式内社:阿良須神社
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京都府福知山市大江町北有路 京都府加佐郡大江町北有路 京都府加佐郡有路上村北有路 |
阿良須神社の概要《阿良須神社の概要》 旧河守街道(国道175号線)ぶち北側の山麓に鎮座する。現在はバイパスが出来て、この神社の裏側を通り抜ける。「延喜式」神名帳の阿良須神社に比定される。祭神は神吾田津姫命。旧村社。大江町内では唯一の式内社である。 舞鶴市小倉の同名の阿良須神社と式内社比定地争いをするのであるが、丹後風土記残欠によるならば、この社が式内社だと思われ、また鎮座地名の有路も同じ意味を持つと思われる。「室尾山観音寺神名帳」の正三位有栖明神と思われる。 江戸期の文献にはこの社名が見えず、丹後旧語集の北有路村の項は、十倉五社明神二社を記すのみ。うちの一社は小字五日市にある十倉神社(祭神吾田津姫命)と思われる。もう一社が十倉五社明神も同神を祀ったと類推され、この阿良須神社をさすと考えらている。二社の十倉五社明神のうち一社が北有路の氏神であったとする。 「丹後国式内神社取調書」所引の神社明細帳は祭神十倉大明神、祭日九月九日とする。同取詞書所引の丹後国式内神社考は、アラスは「 アラスの意味は誰も解いたものがないが、有路、十倉、来寿森、九日、などの名とも関連する渡来名と思われ、日本語で解くのは成り立たないと思われる。今の祭神・神吾田津姫命も本来のものとは異なろうと思われる。 境内丘陵瑞に古墳(阿良須神社古墳)があり、須恵器などが出土した。 《ar地名》 阿良須にしても有路にしても渡来系のarである。アリラン峠でよく知られる。在田とか荒木とか、この周辺にも数多く見られるものである。arの本来の意味は光明という。 arもまた激しく変化する語だが、たどえばtarkとも類語だという。タカタキタクタケタコの名として残り、日槍系とされている。 このtarkが十倉神社となっているので、従って十倉神社と阿良須神社とは同じ意味であり、この社は十倉神社とも阿良須神社とも呼んだようである。本来は光明神、かぐや姫のような神様を祀るものと思われる。薬師さんにもなるし観音さんにも毘沙門天さんにもなっていく。 阿良須神社は東舞鶴の志楽にもある。西舞鶴の十倉神社(砧倉神社)というか今の山崎神社は真倉・十倉の氏神で、田辺郷一宮である(だから田辺もまたar系地名)。 どちらも鎮座地の地名から見れば深く新羅と関わりある神社と思われる。従ってar系の名は新羅(伽耶も含めて)、主にそうした地からの渡来人が残したもので、鍜冶と関わりがあり、弥生から古墳にかけての時代にやってきたこの地の開発者たちであったと推測される。 では来寿森や九日とは何か、考えてみて下さい。すらすらすらと解ければあなたはもう一人前の古代史家かも… 阿良須神社の主な歴史記録《丹後風土記残欠》 〈 阿良須社 有道ト称ル所以ハ、往昔、天火明命ガ飢テ此地ニ到ッタ時。往ニ随ヘテ、食ヲ求メテ螻蟻ニ連行サレタ所以ニ、穴巣国ニ在ル土神ヲ見タ。天火明神ハ食ヲ請フタ。土神ハ歓喜テ種々盛饌ヲ奉饗シタ。故ニ天火明命ハ土神ヲ賞シ、且、爾後ハ蟻道彦大食持命ヲ以テ称ト為スベシト詔シタ。故ニ蟻道ト曰フ也。亦、蟻巣ト云フ神祠ガ有ル。今、阿良須ト云フハ訛レルナリ。(以下七行虫食) 〉 《丹後国式内神社取調書(京都府社寺課)》 〈 阿良須神社 【明細】北有路付祭神十倉大明神祭日九月九日 【道】同 【式考】祭神ハ吾田津姫命ト傳フ今モ安産ノ社ト里俗ノ云フヲ聞ニ阿良須ハ令生(アラス)ノ義ナランカ、サレド丹後風土紀ニ所以號有道者往昔火明命飢到于此地之時云々土神云々奉饗種々盛饌存天火明命賞土神且詔曰爾後汝須以蟻道彦大食持命爲称焉故蟻道也云々今云阿良須者訛矣トアレバ安産ノ神ト云モ後人ノ私説ナラン【豊】所在同上字呵良須祭神神吾田津姫命九月九日 〉 《加佐郡誌》 〈 阿良須神社 祭神 神吾田津姫命 由緒 不詳 境内神社 金刀比羅神社(祭神 大物主神) 稲荷神社(祭神 宇賀魂神うがたま) 若宮神社(不詳) 稲荷神社(宇賀魂神) 〉 《大江町風土記2》 〈 十倉五社のこと 有路には、十倉神社という宮さんが五つあります。これは兄弟が五人あって、一番上が野上、二番目が阿良須、三番目が矢津、四番目が五日市、五番目がニカ村にまつってあるということです。祭神は、五つとも〃木花さくやひめ〃という女の神さんです。このの五つの内一番大きなのが阿良須神社で、式内社になっています。(有路小 真下直司) 五人の兄弟がまつってあると書いてありますが、これは十倉山のふもとに住みついた一族が、だんだん勢力ができてきたので、おなじ氏神をまつって、わかれて住んだのではないでしょうか。 土ぐもたいじ(千原や河守の地名) 大昔このあたりに土ぐもという賊がいた。日子坐王が命ぜられてこれをうった。千原でその賊と戦い、土ぐも匹女を殺した。その土地は敵味方の血潮で血の原となった。それで千原という。この時、得玉命も川しもから追ってきたので、土ぐもは川をこえてのがれようとした。そこで王の軍勢は「たて」をならべて川をまもった。そこが川守(河守)となりや「たて」をならべたところが、たて原となった。土ぐもは川しもの方へ流れ去った。その時舟が一そう現れ、日子はそれにのって土ぐもを由良まで追ったが、どこへ行ったかわからない。日子は小石を拾って占うと、与謝の大山(大江山)に登ったことがわかった。その土地を石占といい、その舟をまつったのが舟戸神社であるといわれていろ。舟戸神社は今は富士神社に合祀されている。 (大江中 新治竹俊) ( 〃 河田 勲) その時賊がにげていくのをみると、ありがはっているように見えたので蟻道(有路)といい、ありのような賊のすんでいたところを「あらす」という。 (河守小 村上智子) 〉 《大江町誌》 〈 町内における唯一の延喜式内社であり、祭神は神吾田津姫命(別名・木花開耶姫)である。付近には古墳跡もあり、境内からは須恵器も出土し、前面の水田には条里制遺構も確認され、古い由緒を裏付けている。この阿良須神社のある有路地区には四つの十倉神社があって、いずれも神吾田津姫を祭神とし、十倉五社と呼んでいる。 大江町で式内社とされるのは、北有路の阿良須神社一社である。前記の加佐郡誌には次のように記されている。 −略− 前述したように、式内社阿良須神社については、舞鶴市小倉の阿良須神社がそれではないかという説がある。この小倉の阿良須神社も由緒のある神社で、地域の尊崇厚く、藤原保昌が国司となったとき社殿を造営したと伝えるし、慶長年間には田辺の領主細川忠興が社殿を造営したという記録も残る。しかし、こうした由緒ある神社と争って、明治初年の京都府の調査の結果、北有路の阿良須神社が式内社と認定されていることは注目すべきことで、小倉の阿良須神社が古くは一ノ宮又は大森宮と称し、阿良須の名を称したのが新しかったことが、北有路説の決め手となったのではないかと思われる。 ところで阿良須神社の祭神である神吾田津姫は、別名である木花開耶姫の名で知られ、山をつかさどる大山祇神の娘とされ、日本神話の中にある物語−瓊々杵尊が高千穂峰へ降臨したとき、大山祇神が二人の娘、岩のように頑丈だが醜い磐長姫と木の花のように美しい木花開耶姫をその妃にすすめたが、醜かった磐長姫をかえし、木花開耶姫だけを妃としたので、人間の寿命が限りあるものになったという物語の主人公となっている神である。こうした他愛もない物語はともかくとして、日本神話に登場する神々のうち、天孫降臨以前からこの土地にあった土着の神々とされる国つ神の系譜に属する木花開耶姫をまつる神社が、阿良須神社そして十倉神社(有路上下地区に四社あり)と有路に集中していることは興味深い。 この阿良須神社の鎮座する有路は非常に古い伝承をもち、「丹後風土記」残缺には次のような記述がある。 −略− これによると、有路の地名の由来は、「大昔天火明命(丹後国に降臨した神とされ海部氏の始祖といわれる神)が飢えてこの地に来た時、蟻のつらなりゆくのをたどって穴巣国の土神のところへ行き、食物を請うたところ、土神は喜んでもてなした。そこで天火明命はこれを賞し、この土神に蟻道彦大食持命という称号を与えた。そこでこの地を蟻道というようになった。また、ここには神祠があり蟻巣という。いま阿良須というのは訛りである」というもので、この蟻道が有道を経て現在の有路となったものと考えられる。現在、ただ一つ完存する「出雲風土記」に記載されている神社数と、「延喜式」に記載されている出雲国の神社数を比較すると、ほぼ同数であるところから、「風土記」の時代から「延喜式」の時代までの約二○○年間の神社数はほとんど変わらないといわれている。このことからみると、「丹後風土記」に記された蟻巣の神祠が、「延喜式」に記された阿良須神社である可能性は大きいわけで、阿良須神社有路説の一つの根拠となるものであろう。この阿良須神社の前面に、「大坪」「宮の坪」「井戸前」などと呼ばれる田があるが、前節で述べてあるようにここから条里制遺構の存在が確認された。すぐ近くの高川原遺跡から住居跡を含んで弥生式土器片、須恵器片多数が出土していることと相まって、有路が早くから開けていたことが証明され、式内社がまつられるにふさわしい条件を整えていたと思われる。 〉 境内の案内看板 〈 安産の神式内阿良須神社。阿良須神社は、町内唯一の式内社である。(丹後風土記残欠)には、天火明命(あまのほあかりのみこと)(海人族の祖神)が飢えてこの地に来た時、この土地の神に助けられ、この土神に蟻道彦大食持命(ありじひこおおけもちのみこと)という称号を与えたとのべられている。尚、この地にある神祠が蟻巣と言われ、転訛して阿良須となったと記されている。祭神は神吾田津媛命(かむあたつひめ)であるが、別名木花咲耶姫の名の方が有名である。この神は、日本神話によると、瓊瓊杵尊が高千穂の峰に天降った時、最初に出合った絶世の美人で山の神を代表する大山祗神の娘である。のち瓊瓊杵尊の妃となり、火照命(山幸彦)や火遠理命(海幸彦)を生んだ女神である。(丹後国式内社取調書)には、阿良須神社は(安産の神)と記され、古来(子宝・安産・女性の守護神)として崇敬されている。 〉 関連項目「阿良須神社」 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『大江町誌』各巻 『丹後資料叢書』各巻 その他たくさん |
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