有路このページの索引アリ・アラ系の地名 阿良須神社(大江町北有道) 有道郷(大江町有路) 在田川(大江町在田) 大雲川(=由良川) 大雲橋(大江町有路) 鬼ケ城(大江町×福知山市) 鬼ケ城鉱山(=福知山鉱山・南山鉱山・室尾谷鉱山) 来寿森神社(大江町南有路) 九日町(南有路) 十倉神社五社(南有路) 十倉一宮(南有路森安) 十倉三宮(南有路中矢津) 十倉四宮(北有路五日市) 十倉五宮(北有路二箇) 室尾谷山観音寺(大江町南山) 由良川の洪水 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。
〈 …享保二十乙卯年の大水が、後年「卯年の大水」といわれるもので、藩政期最大の洪水とされる。奇妙なことに、この水害記が大江町資料で未だ発見されない。覚書牒の筆者はこの時交代しているから、記載もれになったのかもしれない。ただ歴世誌にいう「享保二十年川筋大水 郡中人死四百余 丹波より川口へ流れ来る牛馬其他言語に及ばず」は、簡にして要を尽したものである。綾部藩内山崩二万六九九か所、綾部市梅迫安国寺の仏殿は、この時の豪雨と山崩れで倒壊流失した。 …慶応二丙寅年は五月十五日に四丈六尺五寸(約一四メートル)と、八月七日五丈六尺五寸(約一七メートル)と、同月十六日四丈五寸(何れも亀井家文書)と、年内三回の洪水に見舞われた。いわゆる「寅年の大水」である。 翌々四年(明治元年)七月十八日には再び四丈七尺の洪水に襲われる。 …要するに藩政の頃、由良川下流の住民は、三~四年に一度(慶応二年の如きは年内三度)一二メートルの高水に見舞われてきたとしてよいであろう。 明治二十九年洪水(明治二九・八・三一~九・一) 八月三十日朝から降り始めた雨は、当初日照り続きの農作物には慈雨と喜ばれたが、夕刻に至って俄然豪雨に転じた。由良川は不気味なうなりをあげて増水し、最高水位福知山七・九メートル、大江町で一三メートルに達し、慶応二年以来三○年ぶりの大洪水となった。 このときの府下全域の被害は、死者三四一人、負傷者三一二人、行方不明一八人、流失家屋一、七一二戸(府誌)であったが、そのほとんどが由良川流域に集中していた。 明治四十年洪水(明四○・八・二五~二六) 明治四十年(一九○七)八月二十三日は耐え難い蒸し暑さで異変の到来を予感させた。二十四日より降雨が続き夜に入ってますます烈しくなった。二十五日は、一時雨は止み洪水も漸次減水の兆候を見せたが、午後二時ごろ俄然雷を伴い大地も鳴動する大豪雨となり、二十六日午前四時ごろまで続いた。この間の総雨量は、河守で五三六・二ミリを記録した。由良川は再び増水し、最高水位一五メートルという古今に類例のない大洪水となった。 全府下の被害は、死者七三人、傷者一八五人、家屋全壊一、五四八戸、流亡一、一八一戸、半壊一、五八三戸と記されている。 大正十年洪水(大一○・九・二五~二六) 大正十年(1921)九月二十五日、朝より大雨となり二十六日午前零時頃より台風豪雨となる。総雨量二一七ミリに達し、由良川筋は二十六日風雨の止んだ後も刻々増水して、河守町・河西村で三○尺(九・○九メートル)、有路上村で三六尺(一○・九メートル)(以下略)(加佐郡々制史) (最近の-引用者注-)過去八○年の出水記録から判断すると、その洪水頻度は次のようである。 五~八メートル 一年半ごとに 八~一○メートル 四年半ごとに 一○メートル以上 九年目ごとに 手を供いておれば五年ごとに国道にのるほどの氾濫を予想せねばならぬわけである。 大野ダム構築は有力な治水策とされるが、反面下流域の滞水時間を長引かせており、上流各地の堰堤や護岸は、下流域の水禍を増加する結果を生み兼ねない。 このダム(大野ダム-引用者注-)は洪水調節専用のダムではなく、発電も行う多目的ダムであるので、洪水の調節に使用可能な容量は、総貯水容量の七五%である。また、大雲橋の計画高水流量を毎秒六、七○○トン(福知山毎秒六、五○○トンとすると、ダムの洪水調節効果毎秒九○○トンは、わずかにその一三%である。(由良川計画高水流量配分図参照) 「大野ダムの建設だけでは治水問題の解決にはならない。……ただ長い間停頓していた治水事業の第一段階を実現したというに過ぎない……。」(昭和三四・九高宮府議議会発言)のが、下流域の実情である。 〉 としている。特別に大江町だけがそうであるわけではない。由良川流域はみな多少はそうであるはずなのだが、すぐ下流の舞鶴市の由良川流域の方はこんな経験式がある話をきかない。福知山水位の2.5倍が阿良須水位だそうで、この狭い勾配のない谷間に入ってくると水位は一気に高まるようである。事情は下流の舞鶴部分とて同じはずである。 たぶん舞鶴市にとってはこんなことは所詮は片田舎のどうでもいい事件なのであろうか。この地で市政に対する強烈な批判、特に洪水対策に対して聞くことがあるが、わかるような気持ちもする。合併して町が大きくなればいいというものではないことがわかる。由良川流域が舞鶴市となるのは昭和32年だったか、13号台風時は舞鶴市ではなかったといえ、その洪水記憶は引き継がれるものであろう。04年のバス事件をいい教訓に、全世界の注目が今だに集まっているところである、真剣な対応を強めたいものである。由良川治水は今世紀に課せられた大課題である。これは細川忠興の瀬戸島掘削以来の、府による大野ダム建設以来の久々の歴史に残る大事業となることであろう。なかなかの名将でも難事業であり、完璧な事業は無理であった。タヨンナイとささやかれる舞鶴市さん、全世界が頼りにしてますよ。 大江町について言えることは、こんな貴重な洪水の記録を作って、よくよく洪水の怖さを知っているはずなのに、なぜにその洪水に浸かる場所に新役場を建設したのかということであろうか。何のために『大江町誌』はあるのだ。この書の口絵には、ちょうど新役場のある場所が濁流に呑まれている写真が載っている(上写真)。これは昭和57.8.2の台風10号の時のものに新役場の位置を加えたもの(もう少し右か)。水位は8.63メートル上昇したという。この程度の洪水で水没する。この程度の水害は上の経験式からは4年半ごとにある。. 駅前の一等地で便利か。昭和62年に1~2メートルかさ上げして現在地に建設したという。それくらいのことでは駄目だということは、古い神社仏閣のある所を見ればわかろう。いずれもずいぶんと高い場所に建てられている。そしてまたその新庁舎一階に命より大事な無線室を置いていた。これが最初に水没して肝心の時には何の役にも立たなかった。32年目にしてあの大被害をきれいさっぱりと忘れてしまった。 最近は避難勧告に応じない住民が多いというが、行政が率先して逃げないでは笑い話にもならない。村作りや町行政どころか、自分たちの住む郷土に対する基本認識が根本的に疑われる。思想が基本的に誤っているのでないのか。高齢者を多く抱えてどう大洪水に対処していくのだろう。人間とはかくも愚かで頼りないものなのであろうか。ド真剣な再検討が必要であろう。「大洪水記念館」でも建設されて恐ろしい洪水をよく人々の記憶に残す措置が必要なのではなかろうか。 右の写真は大江町役場、一階のカウンターの上30センチまで水は来たそうである。机の上のバソコンなどは頭まで水がくる。だいたいこのカメラの目の高さである。前に駐車している車の屋根を越えるほどの高さである。 人間はたとえば適当に3桁の数字を10個ばかり書いて、電卓やソロバンを使わずに合計をだせ、と言われれば理解されようが、まず間違うものである。 ひとりひとりの人間もそうだし、そんな頼りない者が集まった巨大組織もそんな程度のことでも間違える。 情けないほどの脳味噌しか持っていない。いかに事前調査をしていても間違えることはある。ここはしかし事前調査をして、いやしなくても、都合の悪い現実や歴史から目をそむけなければ、防げたことである。自然相手に傲慢に、か弱い人間が思い上がった、思考の省略と過去の省略、近頃の憂うべき風潮とはいえども郷土の実態からまったく離れた町作りの水上楼閣建設を子孫達は笑うであろうか、泣くであろうか。自国民相手ならまだしも自然相手や他国相手にはこれらの省略は成り立ち得ない。町の危機感であろうか閉塞感であろうか。焦りがあった。焦って思考を省略した。キレてしまった。町作りはあわててやるようなものではない。人間の知性を結集して作ってゆくべきものだろう。砂の上に家を建てる者は愚か者なり、岩の上に家を建てる者は…、何かそんなキリストの教えがあったようだ。ましてや水ノ上に家を建てる者や、火の車の上に家を建てる者にいたっては、…。ひょっとすると全体としてヘンジン・キョウジン社会へと成り下がりつつある現在日本社会への警告かもしれない。キリストが教えたように岩の上に、強固な地盤の上にこそ家を建てよう、せめてそれくらいは理性のある社会にしていこう。 小泉人気も故なしではない。政治は何もわからん選挙にも行ったこともないバカ者が単純な男の単純な叫びに同調して投票したとも言われる。それも当たっていようが、それだけではない。こうした血税の使われ方、そうした神経の蔓延が背景があるのであろう。これに少しは目を向け「殺されてもやるゾ」の決意を見せた政治家や行政官は、彼以外にはないようにも見えるようだ。 もっとも彼がそうした国民の期待に本当に答えてくれほどのものであるかどうかは別ではある。 郵政民営化について言えば、本当はこれを国民は否定したのである。選挙制度が民意を正確に議席数に反映しないので、何か誤魔化されているが、本当は国民は民営化を否決している。国会も否決し民意もこれを否決した。『朝日新聞』(9.26天声人語欄)は、 〈 自民、公明両党の候補者の得票数を合計すると、ざっと3350万票だった。一方の民主、共産、社民、複数の新党や無所属を全部合わせると3450万票を越えている。なんと、100万票も与党より多いではないか。 〉 これは300小選挙区の票の話である。比例区はどうなのか知らないから、調べて下さい。 大雲原は大江町の外宮のことですが、茂地の真名井原から一旦この地へ移して祀られ、その後伊勢へ遷られたとなっているこの説なら、茂地は元伊勢の更に「その元」となります。 豊受大神が伊勢へ遷座された時の伝承として、大正十四年十月の橋立新聞及び、『村誌』には「岩滝より中郡に越える右(左)坂峠は、大内峠や水戸谷が開裟される前は、唯一の中郡街道として利用されていましたが、その峠を別名「大荷坂(おおにさか)」というのは、豊受大神が伊勢へ移られる際の多大の荷物が此処を越したから」という、由緒を掲載しているそうです。 〉 茂地は峰山町五箇から磯砂山へ入った所の地名である。『丹後国古事記伝』という書がどんな書なのか私はまったく知らないのだが、それによれば河守の地(天田内だけかも知れないが)、そこを大雲原と呼ぶという。 有路は太古より渡しがあったであろうが、明治28年にここに板橋が架けられ、公募でその橋を「大雲橋」と命名したということらしい。それ以後の新しい地名であった。『大江町誌』にくわしい、、 〈 工費2053円余… 明治二十七年十二月に着工し、翌二十八年(一八九五)四月十一日竣工の渡初式を挙行した。橋名は村民から公募し大雲橋と命名された。公募の中には、有路橋・南北橋・大雲川橋などがあったが、この写真(略-引用者注-)もその一つで、大雲橋架橋の意義が簡明に記されている。まさに由良川本流最初の大橋であった。渡初式の祝詞で、郡長石田真平は、「本流上下の渡し場も、年を追い橋梁架設の企てあるを見るに至るべし。先鞭嚆矢 他を誘発する 亦徳とすべきなり」 と、そのさきがけの意義を強調している。渡初式は、あたかも日清戦争勝利の直後で、軍国調の色濃いものであったという。 この時の橋は、水面より数メートルの低いもので、少しの出水にも冠水するので、橋桁に乗せた橋床の板は取りはずせるように置かれ、責任を持つ人夫が決められていて、流失の危険が近づくと橋板を片付けたという。 産業革命に伴う鉄道・港湾その他の建設がさかんになり、流域の山林が濫伐されて洪水が頻発してきた。 せっかくの橋も再三再四流失破損を受け、そのつど巨額の消費と苦労が重ねられた。明治三十七年流失のあと、本格的な高い橋に架け替え、さらに昭和五年流失のあと、七年、位置を郵便局横に移して、橋脚を鉄筋コンクリートの永久橋に改良した。この橋も大洪水には冠水し大江町が孤立するというので、昭和四十五年、現在の大橋に改良されていったのである。 〉 こうした橋、国道や府道以外の架橋費は半分は地元が負担して建設したようである。巨額を投じた橋がせっかく完成しても次の年の洪水で流失することもあった。 『大江町誌』.は、 〈 架橋に要した地元負担は、村民の経済・村財政を長く圧迫し、昭和大恐慌の深刻さも、他村以上であったと伝えられている。 〉 これは過去の物語なのか、それとも今日か明日の物語なのか。太古よりの原始河川、名うての暴れ川、橋も堤防もない川に、悲願のはじめての橋らしい橋が架かった。 大雲橋のあたりは舟運や渡しと陸上交通の交差する場所であり、来寿森神社の鎮座する いつぞや大雲橋を夜越えたときに、橋の下の川原の方で「水無月祭」をやっていたようだ、うかれた村人が道路上をうろうろしていて危なかった。水無月=水着き、遠い昔の川港のまつりだろう、何か今にも雨が降り出しそうな夜だったが、あれあたりが、この華やかなりし当時のなごりなのではなかったろうか。 小学校もある。ワシはここの小学校やった。小学校四年生の時が終戦やった。という人から少し話を聞いたことがある。 「ビンタな、ようどつかれたで。何回どつかれて、床の上にひっくり返ったかわからんくらいや」。「喰物なんか何もあらへんしな。まともに喰えるようになったんは高校生くらいになってからやな」という。こんな田舎の年端もいかぬ低学年までもドツイタようである。そうなのだろう。沖縄では小学六年生は応召して戦争へ行ったという。あの大機械化部隊を相手に小学六年生が素手で戦った。誠によい教育をなさったものである。事情は何も有路の学校(有仁小学校)だけのことではあるまい、どこでも似たり寄ったりと思われる。各小学校の百年誌などがよく発行されるのだが、こんな話はたいていの学校誌がまったく触れていない、史実は抹殺されている。おかしな話である。戦争によって完全に学校教育が崩壊した痛恨の学校史であるのに、それについては何も書かない。ご立派な姿勢で、何を考えてお作りかと疑いたくもなる。教科書にもこんな実話はしっかり取り上げ火の文字で書き込んで、学校にも戦争が来たのだと子供達にしっかりと教えるべきである。この年代はもう70歳前後であり、今急いで証言を集め保存しないと完全に地上から記憶が消える。彼らの記憶が消えたときまた「よい教育をして戦争でもはじめるか」となるかも知れない。 『伊根町誌』は、 〈 御真影の拝戴と奉安殿の建設 昭和三年(一 九二八)十月二十六日、京都府庁において各小学校ごとに天皇皇后の御真影が下賜され、各学 校の校庭には、校門附近に児童が毎日登下校の際に奉拝できる場所に、コンクリート製の特徴のある一定の形をした「奉安殿」が建設され、「教育勅語」と共に奉置され、校門を出入の際には必ず敬礼をなした。また御真影は四大節(一月一日-四方拝、二月十一日-紀元節、四月二十九日-天長節、十一月三日-明治節)等のおりには講堂正面に安置され、奉拝させ、忠君愛国の思想をやしない、皇室に対する敬虐の念の徹底がはかられた。 〉 これが「学校」であった。ほんの60年前まではこんな明るいすばらしい学校であったことを百年誌よ忘れずに必ず書いてくれ。何も過去のことではない。愚か者が必ずまた繰り返す。国旗だ国歌だ。もう少し『伊根町誌』を引きたいくらいに.近づいてきた。次は何だろうか。 (沖縄読谷村、米軍海兵隊大機械化機動部隊が上陸した村だが、村役場は「村史戦時記録編」を編むにあたって、6人で14年をかけて全生き残り村民2800名のその時の様子を聞き取り調査したという。一家族一家族、各字(舞鶴あたりの小字)のあの時を一つ一つを復元してゆく。痛恨の念の鬼気迫る迫力である。 これらはWeb上にも公開されている「読谷村史」 偉い、偉すぎる。それと較べるとき、われらは何をしているのであろう。××町は少し目は向いてはいるが町民の聞き取り調査をした形跡はないようである。××市ももちろん何もない一般市民に向ける目は弱すぎる。そんなモンはどうでよろしいがな。ということであろうか。何の為の誰のための歴史を編んだのであろうか。情けない、情けなすぎる、ハナクソでも貰ってきて呑もうではないか。こうした当市の精神理念が「赤レンガ倉庫群」(旧海軍倉庫)も観光で使おうなどいった発想が右からも左からもヘッサラで出てくる背景なのであろうか。やはりこれは狂っているのではないか。私は一人でも半分でも言い続ける。そんなものを観光化するなと。 村といえば舞鶴あたりではだいたい小学校区の範囲である。行政の単位はどれくらいが住民にとっては望ましいかを示してもいよう。)
アリヂや当地の式内社・ 有道ト称ル所以ハ、往昔、天火明命ガ飢テ此地ニ到ッタ時。往ニ随ヘテ、食ヲ求メテ螻蟻ニ連行サレタ所以ニ、穴巣国ニ在ル土神ヲ見タ。天火明神ハ食ヲ請フタ。土神ハ歓喜テ種々盛饌ヲ奉饗シタ。故ニ天火明命ハ土神ヲ賞シ、且、爾後ハ蟻道彦大食持命ヲ以テ称ト為スベシト詔シタ。故ニ蟻道ト曰フ也。亦、蟻巣ト云フ神祠ガ有ル。今、阿良須ト云フハ訛レルナリ。(以下七行虫食) 〉 この記事から、これらの地名や神社名が鉱山名らしいことがわかる。また丹後海部氏の祖神の火明命も、ここではどうやら鉱山神らしいと思われる、海神が土穴の中に入ったりするだろうか。海部氏とは意外にも本来は鉱山と関わる氏族らしいことがほのかに見えて、有道の地も後に海部氏と呼ばれる鉱山採掘一族の拠点の一つらしいことがわかる。 横穴とも縦穴とも、いつの時代の物とも書かれていないようだが、この須恵器からだいたい推測できよう。古墳から神社ができたらしいというのも興味が引かれる。もっと古いのがあるのではと感じは持つが現在の所はない。 『由良川考古学散歩(36)*酒壺ふたつ』(舞鶴市民新聞97.5.6)は、 ハソウは明器ではなく本来の用途は何かの蒸留装置なのだろうが、これを水銀の蒸留器だと考える人もいる。松田壽男氏である。『丹生の研究』でも書かれているが、ここでは雑誌に発表されたものを引いておこう。『東アジアの古代文化13』に、(図も)
加悦町古墳公園中の『はにわ博物館』にもこのハソウが一つ置いてあった。展示してあるのではなくテーブルの上に置いてある。直径が10センチ足らずくらいか、上の口は欠けてないが、丸い容器の横手に何とも不可解な穴があいた厚手の須恵器で、どうみてもハソウのようである。 〈かつて町内には福知山鉱山、仏性寺鉱山及び河守鉱山(日本鉱業株式会社河守鉱業所)の三鉱山があった。福知山鉱山は大正九年に、仏性寺鉱山は昭和二十年ごろそれぞれ閉山して廃鉱となった。大江町発足後も町内唯一の大手企業として操業を続けたのは河守鉱山であるが、この鉱山も昭和四十八年には閉山となった。 〉 有路(有道)が残欠が書くように蟻に基づく鉱山地名だとは、現在は一般には認められてはいない。蟻だからアリヂだは、まああまり信用できそうにもない話にも思えるが、アリの本来の意味がわからずに蟻とそう理解しても、そう誤解しても無理からぬというこの地域の実態があったのではなかろうか。蟻と呼ばれ土蜘蛛と呼ばれ、鬼と呼ばれるが呼び方の違いだけで実態は同じものを指しているのであろう。鬼は中国の概念で日本社会に定着するのは平安末期といわれる。鬼は新しい概念である。土蜘蛛は侵略者から見た呼び方で、己の不法な侵略を正当化するためにそのように呼んだということであろう。文化の違う異国人をみればテロ集団と呼ぶどこぞの国々と同じである。どちらがテロ集団かまじめに反省をしてみるのもいいだろう。蟻と呼ぶのがこの三者のなかでは最も偏見のない呼び方ではなかろうか。蟻とは何のことであろうか。 本当は何を意味する地名であろうか。アリチもアリタも同じ意味と思われるが、まずそこから見てみよう。
有路の南方、もう丹波・福知山市と接するあたり、
南山の南方、丹波との境にある標高五四四メートルの山。「丹哥府志」に 観音寺より坤の方に当りて山に登る凡十丁余丹波の界なり、此処に鬼の岩窟といふものあり、口の広サ五尺斗り、縦七八尺、昔茨木童子といふもの爰に住居す、蓋大江酒顛童子の一類なりといふ、されども 実説慥ならず、一説に、平将門の子丹後に遁る、恐らくは此人ならんか、後に赤井悪右衛門又内藤尾張守の一族城塁を構へしと語り伝ふ、とあり、酒呑童子伝説をもつ山であった。 明治中期には山麓に宝満寺(ルビ・ほうまんじ)鉱山が開発され暫時採鉱した。硫化鉄を主とし銅・銀も含有していたが品位が悪く、第一次世界大戦後の不況と相まって大正九年(一九二〇)閉鎖された。大正期には鉱毒問題が発生している。この地の特産とされる南山梨の栽培は、鉱毒問題を契機として始まったといわれる。 なお場所は不明だが、南山村では古くから採鉱が行われていたとみえ、土目録の南山村の項に「高八石六斗九升 同村銀堀跡」とある。 〉 「質志鍾乳洞」
アラスという地名や神社名はここだけではなく、舞鶴市や大宮町にも見られる、それらもそうした意味なのであろうか。アリチのアリの地名が各地に見られるがここでもう少し見てみよう。出雲国風土記の神門郡に阿利社が二社見える。これは延喜式の阿利社と阿利社坐加利比売神社だという(出雲市塩冶町。祭神・阿遅須枳高日子根命。加利比売命だそうである)カリは銅のことだろうか。 中国語の影響とみる説のある地名はなぜないのだろう。朝鮮語か何かの影響によって地名ができたりはしないだろうけれども、朝鮮語の影響という地名しかないということは、そのものズハリが来たということであろう。地名はそれ一つだけを見ていても正しく理解できない、その周囲の一定の広がりの地名や神社群のなかから決まってくる。森が理解できないと木も理解できないものである。有路だけなら蟻かも知れなくなるが、たくさんあれば、他の意味かも知れなくなってくる。先の文書をもう少し詳しく引くと、 〈 …古墳はきわめて豊かで、牧・奥野部・和久寺・大門・拝師・正明寺・堀・土師・前田・石原・報恩寺・川北・猪崎・中・筈巻など、周辺の段丘上に数多く見られる。そのうち前田の宝蔵山古墳は4世紀の甕棺が出土し、猪崎の稲葉山古墳は5世紀の前方後円墳で、人物・鳥・馬・琴・鞠などの形象埴輪の破片も発掘され、報恩寺の奉安塚古墳からは、鏡・刀・玉のほか、金銅製馬具なども発掘されるなど、朝鮮文化との近縁性を思わせる遺跡も多い。由良川沿岸に阿良須・有路・荒河・荒倉など、arで始まる発音の地名が多いことから朝鮮語の影響とみる説もある。 〉由良川をさかのぼって来たのであろうか。『福知山市史』は、
コルは朝鮮語で谷を意味するそうである、そんなことから地名学ではクラ地名は谷と説明されることが多い。しかし谷をクラと呼んだりするだろうか。谷は丹後ではタニで少し古くはタンである。古くはというのは私の親の代くらいで、その同年代同士ではケブリタンなどと呼んでいる。若狭もそうで福谷はフクタン、丹後の日ケ谷はヒガタンと古い人はそう呼ぶ。クラとは言わない。私の住む与保呂には
来寿森神社はどこかでもふれたが、南有路の大雲橋のたもとにある。社前はちょっとした公園になって広くなっている。このクルスという神社名が気になるらしく切支丹と関係があるのではないかの説もある。『大江町誌』も、
〈 …この社名は古人も些かの関心を寄せたらしく、 「くる主森 文字しらず十倉五社大明神の御母なりと云傳里(ママ)」(享保十六年書写「寺社町在旧記」) 「クルス森五社明神、御母神」(享保十九年刊「丹後旧語集」) と、他の寺社に比して特異な表記にしており、来歴も必ずしも明確とは言えない。あてるべき文字が解らぬ とする用字の例をみると、 「暮巣森」(文政二年南有路村庄屋文書) 「暮?(そカ)森」(文政五年 同書) 「来栖森神社」(現用の幟に使用) 「黒須森」「来須」「来寿」等さまざまに表示されている。 そこで以下にはなはだ不遜な推測をつけ加えて将来の課題としたい。それはそのかみの切支丹との関連 を示唆するものではないかという素朴な疑問である。文字しらずという「くるす」とはポルトガル語の十字架(くるす)を連想させるし、「御母神」は聖母マリアを偲ばせる。同神社拝殿の木札(高さ八○センチ、下端のホゾから判断すると嘗て台上に安置されたらしい)には、次の神託が記されている。 今此三界皆是我有 其中衆生悉是吾子 而今此處多諸患難 唯我一人能為救護 万有はわがもの、衆生は悉くわが子、その患難を救いうるものは吾をおいて他にない。天地三界唯一の主宰神という発想を、いきなり切支丹と短絡させるのは冒険であるが、底流で通じるものがある。藩侯をはじめ庶民の間に一種解明の風潮のある中で、キリスト教受容が容易であったころ、教義が弘められ、やがて禁教迫害のあらしがくると、土俗信仰的な神社に傾斜する可能性はないであろうか。(本稿「京極氏と切支丹」の関係資料は丹後資料館百田課長の提示を受けた) 以上の推測の傍証となりそうな史料を補っておく。同神社の近所に田村姓を名乗る二戸がある、「滝洞歴世誌」を筆録した田村家から元禄末年分家入村しているが、同家保管の文書に次のものがある。 (この右切れてなし、四人の氏名不詳) 次郎兵衛 八兵 衛 甚左衛門 左 平 次 右八人之者此度 桂昌院様御法事ニ付為御追善追放帰参之儀牧野讃岐守殿江従方丈以使僧被申入候虚 重科之者ニ候得共御追善格別之御 儀ニ候得ハ帰参申付侯由、去廿九日及御返答候。以上 増上寺役者 亥八月二日 桂昌院は俗名光子、本庄宗利の養女となり将軍家光に侍して男子徳松(のちの綱吉)を生み将軍の母として大奥を支配した。性慈仁温柔、生類憐みの令が出た時一翼を荷った。 右の文意はこの桂昌院追善供養のため、何かの罪を問われて追放されていた八人が領内へ帰参できるよう、増上寺方丈から牧野英成に申入れて許された。というものである。八人が終始連累であったか、その追放の原因は何かなどを証する手がかりは文面からは皆目得られない。第一、増上寺から宛名もなく出された文書がなぜ同家にあるのか。いっさい謎である、ただ素直に八人一連の所為の帰参を許したと解すると、一種の集団行事であったのではないか。例えば前頁にあげた「丹後キリシタンのサークル的礼拝」なども、これにあてはまるわけである。このことと「クルス森社は当初同家で管理していた」との伝承をかみ合わせると、切支丹信仰とのかかわりがあり得ると思われる。 (注) 1 再言するがこれはあくまで一つの推測で解明は今後の課題である。 2 資料提供その他両田村家の篤志を得たことを附記する。 3 参考 切支丹信徒トナリ布教ノ世話致スモノ追放(公裁用鑑) 〉 クリスとかクルスという名は切支丹よりもずっと古くからある名である。『万葉集』にだって歌われている。ささすみの栗栖の小野の萩の花…(970)。この栗栖は明日香の小地名だと注釈にある。大和国忍海郡栗栖郷、播磨国揖保郡栗栖郷、山城国愛宕郡栗野郷(クルスノと読む。金閣寺のあたりに栗栖町が現在もある)、山城国宇治郡小栗栖郷(オクルスと読む。現在も栗栖野という)…等々いくらでも古く見られる地名であって、クルスだから十字架だろうは簡単には成り立たないと思われる。 来寿森神社はここは十倉五社の母神と信じられているのだから、アラスやトクラと関係のある名なのではないかと考えみるより方法はない。そう言っても大変ではあるが、大変を考えないと何も進歩はない。封建時代の歴史学者と大して進歩がないでは、コンピューターを駆使でき、情報社会の現代人は恥ずかしい。 さて、顕宗紀の山城国葛野郡の 阿良須=有路は誰でもわかるが、さらに=来寿=十倉の等式が成り立つはずなのだが、それがわからなかった。何でこんなもの同士が=となるのか。 アラスやアリジの先頭にkが着けばクルスとなる。トクラはさらに先頭にtが着いて語尾のスが脱落したのかも知れない。何か皆、似てきた。バラバラに考えていたためわからなかったが、これは皆同じことを言っているのではなかろうか。何でもないar地名、アル・アリということではないのか。私はこれらの地名でずいぶん悩んだが、こう解釈するのがもっとも正解に近いのでないかと思うようになっている。
阿良須神社をさしおいての一の宮なのだから、何か深い由緒があろうと思われるが、私の手元には何も資料はなく、その理由はわからない。 〈 大江町字南有路中野二一九五~二二○二俗称(ヤナバ) 阿良須神社の真南、由良川右岸の河川敷地というにふさわしい位置にある。昭和四十九年夏、府教委の指導によって一五○○平方メートルが発掘調査された。六世紀末から七世紀末(古墳時代後期-終末期)の住居跡と考えられている。(高川原遺跡発掘調査報告書、一九七五) 以下、この報告書の要点を抜粋する。 イ 遺物包含層は表土から一五○センチメートル~一八○センチメートルの間にありその最下層に九基の住居跡が検出された。それは一辺六メートル前後の方形掘立住居であるが、それが同一時期に何戸あったかなどははっきりしない。(注) 藩政期に鮭漁の為ヤナが張られたのはこのヤナバだと考えられる。 ロ 主な出土品 土師器。甕(かめ)、かまど、甑(こしき・食物の蒸し器せいろう)の破片など須恵器。杯(つき)、壷形土器、高杯、 土錘。石製紡錘車。(糸をつむぐ時のおもりに使用したもの)焼土跡。各層位に何か所も検出された。 ハ 以上の調査から推定して、住人はここに掘立柱の住居を営み、洪水の時は韓竃(からかまど)など身の廻りの日用品 をもって山手に避難し、水がひくと再びこの場所へ戻って漁撈に従ったのであろうと推測される。 由良川河岸段丘上にある高川原遺跡(南有路)は7世紀代のもので、その当時は5戸ぐらいの集落を構成し、多数の土錘が出土することから人々は漁撈を主とした生活を営んでいたと考えられるが、この集落は何回も洪水を被ったらしく、遺跡の時期幅100年間に70~80㎝の粘土が堆積している。また、同遺跡からは移動可能な韓竃の破片が少なからず発見されているが、これは洪水のたびに運搬して使用したものと思われ、水との闘いで得た生活の知恵であろう(高川原遺跡発掘調査報告書)。 〉 古墳時代だけでなく、縄文から弥生にかけての遺物も同じ所から出土する。 〈 …『風土記』に韓銍社と記されるこの神社は、由緒には「社名のカラカマは朝鮮から渡来した『釜』を意味し、これは祭神の素盞鳴命が御子神と共に新羅に渡られ、我が国に『植林法』を伝えると共に『鉄器文化』を開拓されたと伝えられることと関係があろう。また当社より奥部の北山山系が古くから産銅地帯といわれ金掘り地区の地名や自然銅、野たたら跡、などが見られることと、鉄器文化の開拓と深い関係がある」と記されていた。… 〉 「韓竈神社」に、 〈 …唐川には風土記の社で式内社が4社もある。中でも韓竈神社と並んで注目されるのが出雲大社と同社の韓国伊太氏神社だ(別所の諏訪神社)。祭神は社名からして素戔嗚尊の子イソタケル=イタケル=イタテで植林の神。産銅・産鉄に不可欠の薪炭を生み出す鍛冶神でもあった。 荒神谷出土の弥生銅剣製造地がどこであるかは定かではないが、弥生期から産銅の歴史があったのではないかという推論は大いに成り立つ。コンクリートの橋脚がのどかな風景の中で往事を偲ばせる。かつてはこの橋脚に鉄路が敷かれ河下港までトロッコで古くは銅を昭和中期までは石膏を積み出していた。ここ唐川町は古くは「辛川」と表記されている。唐・辛ともに韓の意味である。これはかつての加羅・伽耶の国に通ずる。また、唐川町の約60戸のほとんどが荒木姓だ。阿羅国からの渡来を表す阿羅来に由来するとも解釈できる。さらに、唐川地区には加賀羅、別所地区には加阿羅と称する屋号の家がある。また、唐川には鍛冶屋谷があって、鍛冶屋と称する4件が住まいしている。このようなことからも唐川には古代朝鮮の辰韓・弁韓・新羅諸国からの渡来人たちが重層して定着、産銅生活を営んでいたと考えることができる。… 〉
〈 由良川が北に流路を変える辺りから東南方面に延びる古地谷に、町指定の天然記念物才の神の藤がある。欅の大木に山藤がからんで一見藤の森の観を呈し、欅の下部の洞穴に八衢比古命・八衢比売命・久名戸神三柱の道祖神(さいの神)を祀る。 この藤から左手の小さな谷を福料寺といい、かつて尼寺があったといわれる。また藤棚から道を隔てて前方の小山付近を吉祥寺といい、西方にある吉祥山宝満寺(高野山真言宗)の故地と伝える。 〉 宝満寺は現在は峠を一つ東側に越えた綾部市西方町にある。志賀里と呼ばれる地で、金丸親王の鬼退治伝説の伝わる地であり、このあたりも鉱山と関係が深かろうと思われる。 古地は南有路のすぐ隣の谷で、おそらくフルチというのもアリジと関係のある地名であろう、同じ意味なのではなかろうか。残欠や「室尾山観音寺神名帳」の正二位布留神社はここにあったのではないかと考えているのだが、そんな証拠は今のところ何もない。 ここの十倉神社は立派な神社なのだが、何も手元にデーターがない。 矢津というのは福知山市の 古地の才ノ神の藤を見ておこう。次のような案内が建てられている。 〈 「才の神」の藤は、以前は目通り周七・九メートル、二千年を越えるけやきの大木にからまって、根元幹周り一メートルを越える六本の藤が立ち上がっていた。共にご神木として大切にしてきた。 幾度かの落雷によりけやきの枝は折れ、樹幹の根元は空洞化し、樹幹の一部が二本の枝を支えている。自然の藤棚のけやきの枝の代わりに、鉄骨に支えられて藤は以前の如く枝を張り、五月中旬長く美しい紫雲の花穂を垂らして芳香を漂わせている。この頃、盛大な藤祭りが行われる。 ご神木にまつられる祭神は、八衢比古命・八衢比売命。久名戸神(別名猿田彦命)の三柱で、天孫降臨の道案内をした神である。 天然記念物「才ノ神の藤」 「才ノ神の藤」の祭神は八衢比古命・八衢比売命・久名戸神です。伝えによると、大十代崇神天皇の時、四道将軍丹波道主命が当地を巡視されたとき、蟻が群がっているのをご覧になり、「近くに人里があるに違いない」とお供の者に村里の在りかを探させました。道のほとりの大木の根元に石を拝む老人がいるのを見て、不思議に思った供人が「どのような神様ですか」と問うと、老人は「才ノ神」と答えました・供人がこのことを命に申し上げたところ、命は驚いて「恐れ多い」とすぐにかけつけて拝まれました。これよりこの地を蟻道(有路の地名の語源)の里と呼び、この神をまつって「才ノ神」とあがめるようになりました。 それ以来「才ノ神」は英知の神様として、何事によらず祈願すれば叶えられ、道を問えば行方を示され、道理を伺えば筋道を明らかにされる。常に深く崇敬しておれば、思い切って行っても失敗する事がないという。更に旅行航海の守護神・月経の神・婦人病・安産の神・子孫繁栄の神として有名です。神木は優に二千年を経た欅で回り約八・五メートルの巨木。その昔落雷にあったこともありますが、樹勢なお衰えることなく四方八方に枝を張っています。 これらからまる藤もまた神木と同じ樹齢で、根元周り二抱え余りもあり、これを降り取る者は必ず腹痛の神罰を受けたといいます。このため恐れて誰も手をふれなかったので、藤は東西約三二米、南北約二七米にまで広がり、五月中旬の花時には紫の房を垂れて咲き誇っています。(才ノ神の藤祭は五月中旬) 昭和八年五月十八日(1933)我が国植物界の権威三好学博士(東京大学名誉教授)が視察して「天下第一」の折り紙を付けられ、同九年五月一日文部省天然記念物として指定されました。 しかしその後、地方的であるとして、昭和三一年天然記念物の指定を外されましたが、昭和四八年町に文化財保護条例が制定されると同時に町指定に、昭和五八年には京都府の天然記念物に指定された。 〉 (5月の第二日曜日に「才の神の藤まつり」が開かれている。その頃が見頃になる。色といい香りといい、きっと圧倒されます。)
ここも何も手元にデーターがない。弱った。
由良川はこの有路辺りで本当に川となる。これより下流は海である。半分は海である。試みに釣り糸を垂れるとタコが釣れるという。それはオーバーな話だろうが、この辺りまで海の塩分が登ってくるのは本当である。舞鶴市の水道水はこれよりもう少し下手舞鶴市と大江町の境目よの少し上手で取水しているが、そこまでは塩分が登る。取水口に海水の塩分が入らないように、上写真のように幕を張って対処している。逆流がきつい場合はもう一つ張ることもある。四角い物は水位計で一番上が10メートル30センチである。舞鶴市民はほとんどが由良川の水を飲んでいることになる。これも海軍の遺産である。 由良川と呼ぶのはいつの時代なのか知らないが、古くは大雲川である。残欠に「大雲川(以下八行虫食)」とある。 『大江町誌』は、 〈 町の中央を由良川が貫流して日本海に注いでいる。大陸から渡来した古代文化も、この由良川を遡って内陸へ運ばれたであろうし、舟便中心の時代には、丹波丹後を結ぶ交易路として重要な役割を果たしてきた。… この川は、最も古くは「大雲川」次いで「大芋川」、「於くも川」、「おくも川」と呼ばれたが、江戸時代には「由良川」である。… 古由良川は、福知山から南流して土師川、竹田川と流れ、石生の谷を通って加古川から瀬戸内海へ注いでいたといわれる。… 〉 南米の大河・アマゾン川ははるかな昔には、今とはまったく逆に西に向かって流れていたというが、由良川も昔は瀬戸内海側へ流れていたという。 福知山盆地は満々と水を湛えた大湖だったというが、それは本当だろう。ずいぶんと高い位置で工事しているその山の斜面に粘土層が挟まれているのがわかる箇所がある。現在の由良川の水位と較べるとずいぶんと高い位置であるが、あそこも湖底であったのだろうから、ずいぶんと広い湖があったのであろうと思われる。上写真は楞厳寺(綾部市館町)の近くの丘に現れていた地層。白いのは白い円い小石である。近くには古福知山湖の残りなのか小さい池がいくつもあってカモが泳いでいる。このあたりは以久田野台地と呼んで少し高い所であるが、ここも湖底であった時代があるのであろう。この白い小石は丹波ではよく見かける石なのだが、私は何なのかわからない。他の場所で一つ拾って調べてみようと車に積んだままなのだが、今以て調査できていない。 ところで、宮津市栗田にも大雲川がある(右写真)。 畑井弘氏によれば、雲の朝鮮語はクリ(銅)に通じるという。ここはクンダと呼ぶが、式内社の久理陀神社があり、クリタが本来の呼び方であろうと思われる。この辺りもずっと花崗岩の地であり、そんなものがあっても何も不思議ではないように思われる地である。 このあたりまで筆が進んだ時にまた取り上げてみたいと思う。 大蜘蛛神社(=聖大明神)(綾部市老富町大唐地)。 私の住む与保呂の谷をどんどん奥へ入って丹後・丹波国境の胡麻峠(右写真)を越えて上林の谷に入った所にこの社がある。今はずいぶんと荒れ果てている。地域格差の話ではないが、どう見ても立派すぎるほどまでにド立派になっていく神社と、…本当の信仰とは、本当の地域社会の発展とはそうしたことであろうか。一方ではこんな面白そうな神社なのにもう今にも消えて無くなりそうな神社がある。数え切れないほどの多数になろう。 ここにもやはり蜘蛛と鬼がいた。『京都府の地名』は、 〈 大唐内村 (現)綾部市老富町大唐内 栃村の北、若狭街道から西北に分れた谷間に位置する。北方の三国岳は若狭・丹後との国境。三国岳の西方胡麻峠を越えて丹後国加佐郡多門院村(現舞鶴市)に至る。村の西方木和田峠を越えて畑口谷の市志村に通ずる。 中世は上林庄の地。地名は天文年間(一五三二-五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「大唐内」とみえるのが早い。 江戸時代は山家藩領。公的には於見谷村のうちに含まれるが、正保二年(一六四五)の江戸表差出控(「菅沼謙蔵手控」木下家蔵)では高四六石余、貞享検地によれば二一七石余。 「丹波志」は市茅野と大唐内の奥の若狭境に「サントウ山」があると記す。「丹波負笈録」にいう「サントラ山」「三俵山」のことと思われるが、同書はこの山に鬼の穴があると伝えている。また村の奥には鬼の洗濯場の伝承がある。現在地元に「サントラ山」とよぶ地名はないが、鬼の穴は三国岳東方の丸山とよぶ尾根にあると伝える。 村内に聖(ルビ・ひじり)大明神(通称大蜘(ルビ・おおくも)神社)がある。「丹波志」は次の伝承を記す。 当社ノ謂、往古奥ノ山ニ人ヲ取大蜘住ケル由草ケ部 村ニ高野聖リ住シ当山ニ来リ祈リ退治ス、今其谷ノ 名大蜘谷ト云、其聖リヲ祭ト云、并藤ノ森ト云社ア リ、近江国佐々木郎等住シ其先社也卜云、 寺院は徳雲寺(臨済宗妙心寺派)がある。 明治七年(一八七四)市茅野・栃・光野と合併し老富村となった。 〉 角川日本地名大辞典は、 〈 …当村の小字に湯屋谷・湯屋内があり、温泉の跡という伝承がある(丹波誌).村の鎮守に大蜘蛛神社(聖大明神)がある。同社は往古大蜘蛛一族を近郷有安村の藤元氏が退治し祀ったところという(奥上林村誌)。 〉 サントウ山、サントラ山、三俵山、どの山なのか今ともなれば不明らしいが、似たような山をさがせば、三峠山が和知町にある、その山の麓がタングステンの鐘打鉱山。若狭佐分利の野尻銅山は別名を三光鉱山と呼ぶ(江戸時代は産銅高で全国屈指の銅山であった)。京北町の細野にも三頭山がある、この麓に芦見峠、芦見谷川が流れている。京都市山科区にも千頭山がある、この麓には大塚鍛冶遺跡がある。どうも申し訳ないが不勉強で、これらの山の正確な読み方は知らないが、本来はサントウ、サンコウ、セントウと呼ばれるのが正しいのでないだろうか。サは鉄、トウなどはタタラの転訛かも知れない。 何鹿郡 『播磨国風土記』の揖保郡、林田里に、「もとの名は 〈 あんじ 安志<安富町〉 林田川上流域の谷平野。地名は「和名抄」の安志(あなし)郷に始まるが、原義には諸説あるも北西風をいうアナシに語源を求めるのが最も妥当で、冬期西方の鞍部安志峠から激しく吹き下ろす北西風に由来すると解される。「風土記」 安師里の地名起源説話に出る安師(比売)神は風神であり、アナシが転訛してアンジになった。播磨内陸を横断する東西道と林田川沿いの南北道が交わる交通の要地。集落の東に条里遺構が見られる。平安末期に加茂別雷社領安志荘が立荘され、分社安志加茂神社が創建された。地内字竜宮は竜神、才ノ元は才(塞)神の小祠、宮ノ谷はカロ茂明神社、市場は中世の市場であったこと、字当田は藤田とも書き遠田の当て字で遠い所、大栗の栗は割の当て字で川岸が大きく剥れていたこと、高良谷は谷に石が多いのによる地名。… 拝志にしても水梨にしても市志にしても何か気になる地名である。 雲は火葬の煙を言うことがある。火葬場の煙となって果てる…とか誰か書いていたが、その煙を雲とも呼ぶのであるが、しかしこれらの地名は火葬場を指すのでもなかろうと思われる。舞鶴市吉坂には煙谷という地名がある。ケブリダンと読む。ずいぶん古い地名かも知れないが、ここはあるいは火葬場かも知れないが違うかも知れない。。 火葬場の煙でなければ何の煙であろうか。ゴミを焼却する煙か。 雲は鉄を作る溶鉱炉の煙だと吉野裕氏が書いている。これが正解なのでなかろうか。それを引かせてもらうと、 |
資料編の索引
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Link Free Copyright © 2005 -2007 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com) All Rights Reserved |