阿良須神社(あらすじんじゃ)
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京都府舞鶴市小倉 京都府加佐郡志楽村小倉 |
阿良須神社の概要《阿良須神社の概要》 阿良須神社は舞鶴市の東部、志楽川を遡った中流域・小倉に鎮座する神社。志楽小学校の南側の森のある所である。国道27号線脇で車からも見える。普通は一宮と呼んでいる。 当社は加佐郡式内社の阿良須神社に比定する説もある。しかし残欠では志楽には名がまったく見えず、大江町 →表参道、というのか元志楽村役場の前から。神社の真ん前を国道27号が走り横切るのは大変に危険である。正面が阿良須神社で、「正一位一宮神社」「豊受皇阿良須神社」の幟が建っている。今日(08.10.26)は祭礼日で、この美少女たちは舞を奉納する。「天女の舞」「あめつちの舞」というのだそうである。彼女たちの舞風景はこのページの下の方に少しあります。右側の鳥居は「冨留山神社」である。 崇神天皇の御代、丹波道主命が青葉山の土蜘蛛、陸耳御笠を征伐のさい加護をうけた天神地祇を柳原の森にまつったのを起源としている。天武天皇の10年(681)社殿が再建され、壬申の乱の英雄、高市皇子がお詣りされたという伝えもある。という。 中近世では、一宮・一ノ宮大明神あるいは大森社と称していた。志楽庄春部村の村自治の中心となる一宮であったと思われる。官の息のかからない宮座を中心とした村の神社という性格が強いように思われる。したがって祭神も本来は村の先祖神と思われる。アラスとかフルとかシラクとか古代の渡来名が残る地であり、それだけでなく青葉山土蜘蛛や陸耳御笠の伝説を伝えることから、だいたいの祭神像は浮かび上がってきそうであるが、それらは世が下るとともに次第に消されていったのではなかろうか。 「室尾山観音寺神名帳」では名がはっきりしない。正三位有栖明神か、あるいは正三位太社明神、正三位神並明神、どれといって特に根拠がない。 祭神は豊受大神。一説には大宮売大明神・若宮売大明神(丹後旧事記)で、両神は丹波道主命が丹波郡周枳の大宮売神を勧請したと伝える。 大宮売神社(丹後二宮)は、新羅神社とも呼ばれて、弥生遺跡の上にあり、地名にはアラスがあり荒塩神社がある。ここはあるいは磯砂山羽衣伝説の「荒塩の里」かも知れない場所であり、丹後のヘソのような場所になる。志楽も東舞鶴のヘソのような場所で、そこにやはり新羅らしきものが見えるというのもまた興味深いことで、歴史の古いジョーシキ、皇国史観が足元から裂けて破綻していそうな神社である。阿良須神社の祭神は豊受大神(羽衣)でいいのではなかろうか。天女の舞が奉納されるのも太古からのものかも知れない。 当社に中世文書が10余通所蔵されるが、ほとんどが「志楽庄一宮」関係のもので、最も古いものは、観応元年(1350)3月23日付の政所堯基による春日部村大森宮毎月晦日講田一段の宛行状である。そのほか宮座関係の貴重な史料が多いという。 近世は慶長5年(1600)石田三成方の田辺城攻撃の際兵火にかかり、本社・拝殿・神宝・縁起などほとんどを灰燼に帰したといい、翌年細川忠興により現在地(もとの御旅所)に再建されたと伝える。 「志楽庄春日部村正一位一宮大明神」と「豊受皇阿良須神社」と二通の名があったといい、明治36年に阿良須神社と社名を改め、昭和9年に郷社となった。 氏子は小倉村をはじめ、鹿原・田中・吉坂・安岡の五ヵ村であった。多くの神事祭礼が伝わる。 「阿良須神社由緒」(立看板) 〈 (鎮座地) 舞鶴市大字小倉小字フル宮十三番地 (旧社格) 郷社 延喜制式内社 (旧社名及別称) 柳原宮、大森宮、一宮、豊受阿良須神社 (御祭神) 豊受大神一座、 相殿神、多岐都姫命、市杵島姫命、多紀理姫命、三座、 木花咲夜姫命(殿内秘座二宮神) 由緒 当社は崇神天皇十年丹波将軍道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠と云う兇賊を征伐し給う時、豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りされたのを創祀とする。降りて天武天皇白鳳十年九月三日柳原の地に社殿を建て春日部村の氏神阿良須神社と奉称す、遡りて元年大友皇子の御謀叛の時越前阿須波の里へ忍び給う高市皇子は当社当社に幸し天下鎮静を大神に祈り御歌を詠じ給う。 曇る世に柳ケ原をながむれば 神の恵みや晴るる朝霧 風来ぬる青葉の山の煙りたへ 行先遠き雲の上かな 御染筆奉納にありたり爾来朝家の御崇敬厚く殊に延暦二十四年正一位を賜わる。堀川院御子無きをうれいて当社に祈願を寄せ給いしに感応ありて宗仁親王誕生あらせられければ、寛治元年正一位一宮大明神の御額奉らる御筆は羽林飛鳥井卿の御真蹟なり。かくて当社は古来より子宝を授け安産に奇霊なる神徳を現わし給うと云う。貞元年中当国に叛賊起り国内乱れし時、藤原保昌賊徒平定を祈願し当社に拝す。観応元年三月十五日神田五反政所尭基寛正三年神田一反代官河嶋主計充秀寄進す。而して慶長五年九月七日兵燹に罹りて本社、二の宮、拝殿、御饌殿、神楽殿、中門回廊、宝物等悉く焼失した。翌年細川忠興社を布留山の地へ遷す、即ち今の社地なり。その後、明暦四年三月二十四日、文政十二年六月三日 両度本殿を改築す。 (例祭) 九月三日が古例なれど現在は十月末の日曜日 (式年行事) 御屋根洗式十ケ年 近年行われず (所有文書) 南北朝室町時代文書十三通(一巻)一宮大明神縁起(一巻)同造立願文(一巻)大般若経(一巻)を蔵し大般若経を除き京都府登録文化財並びに舞鶴市指定文化財である。 宮司 森本太郎夫 「阿良須神社の境内社」 ●神明神社 祭日 九月三日 御祭神 天照皇大御神 配神 金刀比羅大神・北野天満大神 崇神天皇三十九年三月、天照皇大神が田庭吉佐宮に移り給いし時、この神山に一夜に雪が二丈八尺も積もった。この時西面の北の方から大御神の御来足のしるしがあった。(建久三年壬子十一年十五日の古記にある由)境内摂社として最も崇められてきた。阿良須神社の御屋根洗い式年遷座の権殿に充てる。 ●二柱神社 祭日 九月三日 御祭神 天児屋根命 誉田別尊 春日大神、神護景雲二年に鹿島神が奈良に遷られ、その後当地が春日社の神領になったので、地主神として春日大神の分霊を奉祀したものらしく思われる。春日大社々家の造宮預り殖栗(シグリ)秀行が御伴をして当地春部の里に来たり御料地を預って専ら神祭と営繕に奉仕したという。八幡神は建久年中、頼朝将軍の時代に奉祀、応仁の乱後二神を合祀し中世より二柱神社と唱えた。 ●桜王神社 祭日 七月七日 社無石畳 後祭神 桜大刀自命 桜王大明神と祀る神である。慶長五年九月七日の火災に因り神山へ遷座の時は石畳を構へ神霊を遷し奉る。 姫桜 白鳳十一年秋七月七日夕、高市皇子が柳原宮に神楽を奏せしめられた時、庭上の老桜の梢に天女が舞い降り、恰も春三月のごとき花が艶然として咲いた。皇子は天下の瑞祥と喜びその古い桜のことを天女に因み姫桜と仰せられた。 桜大刀自命とは、さの姫桜の御神体を云うのである、という。且って、阿良須神社の摂末社は境内外併せて三十六社も在ったと云う。慶長五年焼失後その社名、御神名も大半は不詳となる。 〉 阿良須神社の芸能 天女の舞い(平25.10.27。於・鈴鹿神社) あめつちの舞い(平25.10.27。於・鈴鹿神社) 阿良須神社の主な歴史記録《丹後旧事記》 〈 阿良須神社。小倉村。祭神=大宮売大明神 若宮売大明神。延喜式竝小社。当国周枳村より将軍旦波道主命うつし奉る。旦波道主命者崇神天皇仕景行天皇至三代良臣也。 〉 《『丹哥府志》 〈 【阿良須神社】(延喜式) 社記曰。丹波の国加佐郡春日部村柳原に鎮座ましますは豊受皇大神宮なり、神名帳に所謂阿良須神社是なり、今正一位一宮大明神と称す、天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日爰に勧請す、明年高市皇子故ありて丹波に遁る、此時柳原の神社へ詣で給ふ時に和歌一首を作る、 曇る世に柳の原を眺むれは 神の恵やはるる朝霧 風きぬに青葉の山の烟たへ 行く先き遠き雲の上かな 愚按ずるに、皇子は天武天皇の皇子なり、天皇に従ふて大友の帝を攻む。始め天智天皇十年の九月秋の頃より天皇予まず、十月十七日天皇の病益甚し、よって大海人皇子(天皇の皇弟也)に勅して後事を托す、皇子蘇我安麻呂の言を用ひ固辞して僧となり吉野の山に入る、時の人龍に翼を授くといふ、於是大友皇子を立てて太子とす、十二月三日天皇志賀の都に崩ず年四十六、翌年の夏六月大海人皇子果して吉野に叛す(日本紀に大海人皇子反すといはず、日本史に初めて其是非を正し大海人皇子吉野に反すといふ)、大友天皇防戦して力を尽すといへども遂に利あらず、七月廿三日粟津の山前に崩ず(国史略に云、皇子自縊し薨年卅五)。先是京狩田辺小隅夜半に枚を?みて大海人皇子の将田中足麻呂を襲ふて大に倉歴の営を破り遂に進みて刺荻野の営を襲ふ今社記に高市皇子故ありて丹波に遁るといふ正史に之を載せずといへども恐らくは此時ならん。延暦廿四年初階正一位に進む、天正の頃兵火の為に焚失して冨山天皇の社に合せ奉ると云。 〉 《加佐郡誌》 〈 祭神 豊受大神 相殿 瓊瓊杵命 天児屋根命 天太玉命 由緒 古老伝えて曰ふのに、「当社の祭神は伊奘諾尊の御孫稚彦霊神の御子田宇気大神にましまして、崇神天皇の十年丹波道主王の勅を奉じて此の国を治め給ふに当り、霧が立ち篭めてあやめも分からずなり人生に害があらうと思召されたので、親しく天神地祇に祈誓せられた所、三更に至って大神柳原に(字田中の地内と言ふ)現はれ給ふたから、御子八乎止女をして其の地に神籬を建て神霊を斎き奉り年穀豊穣蒼生安穏を祈らしめられたのに、翌日になって天始めて晴れ生民も豊になることが出来た故に、此地方を日下村と言ひ亦神座府の名称(加佐の語源といふ伝説がある)も此の地から出たのである。」と(異説があって、「崇神天皇の朝に祀ったのは柳原隧道の西の耕地辺であらうか」) 尤も当社は四王子の御創建であって年代が久しいけれども、青葉山が崩壊して其の神跡を失ったのを天武天皇の白鳳十年辛巳九月三日に、丹波道主王の裔女が隧って柳原に神殿を造営し豊受阿良須神社と称し奉られたので、(此項志楽村参考三と符合しない) 同十一年には越前国阿須波の里に忍び給ふた、高市皇子が柳原の社へ幸して親しく天下鎮静のことを大神に祈り、御歌を詠じ給ふたといはれている。(略) 爾来王家の御崇敬厚くて延暦24年に正一位に進められ又奉賽せしめて賊徒 滅を祈り、後鋪昌国主となるに及んで神殿を造営して幣帛を奉つた。後寛治元年になって正一位の御額を奉つたがそれは飛鳥井郷の真跡であるといふことである。更に弘安四年閏七月には蒙賊退攘の御祈願があったが其の時には内陣が鳴動したといはれてている。又観応寛政年度には天下泰平公家並に庄内安全のためとして政所より御饌田六段を奉進せられた。それで文安長禄の頃は造営田二町余段を有して称宜祝は専ら際祀を司り政所は別当代官に造営及び神地の社務を司らせたものであって、当社は実に本郡著名の古社であったもので久しう地方の総社であったのであるが、慶長五年に小野木逆賊の兵火に罹つた為め、本社拝殿其他神実縁起等殆ど灰燼に帰していまった。けれども同六年に至って布留山の地を相し(柳原時代の御旅所を言ふ)領主の細川忠興が社殿を造立し奉つたので現今の社地を得たのである。 境内神社 神明神社(祭神 天照大神) 二柱神社(祭神 天児屋根命 誉田別尊) 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(京都府地誌) 〈 小倉神社。村社々地東西七間南北三十四間面積二百十九坪村ノ東方ニアリ豊受大神大倉岐命ヲ合祀ス。往古大倉岐命ハ大倉木社と称シ本地ニ鎮坐シ豊受大神ノ社ハ字柳原ニアリレヲ貞元中本社ニ合併ス、降テ慶長中ニ至リ兵焚に罹リ祠廟全ク烏有トナル、明徳中再建ス、寛文中速水等水。撰スル?ハ社記ニ云抑正一位一宮大明神ハ人皇四十代天武天皇御在住ノ時白鳳十年辛巳九月三日丹後国加佐郡春日部村柳原鎮座マシマス御神体豊受皇阿良須神社ト申奉ル?ノ人々御社ヲ建立シテ奉レ貴則春日部村氏神ト定メ奉ル、仝十一年ニ大友皇子(中略)奈良ノ内裏ヲ追下シ天子ハ矢疵ヲ受給ヒ越前国阿須波ノ里ニ忍ヒ給フ、高市ノ皇子ハ当国ヘ下リ玉ヒテ柳原ノ社ヘ御幸成テ久々社内ヲ御覧有レ之、一首ノ御歌ヲ詠シ給フ(歌ハ略ス)右御歌御染筆??御奉納アリ則当社ノ御?物?成、其後人皇五十代桓武天皇御宇延暦二十中年正一位ノ位ヲ進メ奉ル則神主垣内伊賀守神子尾上兵庫当社ノ神職?メ御社ヲ守護シ奉ル、其後人皇七十三代堀川院御宇寛治元年御額ヲ奉ル御筆ハ羽林家飛鳥井ノ御筆也、其後天正ノ頃迄当社繁栄也、慶長ノ頃丹波福知山ノ城主小野木縫殿助?心ニ依テ当社?宝物不(かえり点)残焼失ス依レ之一宮大明神ノ御神体ハ小倉村富山天皇ノ社(按ズルニ富山天皇ノトハ本社東方鎮座ス富留山社ヲ指シナラン)内ニ奉レ迂柴ノ庵ト成玉フ此冨山天皇ト申ハ則一宮ノ末社也此時??ノ 、明応年中ニ氏子寄進御社再 シ奉ル今ノ御社是也右ノ縁起往昔有レ 不レ残是焼失ニ及ブ神 祭日九月廿三日境内末社二?アリ明治廿四年八月二十一日一宮神社ト改称ス 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(神社調査書) 〈 一、神社所在地 京都府加佐郡志楽村大字小倉小字フル宮鎮座 二、社格神社名 村社 阿良須神社 三、祭神 豊受大神 一座 相殿神 迩迩杵命 天児屋根命 天太玉命 三座 四、由緒 創立年代不詳と雖も古老神話伝説曰神代の昔大己貴命少彦名命国造座の時此春日部里柳の原は木根樹立険しき深山たりければ谿間々の沼地より昼夜霧立罩めて晴明の時なく名にし負ふ霧の海の凄まじさ言はかりなかりき神話によれば地主神を覓めしと産霊二柱神琴浦浜に遊幸座し時冨士の高根より天降り座す木花開耶姫命産霊二柱大神の御前に参り会給ひて茲に年久敷住せ給ひて浅からさりける契を結びて地主神咲耶姫は豊受大神三女神等を斎祀りて此地を領有し顕見蒼生の為に雲霧を攘ひ山川海原を現して御田を作り蚕を飼ひ皇大神に瑞穂を捧げ神衣を織り奉り茲に生民に耕転種芸の道を教へ以て五穀の稲実及桑薬草の種実を植て百姓の作らぬ物は草の片葉を百の災を攘ひ退けて其秋の八径穂の初穂を以て美善醸酒の法術を授け以て人身を養ひ病苦を救ひ寿命長延を守り子なき人の血統相続を願ひ亦安産を守り給ひし其神恩を辱なみて後を里人の桜丘に花の宮居ほ築き立てはらから五人の神の異霊を迎へ鎮め仰ぎ祀りて茲に蒼生の衣食の道をも開き給ひぬ。 斯して崇神天皇即位十年秋九月丹波国青葉山中に土蜘陸耳の御笠匹女等多くの群盗を集めて其党徒を率ひて海川を渡り山野を越へ人民の財宝を掠め婦女子を奪ひ良民を苦しめる、?に人跡と絶へ五穀実らず菜果熟せず此時国司此状を瑞籬宮に奏し給へば天皇深く是を聞召て道主王に詔曰く教へ受さる者あらは兵を挙て之を伐て印綬を授く汝怠勿れの詔勅奉したる将軍丹波道主王山陰に出て丹波国造倭得玉を引率し先づ神明に御加護を祈契し神の誨へに随ひ王子国家鎮護の神として神並大森の浄き美しき地に宮地を建て笠津毘古笠津姫命をして神霊を鎮め祀り給ひき最も尊むへき敬ひ祀るへき御神にそましましき。 寛文十一年三月日社記曰降て浄御原帝白鳳十年巳年春北国大震山崩川湧出諸官社御庫神社城閣村里民家破壊し人畜多く死す此時青葉山四方に崩壊し其麓に座す一宮たいしん鎮り座す神並大森の神域も遂に湧出流失の奇禍に逢ひたりき同年秋春部の里長大神の御鎮座の霊跡を覓め奉らんとする丹忠を受給ひて咲耶姫里長の女水長姫の夢に誨へ宣曰く朝暉刺夕陽の照る浄き美き柳原の桧尾は無双の可美地なり妾上古大己貴命少彦名命国造座の当初より宿契の霊地たるを以て神霊長く茲に止るへしと茲に於て里長は御教に随ひ桧尾を万代の大宮処と斎ひ定めて宮殿は神なからの形にならひて同年秋九月三日水長姫をして五柱の神霊を移し鎮め即ち春部村の氏神豊受皇阿良須神社と崇め敬ひ祀りき。 同十一年大友皇子御謀叛を企て給ひし時越しの国あさはの里に忍ひ給ふ高市皇子は当国に下り給ひて七月七日柳原の宮に御幸遊はされて良久しく社内を覧はして一首の御歌を詠給ふ 曇る世に柳の原を詠むれば 神の恵みや晴る朝霧 此時忽ち宮居の上に天つ乙女五人の髣髴として現れける東の方に向ひ給ひて並ひ舞ひ皇子独り能く之を視る従者見へず 風来ぬる青葉の山のけふりたへ 行先遠き雲の上かな 右の御歌皇子御自筆にて御奉納ありける其後ち桓武天皇延暦二十四年正一位の御位に進め奉る此時禰宜祝別当職置かれてより神威益々高く霊徳愈々顕れたれ天長年間高岳親王国家安泰を祈り河原山麓に精舎殿を建て其巽を鎮するあり寛治元年羽林家飛鳥井卿の御筆になれる正一位一宮大明神の御額字賜ふあり弘安四年蒙古来冦の国難に際し閏七月朔日内陣鳴動すること二時間神霊加護の示現あり、上下の信仰大に加り神儀の御稜威天下に輝きたりき 観応応永永享文安長禄寛正大明の数度は公方政所は代官河島主計充安秀に命して進営を司とり国家安泰の為め日供の御饌田及夏田法楽田等数々の寄進され亦禰宜祝別当職講師坊座衆等をして専ら神祭を掌とらしめ給ひき然る処に慶長五年八月福知山城主小野木縫殿助細川忠興留守、城包囲せし時一宮神社神職等は小野木悪意に背く依と彼の党等社内へ乱入し神殿幣帛拝殿舞殿中門御料屋神庫并に上古伝来の宝物古記録年中行事録等兵焚に罹りて焼亡散失の奇禍に逢ひたりき茲に於て大主細川少将越中守源忠興の君関ケ原の戦ひ勝利帰陣するや郡奉行に令して御前神山の御旅所の地を祓浄めて大宮処と祝ひ定めて春部村の正税を充て仮宮を造営し同年秋長月望日禰宜祝をして神霊を移し奉られたり夫より五十六年の後ち明暦四年二月三日起首領主京極飛騨守高直君普請奉行を山木兵左衛門尉に亦巧匠棟梁は河崎又右衛門藤原宗体に命し前例により春部村の正税を充て同年三月二十四日本殿其他悉皆改造御奉納ありて茲に慶長の原形の復したり爾後幾多の遷変を経たると霊光遠近照被し威徳万世に普及するの神譜を重ぬ明治四年七月四日村社列格明治四十年三月一日幣帛供進及会計法適用指定 五、社殿 本社 文政十二年六月吉日造設 拝殿 享和元年六月廿六日造設 社務所 大正二年七月廿炉以下造設 六、史蹟名勝天然記念物に指定されたるもの 該当事項無し 七、国宝及鑑定状附付件名 該当事項無し 八、例祭及特別由緒ある祭日 例祭日九月三日白鳳十年九月三日氏神柳の原へ御遷座祝日たりと 特別由緒祭日七月七日白鳳十一年七月七日高市皇子御参拝の御儀あり 九、特種なる神事 九月三日午前十時舞殿上三日前より浄火勤めたる女子五人稚児天冠舞衣装束仕立各祭神に神酒三献奉進す次寿き詞白す次東遊の舞儀あり 四月三日此田遊祭神事は年内の五穀成就を祈念せむための神事にして古へより行はれたるものなり先つ女子五人男子及楽人等舞殿上に昇りて共々御田植式の行事あるなるき 七月六日宵宮祭氏子内婦女子等神庭に集りて新葉付青竹を数々立て其枝毎に五色紙を品々の形に切りきさみて古歌或は新歌をしるし亦網形を切りきざみて釣りて時々の品物及百花と共に天の棚機姫の神に手向しるの儀なりとの古式たるなりき 十、摂末社及境内神社名 神明神社 二柱神社 〉 →阿良須神社と鈴鹿神社はすぐ近くで、しかも祭日が同じ日の同時刻である。どちらもは一人では写せないので、5年に1度という鈴鹿神社の方にいたら、こちらへもやってきてくれた。トクした気持ちになった。 『舞鶴市内神社資料集』 〈 春日部一宮御由緒 抑正一位一宮大明神と崇め奉るは大山祗神の御女木華開耶姫命の奇御霊に坐き 古伝の神話に據れば神代の昔地主神を覓めんとて高御産霊神神産霊神琴浦浜ヤナギヅハラに遊幸坐志し時少女産霊神の御前に参り会ひ給ひ吾?天照大神の宣に據りて冨士の高嶺より天降り坐?木華開耶姫の奇霊と白志て迎へ奉りしに産霊神大?歓ひ給ひて茲に花宮居を築立て年久志く住ませ給ひしが地主神木華開耶姫命は魚井爾坐す豊受大神三女神等を斎祀り御田を作り蚕を飼ひて大神に瑞穂を捧げ神御衣カンミソを織り奉玉茲に蒼生の衣食の道をも開き給ひぬ然る?に 後少女ハ産霊神の霊徳に依りて麗為壮夫ウルハシキヲノコと代り里長の未婚の女を遘合ひて皇子を生ませ給ひぬ是れ即ち此の地の氏祖と崇め奉る御神にして是亦木華開耶姫命の奇麗に坐すに本人其の御時の御託宣に 常神祇礼祭以敬神念慮厚 祈祷誠謁必得麗子宝幸 ?あるによりて後の世の氏子里人ども子宝を受け給はん事を祈り又安産を祈るに奇霊クシビなる神徳を現はし給ふとぞ聞え侍る 嘗て堀川院御子なき?憂ひ給ひ当宮に御祈願を奉らせ給ひしに感応有りて宗仁親王御誕生あらせ給ひければ正一位一宮大明神の御宸翰?下志給ひき奉掲の御額則ち是なり されば大神の御神符を頂戴志て誠意?篭むれは懐妊の幸福妊婦???肌にしめて信心怠りなかれば安産の御加護?蒙る???神妙??偖又臨産の時は境内?御土?戴き是?産家の内に?散せは難産を免るるの奇効あるは疑??から?、神明?敬信の誠にあらはる蓋不可思議の御霊徳??古来子守安産守護の御宮にして敬仰志奉るは此御由緒ありてな里あな畏 文明七乙未年十一月望 春日部一宮神主(押花) 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収 (神社旧辞録) 〈 旧郷社 同市字小倉フル谷 阿良須神社 祭神 豊受大御神 往古白鳳十年秋九月三日垂跡す、 相殿神 多岐都姫命 姫命は別て子なき人の祈念に霊験 市杵島姫命 のある事最顕著也因て世人の子なき 多紀理姫命 者は当宮を信じ臨産に当っては神殿 祭神殿内秘座 木華咲耶姫命 下の砂を受けて産屋に布けば平産と 由縁也 天武天皇白鳳十年辛巳此国大地震で青葉山崩壊し神跡を失ったとき里長春日部連青雲別が柳原の大森に再建と伝う。柳原は田中村中にあったが慶長五年1600七月二十四日より細川幽斎の居城田辺城が大阪方の軍勢の一万五千人に攻められたとき、九月七日神殿並に宝蔵その他悉皆兵火に罹り焼失した。勅命により大坂方が退散した後国主細川忠興は春日部村の正税を奉納して小倉村布留山を神域と定め仮神殿を造営して遷座式を奉行した。その後の明暦四年1658三月その機漸く熟し本格神殿が造立され、又それより百十数年後の文政十三年に改築が行はれている。 在志楽郷各村の惣鎮守で、志楽庄一宮大森社とも唱えた。 中世の同神社関係古文書十数通も代々秘筐として厳重に持伝えている。ちなみに宮知里字田中の「柳の原」はあり柳の大木は神木だからと大切に保存してきたが、昭和四十三年の十二月、農業の近代化とやらで耕地整理が行はれる事となり、柳木は小倉の神社へ移植された。 当神社の向て右には布留山神社の鳥居神額が懸り阿良須本殿と併び立つ。 小字布留は古のお旅所と云ふが「フル」とは「クシフル」とか「ソフル」などでも判るとおり韓語の首邑との意であって新羅来シラキに縁由するのではなかろうか。 土記、寺記共に布留社を登載する。 なお、旧語集には当村につぎの社もみえる。 一、神明宮 一、岩宮八幡宮 氏神(小倉山城主の落城戦死悲霊を慰め祀ると云う) 一、牛頭天王 (一宮末社) 一、愛宕権現 田中、小倉、安岡、鹿原、吉坂の氏神 棟札 「 迦陵頻伽上下遷宮 鹿原山金剛院主 大工 田中村奥村喜兵衛 大阿闍梨快純 吉坂村山源六兵衛 葺師 田辺竹屋町住人 ?奉葺替一宮御本殿 明和二乙酉歳九月 日 道具屋長左衛門 哀愍衆生者我等敬礼称宣識 田中村住人伊佐衛門 小工田中村奥村喜八郎 吉坂村山添五兵衛 木挽若州高浜住人喜左衛門 」 小倉村 岩室木左衛門 小倉村 岩室久吉 鹿原村 森本仁兵衛 田中村 上西孫兵衛 安岡村 前の平六 鹿原村 亥南喜左衛門 吉坂村 福村利兵衛 吉坂村 福西惣左衛門 田中村 仲 安岡村 森田嘉左衛門 時役人 当社往昔建立せし後明和二?酉造御屋称こけら葺ニ而候ヘ共度々及 御破損氏子中難渋ニ付此度相談之上奉窺明神之思召銅瓦ニ葺 替同酉八月初旬より九月五日までに成就いたし八日棟上并ニ御遷宮 無滞取行者也 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収「阿良須神社由緒」 〈 (鎮座地) 舞鶴市大字小倉小字フル宮十三番地 (旧社格) 郷社 延喜式内社 (旧社名及別称) 柳原宮、大森宮、一宮、豊受皇阿良須神社 (御祭神) 豊受大神 一座、相殿神 多岐都姫命、市杵島姫命、多紀理姫命 三座 木花咲夜姫命(殿内秘座、二宮神) (由緒) 当社は崇神天皇十年、丹波道主王が青葉山に住む土蜘蛛陸耳御笠と云う凶賊を征伐し給う時豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りされたのを創始とする。 降りて天武天皇白鳳十年九月三日、柳原の地に社殿を建て春日部村の氏神阿良須神社と奉称す。逆りて元年大友御子の御謀反の時越前阿須波の里へ忍び給う高市皇子は当社に幸し天下鎮静を大神に祈り御歌を詠じ給う。「曇る世に柳ケ原をながむれば神の恵みや晴るる朝霧」亦「風来ぬる青葉の山の煙りたへ行先遠き雲の上かな」御染筆奉納ありたり。爾来、朝家の御崇敬厚く殊に延暦二十四年正一位を賜る。堀川院御子無きをうれいて当宮に祈願を寄せ給いしに感応ありて、宗仁親王誕生あらせられければ、寛治元年正一位一宮大明神の御額奉らる。御筆は羽林飛鳥井の御真蹟なり。かくて当社は古来より子宝を授け安産に奇霊(クシビ)なる神徳を現わし給うと云う。 貞元年中、当国に叛賊起り国内乱れし時藤原保昌賊徒平定を祈願し当社に拝す。 観応元年三月十五日神田五反政所尭基、寛正三年神田一反代官河嶋主計充秀寄進す。 而して慶長五年九月七日兵焚に罹りて本殿、二の宮、拝殿、御饌殿、神楽殿、中門回廊、宝物等悉く焼失した。翌年九月二十三日細川忠興社を布留山の地へ遷す。則ち今の社地なり。 その後明暦四年三月二十四日、文政十二年六月三日の両度本殿を改築す。 (例祭) 九月三日が古例なれど現在は十月末の日曜日 (式年行事) 御屋根洗式 十ケ年 近年行なわず (所有文書) 南北朝、室町時代文書十三通(一巻)、一宮大明神縁起(一巻)、同造立願文(一巻)、大般若経(一巻)を蔵し、大般若経を除き京都府登録文化財、並びに舞鶴市指定文化財である。 〉 『舞鶴市内神社資料集』所収(阿良須神社誌) 〈 豊受皇阿良須神社 四座式祈年 祭神四座五神は秘説 崇神天皇即位十年秋丹波将軍道主王神並白香森に勅祀 天武天皇白鳳十年九月三日里長春部連青雲別命柳原に奉祀 後陽成天皇御宇慶長五年九月望領主細川越中守忠興宮山に奉遷 丹後国加佐郡志楽村一宮に鎮座神殿乾面流造銅板葺 祭神豊受大御神 柳原宮例祭 祭日九月三日 多岐都姫命 左一座 相殿に座す三女の命は天照大神の幽契によりて 相殿神 市杵島姫命 右二座 御伴仕へて垂跡と給ひ即大神を斉ひ祀り奉りて 多紀理姫命 自からも衣食住の守護神として草生を幸へ給へ る神とは白すなるへし 往昔柳原未深山の時姫此の土に天降り給ふも人 しらす只柳原に顕れしは白鳳十年辛巳秋九月三 祭神 木花開夜姫命 殿内秘座 日夕暮に垂跡す姫命は別て子なき人の祈念に霊 験ある事最顕著也因て世人の子なきものし当宮 を信し臨産に当っては神殿下の砂を受て産屋に 布けは平産すと依て子守宮と崇める由緒也 ○明治四年七月四日太政官達村社列格 ○明治四十年三月廿三日内務省達祭日九月三日確定 ○昭和九年九月二十九日内務省達郷社列格 由緒 豊受阿良須神社の祭神は伊奘諾尊の御孫稚産霊神の御子登由宇気大神に座ます伊勢外宮と御同体に座せり。亦の御名豊受姫命、豊宇迦能売命、若宇迦乃売命、倉稲魂命、御膳津神とも申し奉り、大和広瀬大社、伏見稲荷大社と御同神に座して、百穀発生の原素を司どり、天下の生民に衣食を供し、特に子なき人に懐妊の幸を授け給う御霊徳著しく、又、病の治療・酒造の法を教えて、守り恵みて憐れみ、みそなわし給う御神慮こそかしこけれ。 今其の御事歴を尋ねると、古老の伝に言う神代の昔大己貴、少彦名命国造の時にあたり、この柳原の地は谷間谷間の泥沼より、昼夜雲霧立ち込めて晴れたる時なく、名にしおう霧の海のすざましさ言う言葉なし。 命等これをみそなわして、「この土に神いますや」と言い給いける時、魚井の原より神光海原を照し、白糸浜の十二月栗(しわすぐり)の神の森に着き、たちまち月が浦の御崎にあたかも月光とも物とも見ゆる物現り出でたり。これすなわち幽契によりて、魚井の大神(豊受大神)が降臨し賜えるなり。 この時、天火明命出でて大神を田中の威光山に迎え、天道姫命をして、国家鎮護の大神として親しくこれを祭らしめ賜いき。 これより、一天心よく晴れ渡り、命等勇んでこの国土を経営し、強暴の神を征服し、邪鬼の者等を払い、天香語山命に大神の神饌の為に、月代の神田を柳原に定め、水田陸田を開き、天道姫命に大神の五穀の稲穂を乞い求め、広く生民に施し、耕耘種芸の法を教え、衣食の仕方を授け、又摂生療病の方法を示し、功なるや、二神高志の国に至り、天火明命を召して、「汝、此の国を領知すべし」と詔り給いき。 崇神天皇即位十年秋、丹波将軍道主王勅を奉じて、青葉山の土ぐも陸耳御笠(くがみみのみかさ)を征伐するに当り、天神地祇を祭りて神意を伺われると、神霊たちまち王によいお告を下された。それを倭得王に命じ、たやすく賊首を征服し、国土を平定し、鎮撫の結果を天皇に奏せられた。又、天火明命の孫・笠津彦、笠津姫に、柳原の神並の森に神社を建てて、豊受大神、三女神、木花開夜姫命を祭らしめ給う。これが当社の起りである。 天武天皇白鳳十年辛巳、北国大地震の為青葉山崩壊し、大神鎮座の霊域を失ったのである。同年秋九月三日夜、里長春部のむらじ青雲別が独り、その境内の探し求めの苦慮を五人の神は見られて、五つの重ねの唐衣。緋の御裳、おすべらかしにひかげのかずらをつけ、美しい天女五人の姿をして柳原へ天降られて、その娘水長姫に夢枕に立ち「朝日輝く柳ケ原は昔、大己貴命少彦名命の国造りの初めより深い縁の地故に、神霊永くここに止まるべし」と申された。里長は神の仰せに従い、柳原の大森を大宮処と定め、宮居を造営し、五柱の神霊を奉祭し、春部の里の氏神・豊受皇阿良須神社と崇め奉った。即ち当社の基礎で、万代不変の神地である。 同十一年、大友皇子により、天武との戦が始まる。この時越前のあすはの里に逃れられた高市皇子は、左中将清忠外従臣等と共に当国に下られ、同年七月七日夕暮柳原の宮に入り給ふて四方を眺められた時、美しい乙女に会われて不審に思われ、いましは誰ぞと問い給ふと、われは青雲別の子水長姫と答え申す。皇子は更に、大宮に祭れる神は何れの大神にましますかと問われると、国の鎮めとなる豊受大神と、三女神及び木花開夜昼命と謹しみ申し上げる。皇子は清流に身を清め、心を静められて神垣に入らせ給う。みずから琴を弾き、水長姫に御神楽を神前に奏せしめられ、長い祈念を続けられた。この祈誓の神に通じたのか、わた立つ威光の峯の綾雲は、大森の宮居へ流れて来て、その中に、見えかくれしつつ、やがて五人の天女が秘曲に合わせて袖ひるがえし舞いを始めた。その美しさ。 曇る夜に柳か原をなかむれば 神の恵みや 晴れる朝霧 と詠まれると、天つ乙女は東に向い給いて 風来ぬる青葉の山のけふりたえ 行先遠き 雲の上かな と御歌をうたいつつ雲がくれ給うた。 皇子はこれらの歌を御自筆にて御奉納された。 天皇はめでたく大御代をしろしめされ、高市皇子は持統四年、太政大臣に昇り給う。 以後朝家の御崇敬厚く、桓武天皇は延暦二十四年正一位を授けられ、禰宜、祝を置かれ、神威と共に霊徳次第に現われる。天長年間高岳親王国家平安を祈られて、鹿原山麓に精舎殿を建てて、巽を鎮ぜられた。 正暦元年三月二十五日、源頼光が勅を奉じて大江山の鬼賊を討つ時に、藤原保昌は当社を信じ、賊徒平定を祈る。後、丹後国主となり任に就き、神殿を造営し、幣帛を奉る。 堀川院、御子の遅きを憂い給い、当宮に御祈願されると感応があり、宗仁親王が御誕生され、寛治元年羽林飛鳥井卿の筆になる正一位一宮大明神勅額を賜った。 弘安四年、蒙古来冦の国難に際し、七月攘夷の御祈を捧げると、内陣鳴動して神霊加護のお示しがあって上下の信仰大いに加わった。 観応元年三月使、政所尭基は、国家安泰の祈祷の為日供御饌料として水田五反を寄進さる。 寛正三年三月代官河嶋主計允安秀は公方並に荘内安全祈祷の為、御饌料田一反を寄進さる。 寛正四年七月公方政所は、河嶋主計允安秀に命じて、神祭並造営等を掌らしめられた。 慶長五年七月、丹波福知山の城主小野木縫殿助が石田三成に組して田辺城を包囲した時、九月七日に神殿幣殿拝殿廻廊中門舞殿御料屋神庫特に当社秘蔵の高市御子御自筆の御歌、神授の天の羽衣の御装束、楽器及其の行事録等に至る迄すべて兵火にかかり焼失し、絶大な損害を受けた。ここに於いて国主細川忠興は春日部村の正税を当てて宮山を神域と定めて仮神殿を造営し、神霊を奉遷し鎮座の祭を行わる。これが現在の社地である。 明暦四年三月に近郷にも誇れる神殿が造立された。更に百二十余年の文政十二年にも改築の記録がある。 その間の明和二年にくれ葺屋根を修理の苦労に困り銅瓦葺に変えた。それで以後十年毎に必ず屋根洗い神事を必行することになったが、大正六年第十六回を行なった以後催されていない。 明治四年七月四日村社と認められたが、明治三十六年八月六日一宮神社を阿良須神社と社号改称、同四十年三月一日を以って、神饌幣帛料供進御指定の神社の資格を得た。 大正二年十一月二日、祈年、新嘗の両祭に神饌幣帛供進の指定を受ける。同三年一月二十四日祭祀令を以って、大中小の祭儀を定められた。然して当社祭礼日は九月三日で新穀供進の神事がある。これは白鳳十年柳原の御鎮座の日で、初めて里長が大神に新穀を供進した祭日でもある。昭和九年九月二十九日郷社の格に列せられる。応永・文安・長禄年間の年中行事を参照し、これをまとめて記すれば次の如くである。 ▼正月−七草・小豆粥 ▼二月九日−祈年祭 ▼三月−節句 ▼四月三日− ▼五月−節句流鏑馬 ▼六月十五日− ▼七月七日−七夕祭乙女舞・法楽舞 ▼九月三日−新穀奉進の神事九月節句 ▼九月二十七日−神送翁舞 ▼十月二十八日−神迎 ▼十二月三十日−大祓 木花開夜姫の命の御霊徳 古老伝 本社殿内秘座に座す祭神木花開夜姫命は大山祗の神の御女に座して天照大神の御孫瓊瓊杵尊の皇后に坐して最も御霊徳尊き御神也此の姫命は神代大己貴命少彦名命の御幽契によりて上古より此の土に天降り給うも知り奉らす只柳原に現れ給いし天武の帝白鳳十年辛巳秋九月三日夕暮に豊受姫命三女の命の神霊と共に御垂跡誠に天下の婦女子哀憐みの御心深く姫命の別けて子なき人の祈念に霊験ある事多く当宮の御神徳長とへに輝きて冥護を垂れさせ給う事最顕著なり嘗て堀川院皇子おそきを憂い給い当宮に御祈願を奉らせ給いしに感応ありて皇子御誕生あらせ給いければ正一位一宮大明神の勅額を下し賜いき今の御額即ち是なりされは大神の産衣の御神符を拝戴して誠意を篭むれば三年の内に懐妊の幸福を得妊婦是を肌にしめて信心怠りなければ安産の御加護を被ること神妙なり偖亦臨産の時は境内の御砂を戴き是れを産屋の内に撒散し亦家より東に当る清浄井の水を汲みて産衣御守の文字を其の水にうつして頂戴せしむる時は難産を免るるの奇効あるは疑う可からす神明の妙徳は敬神の誠にあらわる蓋し不可思議の御霊徳たり古来よの子守安産守護の宮として敬仰し奉るは此の由緒ありて成りかくて一千二百余年の久しき氏子内の婦女子臨産に当り未だかつて難産に罹りたる者なきは全く大神の擁護たるなり殊に当社神殿下の御砂及産衣并に安産の御守を争うて拝受するは此の由縁なり 〉 関連項目 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『舞鶴市史』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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