く町筋で、慶長7年「宮津下村検地帳」に「杉ノ末かち」と見える。町並みは元禄16年は南北25間余、矢場へ入る道幅は1間、宝暦年間は南北34間余、道幅2間余。なお元禄16年の御城下絵図↓では小浜が見え、南北34間余、うち道幅1間とある。家数は、元禄16年33軒(小浜散田を含む)、宝暦年間30軒余、明治19年37軒、同21年55戸。
当町の北にある坂は虎が鼻と呼ばれ、坂の上には2間四方の犬の堂があった。堂内には弘文院林学士が撰し、藩主永井尚長が建立した石碑がある。
当町には但馬街道へ通じる犬の堂口が置かれていたという。貞享3年藩は番所役人へ他国よりの奉公人に対しては藩内の同宗旨の1寺を番所で請人に指定し、奉公人が病気などの場合はその寺に世話をさせ、奉公人が死亡しても番所役人が勝手に海や谷に遺棄してはならないと通達した。明治22年宮津町の大字となった。
杉ノ末は、明治22年〜現在の大字名。はじめ宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。

《杉末の人口・世帯数》 234・84

《主な社寺など》
犬の堂
忠犬伝説の石碑がある。杉末の虎ヶ鼻の丘上にあったが、明治16年に道路改修に際し海岸道路わきの現在地に移された。堂は廃れて、碑のみが残っている。また犬の堂には城下入口の一つとして番所が置かれていた。

《交通》

《産業》

杉末の主な歴史記録

《丹後宮津志》(地図も)
宮津町=本町・魚屋・新浜・宮本・万・金屋谷・小川・白柏・河原・住吉・漁師・杉末・川向・宮町・蛭子・池ノ谷・万年・万年新地・鶴賀・波路・波路町・安智・外側・吉原・中ノ町・京口・馬場先・松原・京口町・木ノ部・京街道・大久保・柳縄手・島崎。世帯数2212。人口9190。

黒が元禄時代。赤は大正14年。

宮津市杉末


犬の堂
犬の堂(碑文はまったく読めない)
犬ノ堂
 宮津の北の出端れに山の尾を越て文殊などへ到る道あり、此小山の上にあり。方二間ばかりの堂宇を構へて其中に石碑あり、俗に相傳ふ中古文殊衰微して住侶もたへだえにて、波路村海岸寺より文殊をかけ持にせし事あり、此海岸寺の住僧一犬を養て殊のふこれを愛し、所用ある毎に文殊へ此犬を遣しけり、予め刻限を期するに此犬往来共時を違へたる事なし。一日此犬に命じてそれの時必帰り来るべしといひふくめ、文殊に遣しけるに道に障る事有て約せし時刻より半時も遅滞に及べり、此犬これを恥けるにや海浜の岩に首をふれて死けり、彼僧哀憐にたへず即此地に葬り小堂を建てこれが菩提を弔ひしとかや、此事さまざまに説ある中に右記せる説長じたる故にのせ侍りぬ。延宝年中是又永井侯碑石を建て弘文院記を作れり。此海岸を虎ケ鼻と云、又此所を越て浜辺の海水に浸りたる岩をコウタリ石と云ふとぞ。
  丹後ノ国九世渡文殊堂ノ近辺有リ寺曰フ海岸ト。伝称ス昔シ海岸寺ノ備兼−管ス文殊堂ヲ其ノ僧蓄−養シ一犬ヲ愛スレ之ヲ此ノ犬毎日自リ海岸寺往−来スルコト文殊堂ニ累年犬死ス。僧憐ミレ之ヲ建テ一宇ヲ弔−祭ス之ヲ號ス犬ノ堂ト。鳴呼犬猶ホ慕ヒ其寺主之愛ヲ僧亦恩及ブ二?吠之物ニ一不亦奇乎。爾来黒霜既ニ旧リ堂宇毀壌ス非スレ無キニ一懐古之感一今興シ二土木之事ヲ一成ス二斧斤之功ヲ一乃チ記シテ二其趣ヲ一以テ爲ス二後證ト一。
     延宝六戊午年  月  日

 当国宮津城主 大江姓尚長 立
          弘文院学林士誌

 碑石
  高四尺
  横一尺七寸五分
  厚七寸

 細川幽粛公狂歌のよしにて
    べうべうと犬の堂より見渡せは
        霞は船のほへかゝりけり
 一説には香西氏の狂歌ともいへり。
(《宮津府志》)


犬堂(丹哥府志挿図)
【犬の堂】(杉末の北)杉末町の北にすこしの坂あり虎が鼻といふ、市街の端なり、是より天橋迄僅に十丁許、坂の上に二間四面の堂あり所謂犬の堂是なり、堂の内に犬の碑あり其文は弘文院の撰する所なり、略犬の謂れを記す。延宝年中永井侯是を建つ。
(校者曰)底本には碑面を手拓し、其碑文の実大の?鈎に描写して収めたるも此には碑石を写真に撮り文面を次に示すことゝする。但し旧と派記事及び挿図の通り、杉末町端の丘阜頂上の路傍にありしも、明治十四年新道路海岸に通じ訪ふ者なきまゝ廃頽し、後ち荒木某旗亭を営むに及び砕石を三四十米北西麓今の地に移す。碑文左の如し。(略)
(《丹哥府志》(挿図も))

【犬堂】 城下の西小坂の上に堂有是也。昔戒岩寺の僧犬を畜養す。犬死て為に堂を立。碑文に詳なり。碑は永井尚長立て、弘文院爲レ記ツクルキヲ是より二町はかり過て左に須津道有。
(《丹後与謝海名勝略記》)

犬の堂
 宮津町北の出端にあり(虎ヶ鼻とも云)昔時今の文殊堂は橋立明神即ち与謝の宮の社地にして、纔かなる堂にて波路村戒岩寺より支配せしと傳ふ時に戒岩寺の憎一犬を愛養し日々寺と文殊堂とを往復して用を弁ぜしめしに、嘗て時を違ふことなかりしとて持囃さる、然るに其寺に愚鈍の小僧ありて経文を覚えず悪戯に長ず、寺僧愛犬の例を引て小僧を戒しむ、小僧怒りて犬を陥れんと時刻に先もて時鐘を鳴らせしに犬は遅刻せしと感違へ岩角に頭を打つけて死せしより寺僧愛憐の情に堪へず、厚く犬を葬り其地に小堂を建て、菩提を弔ひしといふ、後延宝六年時の祇主永井信濃守尚長堂宇を再興し碑石を建つ、當時の堂は丘上にありて方二間余ありしも星移り霜重りて今は其の所も異にし僅かに残骸を存するのみ、其の碑文左の如し。…
(《与謝郡誌》)

犬の堂(宮津市杉末)
犬の堂・忠犬碑
 日吉神社の門前を川向町まで出て、バス道を西へ、旅館荒木別荘の下まで行くと、その石垣の下に古い碑石がたっている。これを「犬の堂の碑」というので、もとは荒木の建っている台地が海へ突きでて小半島となっており、この小半島が城下町宮津の杉ノ末町の西壁として、文殊や須津への関門であり、犬の堂はその頂上の海がわに建っていた。それを明治になって道路を切りさげるとき、碑をいまの所に移したもので、この辺がむかしとはすっかり変って、景色もわるくなったらしい。その代り、荒木別荘の裏山からながめる宮津湾、美しい「はしだて」を添景とした風光は、たしかに一つの名所といえる。
 ところでこの犬の堂の碑であるが、これは碑文によれば延宝六年(一六七八)、時の宮津城主永井尚長がたてたもので、文章は弘文院林学士とあるから、多分林羅山のむすこ林春斉であろうか、さきに「あまのはしだて」を日本三景の一つにえらんだその人である。
 碑文の内容をみると、一つの忠犬談であるが、そのむかし文殊智恩寺の奥の院といわれる波路の戒岩寺の坊さんが愛した犬、この犬は時を知るかしこいたちで、よく和尚の用件で波路と文殊との間を往来し、夕方の鐘時分には必ず寺へかえるならわしであった。こうして年をへること幾年、和尚はこの犬をたいへん愛していたが、いつか年老いて犬は死んだ。そこで和尚はこの犬の死をかなしみ、ここに一つの堂を建てて、犬の霊を弔い、これを「犬の堂」と名づけたというのである。三百余年のむかし、忠犬碑がたてられたことにも興味をおぼえるが、いらいここが城下町宮津の代表的名所の一つとなったことにも、時代をこえた人間と犬との心のつながりを感じさせる面白い一例である。ただしこの碑、石材が花崗岩で、ながらく風雨にさらされているため、おいおい碑面がわからないように、風化しつつあることはおしい。
(《丹後の宮津》)


犬の堂
宮津の西端、杉の末に延宝六年(一六七八)年に宮津藩主永井尚長が建てたという碑がある。碑文は弘文院林学士(林羅山の子春斉)の筆である。
 これは波路の妙徳山戒岩寺に一匹の忠犬がいて、毎日欠かさず文珠の智恩院へ文使いをしていた。ところがある日戒岩寺の小僧が誤って寺鐘を早くついたため、犬は時刻におくれたと思い岩にわが頭を打ちつけて死んだという話を哀れんで建てたものだという。ここは宮津へ入る西の唯一の関門であり、宮津藩の番所が置かれていた。いまもその屋敷跡が残っている。
 文政五年(一八二二)十二月十三日から十七日まで続いた宮津領内百姓一揆の際は、百姓を召捕った番人角兵衛に対して百姓たちが激怒して番所を焼打ちしている。
 文政七年(一八二四)四月二二日朝、主謀者としてそれまで牢につながれていた奥山村の吉田新兵衝と為治郎の二人は、ここへ引出されて打首となった。新兵衝三六才、為治郎三二才であったという。
  桜咲く桜の山の桜花
     散る桜あり咲く桜あり    新兵衛辞世
(《丹後路の史跡めぐり》)


現地の案内犬の堂案内板(宮津市杉末)
犬の堂の碑
 ここに建つ一基の碑は延宝六年(一六七八)時の宮津城主永井尚長によって建てられたもので、碑文は江戸の林春斎(羅山の子)の作である。
 昔、波路村戒岩寺が九世戸文殊堂を兼管していた頃、一匹の賢い犬が毎日両寺の間を往来して寺用をたしていた。
ところが年老いてその犬が死んでしまったので、僧は犬を憐れんでここに堂を建てて弔い、犬の堂と呼んだ。以来年が経って堂も壊れたので修復して、同時にこの碑を建てたという次第である。
 この小丘は虎が鼻といい、宮津から文殊などへ行く道はこの山の尾の上を通っていた。碑も丘の上にあった。かつてはここは天橋立の眺望の場所でもあった。犬の堂という呼称は近世初頭には既にあって、細川時代(一五八〇〜一六〇〇)の記録類にも散見する。「細川家記」によれば細川幽斎がここに小亭をいとなみ、犬の堂と名づけて
犬堂の 海渺々と ながむれば
 かすみは舟の 帆へかかるなり
と詠んだといい、その子忠興は慶長五年(一六〇〇)十二月九州へ移封の途次、宮津を去るに際し、ここを通る時
立別れ まつに名残は をしけれど
 思ひきれとの 天の橋立
と詠んだという。
宮津市教育委員会




杉末の小字


杉末
杉ノ末町 三代蔵屋敷 源右エ門屋シキ 砂谷 中ケ丘

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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